俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

似た答

2009-03-17 13:13:17 | Weblog
 似た答が多いと多数決の大好きな人は喜ぶ。彼らは「これが正しい答だ」と考える。
 私のようなヘソ曲がりは似た答が多いと不信感を持つ。間違った情報に操られているのではないかと心配になる。
 かつてイザヤ・ベンダサン氏は「日本人とユダヤ人」で「ユダヤ人社会では全員一致の議決は無効」と書いた。つまり全員一致は本来あり得ないことであり、そんな異常なことが起こるのは特殊な「空気」に支配されているからだという訳だ。当時まだ大学生だった私にとっては目から鱗が落ちるようなショッキングな話だった。
 似た答が多ければ警戒する必要がある。相見積もりによるコンペで同じような見積額が提示されたら妥当な額ではなく談合価格の疑いがある。試験で似た答が多ければ予想回答の大規模な配布や組織的なカンニングの可能性がある。同じ意見が多ければマスコミによる情報操作を疑う必要がある。
 人は容易にマスコミによって操られる。マスコミ情報を鵜呑みにしてしまう。多数意見はマスコミによって作られる。卓越した意見は常に少数者のものだ。

0の意味

2009-03-17 13:01:03 | Weblog
 建物は1階から始まる。1階の下は地下1階(マイナス1階)であり0階ではない。0階は存在しない階だ。「0」は「無」を意味する。
 我々は子供の頃から日常的に0を使っているので0に対する違和感を持たないが0は非常に特殊な数字だ。
 1月1日の前日は1月0日ではない。12月31日だ。1月0日は存在しない日だ。0は「無」だからだ。
 全く光の無い状態である真っ暗闇に対して、薄明るい状態から光溢れる状態まで無限のヴァリエーションがある。しかし明るいか暗いかは量的な違いに過ぎないが、光があるか無いかは質的に異なる。
 0とは存在しない状態であり存在内でのヴァリエーションである自然数とは質的に異なる。0と自然数との間には大きな隔たりがある。
 数学上では0と1の差は1だが、1と2の差の1とは全然違ったものだ。0と1の差は存在と非存在という違いであり大げさに言えば形而上学的な違いがある。

ネットカフェ難民

2009-03-17 12:44:25 | Weblog
 「ネットカフェ難民」という言葉は正に日本人の平和ボケと国際感覚の欠如を物語っている。難民の窮状を全く理解していないから「難民」という言葉を安易に使う。
 本当の難民の生活は、コソボであれパレスチナであれ悲惨極まりない。まともな水が無い。泥水をすすらなければ生きて行けない。まともなトイレも無い。いつ伝染病が大流行しても不思議でない危険な状態だ。
 それと比べてネットカフェ難民の生活はどれほど文化的で贅沢で衛生的なことか。明かりがあり冷暖房が完備していてドリンクは飲み放題だ。勿論パソコンもある。こんな場所に本物の難民を連れて来たら「ここは天国か」と思うことだろう。
 勿論私は実際に難民に会った訳ではない。あくまでマスコミからの情報にすぎない。それでもこれぐらいのことは誰でも想像できる。想像できない人がいるのは平和ボケのせいだ。
 難民ではないがフィリピンには大勢の路上生活者がいる。マニラで夜に出歩けば大人も子供も路上で寝ている。初めて見た時は「行き倒れ」かと思って驚いた。暖かいフィリピンだから凍死することは無いが、もしこれがロシアなら毎日多数の人が凍死することだろう。フィリピンには150万人の路上生活者がいて、その内25万人が子供だと言われている。
 難民という言葉を安易に使い、それが定着するのはいかに日本人が贅沢な生活に慣れ、貧困国の窮状に無関心なのかを物語っている。もっと海外の事情に関心を持っても良かろう。それとも日本は今でもなお精神的には鎖国状態なのだろうか。

