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-兵卒火野 葦平の戦場からの切なる訴え-(GHQ焚書図書開封 第197回)

2022-12-24 13:46:35 | 近現代史

GHQ焚書図書開封 第197回

-兵卒火野 葦平の戦場からの切なる訴え-

 私はこの頃考えだすと夜も眠れないことがある。私ごときがいくら考えても仕方がないと思いながら、そのことが気になって、私は時々何も手につかなくなったり、いろいろ考えながら眠らずにしまう夜もある。私はそのことを私自身の胸の中だけにどうしても置いておけなくなった。私は生意気といわれてもよい。僭越とたしなめられてもよい。戦場で長い間生死をともにしてきた戦友諸士に対して、私は衷心より訴えたいことがあるのである。

 私が光輝ある動員を受けて戦場に来てから、既に二年になる。二年という月日は決して短くはない。私の多くの戦友は倒れ、不思議に私は今日まで生きながらえてきた。我々の祖国が決行した光輝ある大使命のために、我々は心おきなく戦った。これからも戦うつもりである。故国を出発する時に、既に生還を期しなかったように、現在でも私は生還を期していない。もとより私は生きて帰りたい。私には年老いた両親と、多くの弟妹と、妻と四人の子供とがある。何で私が好んで生命を棄てたいことがあろうか。しかしながら、私は祖国のためにそれらの悉くを棄てた。

それは無論私だけではない。ほとんどの兵隊が同じである。我々兵隊が最愛なるそれらのものを一応忘却したるごとくに、戦場を馳駆したことによって、祖国の輝かしい偉業が着々として進捗した。その兵隊の精神によって、我々は祖国を裏切り、失望させることがなかった。4:16

 国運を賭して行なわれた聖戦の前途は大東亜建設の大目的のために、宛も百年戦争といわれるほど前途多端であり、遼遠であるけれども、既に厖大なる支那大陸の重要なる拠点はことごとく皇軍の手に帰し、既に軍事的なる勝利は決定的である。これは祖国の喜びであると共に、我々兵隊にとって限りなき喜びである。

この時に、私が最も心にかかるということは、我々兵隊が戦場を去って、再び故国の土を踏み、軍服を脱ぎ、銃をおいて、社会人にかえることについてである。5:14

我々の聖戦は終わらず、我々は戦勝者として故国に凱旋するということではないけれども、最近、長期戦の精神に立脚して、戦力保持のために兵員の交替が行なわれるようになった。我々と共に召集を受けて戦場に来た兵隊の中、既にその一部は内地に帰還した。この後も、逐次そのことは行なわれるといわれる。私は生還を期しないけれども、幸いにして一命を全うして故国の土を踏める時がくるかも知れぬ。その時は無論私と共に多くの兵隊が帰還するであろう。そのことについて、私は考えていると、はらはらして、じっとして居れない気持ちになることがあるのである。

私は今すべてを率直に言いたいと思う。7:00

我々は招集を受けた当時には戦場というものを全く知らなかった。戦争とはどのようなものか、全く判らなかった。我々はただ愛する国のために命を棄て、戦いに勝たねばならぬということがわかっていただけだ。我々はいきなり凄絶な戦場の中になげこまれた。そこには我々が全く想像もしなかった言語に絶する苦難の道があった。我々は日夜弾丸を浴び、濘泥と山岳と黄塵の中をのたうち、食もなく、水もなく、家もなき生活の中に生きてきた。それらの戦場の生活を今ここで何で繰り返す必要があろう。それは兵隊自身が身を以って味わい、兵隊以外のいかなる人々にも決して理解することの出来ないものである。8:30

それらの譬えようなき苦難の中に、兵隊は日と共に鍛錬され、最初は兵隊の上を掩い兵隊を押しつぶしそうにみえた苦難を遂に克服し、最後には兵隊がその苦難の上を乗り越えた。兵隊は日に焦げ、筋骨はふくれ、見違えるばかりに逞しくなった。その立派さは驚くばかりである。つまりいかなる苦難にも堪え得る人間に成長したのである。

銃後の国民にもこのことはよく理解された。従来戦場の現実は平和な日常生活の中においては容易に理解することが出来ず、新聞報道や、簡単なる戦況ニュース、電報等によって、戦いはいかにも易々として行なわれている如き印象を残した。ニュース写真や映画すらも真に戦場の現実を国民に伝えることは出来なかった。それは、満州事変の当時、瞬く間に敵拠点を占領していく皇軍の迅速さに驚きはしたけれども、我々すら、いかにもその占領が容易に楽々と行なわれた如き印象を受けたのである。それは我々が自身で兵隊となって戦場に臨むに及んで、大なる誤りであったことを悟り、その兵隊の苦難の大いさに驚いたのである。11:30

