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-「大東亜戦争調査会」叢書5-(GHQ焚書図書開封 第105回)

2018-03-29 00:03:30 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第105回
-「大東亜戦争調査会」 叢書5-

1894年 日清戦争(~95)
1898年 米西戦争
       ハワイ併合
       フィリピンが米領となる
1899年 ヘイ国務長官の門戸開放宣言
       ボア戦争
1900年 北清事変(義和団の乱)
1902年 日英同盟(第1次)
       1905年(第2次)
       1911年(第3次)
1904年 日露戦争(~1905)
1911年 辛亥革命
    
「米英の東亜制覇政策」第4章 米英は如何に対日策謀を逞しうしたか
 日清戦争が始まった時、英米は清が勝つであろうとみており、支那の歓心を買うような行動をとっていた。日本が勝利すると状況は一変し、イギリスはドイツ、フランス、ロシア、アメリカを誘って、清に朝鮮の独立を認めさせ、日本に賠償金を支払うように働きかけたが、日本はこれを拒絶した。
その後、日本に対して、アメリカとイギリスを除いたロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉が始まった。
 北清事変(義和団の乱)後、イギリスは日本の実力を知り、日英同盟を締結する。その背景にはイギリスにとって、インド、満州のイギリス領に南下してくるロシアの脅威に対し、ボア戦争のため対応ができなかったことや、台頭してきたアメリカによるイギリス利権への度重なる妨害を阻止するため、また日本に脅威を与え続ける傍若無人なロシアの動きを阻止するという日英双方の国益に役立つ条件が整っていたことがある。
この日英同盟も第二次改定の時期までが、有効に機能した黄金時代であったが、第3次改定以降はロシアの脅威もなくなり、アメリカに歩調を合わせるように対日感情が悪化していった。
 日露戦争は英米が日本を犠牲にしてロシアを打倒した代理戦争であった。つまり、日本は人の褌で相撲をとる英米の将棋の駒であった。 日露戦争後、アメリカと日本はハリマン鉄道借款問題などで利害が一致せず対立するようになった。
 米国海軍の父といわれたセオドラ。ルーズベルト大統領は、国際警察たらんと欲し、他国干渉を積極的に行った。わがまま勝手主義と化したモンロー主義。アメリカは門戸開放、機会均等、領土保全という誰も反対できない美名を並べ、支那の歓心を得つつ、人心収攬の文化工作で支那全体の侵略を企んでいた。
 日本は支那が欧州の軍事基地化することを恐れ、支那の政情不安を解消し、支那を強固な国に、朝鮮を独立させることを望んでいた。 ユダヤ金融資本とコミンテルンが裏でつながり実施されるアメリカの対支政策は、日本を悲劇の主人公にしてしまうことであった。
 英米仏独による4か国借款団、そして露、日を加えた6か国借款団は、鉄道を対象とした資本投下であり、それが日米の対立をより深めることとなった。
参考文献:「米英の東亜制覇政策」「米英の東亜攪乱」「米国の世界侵略」「大東亜の建設」「米英挑戦の真相」大東亜戦争調査会


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