俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

原発再稼働

2012-04-17 15:14:30 | Weblog
 私は原発には反対だが再稼働の一部には賛成する。訳の分らない理屈のようだが、既に施設があるからだ。危険な急カーブがあるために事故が多発する道路であろうとも廃路にすべきとは思わない。速度制限を厳しくして使えば良い。古い自動車を使用禁止とすべきとは考えない。排ガス規制基準を充たしたエンジンに付け替えれば使っても構わない。
 しかし今の済し崩し的承認には反対する。電気が足りないから原発を容認するという姿勢は現実主義ではなく現状是認主義だ。長期ヴィジョンが全く欠けている。ドイツのようにいつまでに廃止にするかを明確にした上で過渡期対策に限定して再稼働を容認すべきだろう。
 エアコンを総て禁止すればこの夏は原発無しでも乗り切れるだろう。逆にエアコン禁止という強行策でも取らなければ夏の電力は足りない。しかしエアコンを禁止する権利が政府にあるだろうか。国民の権利に対する侵害だろう。もし国民が「エアコンを使わないから原発を止めろ」ということで同意できるなら原発を即刻廃止できる。しかし民意が「エアコンを使うけれども原発を止めろ」ならそれを充たすことは不可能だ。過渡的措置を取らざるを得ない。原発ごとに安全性をランク付けして、上位だけを再稼働するということで妥協できないだろうか。
 

消費税の欠陥

2012-04-17 14:54:40 | Weblog
 所得税制度には欠陥がある。所得の誤魔化しが罷り通っている。所得の捕捉率は給与所得者・事業者・農家では9・6・4(クロヨン)とも10・5・3(トウゴウサン)とも9・3・1(クサイ)とも言われている。この不備を補うために消費税が導入されたが、日本の消費税制度は大きな欠陥を抱えたままであり問題点を放置したままで税率を上げることは不正の拡大となる。以前から益税として問題視されている中小企業優遇策が2つある。①免税事業者と②簡易課税制度だ。
 ①免税事業者
 前々年の売上高が1,000万円以下の事業者は消費税の納付が免除されている。この制度を悪用して2年ごとに廃業して免税事業者であり続ける企業もあるが、免税事業者数は何と4割を占める。4割の事業者が消費者から消費税を徴収しながら納税せずに自らの収益としている。
 ②簡易課税制度
 前々年の売上高が5,000万円以下の事業者は課税経費を一定の割合と見なして納税できる。見なし経費は卸売業者では90%、小売業者では80%などとかなり高く設定されている。人件費は非課税だから、小売店の場合はほぼ仕入原価が8割という意味になる。書店ならともかく一般の小売店の粗利益率が20%とはちょっとあり得ない話だ。多くは50%ほどあるだろう。この差に税率を掛けた約1.5%分がまるまる益税となっている。課税事業者の約半数がこの制度で利益を得ている。
 結局、事業者の4割が免税で、6割を占める課税事業者の半数が簡易課税だから、全事業者の7割で益税が生じていることになる。消費増税をする前にこの欠陥を改善しておくべきだろう。

未必の故意

2012-04-13 16:24:37 | Weblog
 昨日、京都で悲惨な交通事故があった。多くの人が暴走する自動車の犠牲となった。容疑者の親族はてんかんの発作が原因だと主張するが多分それはあり得ない。容疑者の軽自動車は最初のタクシーとの衝突以降、車や人に何度もぶつかりながら300m以上直進している。運転者が意識を失った状態で衝突を繰り返しながら15~20秒もの間あの狭い道路を直進できるのは戦車だけだろう。「クラクションを鳴らしていた」とか「震えながらハンドルを握りしめていた」とか「焦った表情だった」といった証言もある。パニック状態に陥ったために暴走したと考えて間違いなかろう。
 今回の事故はともかく、てんかんなどの病気を原因とする交通事故はこれまでに何度も起こっている。法律は飲酒運転には厳しいが病気には甘い。飲酒は自らの意志で制御できるからだろう。しかしてんかんの持病を隠して運転することとバレないと思って飲酒運転をすることとどう違うのだろうか。てんかんや心臓病や認知症などの人が病気を隠して運転することの危険性は飲酒運転と比べて何ら変わらない。充分に未必の故意に該当する。病気に罹ることは本人の責任とは言えないが、病気を隠して事故を起こすことは本人の責任だ。事故を起こさなくても飲酒運転が犯罪であるように、病気を隠して運転をするだけで犯罪と見なすべきだろう、

