瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

降伏

2007年04月22日 | 瞑想日記
「死は自分を消滅させる。
どんなにじたばたしたって最後には自分を放棄するほかない。
人間はそのときになって初めて、
自分中心の気持ちから解放されるんだよ。
もう諦めて、自分に執着することをやめて、
ただ黙ってこの世を見るんだ。
そうすると雲も風も花も光も
今まで見たこともなかった美しいものに見えてくる。
波璃のような世界がそこに姿を現しているのに気がつくんだ。
だから人間にとって死とは、この世が何であったかを知る最後の、
最高の機会になるんだね。
その意味でも、死は、人間にとって、
やはり素晴らしい贈物であると思わなければならないんだよ。」
(辻邦生『樹の声海の声』1 朝日文庫より)

死に直面してこのような体験をする人もいる。実際に死に直面せずとも「自分を放棄する」ことがなされたときには、「自分」を超えた何かへと溶け込んでいくのだろう。それが「さとり」なのだ。「自分を放棄する」ということは、「自分」をはるかに超える「何か」において生きるということなのだろう。

『愛への帰還』では、同じことを次のように表現する。

「私たちが降伏してただ愛する時、驚くべきことが起ります。私たちは溶解して別な世界に入って行きます。その世界とは、私たちの内部にすでに存在する別の力の世界です。私たちが変わると、世界も変わります。私たちが柔らかくなれば、世界も柔らかくなります。私たちが世界を愛する選択をすると、世界は私たちを愛してくれます。」

私たちが「自分を放棄する」とき、つまり完璧に降伏するとき、今まで想像もできなかったような世界が開けていくのだろう。

当面、私に出来ることは、降伏しようとしない「自分」の働きに気づきつづけること。「自分」にサティしつつ、かたくなな「自分」の溶解をみつめていくことだ。
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恐れと愛

2007年04月21日 | 読書日誌
『愛への帰還』(とその基盤となっている『奇跡の学習コース』A Course In Miracles)を読んで感じるのは、クリシュナムルティやエックハルト・トール、最近読んだ本ではガンガジらが語ることと、その底に流れているものは同じだということである。違うところは、同じことを愛という側面から語っており、それゆれより実践的であるということである。

「恐れとは、愛が共有されていない状態であり、個人的にも人類にとっても地獄です。恐れは、私たちの内部から、そして外部から私たちにのしかかり、愛の無意味さについていつも嘘の証言をします。恐れが表現される時、それは、怒り、虐待、病気、苦痛、貪欲、中毒、利己主義、妄想、腐敗、暴力、戦争といった形で認識されます。
 愛は私たちの中に在ります。愛は破壊されることはありませんが、隠すことはできます。」p29

ここで「愛」という言葉が使われているが、仏心や仏性あるいは悟りという言葉と置き換えても同じであろう。仏心は、私たちの中にあり、破壊されることはないが、隠すことはできるのである。

「『奇跡の学習コース』によれば、愛を探すのは私たちの仕事ではなく、愛がやって来るのを妨げるべく私たちが築いた壁を探すことが私たちの仕事であるのです。」p139

これも、仏性を探すのが仕事ではなく、仏性を妨げる壁を探すのが私たちの仕事だと置き換えても言わんとすることの本質は変わらない。壁、それは「自我」と呼ばれる限定である。

「自我」に囚われているから恐れがある。どうせ消えてしまう小さなものにこだわっているから、「自我」を超えて流れているはるかに大きな「何か」を感じられないのだ。一瞬一瞬、「自我」に基づいて行為するのではなく、「自我」を忘れて滅びることのない「何か」に従って行為すればよい。そこに恐れはなく、無限に流れ出る輝きがあるのだろう。
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恐れは幻想

2007年04月17日 | 読書日誌
『愛への帰還』は、読みながらますます引かれていく。同時に、この本の元になっている『奇跡の学習コース』への関心も深くなっている。私が今、自分自身の深い部分で確認しつつあることを、この本はひとつの仕方で表現している。だから心の深い部分に沁みこんでくる。

『奇跡の学習コース』は、伝統的なキリスト教の用語を用いているが、その使い方はきわめて非伝統的であるという。それは、『愛への帰還』を読んでもよく分かる。神、愛、聖霊、光といった言葉が頻繁に使われる。しかし、そこに流れるのは大乗仏教的な精神に通ずるものである。「大乗仏教的」という限定的な言葉づかいをすることにも抵抗がある。ひとつの真実が、キリスト教的な言葉によって、深い層から語りかけてくるような印象を受ける。

