瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

思考する自分を見ている

2006年12月27日 | 瞑想日記
足が痛いので瞑想は、やはり正座で尻に座布を敷いている。少し深まった感じがすると、「お、このまま行けばサマーディか」などと期待する。そんなとき、「思考」「狙い」などとラベリングする。

「狙い」というラベリングの中に何となく、狙う自分を批判するような気持ちを感じ、「批判」とラベリングする。だが振り返ると、このラベリングはあまり的確ではなかった。「批判的な気持ち」の方がよかったかも知れない。

30分、40分もすると、そろそろ足が痛くなってきて、「止めようか」などという思考がでる。その気持ちにサティをする。一方で、もう少し続けたい気持ちもある。その気持ちにもサティする。今、心に起った気持ちにサティする。そして腹の動きに戻る。そうやってさらに10分くらいサティが続く。

このようにして、常に今ここで心に起っている現象にサティしていく。心が知覚する、腹の動き、音、皮膚感覚、足の痛み、思考、感情‥‥常に今、今と後退していく。

日常生活の中ではもちろん思考が多くなるが、気づけば「思考」とサティする。それが頻繁になればなるほど、思考に埋没していない、思考する自分を見ている意識が強くなっていく。

昨日、「自信」と書いた。しかし「このまま行けばどうにかなりそう」という自信=判断も、結局は、エゴが自らを主人公にして描く、かってな「物語」の一つである。だから「自信」を感じたら、これも「物語」とサティする。

しかし、一方で「自信」は、思考する自分に埋没せず「自」覚を保つづづける意識への「信」かも知れない。
コメント (4)
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