鼎立

2012-04-13 16:09:01 | Weblog
 三権分立はよくできた制度だと思う。立法・司法・行政の権力が分散されるから権力の暴走を抑止できる。もし立法が暴走しようとすれば司法と行政がそれを阻止する。二権分立ではそうならない。一方の力が強くなれば他方の力は弱まり抑止力としての機能を果たせない。
 これは三国志を想起させる。圧倒的に強力な魏であろうとも蜀か呉と戦えば呉か蜀にその虚を衝かれる。三竦みだからこそ絶妙のバランスが生まれた。
 江戸時代の日本では、権力を幕府が握り、権威を朝廷が、富を商人が握った。三竦みなので突出しなかった。
 二大政党制は極悪の制度だ。甲の失敗は乙の利益になるからお互いに足を引っ張り合うばかりだ。こうして甲も乙も評価を下げて政治不信を招く。三竦みになっていれば低レベルな泥試合は第三勢力を利することになるので建設的な方向に向かうだろう。
 中国では三権の上に共産党が君臨する。三権は党の意向に従わねばならないから形骸化する。毎年、数千人が死刑にされるのはこんな酷いシステムの弊害だろう。
 北朝鮮にも党・国・軍という三権がある。しかしこれを分立させず一人の権力者に委ねる。三権を悪用した独裁体制だ。

マスコミ

2012-04-13 15:52:41 | Weblog
 日本の新聞・テレビの情報発信力は北朝鮮や中国並み、あるいはそれ以下ではないだろうか。政府が発表する情報をそのまま報道するということでは同レベルだが、北朝鮮や中国では言論統制のためにそうせざるを得ないのに対して、日本では自主的に垂れ流しに励んでいるのだからより悪質だ。
 この一因は記者クラブ制度にあるだろう。主な省庁などには記者クラブが設けられ、主要メディアの記者はここに常駐する。記者クラブでは妙な連帯意識が醸される。他社の記者は競争相手ではなく同業者だ。お役所は便宜を提供してくれるスポンサーだ。これではマスコミ各社が横並びになり、突出した記事や批判的な記事は書けなくなってしまう。
 12日の朝日新聞の夕刊に謝罪記事が掲載された。四国電力の火力発電所について「全体として事実と異なる記事を掲載し」たとのことだった。多分、垂れ込み情報を鵜呑みにして記事にしたのだろう。普段から垂れ流し記事ばかり書いているから嘘を見抜く能力を失っているようだ。
 昨年の3月中旬にマスコミ各社は許し難いダブルスタンダードを採用した。報道では原発から20㎞圏外は安全としながら自分達は揃って30㎞圏外に避難した。もし政府の発表が妥当ならそれに従うべきだし、異存があるなら自分達が30㎞圏外に避難する理由を告知すべきだろう。報道と行動は一致せねばならない。二枚舌は許されまい。

甘い食べ物

2012-04-10 15:25:38 | Weblog
 甘い食べ物が大嫌いな友人がいる。日本酒は辛口しか飲まないし卵も「甘いから」と敬遠する。かつてよく行った鶴橋の焼肉屋「鶴一」もタレが甘くなったと言って立ち寄らない。彼にとって甘いとは不味いと同義語だ。
 彼ほどではないが、私も甘い食べ物が嫌いだ。私の家には砂糖が無い。しかし彼とは違って卵の甘味は受け入れる。卵かけご飯は好物だし野菜炒めや焼きソバには卵を絡める。果物も好きだ。
 多分、私の場合、甘い物一般ではなく砂糖の甘味が嫌いなのだろう。砂糖の甘味は口に残って唾液を粘着かせる。不思議なことに私の好みは20歳前後に激変した。それまでは花林糖が大好きという甘党だったのに、甘さを不快と感じるようになった。酒を飲み始めたことと因果関係があるかどうかは分らない。味覚そのものが変わったとは思えないから、それまで快と感じていた味を不快と感じるようになったということだ。これが心理的なものか生理的なものかはよく分からないが、ある刺激に対して快と捕えるか不快と捕えるかを決めるのは知覚ではなく統覚だということだろう。ジェットコースターのような強い刺激に対して「怖い」と感じるか「面白い」と捕えるかが紙一重の違いであるのと同じようなものだ。

テレビ番組

2012-04-10 15:12:56 | Weblog
 タダでも見たくないテレビ番組が存在するということは実に不思議なことだ。知恵と金と時間を費やして作った番組が見るに値しないとはどういうことだろうか。
 昔のテレビは多分今よりもずっと面白かったのだろう。チャンネル争いで家庭内での殺人事件まであったほどなのだから。今、私が見るのはニュースとスポーツ中継と「ダーウィンが来た」だけだ。大半の時間はテレビを点けていない。つまり電気代にさえ値しないということだ。
 勿論、世代の違いもあるだろう。子供向けに作った番組が大人にとってつまらないのは当然だろう。それと同様に阿呆向けに作った番組はまともな人にとっては見るに耐えない。
 当初テレビは人を「博智化」すると期待された。ほぼリアルタイムに情報が共有されるからだ。ところが現実としては「白痴化」を促した。なぜこんなギャップが生じたのだろうか。多分テレビ局は視聴者の知的レベルをかなり低く見ているのだろう。そのレベルに合わせるから低俗番組が大量生産されているのだろう。
 ニュース番組のレベルもかなり低い。政府の発表を垂れ流す御用報道ばかりだ。大臣がこう言った、ということが事実であろうとも、その内容が事実かどうかを検証することはメディアの勤めだろう。

