今日も、正味4時間ほどは採点。一昨日書いたようにある程度、機械的に作業できるところでは、思考が浮かべば「思考」とサティを入れるようにしていた。しかし、作業の上で思考が必要なところでは、必要な思考と雑念との境界線がはっきりと意識できず、思考へのサティは今のところお手上げだ。
今日は、職場でもかなりサティが入っていた。やはりドアの開閉などでハッと気づく場合が多い。その他、それをきっかけにサティを思い出すようにしているのは、トイレ、廊下を歩くとき、階段を昇るとき、コーヒーを入れるとき、冷蔵庫を開けるときなどだ。以上をしっかりやろうとすれば、それ以外のところでも、サティを思い出すことが多くなるだろう。
帰り、雨の中を駅まで歩く。サティにあきあきしているというか、「やりたくない」「めんどうくさい」という抵抗感がかなりある。これも先日書いたが、そういう時はすぐに、「やりたくない」という気持ちにサティを入れる。すると、ふっと楽になる。「やりたくない」「めんどうくさい」と何度かサティをしているうちに、抵抗感が消えているのに気づく。「抵抗感がない」とサティを入れる。そうするともう、「見た」「音」「光」「足」などと、いつものサティに戻っている。
抵抗感があるのに、めんどうくさいのにそれでも自分を奮い立たせて行うのは「修行」だろう。そこには必ず「自我」の強い意志と野心が横たわっている。
一方、「めんどうくさい」自分、それでもそういう怠惰に打ち勝とうとする自分も含めて、今ここでの自分を許し、受容し、そのままに気づいていく「無限後退」は、「自我」の意志による「修行」とは、逆の方向を向いているようだ。
私は、どちらかというの「自我」の意志が前面に出がちだが、一方「無限後退」もたまらなく好きだ。
今日は、職場でもかなりサティが入っていた。やはりドアの開閉などでハッと気づく場合が多い。その他、それをきっかけにサティを思い出すようにしているのは、トイレ、廊下を歩くとき、階段を昇るとき、コーヒーを入れるとき、冷蔵庫を開けるときなどだ。以上をしっかりやろうとすれば、それ以外のところでも、サティを思い出すことが多くなるだろう。
帰り、雨の中を駅まで歩く。サティにあきあきしているというか、「やりたくない」「めんどうくさい」という抵抗感がかなりある。これも先日書いたが、そういう時はすぐに、「やりたくない」という気持ちにサティを入れる。すると、ふっと楽になる。「やりたくない」「めんどうくさい」と何度かサティをしているうちに、抵抗感が消えているのに気づく。「抵抗感がない」とサティを入れる。そうするともう、「見た」「音」「光」「足」などと、いつものサティに戻っている。
抵抗感があるのに、めんどうくさいのにそれでも自分を奮い立たせて行うのは「修行」だろう。そこには必ず「自我」の強い意志と野心が横たわっている。
一方、「めんどうくさい」自分、それでもそういう怠惰に打ち勝とうとする自分も含めて、今ここでの自分を許し、受容し、そのままに気づいていく「無限後退」は、「自我」の意志による「修行」とは、逆の方向を向いているようだ。
私は、どちらかというの「自我」の意志が前面に出がちだが、一方「無限後退」もたまらなく好きだ。