盧溝橋事件から上海事変に至り、戦火が、南京、徐州、漢口と拡大し、広東、海南島、汕頭等に及ぶにいたる長い間の戦争と、国内事情の緊迫に伴い、国内にも戦争の大いさと戦場の苦難の現実が漸く反映し、銃後においては次第に戦地にある兵隊に対する感謝の念が高められてきた。これは当然のことながら、我々兵隊にとって喜ばしきことである。我々の苦労と犠牲とが無駄に終わらないということは一層我々を勇気づけるのである。ところが、問題はここにあるのである。我々と祖国の関係が、戦地と内地とに止まっている間は、この関係がいつまでも持続され、何等の問題も生じないであろう。然しながら、前記した如く、最近に至って内地帰還をした多くの兵隊があり、我々もまた何時の日にか、再び故国の土を踏むことを予想しうる状態が生ずるにいたり、同時に、私は最も懸念するひとつのことから感想を抜くことができなくなったのである。

私は兵隊が逞しくなり、見違えるばかり立派になったことを言った。それは全く驚くばかりの高さをもってそのようになった。然しながらまた兵隊は一面において、戦争からあまり喜ばしくない影響を受けているのである。生死を賭けるという土壇場などは、殆ど迎えることのない平和な内地の生活から、いきなり、毎日が生死の巷である凄惨な戦場の中に投げこまれて、弱い人間がどうして平時の神経と気持ちを持していることが出来よう。極端に言えば、我々兵隊は言語に絶する衝動を受けて、神経に異常を来たし、頭の調子が狂ってしまっていると称しても差し支えないのである。

そのような精神の打撃の下に、なお、我々兵隊は人間としての逞しい成長を遂げた。我々が内地の生活の中で苦しかったとか耐えられなかったとかいってきたどのような苦労も、戦場の苦難に比して、苦労の名に値しないということを知ったのである。兵隊がこのことを理解し、いかなる苦難をも乗り越え得る確信を得たことは人間としての最大の収穫である。 ところが、この収穫の影の如く、戦争の清冽な面貌に負けまいとする兵隊の反発が、一方においてはある粗暴の半面を現した。それは戦場ではまた必要でもあったのである。

17:20

然しながら、我々が戦場での使命を終わって、故国に帰るときには、我々の得たよいものばかりを持って帰らなければならないのである。私はよく考える。今戦地にある兵隊が一斉に内地に帰還したら、いったい国内はどうなるであろうか。社会的に、文化的に、いかなる変化が起こるであろうか、と。それはある希望であると共に、私には一種の胸の痛くなるような深憂ですらある。私はもとより一兵隊であり、一兵隊として戦場の兵隊と伍し、兵隊と暮らし、兵隊の気持ちを良く理解してきた。それ故に、私は限りなく兵隊を愛すると共に、また限りなく兵隊について杞憂する。それは全部の兵隊がそうなのではない。然し、戦場にあっては、兵隊の名を恥ずかしむる兵隊が若干はあるのである。

兵隊は平和の時代に一市井人であった者が、祖国の必要の前に軍隊に入った。市井にはさまざまの性格を持った人間が満ちている。それらの人間が集まって作られた軍隊が、直ちに人格的で模範的である筈がない。

美しい軍隊である筈がない。それらのさまざまの人間が集まって作られた集団が、祖国の大いさに目覚め、祖国の使命を理解し、軍規の下に整然と規律づけられ、戦場にあって弾丸の中に鍛錬されて、初めて立派なる美しい軍隊となったのである。このことは決して光輝ある日本の軍隊を誹謗することにはならない。寧ろ、それ故にこそ日本の軍隊が限りなく美しく、他国の軍隊に超絶しているのである。

戦場は祖国に課せられた大いなる試練であるとともに、一個人としての兵隊に与えられた絶好の鍛錬の道場である。今、長期の戦場の生活によって、あらゆる種類の人間が一様に逞しく立派になり、精神の昂揚に導かれた。我々はその精神を祖国への土産とし、それを有意義に生かし、ああ、兵隊が帰って来たばかりに、こんなにも国内が活気づき、日本が更に進展するの機運がひらけた、ありがたいことだ、と、いわれなければいけないのである。