ジョークとパラドクス

2012-04-10 14:55:39 | Weblog
 私は論理を好む。しかし論理主義は日本では必ずしも支持されない。「理屈ではそうなるが何か割り切れないものがある」というのが本音だろう。2+3=5のような論理には冷たさを感じるし、「スタートレック」の宇宙人スポックの過剰な論理性は滑稽とさえ思える。
 論理と対峙するものとしてジョークとパラドクスがある。これは論理を否定するものではない。論理の不備を補うものだ。論理は単純化し過ぎるという欠陥を持つ。例えば「リンゴ2個とミカン3個なら合わせて何個か」という算数の問題に私は憤りさえ覚えた。異質なものを足し算すべきではない。例えば水1ℓと油1ℓを足したらどうなるだろうか。1.9ℓほどになるそうだ。分子の大きさが違うために隙間が埋められるからだ。
 政治家も面白い理屈を使う人が好まれる。橋下市長や石原知事や小泉元首相はしばしば奇妙な論理を使う。吉田茂元首相は「なぜそんなに元気なのか」と尋ねられて「人を食っているから」と正に人を食った答弁をした。池田勇人元首相は「私は嘘は申しません」と日本政治家史上最大と言われる嘘を残した。
 小泉氏を最後に、ジョークやパラドクスを使える首相はいない。福田康夫元首相は「私は自分自身を客観的に見ることができるんです」と答えて大いに笑わせてくれたが、これは迷言であってジョークとは言い難い。ガチガチの論理はつまらない。論理を理解した上でジョークとパラドクスを加味すれば偏狭さを克服することができる。

ヒットパレード

2012-04-06 13:27:13 | Weblog
 高校野球の応援でブラスバンドが「サウスポー」や「狙い撃ち」などを演奏する。時には「ザ・ヒットパレード」も演奏される。これは50年ほど前のテレビ番組のテーマソングだが、「ヒットパレード」ではなく「引っ張れぇ」の意味で使われている。
 「ザ・ヒットパレード」は洋楽を日本語で歌う番組だった。戦前の世代は敵性外国語だった英語が分らない人が多かったのでそういう人をターゲットにしていたのだろう。
 ところが時々、困った歌が登場した。特に映画の主題歌ではタイトルと歌詞の乖離が著しかった。
 例えばビートルズの`A hard day's night「大変な日の夜」'の邦題は「ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!」だった。日本語の歌詞は「♪昼も夜も我武者羅に働く♪」で邦題と歌詞は全く合っていなかった。
 シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」はもっと酷かった。もともとこの歌は映画の挿入歌であり主題歌ではなかった。挿入歌に映画のタイトルを付けてしまったからタイトルと歌詞は全く整合しなかった。歌の原題は`La plus belle pour aller danser「ダンスに行くための最高の美女」'であり、日本語の歌詞の「♪誰よりも貴方が一番幸せなの♪」という表現は「何と傲慢な女なのか」と感じる人が多く滅法評判が悪かった。

無料

2012-04-06 13:12:01 | Weblog
 大阪市には敬老パスという制度がある。70歳以上の大阪市民は市営地下鉄・バスを無料で利用できる。これまで何度も見直しが検討されたが、今回ようやく改善されるようだ。
 無料サービスとは正にバラ撒き行政だ。受益者ではなく納税者に負担を押し付けるシステムだ。公道のような公共施設ではなく、特定の人しか利用しない施設やサービスは少なくとも一部を受益者が負担すべきだろう。
 かつて老人医療費が無料化されたことがあった。病院・医院は老人に占領されて、患者は長時間待たされた。当時こんなジョークがあった。病院の待合室で老人が噂話をしていた。「近頃Aさんが来ないけれでどこか具合が悪いのかな」つまり不要不急の老人が病院に集まり老人サロンと化していた。
 無料化すれば本来そのサービスを必要としない人まで利用しようとする。救急車がタクシー代わりにされていることなどがその典型例だ。
 私が通っている公営プールは体育の日には無料開放をする。タダなら利用しなければ損だと考える意地汚い人が集まるから雰囲気は最悪だ。彼らは一見さんだからマナーが悪く技術も低い。私は定期券を買っているがこの日だけは使用したくない。本来の顧客を蔑ろにして有象無象の連中に便宜を図っているのが無料開放日の実態だろう。一部負担金を課するだけで砂糖に群がる蟻を追い払うことができる。