GHQ焚書図書開封 第102回
-「大東亜戦争調査会」叢書1-
「米英の東亜制覇政策」大東亜戦争調査会編集、毎日新聞出版
米国の東アジア進出外交三回の危機
第1回目の危機
John Hay国務長官
門戸開放宣言(1899年)
アリューシャン、シベリアから満州へ
第2回目の危機
Evans Hughes国務長官
第一次世界大戦後、支那大陸中心部(上海)へ文化介入
第3回目の危機
Henry Stimson国務長官
満州事変、日米開戦
英・米・豪と共同して南方から日本を包囲
アメリカの東アジア進出に当たっては、外交上3回の危機があった。
第1回目の危機対応策は、支那進出に後れをとったアメリカが「門戸開放、機会均等、領土保全」の綺麗事を提唱し、支那への野望を一旦抑え、好機到来を待つ方針に変えたこと。
第2回目の危機対応策は、日本がドイツと戦い獲得した対華21か条要求の妨害、チェコの軍隊救出のためヨーロッパの要請によりシベリア出兵するに際し、日本の単独出兵を妨害し、共同派兵としたこと。日本にとって皇室制度廃止につながりかねないロシア革命防止よりもロシア革命に寛大な処置をとったこと。
第3回目の危機対応策は、日本の支那進出を恐れ、蒋介石と日本を対立させるため、張作霖、張学良を利用して妨害行動をとったこと。スティムソン・ドクトリンで日本封じ込め政策を展開したこと。
理由なきアメリカの太平洋・支那進出は何故起こったのか?。
アメリカは平和主義の名のもとにヨーロッパへの内政干渉をするため自ら提唱した国際連盟、国際司法裁判所加盟を、モンロー宣言に反する理由で批准しなかった。結局は、自国の軍事力を蓄えるまで、また自国の立場が有利になるまでの先延ばしのための綺麗ごと提案にすぎかった。
アメリカの対ヨーロッパ政策は「欧州列強をもってして相争わしめ、自分は局外にあって漁夫の利を占める」を旨をするが、ある一国が欧州の覇権を確立するの危険が生ずる場合には猛然として欧州に干渉し、この危険国を倒さずば止まないことであった。このようにして、アメリカの一極構造支配を確立するが最終目的であった。
しかも、不干渉対象は南北アメリカと欧州であり、東亜、太平洋地域は干渉しても構わないという、偽善性、矛盾性、便宜性に満ちたものであった。
NATOに代わるEU独自の軍事力を背景したEU国家樹立(政治統合)を阻止し、EU国内の中に、カウンターバランスする国(ドイツ)が出てくると抑えにかかるアメリカ。
NPT体制は、ドイツと日本の核武装化を阻止するためのものであり、日本に対しては佐藤栄作のノーベル賞授与と引換にNPT批准を強いた。
1970年代から、第二次世界大戦敗戦国に対する再占領政策が始まった。
日米軍事同盟よりも米中経済同盟の価値が上回った1993年の江沢民時代に、クリントンは米経済団体を引き連れ中国に乗り込みビッグビジネスに力を入れ出した。南京問題はそのころから表面化した。
アメリカにとって日本は準禁治産者扱いであった。
果たして、日米同盟は、今後日本外交の基軸として良いのか疑問である。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会
-「大東亜戦争調査会」叢書1-
「米英の東亜制覇政策」大東亜戦争調査会編集、毎日新聞出版
米国の東アジア進出外交三回の危機
第1回目の危機
John Hay国務長官
門戸開放宣言(1899年)
アリューシャン、シベリアから満州へ
第2回目の危機
Evans Hughes国務長官
第一次世界大戦後、支那大陸中心部(上海)へ文化介入
第3回目の危機
Henry Stimson国務長官
満州事変、日米開戦
英・米・豪と共同して南方から日本を包囲
アメリカの東アジア進出に当たっては、外交上3回の危機があった。
第1回目の危機対応策は、支那進出に後れをとったアメリカが「門戸開放、機会均等、領土保全」の綺麗事を提唱し、支那への野望を一旦抑え、好機到来を待つ方針に変えたこと。
第2回目の危機対応策は、日本がドイツと戦い獲得した対華21か条要求の妨害、チェコの軍隊救出のためヨーロッパの要請によりシベリア出兵するに際し、日本の単独出兵を妨害し、共同派兵としたこと。日本にとって皇室制度廃止につながりかねないロシア革命防止よりもロシア革命に寛大な処置をとったこと。
第3回目の危機対応策は、日本の支那進出を恐れ、蒋介石と日本を対立させるため、張作霖、張学良を利用して妨害行動をとったこと。スティムソン・ドクトリンで日本封じ込め政策を展開したこと。
理由なきアメリカの太平洋・支那進出は何故起こったのか?。
アメリカは平和主義の名のもとにヨーロッパへの内政干渉をするため自ら提唱した国際連盟、国際司法裁判所加盟を、モンロー宣言に反する理由で批准しなかった。結局は、自国の軍事力を蓄えるまで、また自国の立場が有利になるまでの先延ばしのための綺麗ごと提案にすぎかった。
アメリカの対ヨーロッパ政策は「欧州列強をもってして相争わしめ、自分は局外にあって漁夫の利を占める」を旨をするが、ある一国が欧州の覇権を確立するの危険が生ずる場合には猛然として欧州に干渉し、この危険国を倒さずば止まないことであった。このようにして、アメリカの一極構造支配を確立するが最終目的であった。
しかも、不干渉対象は南北アメリカと欧州であり、東亜、太平洋地域は干渉しても構わないという、偽善性、矛盾性、便宜性に満ちたものであった。
NATOに代わるEU独自の軍事力を背景したEU国家樹立(政治統合)を阻止し、EU国内の中に、カウンターバランスする国(ドイツ)が出てくると抑えにかかるアメリカ。
NPT体制は、ドイツと日本の核武装化を阻止するためのものであり、日本に対しては佐藤栄作のノーベル賞授与と引換にNPT批准を強いた。
1970年代から、第二次世界大戦敗戦国に対する再占領政策が始まった。
日米軍事同盟よりも米中経済同盟の価値が上回った1993年の江沢民時代に、クリントンは米経済団体を引き連れ中国に乗り込みビッグビジネスに力を入れ出した。南京問題はそのころから表面化した。
アメリカにとって日本は準禁治産者扱いであった。
果たして、日米同盟は、今後日本外交の基軸として良いのか疑問である。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会