自覚症状の無い病気もあるが、治療は基本的には様々な不快感の除去を意味する。たとえ根本原因を解決できなくても、不快感の除去さえできれば治療効果があったと判定できる。
しかし除去することと感じなくさせることは全く違う。患者の主観においては同じであってもその意味は全く異なる。困ったことに大半の患者や医師がこの2つを混同している。
血の付いた刃物を持った男が目の前に現れた場合、逃げるか武器を持つかを選ぶべきだろう。目を覆っても危機は去らない。
赤信号に会えば止まらねばならない。目を閉じれば主観的には赤信号は存在しなくなるが交差する車は青信号に従う。主観世界に浸れば事故死の確率は極めて高くなる。
迷彩服を着た兵士が藪に潜めば姿は殆んど見えなくなるが彼は確実にそこにいる。
足を傷めた短距離走者が痛み止めを使えばそのレース中、痛みを忘れて走れる。しかし痛み止めの効果が切れれば激痛に苦しめられるし傷を悪化させて再起不能になるかも知れない。
扱き使われて疲労困憊した人を最も元気にできる薬は覚醒剤だろう。しかしこの元気は贋物であり、仮に覚醒剤に中毒性が無くてもこんな薬に頼るべきではない。覚醒剤は特別なエネルギー源として働く訳ではなく脳が狂って疲労を感じなくなっているだけだ。
痛みを感じるのは痛覚だが脳が狂って痛覚との連結を失ってしまえば痛くなくなる。痛みは解消された訳ではなく知覚できなくなっただけだ。
医師は様々な鎮痛剤を処方する。しかしその殆んどが傷みを治す薬ではなく痛みを感じなくさせる薬だ。治療効果は全く無い。
単なる鎮痛剤が役に立つのは手術や検査の時だけだろう。痛みを感じなくさせている間に本来なら痛みを伴う筈の作業を終える。麻酔薬が使われるようになるまでの外科手術は地獄の苦しみだったそうだ。
後のことを考えなければ鎮痛剤も抗鬱剤も覚醒剤も同程度に有効だろう。未来を無視するならこんなその場凌ぎに頼っても良かろう。しかしその場凌ぎで誤魔化している間も病気は悪化し続ける。医師も患者も鎮痛剤で誤魔化すことを治療だと思い込んでいるが、これは治療ではなく一時的な麻痺に過ぎない。感じなくなっても存在するだけではなく悪化し続けている。
しかし除去することと感じなくさせることは全く違う。患者の主観においては同じであってもその意味は全く異なる。困ったことに大半の患者や医師がこの2つを混同している。
血の付いた刃物を持った男が目の前に現れた場合、逃げるか武器を持つかを選ぶべきだろう。目を覆っても危機は去らない。
赤信号に会えば止まらねばならない。目を閉じれば主観的には赤信号は存在しなくなるが交差する車は青信号に従う。主観世界に浸れば事故死の確率は極めて高くなる。
迷彩服を着た兵士が藪に潜めば姿は殆んど見えなくなるが彼は確実にそこにいる。
足を傷めた短距離走者が痛み止めを使えばそのレース中、痛みを忘れて走れる。しかし痛み止めの効果が切れれば激痛に苦しめられるし傷を悪化させて再起不能になるかも知れない。
扱き使われて疲労困憊した人を最も元気にできる薬は覚醒剤だろう。しかしこの元気は贋物であり、仮に覚醒剤に中毒性が無くてもこんな薬に頼るべきではない。覚醒剤は特別なエネルギー源として働く訳ではなく脳が狂って疲労を感じなくなっているだけだ。
痛みを感じるのは痛覚だが脳が狂って痛覚との連結を失ってしまえば痛くなくなる。痛みは解消された訳ではなく知覚できなくなっただけだ。
医師は様々な鎮痛剤を処方する。しかしその殆んどが傷みを治す薬ではなく痛みを感じなくさせる薬だ。治療効果は全く無い。
単なる鎮痛剤が役に立つのは手術や検査の時だけだろう。痛みを感じなくさせている間に本来なら痛みを伴う筈の作業を終える。麻酔薬が使われるようになるまでの外科手術は地獄の苦しみだったそうだ。
後のことを考えなければ鎮痛剤も抗鬱剤も覚醒剤も同程度に有効だろう。未来を無視するならこんなその場凌ぎに頼っても良かろう。しかしその場凌ぎで誤魔化している間も病気は悪化し続ける。医師も患者も鎮痛剤で誤魔化すことを治療だと思い込んでいるが、これは治療ではなく一時的な麻痺に過ぎない。感じなくなっても存在するだけではなく悪化し続けている。