私は、今、このことを語るのは、兵隊として實に苦痛に絶えず、涙の出る思いなのである。戦地にある時にも私はしばしば兵隊に注意したことがある。粗野で、乱暴であり、傲岸であることはいかなる場合でも宜しいことではない。兵隊には常に一つの共通な気持ちがある。それは、兵隊は生命を賭している、という自覚である。人間として最も尊いもの、大切なもの、平和の時にはあらゆる手段を講じて護り育ててきたもの、何ものよりも惜しいものをなげだしている。それは良い。しかしながら、生命を賭けているのだから、少々のことはしてもよいという気持ちがいけないのである。21:44

我々は祖国のために生命を投げ出している。それは国民として当然なさなければならないことをしているのであって、我々はそれによって、国に恩を着せるべきでは毛頭ないのである。またその気持ちをもって、誰にも強要し吹聴すべきではないのである。然しながら、このことは非常に難しいことだと思われる。それは私自身たびたび経験したことだからである。一時間、否、五分、一分先には我々はもはやこの世にいないかもしれない。そのような我々であってみれば、何もこの位のことはしても咎められることはないのではないか。その気持ちは我々から抜けない。私自身もその気持ちの起こるたびに驚き、これを抑えた。兵隊が皆その気持ちを抱いていたことは私には良くわかる。それは、然し、最も危険なことだと思われる。戦場にある間は幾分は良いかもしれない。然しながら、いくらか治安が回復し、我々が平和の生活に近づいたときに、そのことは最も危険至極と思われる。

我々の軍隊はたぐいもなく勇ましく強かった。然しながら。我々は今、非常に古風で卑俗な言葉であるけれども、強いばかりが武士ではない、という言葉について反省する必要がある。我々の軍隊が美しい軍隊であるということは、戦闘に強く、弾丸を恐れず、泥濘と山岳とをものともしないということをいうのではない。

また我々が一人で敵兵の十人を相手とし得るというのでない。そのような兵隊でありながら、常に人間として完成するための反省を忘れず、常に謙虚であるということを指していうのである。我々は今弾丸の中にある。戦場にある。何を考え、何を反省しても、死んでしまえばそれきりだ、と、我々はともすれば考え勝ちである。それはいけない。たとへ、一時間先に死のうとも、その一時間の間を、兵隊として、人間として、立派に生きる、ということが必要である。

その兵隊の精神によってのみ、我々の軍隊がたぐいもなく美しく軍隊となり、輝ける軍隊となることが出来るのだ。23:20

われわれ兵隊は今事変の真の意義を誰よりもよく理解していなければならない。そうすれば我々が銃をとって敵国の軍隊を徹底的に撃砕することは当然であっても、支那の民衆は全く我々の敵ではない、ということが、ただちにわかる筈である。私は鹿爪らしい顔をして、無辜の支那民衆を愛護せよ、などと云っているのではない。私は兵隊としての心の美しさについて語っているのである。私が何故このようなことを云わなければならないか。率直に言えば少しく戦火の収まった占領地域内において、残留している支那民衆に対して、幾分の不遜と思える態度を以って臨む兵隊を時々見るからである。飽くまでも戦勝者とし、征服者として、支那の民衆に対すべきでない。支那人に対してどんなに威張ってみたところで、兵隊の価値がちっとも上がるわけのものでもなく、その兵隊がえらく見えるものでもない。では、どのようなことが占領地内で見られるか。そんなことをいちいち例をあげることはない。24:50

我々兵隊の一人ひとりが、興亜の聖戦を身を以って完成する覚悟が必要である。それでこそ我々が筆舌に尽くし難い辛苦を、弾丸と泥濘と山岳の中で過ごしてきた甲斐があるというものだ。我々は今全く個人ではない。我々一人ひとりが、日本であり、歴史である、ということを自覚しよう。そして、そのことによって強く自負しよう。たとえば、外出日に少し酒を飲んで一寸支那人に乱暴をしたとする。すると、それは誰それがいけにということにはならない。酒の上だ、ではすまされない。日本の兵隊は乱暴だ、ということになる。たった一人の兵隊のやったことで、日本の軍隊がとやかく言われる。これを反対に、一人の兵隊が、支那の子供を可愛がり、何日も食べない子供に饅頭をかってやったとする。すると、日本の兵隊は親切だ、ということになる。我々兵隊の一人ひとりが、もはや単なる個人でなく、日本である、ということを常に忘れてはならない。我々は自分では何でもないと思う小さな行動によって、日本の名をよくもしたり、悪くもしたりするのだ。そのことを深く自覚してゆくことは、戦場で鍛錬された我々兵隊の精神に一層磨きをかけるだろう。29:30

