俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

失業者

2010-05-14 16:21:56 | Weblog
 先月の1日から失業者になった。勤務先が希望退職を募集したのでそれに応募した。
 それなりに蓄えもあり金銭的には不自由していないので、読書三昧の高等遊民の生活を夢見ていたが理想は叶っていない。社会から分離することで軽い鬱状態に陥ってしまった。
 もともと私は自分を社会の歯車にしようなどとは考えていない。如何にして自立するか、個人主義をどこまで貫けるかを信条とする。それでも組織から離れることによって気力が低下した。
 人間は同僚を必要とし、同僚の賞賛を求める動物であるということを改めて痛感した。
 私のような個人主義者でさえ社会との絆を失うことで気力を損なうのだから、「生きるとは社会に貢献すること」と無邪気に信じる「社会的人間」が失業した場合はどれほどショックを受けることだろうか。彼らにとっては仕事をすることを通じて社会に貢献するということこそ自分の存在理由なのだから。彼らが生きる意欲を失うのも無理は無い。
 4月以降の私のブログの記事は少なからず質が下がっているように思える。軽い鬱状態が災いしているようだ。いずれは克服できるとは思っている。
 自由は決して全面的に快適なものではない。自由を犠牲にしてでも連帯を求めようとするのは群居動物である人間の本能のせいかも知れない。

条件反射

2010-05-14 16:10:15 | Weblog
 条件反射と呼ばれている行為は動物にとっての因果の学習だ。パブロフの犬の話は余りに有名だ。
 鳩が何かの行為をしている時に餌を与えると、その行為と餌が与えられることに因果があると思い込んで、何度もその行為を繰り返すそうだ。
 犬の躾もそうだ。悪い行為には罰を、良い行為には褒美を与えることによって犬は躾られる。条件反射を利用している。
 実は人間もしばしば因果とは関係無く条件反射をしている。縁起を担ぐのもオマジナイやジンクスなども条件反射の一種だ。トラウマやPTSD(心的外傷後ストレス障害)も極端な形の条件反射だ。因果とは別のものだ。
 たまにエレベーターの「閉」のボタンを猛烈な早さで何度も押し続ける人がいる。これは無意味で有害な行為だ。多分、速射砲のように押せば早く閉まると思ってこんな無駄なことをしているのだろうが、何度も押せば早く閉まる訳ではないし、エレベーターの故障の原因になるだけだ。
 人間は猿より賢いのだから、因果を理解して、偶然と必然とを区別したいものだ。

 

人間の本能

2010-05-14 15:51:07 | Weblog
 人間の本能は大半が破壊されている。他の動物は本能に基づいて生きることができるが、人間の本能は壊れているのでその貧弱な本能に基づいて生きれば獣以下の動物になってしまう。そのため人間には教育が欠かせない。
 本能が壊れているということは必ずしも悪いことばかりではない。本能が壊れているからこそ自由があり得る。本能に縛られた動物には自由はあり得ない。蟻や蜂の利他的(集団主義的)行動は本能に基づいており、他の行動を選ぶことは不可能だ。これは全然倫理的な行為ではない。
 人間の本能は全く壊れているという訳ではない。しかし個人が自分を知覚することが困難であるように、人間が人間の本能に気付くことは非常に難しい。人間の本能は人間にとっては「当然のこと」と解釈される。それは気圧を感じないようなものだ。実際には約1kg/cm2という物凄い圧力が掛かっているにも関わらず通常知覚されることはない。頭の重さもムチ打ち症にならないと感じない。日本人の変なところは日本人には分かりにくいが、外国人は「オー・クレイジー」と呆れる。
 離人症という精神病に罹ると因果が分からなくなるそうだ。現実生活が映像のように感じられて、手に持っている物を落としても「落とした」ではなく「落ちた」としか感じられないらしい。
 因果を想定することは人間の本能と言えるが、こんな変な本能があるせいで多くの誤った考えも生まれる。「私がこんな目に会っているのは○○のせいだ」とか「自分が今ここで生きているのは何か理由がある筈だ」等々。