瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

全くの誤解だ2

2006年12月18日 | 読書日誌
昨日に続いて飯島氏の「翻訳者の言葉」に関連して書く。思考を手放すことが「安易で無責任な、いい加減な人間がとる行為」にはつながらないか、という疑問についてだ。飯島氏がいうようにこういう疑問を抱く人が多かったのであれば、エックハルト・トールの主張に沿って誤解のないように答えておく必要があるだろう。トールの主張は、あまりに明白だ。

「さとりをひらくことは、思考を超えたレベルに到達することです。さとりをひらいてからでも、必要な時には、もちろん思考を使います。でも、その使い方はさとりをひらく前よりも、ずっと効率的だし、集中しています。さとりをひらいた人は、目的がある時だけ、思考力を使います。しかも、自分でコントロールできない、『頭の中の声』はなくなり、心には静けさがあります。」(『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』P39)

これと同じ文章は『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます』にも載っている(p21)。

思考を超えたレベルは、当然のことだが全く思考がなくなってしまうことではない。必要に応じて思考を使うが、思考に呑み込まれていないだけだ。

言語的認識を超えたレベルは、必要に応じて言語的に世界を把握するが、言語的な枠組みに呑み込まれず、いつでもそこから出てこれる。
 
大切なことは、次から次へと湧き出る思考の鎖をそれと自覚することなく追い続ける中毒症状から解放されることなのだ。それは思考を有効に利用することを妨げない。むしろ、絶え間ない想念の流れから自由なだけ、歪んだ現実認識からも解放され、エゴからも解放され、状況に応じて公平で適切な思考ができるようになるはずだ。

瞑想したり、深く自己観察をしたりしなければ、ふだん私たちがいかに「思考の中毒症状」に陥っているかを自覚することは、意外と難しいようだ。私もそうであった。しかし、この点が実感できると、トールがいう思考を超えることの重要性が、ずしりと理解できるはずだ。

さとりをひらいていない私たちでも、想念・思考の渦に溺れている自分に気づき、そこから解放されて、より今に生きることは可能だ。そうなればなるほど、必要な思考は、中毒的な思考から解放されて、より適切なものになっていくだろう。

これを実感するのに「『唯一絶対で全知全能の創造主』に匹敵する『大いなる存在』を全面的に信頼していること」が必要条件であるはずがない。
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かすかな「苦しみ」

2006年12月18日 | 瞑想日記
右足のつけ根部分の筋を痛めており、座禅ができないので、尻にクッションを敷いて正座して座禅をした。足などが痛いときは、この形でも充分可能だと感じた。

途中で「苦しみ」というサティを入れた。足が痛かったのではなく心理的なものだった。生じてくる思考を監視し続けることに、かすかな苦痛を感じたのだ。何かを考えようとする衝動がある。その衝動にまかせて考え始める。それを止めて「思考」とサティを入れる。

思考しようとする衝動とそれを監視してサティを入れようとする意志の間には一種の葛藤があり、それがかすかな「苦しみ」として意識されたのだ。そのかすかな感覚をやり過ごすのではなく「苦しみ」とサティする。すると、小さな葛藤とそれに伴う苦痛は、不思議に消えていった。思考を監視するような感覚も消えた。

一瞬、意識をかすめる思いや感情にサティすることが、意外と大切だと思った。
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