瞑想と精神世界

瞑想や精神世界を中心とする覚書

二冊の本

2008年12月22日 | 読書日誌
◆『破天』の印象があまりに強かったので後回しにしていたが、最近読んだ本でもうひとつ面白かったものを取り上げる。養老猛。竹村広太郎著『 本質を見抜く力―環境・食料・エネルギー (PHP新書 546) 』だ。ブログ「精神世界と心理学・読書の旅」の方に、数日以内に書評を載せる予定。

著者二人の対談。モノとう現実から日本を考える。竹村氏は、国土交通省の河川局長を勤めた人。石油や水、森林や河川などの下部構造から日本の文化や歴史を洞察する。いままで知らなかった独自の視点による情報が新鮮で、興味深く読んだ。江戸時代末期、日本のエネルギーとしての森林利用は限度に達し、いたるところ禿山だらけだった。その限界を打ち破ることが出来たのは、黒船来航による開国だった等々。文科系の人間が見落とすような発見に満ちている。この本が面白かったので、続けて北村広太郎著『日本文明の謎を解く』も読んでみた。これも期待にたがわず興味深かった。

◆書評関係のブログでかつて使っていたが、今はブログ移行のため更新していないブログからいくつか拾って、「精神世界と心理学・読書の旅」の方に再録している。今日は、『ラマナ・マハリシの教え』について何回かに分けて書いたものをを編集しなおして再録した。あらためてラマナ・マハリシ(マハルシ)の言葉に接して、やはり強く響くものがあった。書評の方には載せなかったいくつかの言葉をこちらに掲載する。

「人が何をするにしても、「私」というエゴ性なしにそれをしなければならない。すべてのことをそのように行えば、すべてはシヴァ(神)の本性として現れる。」(P24)

「執着をもってなされる仕事は足枷である。けれども、無執着でなされる仕事は、その本人に影響をもたらさない。彼は仕事をしていながら孤独であれる。あなたの義務に従うことが本当のナスカール(ひれ伏すこと)であり‥‥、神に住むことが、本当の唯一のアサン(無執着)である。」(P88)

[‥‥「私が」および「私のもの」という感覚を壊滅させることが究極である。「私が」と「私のもの」の二つはお互いに依存し合っているので、一方を壊滅させればもう一方も滅びる。想いや言葉の彼方にあるあの静寂の状態に至るためには、「私が」という感覚をぬぐい去る知識の道か、「私のもの」という感覚をぬぐい去る帰依の道のいずれもじゅうぶんである。](P46) 、

最初から、無執着に、「私」というエゴ性なしに仕事を行うことはきわめて困難だと感じる。しかし、これはまさにわたしの中の「白鶴」のイメージだ。利害損得や外部からの評価に関係なく、ひたすら心を込めて行おうと決意して、そのようなあり方に近づくことは可能だ。

◆今日も、「慈悲の瞑想」が中心の瞑想生活。行き帰りの歩行時など、「慈悲の瞑想」からはずれて雑念を追ってしまったときは、サティして「慈悲の瞑想」に戻る。
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不可触民とアンベードカル

2008年12月20日 | 読書日誌
◆姉妹ブログ 精神世界と心理学・読書の旅 の方に、『破天 (光文社新書)』の著者・山際素男のいくつかの本の書評を載せておいた。

アンベードカルの生涯 (光文社新書)

不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫)

不可触民と現代インド (光文社新書)

不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫) 

の四冊である。山際素男の本でインドの不可触民の実態を知ったときはかなり衝撃を受けた。その直後に書いた書評なので、今読み返してみてもその衝撃が滲み出ている。その実態を知っておくことは、佐々井秀嶺が何と戦ったのかを知る上で重要である。また、不可触民の解放のために立ち上がった巨人・アンベードカルの生涯を知ることも大切である。佐々井秀嶺は、死んだアンベードカルの霊的な導きによってこそ、インドの中央にあるナグプール(竜樹ゆかりの地という)に赴き、そこからインド仏教徒の指導者となる道を歩み始めたのだから。もちろん、その地についた当初の佐々井秀嶺は、その後の自分の、信じられないほどの大きな歩みについては、知る由もなかったのだが。

◆昨日は、かなりの時間をつかって慈悲の瞑想を行っていた。身近な二人の人物に集中して行ったのだが、もっとひろく周囲の人々への慈悲の瞑想もかなり行った。

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように

この「生きとし生けるもの」のところに具体的な人物の名前を入れたり、ある集団の名称を入れたりする。ある集会で退屈なスピーチを聞き続けた数時間もずっと慈悲の瞑想を行った。駅まで歩く数十分の時間も慈悲の瞑想を行った。

今日も、洗濯物を干しながら、掃除をしながら慈悲の瞑想を行った。
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絶望の果ての潔さ

