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日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-帰還兵火野葦平が見た前線と平時の裂け目-(GHQ焚書図書開封第198回)

2022-12-26 10:44:26 | 近現代史

GHQ焚書図書開封第198回

-帰還兵火野葦平が見た前線と平時の裂け目-

 今朝起きてみると、深い霧である。五階の望楼に上がってみると我々の建物だけが、霧の中に浮かび、船に乗っているみたいである。白々とした霧の中にからんころんと下駄の音が聞こえてくる。女工や新聞記者が出勤してくるに違いない。少し先にある中山公園の深い緑が海に浮かんだ海藻のように見え、その中から、しきりに小鳥の賑やかに囀る声が聞こえてくる。直ぐ目の下を流れている韓江がかすかに白く(実は真赤な泥川なのだが)帯のように見え、浮かんでいる五、六隻のアンペラ張りの民船に漂うように煙があがる。

私たちのいるのはかって汕頭(すわとう)で最も多数な発行部数を有し、且つ、最も抗日的であったといわれる星華日報社の建物である。今は粤東報社(えっとうほうしゃ)である。日本軍が汕頭を占領したのは、六月二十一日であったが、入場と同時に私たちは他のいろいろな仕事とともに漢字新聞の発刊ということを非常に重大なこととしてそれに努力した。その経過は省略するが、幸いに王英勝というちょっと面白い人物を得て、支那人たちの手により、あらゆる不便の中で、粤東報創刊号は二十八日に発行された。そこで星華日報社は忽ち粤東報社となったわけである。4:30

 入場以来、私たちもここで起居して仕事をしている。この建物には無数の弾痕がある。韓堤路の角に扇形に建てられたこの家の左側が爆弾のために無残に破壊されている。すぐ後ろにつづいている自動車工場も爆撃によって屋根を貫かれ、瓦や木片や鉄片が散乱している。それらをどう片づけようもないので、私たちの事務室はそれらの廃墟の中にある。おあつらえ向きのことには、昨夜はこの戦場の廃墟の上に満月がでた。汕頭市には今は電灯も水道もない。それらは日本軍入城の前日に敵軍によって壊されてしまった。当分復旧の見込みもない。何にも灯の見えない敵国の市街を照らす東洋の満月は、兵隊に若干の干渉を強いる。

 応召以来既に三年目、数日の後には戦地で迎える二度目の聖戦記念日がやってくる。月日のたつのは早いものだ、というような月並みな詠嘆など我々兵隊にはない。正直にいって、我々はそのようなぼんやりした時間の経過の中にはいなかった。弾丸の中にある一年は十年のようにも長いものだ。しかしながら、そのような名状し難い時間の中に兵隊があったということは、否、現在もあるということは、私には何よりも尊いことだと思われる。

 私は幾つかの文章でそのような兵隊の現実と、それによって成長する兵隊の逞しさを書いてみたが、真に兵隊の鍛錬される姿は私の筆では描きつくされなかった。

私は常に考えているように、この戦争に関する真の意味を捜すことは、私の一生の仕事とすべき価値があるという感想をますます強くなるばかりである。思えば私たちもうろうろと方々をうろついたものだ。尤も自分が行こうと思って行ったわけではないが、軍の作戦の要求するままに、私たち兵隊は全く文字通り南船北馬であった。

 私自身の経験から言えば、今度の汕頭新津港上陸は、初陣の杭州湾上陸以来、数回目の敵前上陸であったが、他の兵隊たちも同様にそのような経験をもっている。私たちが支那の土地を踏んで以来、うろつき廻った道程は既に三千里を超えているであろうか。兵隊は話をするたびに笑うのである。兵隊になったおかげでよい見物をさせてもらった、と。我々は数かも知れないほど度々弾丸の下にあった。その一発の弾丸は、あらゆる盛りきれないほどの意味と尊さをもっている一つの生命を、一瞬にして消滅させる。兵隊の精神はその上を乗り越えてゆくが、それ故に、この我々が今も生きているということは涙のでるほど有難いのである。我々は故国を離れるとき、全く生還を期さなかった。

