【GHQ焚書図書 第137回】
-少年・水戸光圀の決意-
日本の近代史にとって欠かすことのできない思想である水戸学は、大きく前期と後期に分けられる。前期は水戸光圀の1600年代、後期は19世紀前半の第9代藩主徳川斉昭の時代に盛んであった。
「尊王攘夷」「大義名分」は水戸学で生まれた造語である。
水戸藩の 義公(水戸光圀)は叔父である尾張藩の敬公(徳川義直)から尊皇の精神を大事にする(天皇中心主義)の国史編纂の必要性について影響を受けた。敬公が儒臣堀杏庵に命じてつくられたのが『類聚日本紀』である。敬公の亡き後、 伯夷叔斉の忠君思想に共感した光圀は、尊王敬慕の立場から国史(大日本史)の編述を決意した。「革命思想」の孟子よりも、史記「伯夷伝」にある伯夷叔斉の「忠君思想」を支持する孔子が日本に受け入れられたのは、この頃からだと言われている。
「国体」「尊王攘夷」「大義名分」の観念は、戦前の日本にとって国民道徳の中核であった。
中山備前守の推挙により水戸藩の世嗣として家光により選ばれたことや、光圀の6歳、7歳、12歳の時の父威公(頼房)と義公(光圀)に関わる物語は講談調で面白い。
光圀は儒教を重んずる一方で、仏教を否定した。聖武天皇以来、天皇と関わりのあった仏教と神道の神仏一体信仰に楔を打ち込んだことが、後の明治初期の廃仏毀釈運動のはしりとなり、ゆがんだ国家神道崇拝へと進んでいったのである。
短期的に見ると、廃仏毀釈運動は、幕府とつながっていた仏教を否定することで尊皇攘夷運動には役立ったが、また、江戸時代に腐敗した僧侶を正す意義はあったが、長い目でみると信仰においてマイナス面もあったことは事実だった。日本の尊王信仰には、超越さをもった仏教と地上の神である神道の二つが必要なのである。
参考文献:「日本近世轉換期の偉人」高須芳次郎
関連動画:GHQ焚書図書開封 第42回-この父母にしてこの子あり 日本の躾-
2017/5/24公開
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