俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

老化

2012-09-14 15:19:38 | Weblog
 12日に阪神タイガースの金本選手が引退を発表した。一流選手でいるためには精一杯努力し続けねばならない。努力しても及ばなくなった時には引退を迎える。これはどんな天才であろうとも避けられない。
 私は努力と能力の関係について風呂の水をイメージする。底の栓に隙間のある風呂だ。隙間が小さい内は水を注ぐほど水量は増え続ける。ところが隙間が大きくなると水量を維持するためには大量の水を注がねばならなくなる。更に隙間が大きくなれば徐々に水量が減り始める。
 肉体は老化という宿命を背負っている。努力によって老化を遅らせることはできるがいずれは老化の速度に努力が追い付かなくなる。脳も肉体の一部だから老化を免れることはできない。
 老化は20代から始まると言う。老化を痛感してから回復することは不可能だ。若い内に水量を蓄えておけば底の隙間が広がってもある程度の水量を維持できるだろう。

物語

2012-09-14 15:09:04 | Weblog
 物語なら嫌な話を拒絶できる。作家は読者や視聴者のニーズを知っているから喜ばれるストーリーにする。そのため殆んどの物語はハッピーエンドになる。
 現実はどうなるか分らない。ハッピーエンドになることは少ない。倫理的に好ましくない結果になることもある。だから現実は嫌われる。
 1941年から始まった日米戦争においては、日本が清、ロシアに続いてアメリカにも勝つという妄想にも等しい物語に酔った。負けるというシナリオよりも圧勝するというシナリオのほうが日本人には好ましかった。日米戦争は現実に基づいた戦争ではなく物語に溺れた戦争だった。
 原発の安全神話も物語だ。54基もある原発が危険とは思いたくなかった。ここでも願望が事実を抑えた。願望はしばしば事実に背く。しかし願望と事実が矛盾した時に否定されるべきものは事実ではなく願望のほうだ。現実は物語の世界とは異なる。願っていない結果になることは非常に多い。事実はしばしば不都合なものだがそれを直視せねばならない。

大根おろし

2012-09-11 15:40:19 | Weblog
 変な食習慣は沢山あるが、大根おろしほど奇妙なものは無い。栄養価の高い搾り汁を捨てて搾りカスを食べているからだ。
 野菜ジュースや果物ジュースを考えればこのことは明らかだ。搾り取られた液体こそ野菜・果物のエッセンスであり搾りカスはゴミにしかならない。誰が搾りカスを食べるだろうか。もしかしたらバイオマスとしてなら活用できるかも知れないが、このゴミを有難がるのが大根おろしだ。
 居酒屋でジャコ(しらす)おろしを頼んでパサパサのおろしが出されるとがっかりする。旨みも栄養価もおろし汁にあるのだから大根汁たっぷりのおろしこそ望ましい。
 おろしは繊維質の塊りだから栄養価が無いとは言えないが、おろし汁も一緒に食べたほうが良いことは間違いなかろう。

美人県

2012-09-11 15:28:55 | Weblog
 美人が多いと言われる県がある。北から順に秋田、新潟、石川、京都だ。奇妙なことにこの4県は日本海側に一県置きに並んでいる。(間の県の皆さんゴメンナサイ。)
 秋田と新潟は日照量の少なさによる色白だけが要因ではなく、多分ロシア人の遺伝子も貢献しているのだろう。縄文人と弥生人という偏った遺伝子しか持たない日本人にとって異民族の遺伝子は美を齎す。沢尻エリカ様だけではなく滝沢クリステルさんや南沙織さんなど混血美女は多い。異質であることは差別を招き易いが、適度に違うことは個性的な美となる。
 石川県が美人県なのは加賀百万石の城下町だったことが主因だろうし、千年の都・京都に美人が多いのは当然だろう。
 意外なのは徳川家の拠点が美人県でないことだ。江戸、尾張、紀伊、水戸に美人のイメージは乏しい。一時期、名古屋嬢という言葉が使われていたが今では死語だ。徳川家のお膝元に美人が集まらなかったのは質実剛健を美徳としたからだろうか。

表意文字

2012-09-11 15:16:44 | Weblog
 表意文字は便利だ。一目で意味が分かる。表音文字ではそれは不可能だ。文字を順に拾い集めて初めて意味が分かる。表意文字があれば読書速度も早くなる。
 極論だが、漢字とかなのどちらかを廃止するならかなだと思う。かなはアルファベットで代用できるが漢字に代わるものは無い。こんな便利な漢字を日本と中国と台湾でしか使わないのは勿体ないとさえ思う。
 韓国では漢字を殆んど使わない。ハングルに誇りを持っているからだ。ハングルで14の子音と10の母音を表現できると言うが、それでも日本語と同様、同音異義語が多くて意味が通じにくいことがあるそうだ。
 韓国人が漢字を使わないのは日本語との共通語が余りにも多いかららしい。言葉という民族の基盤が日本語の影響下にあることを認めたくないようだ。しかし漢字の母国である中国は割と平気で和製漢語を受け入れている。国名でさえそうだ。「人民」も「共和国」も和製漢語だ。西洋由来の抽象語は大半が和製漢語なので日中での共同研究も容易だ。
 内政干渉をする気は無いが、韓国も蟠りを捨てて漢字を復活させるべきだろう。漢字を使えば知力も向上するだろう。