ウソvs.ウソ

2009-03-14 14:34:46 | Weblog
 捕鯨に反対する人は主に次の2つの理由を挙げる。①家畜ではない野生動物をむやみに捕獲すべきではない②鯨は賢い。
 この2つはどちらも本音ではなくタテマエに過ぎない。彼らの本音はこちらだ。①旧約聖書でモーゼが鯨を食べることを禁じたし食べる習慣も無い②ホエールウォッチングによる観光収入を守りたい。
 一方、日本も調査捕鯨というウソで対抗している。もし調査が目的なら捕獲する必要は全く無い。パンダの生息数を調べるために射殺するようなものだ。調査が目的なら尻尾にでも発信機を取り付ければ充分だ。
 IWC(国際捕鯨委員会)では捕鯨賛成派も反対派も本音ではなくタテマエを掲げているから議論が全く成立しない。議論が成立しないから票集めのためのネマワシばかりが横行して金で票を買うことになる。
 議論が成立しない国際会議など意味が無い。建設的な意見が出ない会議など国際会議だろうと社内の会議だろうと時間と金の無駄遣いでしかない。
 議論はもっと真面目に取り組まねばならない。ウソに基づく議論からは何も生まれない。その意味では国会も無意味かも知れない。本音で議論する気が無くただ多数決だけで物事を決める場所は少なくとも「議事堂」とは呼べない。

13日の金曜日

2009-03-14 14:14:35 | Weblog
 昨日は3月13日の金曜日だった。縁起をかつぐ人には最も嫌われる日が2月・3月と2ヶ月続いた。
 13日の金曜日が続くのは閏年でない年の2月・3月にしか起こり得ない。2月13日が金曜日に当たる確率は1/7で、閏年でない確率は3/4だから、13日の金曜日が2ヶ月続く確率は3/28となり、28/3年に1度(約10年に1度)しか起こらない。
 ところで「13日の金曜日」というホラー映画ではジェイソンという怪人がチェーンソーを振り回して暴れる。エンディングでは「さすがのジェイソンもこれで死んだだろう」と安心するが次回作ではまた蘇って大暴れする。
 西洋の怪人や妖怪には必ず弱点がある。例えば最強の妖怪のドラキュラでさえ光や十字架や聖水やニンニクに弱い。なんだか弱点だらけだ。
 一方、日本の妖怪には弱点が少ない。特に幽霊は既に死んでいるのだから殺すことは不可能だ。争っても無駄だから恨みを鎮めて成仏してもらうしか無い。日本人は大国主命や菅原道真などの怨霊に対しても退治するのではなく、祟りをなさないように大規模な神社を作って鎮魂を図った。
 これは「自然」に対する姿勢と同じだ。と言うよりむしろ自然に対する姿勢が「超自然」に対しても同じように守られたと言うほうが適切だろう。西洋人は自然に対して立ち向かい征服しようとする。日本人は自然には敵わないと考えて崇拝する。自然を崇めること、つまり自然に対して忠誠を誓うことによって許されることを目指した。どちらが正しい対応なのかは分からない。

整った顔

2009-03-14 13:53:12 | Weblog
 整った顔とは平凡な顔のことではないだろうか。特異な顔は醜い。麻生首相のような曲がった顔やアザやコブや傷のある顔は美しくない。
 こんな明らかに違和感のある顔は論外としても、鼻の下が長いとか目と目の間隔が広ければ美しくないし、唇が厚いとか鼻がほんの少し上向いていれば変な顔になってしまう。
 しかしよく考えればこれらは相対的な評価に過ぎない。鼻の下が長いとか鼻の穴が上向いているかどうかは標準的な顔と比べて少し違っているに過ぎない。もし日本人全員の鼻の下が現状より2割長ければ日本人にとっての「整った顔」の鼻の下も2割長いものになるだろう。
 「顔の美のイデア」は経験の外ではなく経験の中にある。経験に先立って存在するのではなく経験が「整った顔」という標準を作る。
 要するに人は標準的な顔を「整った顔」と感じ、標準から外れた顔を「崩れた顔」と感じる。「整った顔」とは結局のところ「当たり前の顔」であり「標準的な顔」にすぎない。各個人が毎日見る「見慣れた顔」が基準となりその基準から外れると変な顔と評価される。
 標準的な顔は日常的に見慣れた顔だから民族によっても異なり、分厚い唇や異様に長い首に「美」を感じる民族もいる。国内でも生活圏によって日常的に目にする顔は異なるので小学生には小学生だけが感じる「整った顔」があり政治家には政治家ならではの「整った顔」があるのだろう。
 「整った顔」にほんの僅かのプラス要因が加わると「美しい顔」になる。例えば目が大きいとか口が小さければ美しいと評価され易い。
 しかし目が大きいとか口が小さいとか顔が小さいといった「標準から外れること」が美にとってのプラス評価に繋がる理由はよく分からない。多分、白人に近いとか童顔に似ているといった別の基準が働いているのだろう。

