俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

安全

2016-02-03 10:19:08 | Weblog
 危険と安全は対立する概念ではない。危険の特殊な状態、つまり危険がごく少ない状態が安全と評価される。私はソフィストのように言葉を弄ぼうとは思わない。しかしこう考えなければ安全という意味が理解できないからだ。
 強度という尺度はあるが弱度という尺度は無い。物の強さ・弱さはそれが何㎏の力に耐えられるかによって評価される。強度の乏しいものが「弱い」と評価される訳であって、弱度の高いものが弱いという訳ではない。だから弱度という尺度は無い。
 有害についても同じことが言える。害が全く無いものが無害と評価される。しかしこの世に無害なものなどある筈が無い。酸素は細胞を酸化させる危険物であり、水を大量に飲めば水中毒を患う。有害と無害の間に「低害」という言葉があっても良いと思うのだがそんな日本語は無い。実際には有害性の多寡のよって極めて有害なものからほぼ無害なものまでのグラデーションが存在する。「有益」は全く違った概念であり有害の対立概念ではない。だから有害かつ有益なものは無数に存在する。
 安全は危険性が少ないことを意味する。つまり安全も独立した概念ではなく「危険」に依存する概念だ。だから絶対に安全であることはあり得ず、常に相対的に危険が少ないことを意味する。安全とは元々そんな意味だから安全と危険の線引きが困難なのは当然だ。
 安全性はリスクとして評価され勝ちだ。リスクとは〔結果の重大性〕×〔可能性〕として算出できる。例えば原発事故のように結果が重大なことであればたとえその可能性は低くてもリスクは高くなるし、痒い所を掻けばかなり高い確率で傷を付けるが大半は低リスクとして容認される。しかし安全性の本質とは単に危険性が高いかどうかであり、無暗に安全を求めることは無いものねだりになる。「安全」という尺度は無く、「99%安全」とは「1%危険」の裏返しに過ぎず、危険性を全く欠いた安全はあり得ない。

老化の病化

2016-02-03 09:43:38 | Weblog
 老化現象が悉く病気と位置付けられつつある。これは当事者双方の願望に基づく。老人は老化と言われたがらない。老化であれば治らないと分かっているからだ。医師は、老人に希望を与えつつ同時に収入増を図る。
 だからハゲは脱毛症で、骨の劣化は骨粗鬆症、膀胱機能の低下は頻尿症、老眼は視力障害etc.etc.。老化の症状を病気と位置付けることを無意味とは考えない。しかしもしそう位置付けるなら医師には治療する義務がある。病気だから治ると安心させておいて治療できなければ詐欺のようなものだ。癌を治すと大言壮語を吐いておいて全く治療などできない民間療法師や祈祷師と同じ悪事を医療業界全体で犯している。治療できるかのような幻想を与えるよりも、老化という現実を受け入れさせたほうが老人のためになる。
 歳を取ると碌なことが無い。あらゆる能力が低下する。最も悔しいのは運動能力の低下だ。毎日鍛えていても向上どころか、低下を止めることさえできない。日に日に本が読みにくくなるしその内、聴力も低下し始めるだろう。
 健康上の傷害も増え続ける。膝や足首はいつ傷めてもおかしくない状態なので無理はできない。尿意を感じたらすぐにトイレに駆け付けないとチビッてしまう。年中どこかが痒い。怪我が治りにくいのは自然治癒力が低下しているからだろう。
 勿論、外見はどうしようも無い。頭髪は薄くなる一方で皺は増え続けている。肌は弾力を失い動作は緩慢になる。これらは老化だから諦めざるを得ない。病気と信じて偽医療に頼れば却って悪化を招くだろう。
 お先真っ暗かと言えばそうでもない。今後、老化し続けることが分かっていれば、常に今が今後の人生ではベストの状態と言えよう。このことを意識すれば、今を大切にするようになる。
 これが老人病の実態だろう。これらは治療不可能だ。治療できるかのような幻想をバラ撒いて老人を食い物にしようとする姿勢は卑劣極まりない。しかしそれを平気でできることこそ人間の邪悪さの現れだ。自分のために悪事を働こうとしない人が組織のためならどこまででも恥知らずになれる。会社の利益のために働く悪事に良心の疚しさを感じないように、医療業界の利益のためなら、老化を病気と詐称して老人のお金を巻き上げることさえ正当化される。自分が所属する集団の利益はしばしば社会の利益よりも優先され、社会にとっては犯罪であることまで許容されてしまう奇怪な「ムラ社会」がそこにある。
 治療不可能な老化に、有害無益な薬を処方して医原病患者にしてしまうことが現在の老人医療の実態だ。老人が元々、病気のデパートであった訳ではなく、医師によって複数の医原病を患う患者に作り上げられつつある。
 

