サディズムやいじめによる快感は私にとって最も理解し難い感覚だ。他人が苦しむことがなぜ快感になるのか分からない。ドラマで拷問のシーンがあっても不快になる。しかしそんなシーンが放映されるのはそれを悦ぶ人がいるからだろう。
その感覚を理解したくてマルキ・ド・サドの主要著作「悪徳の栄え」や「美徳の不幸」などを読んでみたが全く共感できず、不快や不潔という印象だけが残った。こんな不快なだけの本は「ロリコン」の語源となったウラジーミル・ナポコフの「ロリータ」以外には殆んど思い当たらない。
もしかしたら正の共感性を持つ人と負の共感性を持つ人の2種類に大別できるのではないだろうか。サディズムやいじめなどに悦びを感じる、負の共感性を持つ人ならきっと犯罪性向も高いのではないだろうか。これは意外と役に立つ尺度かも知れない。動物をいじめる子供はきっと残酷な大人になるだろう。
「喜びを共にすること・・・我々を噛む蛇は我々に苦痛を与えたと思って喜ぶ。最も下等な動物も他人の苦痛を想像することができる。しかし他人の喜びを想像して喜ぶということは最高の動物の最高の特権であり、その中でも最も選り抜きの模範的な者にのみなし得る。・・・従ってこれは1つの稀な人間精神だ。だから喜びを共にすることを否定した哲学者もいたほどだ。」(ニーチェ「人間的、余りに人間的」「様々な意見と箴言」62)
以前に「共歓」という記事でも引用した、私の好きな言葉だが、もしかしたら他人を苦しめることに悦びを感じる人と他人の苦しみに同情して不快を感じる人に大別できるのではないだろうか。勿論、大半の人はその中間のグレーゾーンに位置する。しかし黒と白に位置する人同士であればお互いに理解し合うことは殆んど不可能だろう。
なぜこんな単純と思える事実が認められないのだろうか。これが差別に繋がるからだろうか。善人と悪人が明確に区別できるならこれほど便利な分類は無い。「悪人」に属する人々がこの視点を「差別」として否定しているのではないだろうか。充分に研究されていないからこの違いがどの程度先天的なものかよく分からないが、これを「差別」として否定することは倫理学史上最大かつ根本的な誤りだったのではないだろうか。これは差別ではなく必要な区別だろう。
その感覚を理解したくてマルキ・ド・サドの主要著作「悪徳の栄え」や「美徳の不幸」などを読んでみたが全く共感できず、不快や不潔という印象だけが残った。こんな不快なだけの本は「ロリコン」の語源となったウラジーミル・ナポコフの「ロリータ」以外には殆んど思い当たらない。
もしかしたら正の共感性を持つ人と負の共感性を持つ人の2種類に大別できるのではないだろうか。サディズムやいじめなどに悦びを感じる、負の共感性を持つ人ならきっと犯罪性向も高いのではないだろうか。これは意外と役に立つ尺度かも知れない。動物をいじめる子供はきっと残酷な大人になるだろう。
「喜びを共にすること・・・我々を噛む蛇は我々に苦痛を与えたと思って喜ぶ。最も下等な動物も他人の苦痛を想像することができる。しかし他人の喜びを想像して喜ぶということは最高の動物の最高の特権であり、その中でも最も選り抜きの模範的な者にのみなし得る。・・・従ってこれは1つの稀な人間精神だ。だから喜びを共にすることを否定した哲学者もいたほどだ。」(ニーチェ「人間的、余りに人間的」「様々な意見と箴言」62)
以前に「共歓」という記事でも引用した、私の好きな言葉だが、もしかしたら他人を苦しめることに悦びを感じる人と他人の苦しみに同情して不快を感じる人に大別できるのではないだろうか。勿論、大半の人はその中間のグレーゾーンに位置する。しかし黒と白に位置する人同士であればお互いに理解し合うことは殆んど不可能だろう。
なぜこんな単純と思える事実が認められないのだろうか。これが差別に繋がるからだろうか。善人と悪人が明確に区別できるならこれほど便利な分類は無い。「悪人」に属する人々がこの視点を「差別」として否定しているのではないだろうか。充分に研究されていないからこの違いがどの程度先天的なものかよく分からないが、これを「差別」として否定することは倫理学史上最大かつ根本的な誤りだったのではないだろうか。これは差別ではなく必要な区別だろう。