GHQ焚書図書開封 第116回
-松岡 洋右の大演説の役割「大東亜戦争調査会」叢書13-
中ソ紛争の後に勃発した満州事変(1931.9.18)は世界に反響を呼び起こした。イギリスの傀儡であった国際連盟において、イギリスは、加盟国でないアメリカ、ロシアを利用して日本に不利な「リットン調査報告書」(1932.10.2)を作成した。その内容は、満州は支那の領土との前提に、日本の満州における権益は認めるが、満州政策は否認、満州事変は自衛手段とは認められないというものであった。
1933年の連盟総会報告書も、支那に満州を委ねるとか、場合によって国連の警察隊を派遣するとか、中国に大幅に譲歩する内容でまとめられた。
イギリスの外交の重点は、「第一に諸国をして日本を圧迫せしめること。第二にそれをして、日本に時にして利あらずとの考えを起こさせ、大譲歩を強要すること、第三にイギリスがとりなす体裁で、日本の脱退という破局を救おうとした」ことであった。
ナチス党の台頭に驚いた英仏は、ベルサイユ条約を金科玉条のごとく守らせんがため、日本に過酷な経済制裁を科すことにした。日本は、提案国アメリカが加盟していない国際連盟に、最初から加盟する必要がなかったのである。
1933年2月24日の軍縮会議で6,500万の日本国民の期待を裏切ったイギリス主導の国際連盟の提案(①日支両国の利益と両立すること②ソ連の利益を尊重せよ③現存条約と抵触しないこと④日支間に新条約を締結すること⑤将来における紛争に対する有効な処置を講ずること⑥満州における日本の利益を認めること⑦満州における自治を認めること⑧満州の日本の兵を撤退すること⑨日支間に新通商条約を締結すること⑩国連軍が満州を管理する)が42:1で可決された。なお、タイは棄権、アルゼンチン、ドミニカ、チリなど10数か国は採決に参加せず退席した。そして、松岡洋右による脱退宣言がなされることになる。
自らの主権を捨て、国際連盟管理下に安住することを望んだ支那の顔恵慶代表は英米の走狗となりはてた。
国際連盟脱退の2年前の1931年12月8日の国際連盟での松岡全権の名演説は1.5時間に亘り、満州における実情を切々と訴えた。演説後、会場に拍手が巻き起こった。英仏の代表が握手を求める場面もあった。これにより、一時的に日本に同情的な雰囲気が出来上がり、総会から19か国会議に付託され、脱退がペンデングになったが、時間とともに、これも薄れていった。
現代日本人に失われてしまっている「興亜の大業」(1941年刊行)に書かれた松岡洋祐の情熱あふれる主張〈檄文〉。(48:15~)
祖国日本の風光は實に明媚であり、気候は実に温和である。米は水晶の如く麗しく、野菜は新鮮潤沢に、河海の魚類は美味である。土地広からずといえども、人口の増殖を抑え、軍備を制限し、原始共産生活にでも帰ったならば、豊かにまた安楽に子孫を養うにはことかかない。否、トルストイの寓話の如く世界に率先して軍備を撤廃し、絶対無抵抗主義の楽園を築き上げて、この小さく美しい御伽噺の島だけを温順無害な善い子の褒美として分けて頂いて満足するならば、日本国民は現世ながらの極楽世界を享楽することができるであろう。
野に咲く花、空を飛ぶ鳥の幸福を以って満足し得るものはその虚しき平安を選ぶがよい。他人のお情けに縋って安逸を楽しむことの出来るものはそれに満足するが宜しい。小日本主義の道は、トルストイの寓話の様な縁遠い架空談杯を要しない。現に満州事変前の日本の歩んだ道は、それにやや近かったのであるが、日本皇国がバルカン諸邦以下の小国なり下り、大和民族が第四流民族に堕することを厭わないならば、それは明日からでも直ちに実現し得るのである。即ちベルサイユ平和会議に於いて、勝手に英米本位に築き上げられた世界地図を絶対的、最終的に、そして唯神意的に決定された万古不易なものとして承認し、九カ国条約を遵奉し、国家の勢力には消長があり、民族の生命には成長と老衰があるという事実を否定し、満州国は解消せしめ、支那全土からは撤兵し、そして、支那は英米諸国の共同管理なり、分割にまかせてしまい、三国同盟を離脱し、徳川時代の版図に朝鮮、台湾、南樺太を加えた地域に引っ込んでしまって、英米の頤使に甘んじ、そのお情けに縋って生きる道がすなわちそれである。もし、それを敢えてし得たならば、日本人は明日から平和愛好民族、人道主義の民族として、英米の絶賛を博することが出来るに違いない。
経済封鎖もまたたちどころになくなるであろう。米国の名家の出で優れた閨秀人類学者であるルスベネディクト夫人は、近著「人種」の中で「日本は西欧世界に対比を見ないような平和と非侵略の歴史をもっている。その記録的歴史の始まってからの最初十一世紀の間に日本は唯一対外戦争に携わったのみである。實にこの唯一の戦争は西暦1598年に終わり、それ以来1853年外部世界に対して交通の門戸を開くまではその独立政策の確保を目的とする幕府の命令によって外洋航海向けの船舶の建造が禁止されていたのである。日本人の儀礼の正しいこと、明朗快活なこと、美的鑑賞の高いこと等は、その民族素質の真髄として久しく認められた処である。
日本は、1853年以来5回の対外戦争に携わり、そして世界中における最も侵略的、好戦民族の一に立派になりつつある。云々」と謂っている。ルス・ベネディックトは冷静な学者として第三者の眼に映じた客観的事実を有する儘に記述しているのであって、少しも感情的なものを交わえてはいない。外国の者の眼から見れば実にそのとおりであろう、私はむきになってこれを否定しょうとの意思はない。また彼の支那贔負の女流作家パール・バック・・・告白した。・・・サクラと、ゲイシャ・ガールと、藁の家、紙の障子と、茶の湯、活花との日本である。鑑賞に適する日本であり、愛玩に値する日本人である。それは外から眺める者の眼にこそ、何時までも斯くてあらま欲しきロマンスであろうが。我々日本人は自らを矮小優雅、賞美すべき鉢植えの花弁たらしめる訳にはいかぬ。
アングロサクソンの為にあるのではない。かっての日本は彼らの後塵を拝し糟糠を嘗め、彼らに追随し精神的には彼らに隷属していたでもあろう。満州事変後の日本は全くその面目を改めた日本である。満州事変後の日本は彼自身を自覚し、彼自身の本質を取り戻した日本である。満州事変後の日本はアングロサクソンの従属者どころか、彼らをもってその代表とし、支配とする堕落せる西欧文化の山賊から世界人類を救済する・・・大和民族は・・・青年諸君・・・諸君・・・大陸へ大陸へと進まなければならぬ・・・
現代日本人は、当時の人々の 情熱のいっぺんをとりもどさなければならない。
参考文献:「英米の東亜攪乱」大東亜戦争調査会
2016/09/14 に公開
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます