俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

第一の性格

2010-12-28 16:57:09 | Weblog
 人間は本来、我儘な動物だろう。しかし社会生活を営むためには我儘を抑えて協調を図らねばならない。こうして羊のように従順な、仕来たりに従う第二の性格が育成されて社会人となる。
 この第二の性格を全面的に否定する気は無い。人間は社会内でしか生きられないのだから社会性を失うことはできない。社会性を否定して勝手気ままに生きたい人は人里を離れて山奥で獣のような生活をするしか無い。
 しかし抑圧されて貧弱になった第一の性格を放置したままで良いのだろうか。去勢された牛のような貧相な姿は人間本来のものとは思えない。人間はもっと雄雄しくて自由な動物だろう。
 これは「あれかこれか」の問いではない、「あれもこれも」の問いだ。
 命令されなければ動けない人は第一の性格が枯渇した人だろう。社会にとって価値があることを自分にとっても価値があると思う人は我欲を見失った人だろう。自分のための価値が元々はあった筈だ。それが見失われている。
 「何をしたら良いのか」という問いは「私は何をしたいのか?」という問いに置き換えられるべきだろう。社会適応者として切り捨てていた不適応部分こそ第一の性格の残滓だ。これまで抑圧されていた欲望にこそ根源的な生命力があるのではないだろうか。
 自由人は我欲の棚卸しから再スタートをするべきだろう。たとえ反社会的な欲望であろうとヴァーチャル空間でなら実現することが可能な時代になっている。抑圧を克服することこそ自己実現への唯一の道だ。

平均点

2010-12-28 16:44:00 | Weblog
 平均点以上が過半数であって、同時に平均点以下もまた過半数であるということが起こり得る。「以上」は平均点を含むからだ。
 平均点が5点のテストがあったとする。得点が正規分布するなら5点が4割ほどで、4点以下も6点以上も3割ほどを占めるだろう。この場合、平均点以上も平均点以下も7割になる。
 もし平均点を5.1点というように厳密に算出すればこんな矛盾は生じない。5.1点の人は1人もいないからだ。但しこの場合は別の矛盾が生じる。平均点に最も近く最多数でもある5点の人全員が平均点以下に算入されるので平均点以下が7割で平均点以上が3割ということになってしまう。
 「中流」という言葉も同じような矛盾を抱えている。中流の範囲を広く取れば中流以上も中流以下も過半数になるし、中流を狭く取れば上流と下流に分裂した「格差社会」になってしまう。「一億総中流社会」が突然「格差社会」に変わった訳ではない。データ処理のマジックに過ぎない。
 統計数字に基づいていかにも正しそうに思えることでも疑ってみる必要がある。統計数字がどれほど簡単に操作できるかはこのテストの例を見れば明らかだろう。同じデータを使っても解釈次第で「平均点以下が7割」とも「平均点以上が7割」とも主張することができる。

相対価値

2010-12-28 16:25:24 | Weblog
 周囲による評価は相対価値に過ぎない。
 例えば100mを11秒で走れる人は俊足として持て囃されるだろう。しかし10秒で走れる人が大勢いれば大した価値ではなくなる。町一番の秀才であろうと全国レベルでは大した才能ではなかろうし、クラスで1番の美女も芸能人にはなれないだろう。
 駿台予備校の公開模試の数学で全国8位になったことがある。これを知った同級生から「数学が得意なら文学部ではなく経済学部を選ぶべきだ」と言われた時には唖然とした。なぜ数学が多少得意なだけで理系や経済学部を選ばねばならないのだろうか。数学が得意であるということは私の属性の一部に過ぎず本質とは全く関わりが無い。
 私は関西人としては寒さに強いほうだ。だからと言って登山家や越冬隊員やロシア駐在員にならなければならないだろうか。私よりも寒さに強い人は東北地方になら沢山いるだろう。
 このように周囲による評価は相対的だ。こんな相対価値に振り回されて、たまたま周囲の人よりも多少優っていることを自分の個性だと思うことは馬鹿馬鹿しい。そんな個性は「道具性」でしかない。つまり周囲の人にとっての利用価値に過ぎない。
 本当の個性は内発的なものだ。私は今2kmを50分ほどで泳いでいる。地方大会にも出られない程度の素人水泳だ。それでも何とか上達して40分位で泳ぎたいと思っている。これは他者との比較ではない。現在の自分からの向上だ。他者とは関係無く自分の意志で目指すものが絶対価値だと言える。
 他者との比較に基づく相対価値よりも自分の欲求に基づく絶対価値を重視すべきだ。