近現代中国の最大の功労者は、毛沢東の死後、闇将軍として君臨した鄧小平だと思う。彼による改革開放政策が無ければ現代の世界地図は全然違ったものになっていただろう。
彼の最も重要な思想は先富論だ。これは、豊かになれる人が先に豊かになれば良いという考え方であり、この思想は個人の自由を認めている。それまでの中国に人民の自由は無かった。人民は共産党の指示に服従させられていた。だから中央が誤った指示を出せばそのとおりに順守され多くの農民が餓死することさえあった。
先富論は他人と違った行動の選択を認める。多くの選択肢の中から個人が選択をする。選択することが権利として認められればそれが招く結果に対する責任は自分に帰属する。こうして権利と義務が承認された。
共産主義は全体主義でありエリート主義だ。一部でしかない権力者だけが決定権を持つ。個人の自由が入り込む余地は無い。ところが鄧小平は社会主義市場経済として市場原理を公認した。
普通に考えればこんな思想はあり得ない。社会主義はトップダウンであり市場経済はボトムアップだ。しかしこれは本当に矛盾なのだろうか。トップダウンとボトムアップは対立概念ではなく相補完すべき関係なのではないだろうか。そもそも自由主義が資本主義とセットにされていることこそ奇妙だ。金銭による支配こそ自由主義と相容れない。
理論は単純なほど分かり易い。しかし分かり易さは正しさを意味しない。人体が交感神経と副交感神経のバランスによって成り立っているように対立する理念のバランスによって成立する社会のほうが現実的かつ機能的なのではないだろうか。
私は現在の中国は大嫌いだが、社会主義と市場経済の対立と補完による社会の発展という考え方は非常に興味深いと思う。
社会は矛盾を内包することによって発展する。競争と協調、先富と平等、格差と再分配、保守と革新、これらはどちらか一方が選ばれるのではなく両者が対立と補完をすることによってダイナミックに社会を動かす。弁証法的発展の中でどちらかが淘汰されるのではなく両者が洗練されるべきだろう。AかBかではなくAもBもでありどちらも発展的に解消されることなくより洗練されたものへと進化すべきだろう。
中国は社会主義と市場原理の両方を受け入れた。そこまでは正しい。更に一歩進んで、社会主義と個人主義、共産党とブルジョア政党の対立と補完まで受け入れるべきなのではないだろうか。「正反合」の関係は「合」へと止揚するよりも正と反が対立と補完をする状態のまで維持したほうが好ましいとさえ思える。
彼の最も重要な思想は先富論だ。これは、豊かになれる人が先に豊かになれば良いという考え方であり、この思想は個人の自由を認めている。それまでの中国に人民の自由は無かった。人民は共産党の指示に服従させられていた。だから中央が誤った指示を出せばそのとおりに順守され多くの農民が餓死することさえあった。
先富論は他人と違った行動の選択を認める。多くの選択肢の中から個人が選択をする。選択することが権利として認められればそれが招く結果に対する責任は自分に帰属する。こうして権利と義務が承認された。
共産主義は全体主義でありエリート主義だ。一部でしかない権力者だけが決定権を持つ。個人の自由が入り込む余地は無い。ところが鄧小平は社会主義市場経済として市場原理を公認した。
普通に考えればこんな思想はあり得ない。社会主義はトップダウンであり市場経済はボトムアップだ。しかしこれは本当に矛盾なのだろうか。トップダウンとボトムアップは対立概念ではなく相補完すべき関係なのではないだろうか。そもそも自由主義が資本主義とセットにされていることこそ奇妙だ。金銭による支配こそ自由主義と相容れない。
理論は単純なほど分かり易い。しかし分かり易さは正しさを意味しない。人体が交感神経と副交感神経のバランスによって成り立っているように対立する理念のバランスによって成立する社会のほうが現実的かつ機能的なのではないだろうか。
私は現在の中国は大嫌いだが、社会主義と市場経済の対立と補完による社会の発展という考え方は非常に興味深いと思う。
社会は矛盾を内包することによって発展する。競争と協調、先富と平等、格差と再分配、保守と革新、これらはどちらか一方が選ばれるのではなく両者が対立と補完をすることによってダイナミックに社会を動かす。弁証法的発展の中でどちらかが淘汰されるのではなく両者が洗練されるべきだろう。AかBかではなくAもBもでありどちらも発展的に解消されることなくより洗練されたものへと進化すべきだろう。
中国は社会主義と市場原理の両方を受け入れた。そこまでは正しい。更に一歩進んで、社会主義と個人主義、共産党とブルジョア政党の対立と補完まで受け入れるべきなのではないだろうか。「正反合」の関係は「合」へと止揚するよりも正と反が対立と補完をする状態のまで維持したほうが好ましいとさえ思える。