私はもう少し云いたくないことを続ける。

占領地域内にはしばらくすると、支那人のさまざまの商売が始められると同時に、はるばる内地からやってきた人々が、兵隊のために店を開く。その中には戦争のどさくさに紛れこんで一儲けしようという不愉快なのも随分あるが、中には、戦地の兵隊を慰めるためにわざわざやって来る真面目な人も沢山ある。殺風景な戦地に、ぜんざい屋や、しるこ屋やうどん屋ができることは、我々にもなかなか嬉しいものである。そういう人達から内地の様子を聞くことも、長らく故国を離れている我々にはまた楽しい。そこで、そのような日本から来た人々の店には、日本の兵隊が殺到してたいへん賑わう。それはまことに和やかな風景である。ところが、この美しい団欒を時々無分別な兵隊が打ち壊す。内地から来た人々は何もいわない。私が訊ねると、はじめて、遠慮深げに、云ってはならぬことをいうように、兵隊さんには時々困ります。という。そのような我々兵隊の名を汚すような兵隊は、傲然たる態度で、俺たちはお前たちのために命をすてて戦ってやったのではないか、ぐづぐづ云うな、という。国から来た人はそれに対して何も言うことができない。兵隊がおさめて兵隊が連れ去らなければ、その場はおさまらない。これらのことが若干のよろしくない兵隊のために戦地で見られる。

私は、既に数ヶ月前に私の郷土に帰還した部隊の兵隊について、最も親しい友人から悲しむべき便りを受けている。それは具体的に例を示すまでもない。昔から、戦争から帰ったものは気が荒くなると一口に言われている。私には内地で既にどのような事件があったか判るような気がする。国内の人々は兵隊の苦労に対して心から感謝している。

だから、少し位のことには何にも云わないであろう。心の中ではその反対の気持ちを抱きながらでも、口に出しては、また、表に現しては、何も示さないであろう。だからといって、それは少々のことはしてよいということではない。34:40

戦場における兵隊の苦労に感謝する国民の気持ちをよいことにすることはいけない。兵隊がそのような気持ちを抱き、そのようなことを云ったとするならば、兵隊がいくら戦場に於いて死命を賭して弾丸の中を潜り、いくら勇敢であったとて、一切の功績が消滅してしまうのである。現在の国民の気持ちは、言うならば、一種の興奮であるかもしれない。殊に、熱し易い日本人の常として、必要以上に昂揚され緊張した空気は、必ず訂正され、冷却される時が来る。帰還の当時は非常に歓待を受け、ちやほやされるであろうが、決してよい気になってはいけない。すべてに兵隊は謙虚でありたい。人間は得意の時に最も注意すべきである。逆境にあるときには人間はなかなかへたばらず、そこを乗り切って前進するために極力努力をする。ところが、ひとたびそこを抜けて明るみに出た時には、ほっとしたように気が緩むものだ。まして、何かのために非常に成功をし、人からもてはやされ、下にもおかぬようにされる時には、人間は得てしていい気になり勝ちなものだ。我々兵隊が内地に帰還した当初は、あたかもそのような場合と等しいことであろう。その時にこそ、我々がもっとも警戒しなければならぬ時である。人間は得意の絶頂にあるときに、知らず知らずのうちに墓穴を掘るものだ。然しながら、それでは、ここで、えらい人達のように、たとえば言動をつつしめ、とか、大言壮語するな、とか、謙虚であれ、とか、そのような細目を一一列挙する必要はない。そのような一切のことは、ただ一つの心構えによって、ことごとく避けることが出来るからだ。39:00

我々は一つの自負を持って生きよう。しかもその自負に謙虚の衣をかぶせて、我々が日本の中心の力となることを心がけたい。我々は兵隊となり、人間としての最大の成長を遂げた。その一個の自己の成長が直ちに国家の成長となるようでなければならない。日本を生かすことでなければならない。戦場に於いて体得した素晴らしい精神力をもって、我々の新しい日本の貴重なる糧としなければならない。我々一人ひとりの兵隊が、既にもはや単なる一個人に止まるものではなく、自分一個が直ちに日本であり、歴史である、ということの根本的な意義がそこにある。我々の心構えひとつによって、日本がよくもなれば悪くもなる。歴史が美しくもなれば、穢れもする。

今度の戦争は確かに日本にとっては有史以来の大事変であった。それは確かに又、有史以来の苦痛でもあったであろう。然しながら、又、日本にとって有史以来の幸福であったともいえるのである。それは単に逆説でもなければ、思惟の遊戯でもない。それは、實に我々兵隊の決心がひとつによって、一つの幸福への方向として具現し得るものである。日本のこれからの動きが、かかって我等の肩の上にあるというも過言ではない。そのような信念と自負とをもって、我々が故国へ帰るということは、たのしいではないか。43:00

