もし知人が目の前で瀕死の状態になったなら、人はどうするだろうか。誰でも救急車を呼ぶだろう。救急車を待つ間、自分に可能な救急策として人工呼吸や心臓マッサージなどを行うだろう。
これはたとえ医師であろうと同じだ。医療設備の全く整っていない自宅で蘇生を図ることはあり得ない。一刻も早く病院へ運ぶことを考えるだろう。
俳優の押尾学被告に充分な医療知識があったとは到底考えられない。従って彼にできる最善かつ唯一の選択肢は救急車を呼ぶことだった筈だ。救急車を呼ばなかったのは己の身を守るためであり、被害者はそのために見殺しにされた。
ドストエフスキーの「悪霊」に「スタヴローギンの告白」という恐ろしい章がある。少女が自殺することを予見しながら、それを防ぐために何もしなかったことを悔い、自らを殺人者として断罪しようとする話だ。
見殺しが殺人と同じだというテーマは他の作品でも取り上げられている。「カラマーゾフの兄弟」のイワンや、初期の作品の「主婦」などで見受けられる。
ドストエフスキー自身が、父が殺されるかも知れないということを予感しながらも何も手を打たなかったことに対して激しく悔やんでいたから何度もこのテーマを取り上げたのだと思う。
見殺しは自ら手を下さない殺人でありその罪は重い。
これはたとえ医師であろうと同じだ。医療設備の全く整っていない自宅で蘇生を図ることはあり得ない。一刻も早く病院へ運ぶことを考えるだろう。
俳優の押尾学被告に充分な医療知識があったとは到底考えられない。従って彼にできる最善かつ唯一の選択肢は救急車を呼ぶことだった筈だ。救急車を呼ばなかったのは己の身を守るためであり、被害者はそのために見殺しにされた。
ドストエフスキーの「悪霊」に「スタヴローギンの告白」という恐ろしい章がある。少女が自殺することを予見しながら、それを防ぐために何もしなかったことを悔い、自らを殺人者として断罪しようとする話だ。
見殺しが殺人と同じだというテーマは他の作品でも取り上げられている。「カラマーゾフの兄弟」のイワンや、初期の作品の「主婦」などで見受けられる。
ドストエフスキー自身が、父が殺されるかも知れないということを予感しながらも何も手を打たなかったことに対して激しく悔やんでいたから何度もこのテーマを取り上げたのだと思う。
見殺しは自ら手を下さない殺人でありその罪は重い。