危険と安全は対立する概念ではない。危険の特殊な状態、つまり危険がごく少ない状態が安全と評価される。私はソフィストのように言葉を弄ぼうとは思わない。しかしこう考えなければ安全という意味が理解できないからだ。
強度という尺度はあるが弱度という尺度は無い。物の強さ・弱さはそれが何㎏の力に耐えられるかによって評価される。強度の乏しいものが「弱い」と評価される訳であって、弱度の高いものが弱いという訳ではない。だから弱度という尺度は無い。
有害についても同じことが言える。害が全く無いものが無害と評価される。しかしこの世に無害なものなどある筈が無い。酸素は細胞を酸化させる危険物であり、水を大量に飲めば水中毒を患う。有害と無害の間に「低害」という言葉があっても良いと思うのだがそんな日本語は無い。実際には有害性の多寡のよって極めて有害なものからほぼ無害なものまでのグラデーションが存在する。「有益」は全く違った概念であり有害の対立概念ではない。だから有害かつ有益なものは無数に存在する。
安全は危険性が少ないことを意味する。つまり安全も独立した概念ではなく「危険」に依存する概念だ。だから絶対に安全であることはあり得ず、常に相対的に危険が少ないことを意味する。安全とは元々そんな意味だから安全と危険の線引きが困難なのは当然だ。
安全性はリスクとして評価され勝ちだ。リスクとは〔結果の重大性〕×〔可能性〕として算出できる。例えば原発事故のように結果が重大なことであればたとえその可能性は低くてもリスクは高くなるし、痒い所を掻けばかなり高い確率で傷を付けるが大半は低リスクとして容認される。しかし安全性の本質とは単に危険性が高いかどうかであり、無暗に安全を求めることは無いものねだりになる。「安全」という尺度は無く、「99%安全」とは「1%危険」の裏返しに過ぎず、危険性を全く欠いた安全はあり得ない。
強度という尺度はあるが弱度という尺度は無い。物の強さ・弱さはそれが何㎏の力に耐えられるかによって評価される。強度の乏しいものが「弱い」と評価される訳であって、弱度の高いものが弱いという訳ではない。だから弱度という尺度は無い。
有害についても同じことが言える。害が全く無いものが無害と評価される。しかしこの世に無害なものなどある筈が無い。酸素は細胞を酸化させる危険物であり、水を大量に飲めば水中毒を患う。有害と無害の間に「低害」という言葉があっても良いと思うのだがそんな日本語は無い。実際には有害性の多寡のよって極めて有害なものからほぼ無害なものまでのグラデーションが存在する。「有益」は全く違った概念であり有害の対立概念ではない。だから有害かつ有益なものは無数に存在する。
安全は危険性が少ないことを意味する。つまり安全も独立した概念ではなく「危険」に依存する概念だ。だから絶対に安全であることはあり得ず、常に相対的に危険が少ないことを意味する。安全とは元々そんな意味だから安全と危険の線引きが困難なのは当然だ。
安全性はリスクとして評価され勝ちだ。リスクとは〔結果の重大性〕×〔可能性〕として算出できる。例えば原発事故のように結果が重大なことであればたとえその可能性は低くてもリスクは高くなるし、痒い所を掻けばかなり高い確率で傷を付けるが大半は低リスクとして容認される。しかし安全性の本質とは単に危険性が高いかどうかであり、無暗に安全を求めることは無いものねだりになる。「安全」という尺度は無く、「99%安全」とは「1%危険」の裏返しに過ぎず、危険性を全く欠いた安全はあり得ない。