俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

鶏口牛後

2010-09-17 15:23:44 | Weblog
 「鶏口となるも牛後となるなかれ」という考え方は間違っていると思う。
 もし高校や大学の受験でそんな考えに基づいて楽に合格できる学校を選んだら、きっと並の鶏にしかなれないだろう。本来、上級の学校に行く能力がありながら、事故や病気などのために運悪く不合格になり滑り止めの学校へ通うことを余儀なくされた人もいるだろう。そんな人のハングリーさと、学校を舐めている人とでは勝負にならない。
 良かれ悪しかれ、人は周囲の影響を受ける。自分が今置かれている環境の中でのベストポジションを探してしまう。つまり低レベルの中ならその中で自分を位置付ける。鶏の中での並とは牛の中での最低レベルでしかない。
 切磋琢磨する状態が人を成長させる。自分よりも優れた仲間が周囲にウヨウヨいれば自分を磨かざるを得ない。油断をすれば益々遅れてしまう。
 一方、最も成長しないのは低レベルの社会に身を置いて安住することだ。今の自分に満足してしまえば向上心が失われる。
 人間は基本的には怠け者だ。安逸を好む。微温湯に浸ってのんびりすることが大好きだ。
 安逸を免れるためには自分を追い込むことが必要だ。追い込まれた人間は火事場のクソ力を発揮する。追い込まれない人間は井の中の蛙となる。
 仲間の中で平均の少し下の人が最も成長して、平均の少し上の人が最も伸びないのではないだろうか。

一夫多妻制

2010-09-17 15:08:10 | Weblog
 一夫多妻制はハーレムや大奥などを連想するために男の楽園だと思われ勝ちだが、実は多くのオスにとっては悲惨な社会だ。大半のオスは交尾する機会さえ与えられずに一生を終えることになる。
 一夫多妻制の動物としてゴリラ、ゾウアザラシ、孔雀などが挙げられるが、一夫多妻制となるのはオスがメスを独占しようとするからではなく、メスが極端に選り好みをするという事情から生まれる。
 ゴリラやゾウアザラシのメスは大きくて強いオスを好み、孔雀のメスは尾羽の立派なオスを求めて、貧相なオスには見向きもしない。その結果として多数のメスと交尾をして多くの子孫を残すオスと、全く交尾できない大多数のオスという極端な格差社会となる。
 メスが選り好みをすることによって進化は促進される。ゴリラやゾウアザラシなどのオスは巨大化し、孔雀のオスは不自然なまでに美しくなった。
 もし生存競争に有利なオスをメスが選り好みするならそれは種族の繁栄に繋がり得るが、孔雀のように明らかに生存競争上で不利な個体に対する選り好みなら絶滅へと向かうだろう。
 危険なのは価値における一元論だ。強いとか美しいとかいった1つの価値に基づいた優劣判断は種族の奇形化を招く。
 人類の場合、幸いなことに多元論だ。強い、美しい以外に、賢い、優しい、面白いなどの多様な価値評価に基づいてメスはオスを選ぶ。価値の多様性がある限り人類の多様性は維持され得るだろう。

教義

2010-09-17 14:54:11 | Weblog
フランスでは14日にブルカ禁止法が成立した。文化の多様性を重視する人の多くはこの法律に対して批判的だ。
 私は多価値・多文化・多元論者のつもりだが、この法律には肯定的だ。その理由は、個人の識別を困難にするような衣装は規制されるべきだと考えるからだ。
 個人が識別できなくなれば指名手配犯人でさえ自由な社会生活が可能になる。顔が分からなくなることが許されれば指名手配が無意味になるだけではなく、コンビニ強盗などの犯罪を誘発することにもなりかねない。
 社会は宗教に寛大過ぎる。反社会的な教義に対しては断固たる態度で臨むべきだ。信仰の自由よりも公序良俗が優先されて然るべきだろう。
 これは私が宗教嫌いだから主張する訳ではない。もしある宗教団体が「性器丸出し」を教義としたら社会はどう対応するだろう。信仰の自由として認められるべきだろうか。
 もし公序良俗よりも信仰の自由が優先されるなら、性器丸出しは認められるべきだろう。たとえ教祖1人だけの超ミニ宗教であろうと認められるべきだろう。つまり主義・主張ではなく宗教という体裁さえ整えば何でも認められるという無茶苦茶な理屈が罷り通っている。
 イスラム教が世界3大宗教の1つであろうと特権を与えるべきではない。反社会的な教義は規制されるべきだ。