破壊医療

2016-02-01 10:35:29 | Weblog
 現代の医療は欠乏症と細菌や寄生虫による感染症以外については殆んど無力なのだから、医療の大半が対症療法であることはある程度やむを得ない。病気の原因が分からず、あるいは分かっていても治療できないのであれば不快感の軽減以外のことはできない。癌の末期症状であればモルヒネの投与によって苦痛を軽減することしかできないが、そんな状況は少なくない。かなり高齢の老人が膝の痛みを訴えた場合、その原因は関節の軟骨の摩耗だろう。仮に人工関節を移植することによって完治することが可能であってもそのためのリハビリに耐えられないほど高齢であれば、痛み止めで誤魔化し続けることも医療だろう。
 しかし有害な医療は承服できない。不快感の軽減だけを考えて病気を悪化させることはまともな医療ではない。破壊医療だ。破壊医療を行う医師は医療の名を騙るペテン師だ。
 破壊医療の大半が自然治癒力の妨害をする。自然治癒力が働く時、人は不快を感じる。風邪などの感染症に抵抗するための発熱、有害物を排出するための下痢や嘔吐、捻挫などが起こす炎症、これらは自然治癒力の発動であって症状ではない。これらを抑え込むことは自然治癒力の妨害にしかならない。消火に励む消防隊の妨害をするような愚行だ。生活習慣病の患者に処方される薬も大半が有害な破壊医療だろう。原因を放置したまま検査数値だけを下げても何のメリットも無く、副作用は確実にある。私は大半の高血圧を高齢者の体にとって必要な状態だと考える。細く固くなった血管では脳に充分な血液を送れないから血圧を高める必要が生じて血圧が高くなっているのだろう。人体に備わった優れた自動調整機能の妨害をすべきではない。運動中の発熱や発汗のように体は体のために最良の反応をする。浅知恵に基づいて余計な操作などすべきではなかろう。
 痛みなどの不快感は病気や怪我そのものではない。痛みだけを消しても怪我が治る訳ではない。治癒のためには安静が有効だ。しかし破壊医療を施された患者は不快感の緩和を病気からの快復と誤解して日常生活に戻る。感染症の患者であれば病原体をバラ撒く。痛み止めの注射で連投する投手が失うのは本人の選手生命だけだが、感染症の症状だけを緩和すれば感染の拡大を招く。これは個人だけではなく社会まで破壊する有害な医療だ。

賞味期限

2016-02-01 09:44:49 | Weblog
 賞味期限を厳密に守るべきだろうか。ワインのように熟成する食品以外は作りたてが一番美味しくその後は徐々に劣化する。しかし賞味期限切れ前後の1日違いの食品の味を識別できる人は絶対にいない。それでもたった1日の違いで商品価値が否定されている。
 白と黒の間にグレーがあるべきだろう。賞味期限は「美味しく食べられる期限」であって「食べられる期限」ではない。美味しいは相対的な評価であって、作りたてをベストとするならたとえ1時間後でも劣化は進む。どこを期限とするかなど全く恣意的なものだ。だから賞味期限切れの商品は値下げの対象とすべきであって廃棄の対象ではなかろう。賞味期限切れの商品の価値は消費者と小売業者が勝手に決めても構わない。売れる価格が適正価格だ。
 大阪に住んでいた頃、近所の個人商店ではその日で賞味期限・消費期限切れの商品を半額で売っていた。私は毎日のようにそれを買っていたが、期限の表示が無ければ普通品と識別することは困難だろう。
 賞味期限切れの商品は廃棄される。これはメーカーや小売店が好き好んでやっていることではなく、消費者の評価が厳し過ぎるからだろう。期限切れの商品を売ることは悪徳商法のように思われるから、たとえ勿体ないと思っても廃棄せざるを得ない。こんなことをしているから食品のロス率が高くなり、延いては価格の上昇や食料自給率の低下にも繋がっている。
 主観的な尺度に過ぎない賞味期限とは違ってしっかりと守られるべきなのは消費期限だ。こちらは安全性が確保される限界とされている。消費期限を過ぎた食品は食中毒等の危険性が高くなる。とは言え、期限内なら絶対に安全で期限後なら必ず危険ということではなかろう。最も劣化し易い生野菜に消費期限の表示は無い。安全かどうかを最終的に決めるのは消費者だ。
 日本人は期限に過敏だ。期限を過ぎた瞬間に評価は白から黒へと急転する。しかしこれは年越しの時刻のようなものではないだろうか。0時0分に新年が始まるがテレビとラジオの番組以外は何も変わらない。賞味期限もそんなものだろう。
 期限という表示があるから誤解するのだからいっそのこと製造年月日表示に戻して「製造日から1週間以内が食べ頃です」という柔らかい表示に変えれば、これがアバウトな目安に過ぎないことを消費者も理解するのではないだろうか。事業者ではなく消費者が「勿体ない」と感じるべきだろう。