俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

無法自転車

2010-12-24 15:47:04 | Weblog
 一時ハイブリッドカーが静か過ぎて危険だと騒がれたがこれは大した問題ではない。自動車は車道を走っているからだ。歩行者が車道に飛び出さない限り事故には繋がらない。
 危険なのは自転車だ。自転車は音も無く歩道を走る車両だ。しかも運転者が道路交通法を守らない。いや元々法律を知らないのだから守れる筈が無い。
 警察庁の調べによると2009年の自転車による歩行者に対する傷害事件は2,934件とのことだが、実際はこの10倍以上発生しているだろう。自転車が倒れなければ当て逃げをしているからだ。
 歩行者が正面から来た歩行者や自転車を避けようとして横に動いた時に後ろから来た自転車が追突するという事故が多分最も多いだろう。歩行者が時速5kmで自転車が時速15kmなら避けられない。しかし自転車が時速6kmなら事故にはならない。すぐに止まれるし仮にぶつかっても軽い接触程度で済む。
 そもそも歩道の自転車は徐行しなければならない。また歩道の優先権は歩行者にあるのだからベルを鳴らして「邪魔だ、どけ」と主張することも違法だ。これはマナーの問題ではない、ルール(法律)だ。違法行為が放置されているということは法治国家としてあるまじき状況だ。
 少なくとも小中学生には自転車関連法規を学ばせる必要があり、高校生までは学校が自転車運転免許証を発行すべきではないだろうか。無法自転車が交通事故を起こす可能性はかなり高い。薬物やいじめが放任されてはならないのと同様に、生徒が加害者になる恐れのある違法行為を学校として放置すべきではない。

冤罪

2010-12-24 15:31:32 | Weblog
 「疑わしきは罰せず」が裁判の大原則だ。冤罪は大原則に背く。
 仮に真犯人を無罪にしてしまっても罪は1つだけだ。しかし冤罪は同時に2つの罪を犯すことになる。無実の人を罰する罪と真犯人を放置する罪だ。冤罪によって捜査が打ち切られれば本来罰されるべき真犯人が捕まらないということになってしまう。
 なぜ冤罪が無くならないのか。司法の目的が治安の維持だからだ。司法の目的が類似した犯罪に対する抑止効果ならば誰かが罰されさえすれば目的は99%達成されたと言える。罰されるのが真犯人であろうと冤罪であろうと治安維持のためにはどうでも良い。「悪い奴が裁かれた」というメッセージを国民に発信できさえすればそれで充分だ。「正義の実現」は二の次だ。
 被害者の遺族の反応も奇妙だ。被告が無罪になると一様に不満を表明する。誰かを犯人にしたくて仕方が無いようだ。
 刑事裁判の目的は3つあると思う。①犯罪の抑止②復讐の代行③正義の実現、だ。しかし①と②ばかりが重視されて③は軽視されているように思える。
 これではまるで人身御供のようなものだ。野蛮人が誰かを犠牲に供することによって問題を解決できると思うように、犯人をでっち上げることで事件が解決したと思い誤っている。人身御供にされるほうは堪ったものではない。
 1人の冤罪を防ぐためにはたとえ100人の真犯人を無罪放免しても構わないとさえ私は思っている。

分散

2010-12-24 15:13:58 | Weblog
 水を1度に1ℓ飲むよりも200ccずつ5回に分けて飲んだほうが良かろう。週に1回だけ7km走るよりも毎日1kmずつ走ったほうが健康には良いだろう。2日間徹夜したあと24時間眠るような生活をしたら体を壊すから毎日8時間ずつ眠ったほうが良い。たとえ絶対量が同じでもバイキングで食い溜めをするよりは1食ごとに適量のバランスの良い食事をしたほうが良かろう。
 機械と生物はこの辺が根本的に違っている。自動車なら1度満タンにすればしばらくは給油する必要は無いが、生物にはこんな算数は通用しない。分散して補給しなければならない。機械の仕組みに慣れてしまうと生物の特性を忘れてしまい勝ちだ。
 ビジネスも機械に近い。「選択と集中」という戦略はビジネス上では有効な戦略だが人間には適用できない。毎日納豆ばかり食べていれば栄養失調になる。教師が1人だけをエコ贔屓すれば生徒全員が駄目になってしまうだろう。あるいは理数科の得意な人が理科系の本ばかり読んでいたら常識を欠いた人になるだろう。
 商業社会においては得意なことを伸ばすことが奨励される。特技を持っていれば「役に立つ人」と評価される。
 しかし無理やり社会に自分を合わせる必要は無い。社会に合わせた偏った人間であるよりも能力を分散した多才な人間であることのほうが人間らしい姿だろう。下手の横好きであろうと構わない。社会による相対評価で評価される人間であるよりも、自分による絶対評価で高く評価できる自分でありたいものだ。