今もなお我々はそのようなことを期待することはできない。このような兵隊の持つ尤も凡庸なる感想こそ、大仰にいえば日本を進める大きな力かもしれないのである。

 我々兵隊は一つの誇りを持ちたいのだ。我々の犠牲が無駄に終わるのではないかという感想が一番悲しい。我々の苦難が十分に生かされないということが一番腹立たしい。我々は愛する祖国のために戦っている。我々は何も勲章が欲しいこともなければ、靖国神社に祀られて神様になりたいがために、戦っているのでもない。

 我々兵隊の大いなる苦難と犠牲によって日本が前進し、日本が良くなり、日本が美しくなれば、兵隊は満足するのだ。兵隊に、何のために我々は戦ったのか、というような感想を抱かせることは、尤も腹立たしいことである。兵隊の犠牲によって日本が前進する。そのことを我々兵隊は絶対に確信している。12:24

 根本的には我々兵隊の精神は信念によって貫かれている。しかし、私は兵隊として言いたいことを一つ言いたい。それは意義のある聖戦記念日にあたって、決して無意義なことではあるまい。そのことは、しかし、今新しく私が述べるまでもなく、私としても今まで何度も書いてきたし、また私ひとりでなく、兵隊全体の声としてすでに知られていることであろう。それは軍の占領地域に行なわれるいわゆる大陸進出の現象についてである。大陸進出は大いに結構である。否、どしどしとなされなければならない。しかし、軍の占領地域に一仕事始めんとしてやってくる人達は、一体どういう感想を抱いてやってくるのであろうか。どさくさにまぎれて、一儲けしようと考え、濡れ手で粟の一攫千金を夢見て来るのはよいが、かれらがその地盤とする地点が、尊い兵隊の血を流して、はじめて拡げられた安全地帯であるということを考えてくるのであろうか。それ位のことを考えない国民があろうかというであろう。私達も国民がそれ位のことを考えてくれないとは信じられない。にもかかわらず、我々の占領地域内では腹の立つことが甚だ多いのである。我々の腹の立つことを具体的に云う必要はない。

 大陸進出の名によって、いかがわしい商売を不愉快な方法で始める人々が、彼らが安全に商売できる地域を、生命を賭して購った兵隊を起こらせることは度々である。私は全体のことをいっているのではない。一部の感心しない連中のことをいうのである。

我々は自分達が苦労して占領した地域に、故国の人々がやって来て、いろいろと商売をはじめるのを見るのは實に嬉しく楽しいのである。ところが、そのなかに度々兵隊を憤慨させるものが往々あるのだ。そのような人達こそ同胞の名を汚すものであろう。

 ○○で部隊戦没勇士の慰霊祭を施行したことがある。その土地には既に数千人の内地人が店を開き商売をしていたので、我々は、むろん、その全部がこれに列席するものと考えていた。祭場には十分広く居留民席が準備された。しかるに当日その席には多くの空席があった。私は涙がでるほど腹が立ったのである。そのときは種々な事情もあり、円満に収まったが、そのような時に、我々兵隊が、何のために俺達は戦ったのだ、何のために兵隊は死んだのだ、という感想を一時でも抱くことは悲しむべきことである。

 私達は、そのとき出席がなかった居留民は悉く退去命令を出して貰うことさえ思ったのである。私は或いは少し言いすぎたであろう。しかしながら、私は全体として、兵隊の精神が純粋であると同様に、銃後国民の精神もまた誠実であることを信じている。それ故にこそ、我々兵隊も、なおも悔いなく弾丸の中に身を曝していることができる。兵隊の苦難と共に日本は前進し、立派になるであろう。そう思うことは楽しい。唯、願わくば、そのような希望と犠牲の精神によって心も明るい兵隊の気持ちを、つまらないことによって乱さないで欲しい。