たとえば「愛」という言葉。

「『奇跡の学習コース』は、愛だけが実在すると述べています。愛と対極をなすものは恐れであるが、すべてを包含するものには対極は存在しない。愛情をもって考える時、私たちは文字通り神と共同制作をしているのです。したがって、私たちが愛情をもって考えていない時には、愛だけが実在するのですから、実際には全然考えていないということになります。幻覚を体験しているにすぎません。それがこの世界の現実です。集団の幻覚です。そこでは恐れの方が愛よりも実在性が高いように見えます。恐れは幻想です。私たちの狂気、偏執狂、心配、心の傷といったものは、すべて文字通り想像の産物です。」p49

自我とそれにまつわる一切を失ったときに残る「何か」を愛といってもよい。一切を投げ出して降伏する覚悟ができたとき恐れはない。その「何か」、「空」、「愛」からすれば、一切は幻覚なのであろう。すべては滅びゆくのだから。「自我」が消滅するときに出現する実在を、『奇跡の学習コース』は、積極的に愛といっている。そのような言葉遣いによって同じひとつの真実の別の側面が浮き彫りにされるだろう。
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結果への愛着を放棄する

2007年04月16日 | 瞑想日記
◆昨日書いた件に関しては、今日はそれほど心が反応していない。話題にした人物は、ちょっと気がまわらない程度で、悪意はないのだろう。結局、私の「自我」の問題なのである。

私のとるべき態度は、私自身にとっては「白鶴」のイメージである。「白鶴」は、私の中では自我に汚されない何かしら純粋な行為を象徴している。周囲の毀誉褒貶に囚われずなすべきことをひたすらなす。このケースで言えば、自分のプライドやエゴに左右されず、全体的な視点から最良と思われることを、ひたすら行うこと。あくまでも影で支える側に徹して彼を援助すること。彼がやりやすいようにやってもらい、必要があったらそっと手を差し伸べる。それで良いではないか。

本当に平静な気持ちでこのような態度に徹することができるかどうか分からないが、こうしていく以外にどのような道があるというのだろう。

◆マリアン・ウィリアムソンの『愛への帰還』を読んでいる。『奇跡の学習コース』をもとに、それをいかに日常生活の応用するかが語られる。『奇跡の学習コース』の言葉が随所に散りばめられている。

例によってすばやく何度か目を通す仕方で読んでいる。すでにいくつもの印象的な言葉に出会った。最近、私の心のなかに深く沁みこんできているあり方が、ここでも繰り返し語られている。そういう言葉に出会うと深く響いてくる。ひとつだけ抜き出そう。

「降伏の定義は、結果への愛着を放棄するということです。神に降伏する時、物事が外面的にどのような結果になるかに対する愛着を手放し、内面的どういうことが起きるかに対してもっと深い関心を持つようになります。」p78

降伏とは、最近使ってきた言葉で言えば、自我がすべてを失うことである。後半、「内面的にどういうことが起きるか」へ深い関心をもつようになるというところが印象的だ。この本を読んで、私が学ぶべきことが何度も確認されていく感じである。

『奇跡の学習コース』もまだ翻訳出版までは時間がかかるそうだが、直接英語で読んで見たくなった。
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怒り: 「自我」が問われる

2007年04月15日 | 瞑想日記
最近、「自我」とそのプライドをひどく傷つけられる出来事があり、今も進行中である。それにどのように対応し、乗り越えていくかが問われている。

職場外のことであるが、詳しくは書けない。あることをしようと思い、かなり大事に育てていた何人かの人間関係があった。結果としては具体的な活動になかなか結びつかず、私自身少しやる気が失せていた。そこへ指導的な立場の新しい人物が加わることになった。彼とはうまく協力してやっていけるつもりだった。

しかし、どうも様子がおかしい。私に連絡もなしにどんどんと進めて行こうとする。最初は、うっかり忘れたのだろう、ぐらいに思っていた。それが二度、三度と重なるのである。「え、私を無視して進めようとしている?そんなことはあるのだろうか」と思った。

しかし、ちょっとした態度にも私を無視して自分でかってにやっていきたそうな感じがある。いや、ただ不注意で鈍感なだけなのか。

私は内心ひどく怒りを感じている。こうして書いていても怒りが湧きあがる。もちろん「怒り」とサティはするが、なかなか根深く、かんたんに消えるものではない。

怒りは、私の「自我」とそのプライドそのものに根ざしている。「自我」に囚われているのはよく分かる。しかし、それで怒りが収まるわけではない。「自我」に囚われる自分が問われている。かといって、怒りを抑圧したくもない。充分に気づきつつ、「気づき」の力で溶解していければよいのだが。

「自我」に死ぬことが、大いなるものに根ざして生きることへと一直線に連なることが、以前よりも深いレベルで分かるようになった気がしていた。しかし、現実にはこのざまだ。この時期、こういう問題が起るのも、また深い意味があるのかも知れない。「自我」ととことん向き合う必要があるのかも知れない。

こうして書いてみて、この件の、私にとっての課題として意味がよりはっきりしたような気がする。
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