俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

シシャモ

2012-09-07 14:43:59 | Weblog
 国産の魚は信用できない。先日、八戸市沖で獲れたマダラから100gあたり133ベクレルの放射性セシウムが検出されたように、突然基準値を超す個体が現れるからしばしば市場に出回る。
 天然の魚は自由に動く。野菜・果物や家畜や養殖魚なら産地は明確だが、天然の魚は捕獲地と棲息地は必ずしも一致しない。福島県沖に棲んでいた魚が青森県沖で捕獲されても不思議ではない。
 あるいは千葉県の漁船が、漁獲されていないので魚量が増えている福島県寄りの海域で漁をして千葉の漁港で水揚げするということもあり得よう。
 過度に怖がるべきではないが、好き好んで放射能汚染魚を食べようとは思わない。
 こんな状況だから最も安全な魚はシシャモなどの輸入魚だろう。市販されているシシャモは実はカペリン=カラフトシシャモであり輸入魚だ。安全でしかも値段も安いのだから理想的な食材だ。100%確実に輸入魚だから安全だとは情けない話だ。

ニヒリスト

2012-09-07 14:32:34 | Weblog
 正直な話、私はニヒリストだ。生きがいを否定し、目的論的な生き方を馬鹿にする。小市民的な幸福には反吐が出そうだ。他人のためになど生きたくない、ただ自分が納得できる生き方を選びたい。
 では社会に逆らうか。逆らわない。社会の仕組みに従う。これは右側通行のルールの元で真ん中や左側を敢えて歩こうとしないようなものだ。ルールやマナーに背けば自分も相手も不快になる。わざわざお互いに不快になるようなことを選ぼうとは思わない。私の感性はまともだ。他人を不快にすれば自分も不快になる。他人を苦しめて喜ぶ変態とは違う。
 私は外見上では極めて常識的であり礼儀正しい。待ち合わせに遅れたことは皆無だ。内面では反常識だがそんなものを常時露出して波風を立てる必要は無い。それは性行為の時以外は性器を露出しないのと同じようなことであり、社会で快適に生きるために積極的にルールに従う。ルールに従うことは何ら私の個性を毀損しない。肉体を地上に留めたままで魂だけを天上に置くことは可能だ。
 

障害と刑罰

2012-09-07 14:21:45 | Weblog
 精神障害者は心神喪失や心神耗弱と同様に罪を減免されるべきだろうか。精神障害者は精神病患者とは違う。精神病患者は狂った状態だが精神障害者は劣った状態だ。精神医療における「障害」は一般医療とは全然違った意味で使われている。(8月28日付け「病気と障害」参照)
 もし心理学者が凶悪犯罪者や暴力団員を診断すればほぼ全員が人格障害や発達障害などと判定されるだろう。もし精神障害者が免責されるなら暴力団員は何をしても許されることになる。刑罰で考慮されるべきなのは精神病であり精神障害は考慮の対象外だ。
 盲人が他人を殴った場合、どう判定されるだろう。相手を捕まえて殴ったなら故意であり傷害罪に該当するだろう。しかし離れた位置なら、殴ったのではなく当たったと判定されるべきだろう。近視の人にはこんな基準は適用されない。殴ったという事実に基づいて裁かれる。
 精神障害者を甘やかすことは近視の人を甘やかすようなものだ。精神障害者は本来の意味での「障害者」ではない。