 このように兵隊を不愉快がらせるような人達(それは又同胞の名をも汚す人々であるが)は、大陸進出というような隠れ蓑を着て戦地にやってきて貰いたくないのである。

私が今このような考えを抱くのは、やがてこの汕頭の街も、今迄私達が経てきた幾多の占領地域で起こったと同じような現象が、つまり治安の回復につれて次第に内地からの進出がなされるであろうことが想像されるからである。

これは新しい問題ではない。しかし、解決されなければならない根本的な問題であると思う。聖戦記念日は一つの頂点として、あらゆる問題の積極的解決、或いは前進の拍車でありたい。それによってこそ、その日を特に記念する意義があると思う。

ああ、この緑と霧の美しい汕頭の街に、兵隊の心を暗くするような狐や狼がやって来ませぬように。(汕頭にて)19:50

 私にも満二ヵ年の上を身に着けてきた軍服を脱ぐ日が来た。兵隊でなくなるその日、嬉しさと共に消え難い一抹の淋しさがある。

嬉しさは生きて故国に帰れたということであり、淋しさは既に私の皮膚の如くになっていた軍服に対する限りない愛着の心である。しかしながら軍服の色によって私の心に染み付いた兵隊としての心は軍服を脱いでも私を去らず、やはり一個の兵隊として生きたいと思っている。それは色々な意味で。もう一つの淋しさは、私が戦場で生死を共にして来た私の兵隊達と一緒に帰れなかったということである。杭州湾敵前上陸を最初の戦闘として二ヵ年を超える間戦場に暮らして来た兵隊達が全く生還を期していなかったにも拘らず、二度と踏むこともあるまいと決めていた故国の土を生きて踏むことが出来、二度と会うことのないと決していた家族にも会え、思いがけなくも我が家の閾を跨ぐことが出来るということについての嬉しさを説明する必要があろうか。27:00

 大陸の土と化した多くの戦友達に対しては済まないという気持ちを深く抱きながら、それはそれとして無性に嬉しいということは隠し切れない。それらの多くの兵隊達と私は共に、またごたごたした臭い輸送船に積まれ共に隊列を為して故国に上がり、旗の波の中を帰りたかったのである。出征するとき沿道数里の間、両側を埋め尽くした旗の波と歓呼のどよめきの中を銃を担ぎ行軍して行った日の感激を私は終生忘れることが出来ない。帰る時にもこのような感激の中を抜けたかったのである。それは一つの感傷であり、帰る段になればどのような方法でも同じではないかという人は兵隊の心を知らないのである。

 ところが私はある事情のために、兵隊達に別れ、たった一人でポカンと帰るようなことになってしまった。帰還部隊が故国の港に到着し、懐かしの土を踏み、旗の中に埋められている兵隊達の写真が麗々しく新聞に掲げられたのを見た時に、私はどうにも溢れてくる涙を抑えることが出来なかったのである。兵隊達には一斉に歓迎の声が挙げられ、また帰還の感想についての質問が浴びせられた事であろう。兵隊達はそのような野暮な質問に面喰い暫くは返答に窮したことであろう。それからやっと生きて帰ったことが有難いとたったそれだけをいったであろう。私にも今またそのような質問が寄せられる。私はまた兵隊達と同じように生きていたことが嬉しいばかりだと最も凡庸な答えをするより仕方がない。二ヵ年の転戦生活からたった今帰ってきたばかりの兵隊になんの特別な感想のあろう筈がない。兵隊の本当の気持ちはよくも生きて帰られたということに対する限りない喜びの詠嘆であり、そしてそれが全部である。

 私は変則な帰還の仕方をしたので兵隊としての純粋の感激から取りはぐれ、印象や感想が頗る中途半端になって何か戸惑いしているけれども、根本の気持ちにおいては少しも変わりはない。ところがその変則な帰還をしたために、兵隊の目に触れなかった部分で私の目に触れたものがある。兵隊として帰還した最初に何を置いても言っておきたいことがないでもない。私は軍服を脱いでしまっているけれども、兵隊としての気持ちでそのことを率直に述べたいと思う。それは一口に言ってしまえば、現地にある兵隊を忘れないで欲しいということである。そんなことを言うと私は怒られるかもしれない。この戦争の最中に、銃後のものがどうして戦場にある兵隊を忘れるものかと。又私は、決して兵隊が忘れられているとは思わない。

