瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

一切の思考を記憶する装置

2006年12月05日 | 瞑想日記
昨日、限りなく連想を生んでいく「無明」の力について書いた。「無明」という言葉は、私たちを突き動かす深層の闇を示唆するような印象を与える。

今日は、サティはさっぱりだった。ドアの開け閉めなどでもちっともサティに心が向かない。やろうとしてもおざなりになる。帰りの歩きは少し気持ちを引き締めてと思ったが、歩き始めてすぐに同僚の車に拾われて駅まで。

昼食が少なかったので、乗り換え駅で回転寿司屋に入ったあたりから、完全に投げやり。サティなどさっぱり忘れたい気分だった。ところが、食べ過ぎたこともあって、いつもとは別の駅で下車して20分ほど歩く気になる。サティに再チャレンジという気持ちもあった。

やはり思考がちらほら出るのを意識しながら歩く。ちょっと前の想念の連鎖が、もう即座には思い出せない。何らかの理由で記憶に残る思考以外は、ほとんど忘れ去られていく。確認すれば、今、何を考えていたか意識できるが、あえてそれをしなければ、考えた先から消え去っていく。それが日常の思考の実態だ。その意味でも私たちは、半分無自覚の思考に支配されているのだ。

もし脳に浮かぶ一切の思考を記録しておけるような装置があって、自分の一日の思考を完璧に振り返ることができるならば、おのれの「自我」の構造を見渡すことができるだろう。サティは、それを「人力で」一瞬一瞬行っていく作業なのだと思っている。それを徹底的にやるのは、かなり辛いだろうが、「自我」と「思考」の無明が、いやというほど見えてくるだろう。そして、その作業は「自我」を超えていく道につながるだろう。

歩きながら、いかに他愛もない想念の連鎖が続くか、自分の思考の流れで例を拾って見ようと思った。そうやって身構えると、なかなか想念の連鎖が続かない。

そのかわり、単発の想念や思考、それにまつわるいくつかの気づきがあった。今日、印象に残った何人の同僚との会話や、視線のやりとり、そお時は気づかなかった、自分の一瞬の感情の揺れへの気づき等々。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする