瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

ラマナ・マハルシ『あるがままに』

2006年12月16日 | 読書日誌
◆『あるがままに』ラマナ・マハルシ(ナチュラルスピリット、2005年)
ラマナ・マハルシ関係の本は、これまでに『ラマナ・マハリシの教え』(メルクマール社、1982年)、『沈黙の聖者』(出帆出版、1998年)、『不滅の意識』(ナチュラルスピリット、2004年)を読んだ。これらの本では、彼の教えの全体像が、もうひとつよく分からないと感じていた。

『あるがままに』は、ラマナ・マハルシの元で長い年月を過ごした英国人デーヴィッド・ゴッドマンが、師の言葉をテーマ毎に編集したものである。「真我」「探究と明け渡し」「グル」「瞑想とヨーガ」「体験」「理論」という六つのテーマにそって弟子との質疑応答が整理されている。訳者の後書きによると、シュリー・ラマナの教えを最も明確にまとめた本のひとつとして世界的な評価を受けているという。私もこの本で、ラマナ・マハルシの教えの全体像がようやく見渡せたと感じた。

各テーマの前に編者による教えの簡単な解説があり、巻末には用語解説があるなど、ラマナ・マハルシを始めて読む人にも充分に親切である。

以下、数回に分けて印象に残ったいくつかの言葉を取り上げる。

「心の本質は覚醒あるいは意識である。しかしながら、自我が心を支配するとき、それは理性、思考あるいは感覚機能として働く。自我によって限定されない普遍的心は、それ自体から分離していない。それゆれ、それはただ気づいている。」

「まず自我をとらえなさい。それから、どのように破壊されるのかを尋ねるがいい。‥‥もし自我を探すなら、あなたはそれが存在しないことを見いだすだろう。これが自我を破壊する方法である。」(p93)

ただ気づいている、純粋な経験の主体としての「私」は、決して客体とはなりえない。しかし私たちは、客体化された「私」という想念と自己同一化し、その想念に自己を限定してしまっている。しかし、およそ思考や想念がなければ、「私」という想念も存在できない。

もしすべての注意が、ただ気づいている「私」に注がれるならば、「私はこれこれだ」「私はしかじかだ」という想念は起らない。もし、この純粋な経験への自覚が続けば、独立した一個の「私」という、自己限定化する想念は、破壊され、消え去るだろう。
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