 唯、私は本当に兵隊が理解され、もっと労われてよいと思うのである。銃後の人が、どういう生活をし、戦争に対して、どういう考えを抱き、兵隊に対してもどう思っているのか、というようなことは、帰ったばかりの私には、まだ何も判らない、少しの間私も銃後人の一人として暮しているうちに、そんなことも色々判って来るとは思うが、今は何も判らない。

私は二年ぶりで初めて福岡の土を踏んだときに異様な感じを受けたのはその街の景況ののどかさである。それは銃後が緊張しているとか怠けているとかいうようなことではなく、いきなり見た故国の街が如何にもおほどかでのんびりとしていたことである。寧ろ私達の出征前より派手やかであり、非常に絢爛たる色彩のけばけばしささえ目についた程である。これらの街の様子は、どこに戦争をやっているのかというほどである。

 銃後に戦地のことが判らないように、戦地にも銃後のことはよく判らない。新聞等で見ていると、堅苦しいせせこましくこせこせした用語や文字が並んでいるので、一体内地はどんなに窮屈になって縮こまってしまっているのだろうかと奇妙な不安が起こるのである。ところが私が福岡に着いた途端にそういう一切の懸念が一瞬に消え去り、その晴れやかにのびのびした日本の姿に私は目を瞠ったのである。それは兵隊としての私にとっては、この上ない喜びであった。戦地であんなに兵隊が不自由をし、苦労をしているのに故国ではこんなにみなが楽をしているということは一種の腹立たしさのようなものでありながらも、そののんびりとした悠々たる故国の姿は、何か頼もしく嬉しかったのである。孤島の小国である日本がこれだけの大戦争を決行しながら、こんなにもへたばらずにいるということは、世界にとっても驚異であったに違いない。また日本自身にとっても日本の力に自信を抱いたことであろうが、戦地の兵隊にとっても力強い限りであった。34:30

 正直に、言うと、戦地で兵隊は談笑の合間に、俺達は祖国のために、命は惜しくないし戦闘はいくらでもやるが、日本はこんなに金を使って戦争に勝っても経済的に、参ってしまうんじゃないか、と、そんなことを、真面目に語っていたのである。その不安は全く杞憂である。その点では日本は、決してへたばらないということが、はっきりと判った。私は自分で、最初に見た、日本の姿にその歴然たる証左を示されたような気がし、嬉しかったのである。

 然しながら当初のその印象の中に、次第に一つの感想が沸いてきたのである。それはなるほど銃後はそういう意味では非常に心強く何等の心配もない。しかしその故にその安易に狎れて少しく戦争の大きさを忘却し、兵隊についても幾らか関心をぬいているのではないか、という気がしてならなくなってきたのである。事変勃発以来三年に近くなろうとしている。そのことが国民を草臥れさせたのであろうか。そんなはずはない。この長年月を聊かの疲労もなく戦争を継続し、今後にも尚十分の余裕さえ保持している。しかしながら矢張り或る倦怠が生じているのであろうか。私は様々な大きな問題については何も語る資格がない。私は兵隊として、兵隊についてのことを言いたかったのである。

 事変勃発以来、支那の重要なる拠点たる、諸都市は倫陥の運命に陥った。厖大なる地域は、占領され、日本の旗の下にある。そこには既に、東亜新建設を目指して、陸続と新しい政権が生まれ、今や中央政府の樹立すら、時間の問題となっている。新しき旗が日本の労力の下に、兵隊の苦労を基礎として大陸に翻らんとしている。そういう状態にあるために、銃後では何かもう戦争は山を越して、兵隊の苦労も以前ほどではなくなったという風に、考えているようである。

 無論現在でもどんどん作戦が進行されているが一方軍隊は各拠点を押さえ警備に服している所が多い。そこで内地から来る便りなどにも、もう警備だから大したことはあるまい、というように書いてくるのである、全然反対である。私も兵隊として多くの戦闘に従い、また多くの街々の警備に服した。中支から南支へ廻り広東に一ヵ年を過ごした。広東も昨年十月二十一日入城著しく復興し、現在の殷盛は目覚しいものがある。そこで内地からは、この頃は楽だろう、などと兵隊達への手紙には大抵書いてあるのである。

全然反対である。軍隊が一つの戦闘を終えてそこを占領し警備につくと、何かひどく楽なように考えられるようだ。警備についてからの苦労というものが戦闘以上であるということがどうして理解されないのであろうか。私は警備についてからの地味な苦労が真に戦争の苦労であり戦争の姿であるといっても差し支えない位だと思っている。

それは、戦闘も大変な苦労だ。然し警備についてからも、その苦労がいささかも減じるものではない。これは新聞などにも、若干その罪はあると思う。どこそこ攻略とか敵前上陸とかと、いうようなことは非常に大きく何段抜きもで書く。ところが、一旦目的地を占領しそこの警備に入ると、もう新聞はあまり書かない。

これは新聞というものは、そういうもので仕方がないのだから、読むほうでそういう読み方を、しなければならない。

新聞は次々に新しいトピックを追っていく。それは新聞が追って行くのであって事実が移動するわけではない。ところが国内の人々は一切を新聞によって知るほかはないので新聞を読み新聞の方法に引きずられて一つ錯覚に陥り、現実を落としてしまうということであるのではあるまいか。私は新聞を広げても大見出しの記事よりも一段位の小さい記事で而も「敵を一挙に駆逐し」とか「猛追撃を敢行し」とか「これを蹴散らし」とかいうような、簡単極まる新聞用語の中に、どれだけか多くの兵隊の苦労がにじんでいることをひしひしと感じる。これは私が兵隊となってはじめて身をもって体得した新聞の読み方である。私達の部隊が言語に絶する苦難をした掃討戦のことが、新聞にたった五六行で済まされたことが何度もある。大した苦労でもなかったのに、一つの要地の攻略であったために四段抜きで書かれたこともある。これは何も新聞が悪いのではない、ただ兵隊の苦労について考えられる銃後の人々が、新聞を拡げた時に、活字紙に眩惑されないで頂きたいというのである。

 広東は、銃後で考えられている通りの警備状態である。然し、銃後で考えられているように楽でもなんでもない。現在でも、広東の四周には敵がウヨウヨしている。それは五六人づつや、二三十人位の敗残兵や土匪がウヨウヨしているのではない。何千何万という正規軍隊が蟠踞し、堅固な陣地を構築して、常に広東奪回を、企図しているのである。従って第一線警備の陣地には、毎日の如く襲撃があり、敵は地の利によって夜襲などをやって来る。追えば、蝿の如く去ってしまう。又やって来る。便衣隊や遊撃隊によって、折角の建設宣撫の仕事が、阻害されること甚だしい。こういう状態なので、度々、討伐や反撃戦が繰り返される。山岳地帯で言語に絶する苦難の掃討戦が、常に行なわれている。軍では広東保衛のために、毎日犠牲を出しているといっても、過言でない。

 バイアス湾上陸以来広東攻略入城までの華々しい戦闘による戦死傷者よりも、広東警備に服してからの兵の犠牲苦が何倍にもなっているのである。敵軍の損害は無論お話にならないほどで、度々凄まじい殲滅戦が行なわれたが、その度にわが軍も無疵では済まないのである。

敵の広東奪還などは笑い話になって、敵が誇称大號するゲリラ戦法など敵の宣伝程ではないが、といって広東警備も決して安易鼻歌交じりでは出来ないのである。そういう真の苦労が銃後には余り知られていないようだ。今度帰ってきた私がそのことを言うと「ほ、そんなものですかね」と驚く人のほうが多い。私は広東に今までいたので広東のことを言ったが、それは中支でも北支でも皆同じ状態である。兵隊はそんなことにへこたれず、弱音も吐かないが、だからといって銃後の人がそれを知ってくれないということは淋しいことである。

 最近戦地に来る郵便物や慰問袋が著しく減少している。故国からの便りの少なくなったことほど兵隊にとって淋しいことはない。

戦地では、兵隊はそんなに楽しみのあるものではない。物資の不自由な警備地区では、何よりも欲しいものは、故国からの便りである。その便りが最近は酷い減り方である。慰問袋なども、最近我々は殆ど貰わないといってもよい。兵隊は、何も慰問袋が欲しいことはない。その慰問袋とともに来る、故国の人々の真心が欲しいのである。手紙に乗ってくる、愛情を欲しいのである。「別に変わったこともないからご無沙汰している」と、いうような手紙がくる。それは変わったことが、その手紙をくれた人の心の中に起こったのだ、と私は解釈する。

変わったことがあっては困る。変わったことばかり知らせて来られては兵隊はやりきれないのである。その変わったことのない詰まらない日常のことを書いてきてくれる便りが、兵隊は欲しいのである。

 私は除隊になったが、弟がまだ中支の戦線に残っている、私の家には家族は相当に多い。私は之から弟に手紙を書く日程表を作り、家族は一人づつ毎日手紙を書くということにしようと計画している。弟がどんなに喜ぶだろう。戦地で故郷の便りを待つ兵隊の心は、兵隊でなければ本当には判らない。私達はどんどん戦地に便りを送ってやりたいと思う。それはどんなに多くても多すぎることはない。私は意地悪かも知れないが、帰ってから直ぐに数箇所の郵便局で軍事郵便の統計を調べて見た。私は次第に月々下降しているその数字に何と腹立たしくさえなったのである。慰問袋の数字も坂の如く減っている。私達兵隊は祖国のために生命を惜しまず戦う。それは慰問袋がすくなかったところで、便りが来なかったところで、変わるところはないが、故国の人々が戦地の兵隊のことを常に思ってくれているということが何より嬉しく兵隊を一層勇気付けるのである。戦地にある兵隊が、若しや銃後の人々が我々兵隊のことを忘れてしまったのではないだろうか、と考えるほど淋しくも悲しいことがあるであろうか。このようなことは矢張り真に戦地の実情が理解されていないということ、詰まり警備だから大したことはあるまいというような全然反対な考え方にも一因があると思う。

いって居れば、色々あると思うが、現地から帰ったばかりの一人の兵隊の直接的な感想としてこのことを述べたのである。

 大きな問題として私が帰還したらどうしても銃後の人達に聞いて戴きたいと思うことに、戦後の建設と大陸進出の問題がある。これは兵隊として前述の感想とも根本において繫がっている。また私はかって「戦友に愬ふ」というような一文を書いて、兵隊自身の在り方についての謙虚な気持ちを述べたことがあるが、このことは私が兵隊であったために兵隊内部の声として、兵隊の精神を立派であらせたい念願からの(また私自身の自戒の言葉としての)感想であったが、このことは銃後の人々の在り方についての心構えと並行しなければ、決して日本を支え、日本を美しくして行くことは出来ないという意味で、いま銃後人となった私も入って、銃後がもう少し戦地と緊密に結びつかねばならぬということについても一つの感想がある。これ等は別々の問題のようで、皆一つの問題である。これ等のことは宿題であって、私にもまだ分からない。また私の微力は何の資格もない。ただ戦地での直截な兵隊の感想としていつか述べたいと思う。いまは帰還直後のこととて私はこれからの銃後人としての生活の覚悟について先ず考えて行きたい。

真に、兵隊の帰還直後の感想としては、前述したように、よくも生きて帰った、という一言に尽きる。先ず確固たる生還の感情の上に立って、徐に、私は考え、歩んでいきたい。生きて帰ってみて、苦労の・・・・・。

 

参考文献:「戦友に愬ふ」火野 葦平

2019/06/12に公開



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