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-ドイツが見ていた太平洋の「戦争か平和か」2-(GHQ焚書図書開封 第100回)

2018-02-24 17:59:54 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第100回
-ドイツが見ていた太平洋の「戦争か平和か」2-
「ドイツはアジアをかく見る」の続き3回目。日米両国は1万キロ離れているが、将来、衝突する可能性があり、その場合でも、日本側から戦いを始めるわけはないと看破していた著者。なぜなら、その戦いでフィリピン、グアム、ハワイをとったところで、日本には何の利益もないからである。
 英米に太平洋を支配されていた海洋国日本は、海洋を支配するには大陸を背中に背負わなければ、やがて、イギリスのように凋落の道を辿るとの危機意識をもっていた。下関条約、ポーツマス条約、ワシントン会議で外交の失敗を甘受しなけらばならなかった日本。 
 国民党軍は一度も日本軍に勝利しなかったし、毛沢東軍は何時も逃げてばかりいた。日本軍は蒋介石軍20万人に対し、5000人の軍隊で蹴散らした。
 支那大陸から日本軍が撤兵したのは、太平洋でアメリカに敗れたからからであり、支那軍に負けたからではない。(当時、日本軍は総数700万で、太平洋の島々(ガタルカナル、ペリリュー、サイパン、グアムなど)には25万人が布陣されており、東南アジア独立までの陽動作戦の役割を担っていた、事実、終戦までの間に、ビルマ、フィリッピン、ベトナム、カンボジア、ラオス、インド自由仮政府の6か国は独立を果たしており、終戦まもなくインドネシアがこれに続いて独立を果たした。残りの675万人が東南アジア、支那大陸、日本本土に布陣していた)
戦後、初めて東南アジアは英米によって日本軍から解放されたというのは嘘で、日本軍が撤退後、日本軍によって軍備を持ち独立を果たしたアジア各国は、独立維持戦争を旧宗主国と続けており、それに勝利したからである、ベトナムなどでは残留日本軍が現地軍とともに旧宗主国と戦った。 
 田舎出身の日本兵は、ビルマ人には馴染んだが、スペイン、アメリカの白人文化の影響を強く受けたフィリッピン人には馴染まなかった。
 カリブ海での米西戦争の時、香港に停泊中の米艦隊を派遣しフィリッピンを占領したのは、アメリカにとってマニラは、支那の門前に聳えるお城にできる意味があったためである。
 1938年英米は、支那から商売上追い出された。これは、日本の支那への進出というより、支那国内が混迷・混乱したから、英米が逃げ出したというのが本当の理由だ。
 アメリカは中南米へ、イギリスはオーストラリアへ、日本はアジアへ、各々それぞれの分野に散り、一見平和が戻るようにみえたが、英米の日本憎しの感情は強まることはあっても、弱まることはなく、イギリスは援蒋ルートを使って支那に武器供給、アメリカはフライング・タイガースを組織して、支那と日本を戦わせることを続けていた。

 太平洋にはアメリカブロック、イギリス・オーストラリアブロック、日本ブロックが存在した。日本にとって防衛上、日本ブロック内に残ったアメリカ領グアム、フイリッピンは邪魔な存在だった。
 アメリカは、「日本は支那から手を引け」とハルノートを突き付けるよりも、支那の共産主義化を防ぐために支那と日本の和解・調停に乗り出すべきだった。それができなかったのは、ソ連のコミンテルンが英米の首脳部、特に米大統領ルーズベルト周辺に深く入り込み、日米開戦を仕組んでいたからである。
 結果的に、アメリカは日本に勝利したが、支那を共産主義国家にしてしまった。
参考文献:「ドイツはアジアをかく見る」ウェルネル・A・ローエ
引用元:安濃博士のブログ(帝国政府声明文 「戦勝国は日本だった」)、「大東亜戦争の開戦目的は植民地解放だった-帝国政府声明の発掘-」安濃 豊