シシャモ

2012-09-07 14:43:59 | Weblog
 国産の魚は信用できない。先日、八戸市沖で獲れたマダラから100gあたり133ベクレルの放射性セシウムが検出されたように、突然基準値を超す個体が現れるからしばしば市場に出回る。
 天然の魚は自由に動く。野菜・果物や家畜や養殖魚なら産地は明確だが、天然の魚は捕獲地と棲息地は必ずしも一致しない。福島県沖に棲んでいた魚が青森県沖で捕獲されても不思議ではない。
 あるいは千葉県の漁船が、漁獲されていないので魚量が増えている福島県寄りの海域で漁をして千葉の漁港で水揚げするということもあり得よう。
 過度に怖がるべきではないが、好き好んで放射能汚染魚を食べようとは思わない。
 こんな状況だから最も安全な魚はシシャモなどの輸入魚だろう。市販されているシシャモは実はカペリン=カラフトシシャモであり輸入魚だ。安全でしかも値段も安いのだから理想的な食材だ。100%確実に輸入魚だから安全だとは情けない話だ。

ニヒリスト

2012-09-07 14:32:34 | Weblog
 正直な話、私はニヒリストだ。生きがいを否定し、目的論的な生き方を馬鹿にする。小市民的な幸福には反吐が出そうだ。他人のためになど生きたくない、ただ自分が納得できる生き方を選びたい。
 では社会に逆らうか。逆らわない。社会の仕組みに従う。これは右側通行のルールの元で真ん中や左側を敢えて歩こうとしないようなものだ。ルールやマナーに背けば自分も相手も不快になる。わざわざお互いに不快になるようなことを選ぼうとは思わない。私の感性はまともだ。他人を不快にすれば自分も不快になる。他人を苦しめて喜ぶ変態とは違う。
 私は外見上では極めて常識的であり礼儀正しい。待ち合わせに遅れたことは皆無だ。内面では反常識だがそんなものを常時露出して波風を立てる必要は無い。それは性行為の時以外は性器を露出しないのと同じようなことであり、社会で快適に生きるために積極的にルールに従う。ルールに従うことは何ら私の個性を毀損しない。肉体を地上に留めたままで魂だけを天上に置くことは可能だ。
 

障害と刑罰

2012-09-07 14:21:45 | Weblog
 精神障害者は心神喪失や心神耗弱と同様に罪を減免されるべきだろうか。精神障害者は精神病患者とは違う。精神病患者は狂った状態だが精神障害者は劣った状態だ。精神医療における「障害」は一般医療とは全然違った意味で使われている。(8月28日付け「病気と障害」参照)
 もし心理学者が凶悪犯罪者や暴力団員を診断すればほぼ全員が人格障害や発達障害などと判定されるだろう。もし精神障害者が免責されるなら暴力団員は何をしても許されることになる。刑罰で考慮されるべきなのは精神病であり精神障害は考慮の対象外だ。
 盲人が他人を殴った場合、どう判定されるだろう。相手を捕まえて殴ったなら故意であり傷害罪に該当するだろう。しかし離れた位置なら、殴ったのではなく当たったと判定されるべきだろう。近視の人にはこんな基準は適用されない。殴ったという事実に基づいて裁かれる。
 精神障害者を甘やかすことは近視の人を甘やかすようなものだ。精神障害者は本来の意味での「障害者」ではない。

パラリンピック

2012-09-04 15:31:13 | Weblog
 パラリンピックの男子100m平泳ぎで日本の中村選手が銀メダルを獲得した。この種目を初めて見たが、随分不公平な競技だと呆れた。両腕の無い中村選手は頭でターンをする。他の選手は腕でターンをする。腕は頭より長いから、ターンとゴールで泳ぐべき距離に差が生じる。この不公平を解消するために、クロールで使われているクイックターンを認めるべきだろう。クイックターンなら足でターンをするから泳ぐ距離が等しくなる。
 健常者競技での平泳ぎは両腕でターンをすることがルールだ。腕が無ければ頭で、というのは余りにも安易なルール作りだろう。腕が無い人はどこを使ってターンしても良いとすべきだろう。
 身体障害の状況は一人ずつ異なるから完全に公平なルールを作ることは無理だ。それでもせめて泳ぐ距離ぐらいは対等になるようにルールを改めるべきだろう。

竹島

2012-09-04 15:15:39 | Weblog
 竹島を日本領と考える人は韓国併合以前から日本領だったことを挙げる。これは事実であっても根拠にはならない。なぜなら日本は1945年に無条件降伏をしたからだ。日本の領土は1951年9月のサンフランシスコ平和条約で決定されたのだからこれに基づいて検証されねばならない。
 平和条約では「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とされている。竹島については触れられていない。触れられていないから双方が領有権を主張する。
 平和条約で触れられていない理由として1951年8月10日付けのラスク国務次官補による韓国大使宛ての書簡がある。「我々の情報によれば独島は朝鮮の一部と扱われたことは一度もない」。しかしこの書簡を根拠にして「米国は日本領と認めた」と主張するのは無理だ。双方が納得して批准する条約とは違ってこれはあくまでも60年前の書簡に過ぎず、これを現在に至るまで変わらぬ米国の方針と見なすことは強引過ぎる。実際の話、現在の米国政府の「地名委員会」は竹島を大韓民国領と認定している。
 竹島の領有権は曖昧と言わざるを得ないから当事国同士が協議して解決を図るしかない。