2008年12月18日 | 瞑想日記
◆再び『破天・インド仏教徒の頂点に立つ日本人 (光文社新書)』を読んでの感想である。

おそらくこの本を読んだ誰もがもつだろう強烈な印象は、彼がインド仏教徒とともに、その先頭にたって続けてきたブラーミン社会との闘争の凄まじさだろう。徹底して平和的な闘争だが、彼らにとって常に文字通り命をかけての戦いであったことが分かる。なぜ佐々井秀嶺にこのようなことが可能だったのか。

それは、彼が懊悩の果てに「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ」と一度はすべてを打ち捨てたからだろう。すべてを打ち捨ててしまい、あとはもう不可触民仏教徒のため、彼らとともに歩むことを徹底していくだけだった。おそらくその背後には、死んだアンベードカルの導きがあったのだろう。多くの不可触民とともにインド仏教復興への道を歩み始めようとした矢先に死んだアンベードカルにとって、佐々井ほどその志を継ぐにふさわしい人間はいなかったのだ。佐々井は「夢」に現れた竜樹=アンベードカルに導かれるようにして、その後の活動の拠点となったナグプールに一人乗り込む。

一度はすべてを打ち捨てているから、その瞑想や断食行も徹底的に凄まじい。ガンディの断食にも似た政治的「効果」をもたらした断食も凄まじいが、人知れず行おうとした瞑想や断食も、読むものに強烈な印象を残す。

正直いってこの本を読むまでは、まだ彼のことをよく知らず「ちょっとうさんくさいところもあるかも知れない」ぐらいに思っていたが、読後はそのような印象は全く消えた。確かに「色情因縁の業」の深さゆえの苦悩はとてつもなく大きいが、その絶望の深さが強烈な求道の根元にある。絶望の果てに、一切の私利私欲を打ち捨てた人間の潔さ。その潔さが、インドの地で一億五千万とも言われる仏教徒の絶大な信頼を獲得した理由のひとつであり、多くのインド人を引き付けつつ、仏教復興へと向っていく運動の原動力となっているのだ。
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破天

2008年12月16日 | 読書日誌
◆最近いくつかの興味深い本に出会った。今日、読み始めてたちまち夢中になって読み耽ったのは、インドの仏教指導者・佐々井秀嶺の半生を描いた『破天 (光文社新書)』だ。

佐々井秀嶺については、山際素男の『不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫)』などに紹介されているのを呼んで、強い関心をもった。同じ著者に『破天』があるのは知っていたが、絶版となっており、なかなか手に入らなかった。それが最近、新書版で復刊されたのだ。

読み始めると止められないほどだ。若き日の懊悩と何度かの自殺の試み、その果ての師との出会い、激しい修行、乗鞍山頂での「覚醒」、タイでの修行と失敗、そしてインドへ、と夢中で読みすすむ。ある程度は知っていた経緯だが、若き日の懊悩がこれほど深く、それが故に文字どうり死をも厭わぬ激しい求道に突き進まざるを得なかった様が、強く印象に残る。その激しい求道に刺激される。また、あらためて佐々井秀嶺という人物が、ある必然の流れのなかでインドへ導かれていったのだということが得心できる。(もう少し読み進んだら、また続きを書きたい。

もう二冊面白かったのは、竹村公太郎の著作と対談だが、これについてはまた後日に触れたい。

◆KOKIAには、ますます引かれている。たとえば、これ‥‥

KOKIA  「祈りにも似た美しい世界」 Live in Paris 2007

類まれな声の美しさ深さと、歌う力と、澄んでとらわれのない優しい心とが、一体となって人の心をとらえる。
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次の本に向けて

2008年12月14日 | 瞑想日記
◆サイト『臨死体験・気功・瞑想』の中心は、『「覚醒・至高体験」事例集』だ。ここでは、事例を、便宜的な分類によってただ並べているだけだが、これをもっと整理された、意味のある分類にし、その事例を元にしながら「覚醒・至高体験」とは何かを追求していく。‥‥そうした内容の本をまとめたい、という思いは以前からあった。実は、ある精神世界系の研究会誌に、その内容を8回ほど掲載したことがあったが、自分のなかでどうしてもまとめたいという情熱が湧かず、たち切れになっていた。

ここ数日、少し考え方を変えつつある。このテーマで書くことが、自分自身へよき影響を与えるのではないか、だったら、まとめる作業を再開すべきではないか、そう思うようになっている。

研究誌ですでに発表したのは、次のような章までだ。もちろん本としてまとめるには、最初から大幅な書き直しも必要だろう。読む必要のある本も膨大な数になるだろう。しかし、修行と併行して、まとめる作業も再開しないと、機会を失うかもしれない。

  はじめに
1 覚醒・至高体験とは?
2 至高体験の特徴
3 B認識
4 自己超越
5 B認識と自己超越
6 限界状況
7 死への直面

◆本日、再び一日半断食を実行中。といっても昼だけは、薬を飲む関係で軽く口に入れているので正確に「一日半」ではない。ぼたもち一個と、リンゴ一切れは食べている。これで明日の昼に復食だ。若干の空腹感はあるが、同時に胃のすっきり感やその他の微妙な体感覚の変化など、いつもは忘れている感覚も強くなる。そういう体感覚にしっかりサティしていきたい。
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