支那には色々珍しいものがある。翡翠や硯石や瑪瑙などもある。刺繍や軸物や絵画の類もある。それらのものも帰還に際してはよいお土産かもしれない。然しながら、故国の人々にとって真にありがたいお土産は、ただちには眼に見えないもの、たくましくなった兵隊の精神力であろう。帰ったら自分達の力で日本をよくしよう、という決心であろう。これこそ世にも類なき立派なる故国へのお土産の第一である。

日本がかって支那を知ることの少なかったことが今事変勃発の一原因であったといわれる。今我々何百万の兵隊が生命を挺して支那を知った。これはまた大いなる文化的収穫である。我々はそのことを生かさなければ何にもならない。 

戦場でのみ我々兵隊の任務は終わったのではない。戦争は平和の延長である。一見すさまじき破壊の面貌を呈するけれども、それは建設のための破壊である。平和な時代に我々が静かに過ごした内地の暮らしが、我々の日常生活であったように、戦地に於ける生活もまた我々の日常生活の延長である。我々はその生活の中で得た貴い体験と生命力の強靭さを、新しい生活の出発の中にいかさなくてはなんにもならない。いわば、また、戦地で鍛えられて来た我々は、兄貴でもある。兄貴が兄貴らしくなくては、弟たちを導いてゆくことは出来ない。我々の責任の大いさを思うべきである。47:00

日本はこれまでにも何度も大きな戦争をして来た。日清、日露の大戦を初め、青島攻略や、満州事変、上海事変、等と、一切ならず戦争の体験を経て来ている。然しながら、その規模の大いさに於いて、今回の事変に勝るものはない。随って、我々の覚悟に於いても、決してお座なりですませるべきでは絶対にない。

長い間の戦場生活の後に、久しぶりに故国へかえる。多くの戦友が倒れ、支那の土と化したにもかかわらず、我々は不思議にも命ながらえて、再び見ることもあるまいと思った故国の山河を眺め、再び踏むこともあるまいとあきらめていた故国の土を踏むことが出来る。

二度と会うことは出来まいと思っていた懐かしい両親や、妻子にも会うことが出来る。そのことは思っただけでも、胸のどきどきするような嬉しさである。然しながら、そのような嬉しさに有頂天になってはいけないのである。それは、我々の前述した如き覚悟もさることながら、われわれと行を倶にし、共に、弾丸の下を潜り、遂に不運にも我々に先立って大陸の土と化した戦友に対してもすまないのである。ああ、多くの戦友が遂に帰らなくなった。戦友は何のために倒れたか。戦死した我々の友人のことを思えば、我々がひとり内地帰還に有頂天になり、帰ってからでも、不謹慎な気持ちで、どうしていることが出来ようか。戦没した戦友の精神が我々の精神の上に重なっている。その精神が常に我々とともにある。我々は一層の覚悟が必要となる。そして、前述したごとく、ああ、兵隊が帰ってきたために、こんなにも日本が良くなった、町がよくなった、村がよくなった、と、言われなければいけないのである。

私は道徳的に云っているのではない。また思想的に云っているのでもない。そのことは、道徳以上であり、思想以上のものである。49:00

もはや、この上、くどく言う必要はない。否、これまでも少しくくどすぎたかも知れない。然しながら、兵隊である私がこのようなことを、僭越と知りつつ、云わずにはおれなかった気持ちを、我々と長い間生死を倶にして来た兵隊諸士は、よくわかってくれると信ずる。私は何も説教をしたつもりはない。これはまた私の自戒の言葉でもある。戦友諸君よ、我々はいつまでも立派な兵隊であったことに誇りを持ち、戦場で結ばれた親愛の情をもって、日本を生かし、いつまでも人から指をさされない立派な兵隊として生きようではないか。私は、涙が出てきて止まらない。或いは私は言わんでもよいようなことを云ったかも知れない。然し、私はこのようなことが一切、私の老婆心に止まり、戦友諸君から、何をくだらぬことを云っているのか、そんなこと位ちゃんと心構えとして抱いている、詰まらぬ心配をする男だ、と、一笑に附されることが望ましい。そうすれば、私は、いくら、生意気な奴だ、とか、馬鹿な奴だ、とか、言われても、私は嬉しいのである。

 

参考文献:「戦友に愬ふ」火野 葦平

2019/05/29に公開



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