瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

「無限後退」も好きだ

2006年12月14日 | 瞑想日記
今日も、正味4時間ほどは採点。一昨日書いたようにある程度、機械的に作業できるところでは、思考が浮かべば「思考」とサティを入れるようにしていた。しかし、作業の上で思考が必要なところでは、必要な思考と雑念との境界線がはっきりと意識できず、思考へのサティは今のところお手上げだ。

今日は、職場でもかなりサティが入っていた。やはりドアの開閉などでハッと気づく場合が多い。その他、それをきっかけにサティを思い出すようにしているのは、トイレ、廊下を歩くとき、階段を昇るとき、コーヒーを入れるとき、冷蔵庫を開けるときなどだ。以上をしっかりやろうとすれば、それ以外のところでも、サティを思い出すことが多くなるだろう。

帰り、雨の中を駅まで歩く。サティにあきあきしているというか、「やりたくない」「めんどうくさい」という抵抗感がかなりある。これも先日書いたが、そういう時はすぐに、「やりたくない」という気持ちにサティを入れる。すると、ふっと楽になる。「やりたくない」「めんどうくさい」と何度かサティをしているうちに、抵抗感が消えているのに気づく。「抵抗感がない」とサティを入れる。そうするともう、「見た」「音」「光」「足」などと、いつものサティに戻っている。

抵抗感があるのに、めんどうくさいのにそれでも自分を奮い立たせて行うのは「修行」だろう。そこには必ず「自我」の強い意志と野心が横たわっている。

一方、「めんどうくさい」自分、それでもそういう怠惰に打ち勝とうとする自分も含めて、今ここでの自分を許し、受容し、そのままに気づいていく「無限後退」は、「自我」の意志による「修行」とは、逆の方向を向いているようだ。

私は、どちらかというの「自我」の意志が前面に出がちだが、一方「無限後退」もたまらなく好きだ。
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絶望としての「私」

2006年12月14日 | 瞑想日記
「私」は、自分をより完全なものにしようと、つねに未来に目標を定めて、それに駆り立てられる。目標のための手段として「今」を踏みつけては、未来に向かおうとする。しかし、ゴールに向けて未来のために生きる「私」には、絶望的な矛盾がある。「私」の未来はいつかは途切れるからだ。

「私」という想念そのものに絶望が含まれている。「私」は、いずれ消滅するからだ。「私」という想念は、なんら実体のあるものでもなく、「私」という想念を支える確たる根拠もない。それは、肉体の死とともにはかなく消える。

そう書いている私は、「私」という想念の無根拠性に半ば気づいている。しかし、相変わらず「私」にしがみついている限りで、実質的には何も気づいていない。

思考に埋没している限り、想念としての「私」は、遂行状態にある。現象学の用語を借りれば、これを「自然的態度」という。サティは、遂行状態への無自覚的な埋没からそのつど目覚めるための方法だろう。それによって思考の働きとしての「私」が、そのつど対象化され、相対化される。
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