余裕と人助け

2009-03-10 13:36:12 | Weblog
 余裕があれば人助けは難しくないが余裕が無ければ人助けどころではない。
 例えば重い荷物を運んでいる人は自分のことで精一杯で、誰かが重い荷物を運んでいても助けるどころではない。
 あるいは疲労困憊している人は電車に乗ったら他人を押し退けてでも座りたいと思うから老人に席を譲る余裕は無い。
 金に困っている人は、他の人が金に困っていても助けることはできない。
 自分自身が余裕を持っていなければ人を助けるどころではない。自分が助けて欲しいという思いが勝つ。
 人助けができるのは余裕のある人だけだ。もし人助けをしたいと思うなら、まず自分が他人を助けることができる資格、つまり余裕を持つことが必要だ。
 健康な体と生活に困らないだけの資金力などが無ければ人助けどころではなくなってしまう。

需要と供給

2009-03-10 13:24:27 | Weblog
 ある雑誌の懸賞で堀北真希の写真の500円のクオカードが当たった。コンビニで使おうとして急に思い留まった。もしかしたらプレミアムカードかも知れないと思ったからだ。
 チケット店で価格を尋ねて驚いた。3,000円で買い取るという返事だったからだ。510円なら売るつもりだったので即刻喜んで売った。
 この程度の写真なら雑誌や写真集には五万とあるだろう。写真とクオカードがくっ付くだけで2,500円の価値が付加されることに新鮮なほどの驚きがあった。
 多分、日本に(世界に)50枚しか無いカードだから希少価値はあるだろう。しかしそれでも奇妙な感じは拭い去れない。なぜこんな物を3,000円で買い取り、多分5,000円位の値付けをして売ることが可能なのか解せない。
 商品の価格は需要と供給で決まる。供給が少なければ価格は吊り上る。こんな原理で物の価格が決まることは不合理だと、得をした本人でさえ思う。

野球とオリンピック

2009-03-10 13:16:10 | Weblog
 WBCで盛り上がっている時にこんなことを書くと非国民と非難されかねないが、野球はオリンピックの種目としては不適格だ。理由は次のとおり。
①野球はローカルスポーツ
 野球というスポーツは日本では人気があるが世界的には余り人気が無い。北中米と東アジアのみで行われているローカルスポーツに過ぎない。
②野球場の使い勝手の悪さ
 草野球なら広場にベースを4つ並べれば事足りるが国際試合となればそうは行かない。最低限マウンドと、硬くて小さい危険なボールが場外へ出ないための高いフェンスが必要だ。こんな変な施設は野球以外には使いようが無い。こんな汎用性の無い施設をオリンピック開催国に作らせることは無駄だ。

金権政治家

2009-03-10 13:00:28 | Weblog
 民主党代表の小沢一郎氏に対する西松建設からの政治献金が問題になっている。
 小沢氏はもともと金権政治家だ。保守本流ではないが金権政治家の本流だ。こんな政治家が民主党の代表であることに以前から疑問を持っていた。最も民主党らしくない、むしろ自民党の悪しき体質を体現する小沢氏は民主党の代表にふさわしくない。岡田氏や前原氏のほうがずっと民主党らしい政治家だ。
 金権政治家の系譜はかなり分かり易い。田中角栄氏に始まり、竹下登氏、金丸信氏、そして小沢一郎氏へと繋がる。これほど明白な金権政治家の系譜をなぜマスコミはこれまで採り上げなかったのだろうか。
 権力を握っている間は散々持ち上げておいて、権力を失いそうになったら途端に手の平を返すように執拗に攻撃する。全く「みんなで渡れば怖くない」であり「強きを助け、弱きを挫く」という姿勢だ。
 小沢氏が金権政治家であることは今回の問題が発覚するよりずっと前から分かっていたことだ。弱い者いじめをするのではなく、かつて立花隆氏が田中内閣の絶頂期に「田中角栄研究・その金脈と人脈」を出版したような勇気と反骨精神をマスコミは発揮して貰いたいものだ。マスコミは権力に迎合するよりは反権力の姿勢を貫くべきだ。勿論、是々非々でということが前提ではあるが。