瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

全くの誤解だ

2006年12月17日 | 読書日誌
エックハルト・トールの『わたしは「いま、この瞬間」を大切に生きます』を購入した。原題は、Praticing the Power of Now であり、The Power of Now の実践コンパクト版であるという。主張は、前著と同じらしいので読む必要はないかなと思っていたが、Stillness Speaks も良かったので、これも原著も含め読んでみる気になった。

責任翻訳・飯田史彦となっているのだが、この人の「翻訳者の言葉」を読んで驚いた。翻訳者は、エックハルト・トールが伝えようとしていることを全く誤解しているのではないか。

飯島氏によると前作『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(The Power of Now )は、日本で「一定の評価を受けた反面、疑問の声も多数あがった」という。それは、「思考を捨てて『今』だけに集中し、大いなる存在とつながれば、なぜ全てが解決するのかという理由が全く書かれていない」という不満であった。日本人にとって「思考を手放して『今』に生きる」ことなどは、「安易で無責任な、いい加減な人間がとる行為」としか思えないというのだ。

これは、読者の側のきわめて初歩的な誤解なのだが、飯島氏はこの誤解に適切に答えているように見えない。飯島氏は、エックハルト・トールが「キリスト教的な思想を暗黙の大前提として」語っており、「唯一絶対で全知全能の創造主」に匹敵する「大いなる存在(Being)」を全面的に確信することが、トールの主張を実践する必要条件だという。多くの日本人には、この必要条件がないから、トールの主張の本質を理解することが難しいということだ。

なぜこのような解説が出てくるのか、私には理解できない。「思考」を超えることを主張するトールが、キリスト教的な「思想」を大前提とすることはあり得ない。「大いなる存在(Being)」は、一切の信念や確信や思想や思考を超えたところで体験される存在のあり方である。それは、キリスト教とか、仏教とか、○○教とかの個々の教義を超えており、それらの教えの根底に共通に流れている「あり方」であるはずだ。キリスト教的な前提があるかないかは、トールを読む上で前提とはならない。それどころか、一切の前提や条件、思想や思考を超えたところに開かれる存在を語っているのだ。これが第一の疑問である。
(第二の疑問は明日にでも)
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