Junky Monologue

   ひとりよがりな趣味のお話し。

   JunkなものしかないJunkなブログでございます。

追悼 チック・コリア

2021年02月17日 23時48分18秒 | 音楽
先週の2月9日にチック・コリアが亡くなっていたのを月曜日に知った。
死因は珍しい型の癌ということらしいがそれ以上詳しくはわからない。享年79歳。
とにかくちょっとショックだった。
なので月曜の夜からチック・コリアを聴いていて、しばらくの間は聴き続けてしまいそうで、やはり初期の作品が中心になりそう・・・。

彼の音楽の本質的な部分がこれらの作品に網羅されていると思っている。彼の年齢としては20代~30代の始めまでの作品だが、音楽的にはこの頃に若くしてやり尽くしてしまった感が強い。しかもそれが彼個人の能力の限界ということではなく、JAZZという音楽そのものの可能性=限界を突き詰めてしまったと言えそうだ。良し悪しではなく、そうなってしまったという事だ。



そのやり尽くしてしまった彼のその後をなお非凡なものにしているのは、音楽表現の限界がよく自覚化されていて屈託がないことに尽きると思っている、音楽に過剰な意味付与がなく、音楽を語れるのは言葉などではなく音楽でしかないという事をよく理解していた人なのだと思う。加えてこの人ほど表現にコンプレックスを感じさせない人は珍しい。だから何をやっても陰に籠らずほんとに嫌味がない。


彼は逝ってしまったが、彼自身が彼自身の表現に関して思い残すことは何もなかっただろうと信じられる。
彼を超えるジャズピアニストは今後しばらく現れないに違いない。
音「楽」家であり続けた類い稀な人だ。 R.I.P.

せっかくの10連休だったのに・・・

2019年05月08日 23時48分06秒 | 音楽
束の間の解放感に油断してしまったのか、風邪をこじらせて寝込んでしまった。
連休前に若い社員に「連休は何する予定ですか?」と聞かれ、冗談半分に「寝たきりやね。」と答えてたのが本当になってしもた。
特に旅行とかの計画があった訳でもなく、元々根っからのインドア人間なので丁度良かったと言えばそうなんやけど・・・昔から何故か体調を崩すのは必ず連休中という悪循環が・・・そんな仕事人間のつもりは全然ないんやけどね。
って言うより、単に日頃の行いが悪いだけってか・・・インドアな計画だけは密かに考えとったんやけどな~。もったいないことした。

それにしても、休みになると自作スピーカーの爆音(適度な)に浸るが唯一の愉しみなのに、
物理的に体力を奪われるとそんな気力すら失せてしまうんですね~。

ちょっとでも『熱量』を感じてしまうような音楽はまるで聴く気になれません。
じゃあ~、『熱量』のない(限りなく少ない)音楽があるのかって言うとこれがなかなか難しい。
熱量ってのにも色々あって、単に静かな音楽なのかと言うとまったく違う。
こういう時にクラシックは全滅やね、音的に静的なものでも作曲家や演奏家の執念みたいなもんが必ずついてくる。
あるいは『熱量』を避けるという執着自体が『熱量』になるというアイロニー・・・。

で、やっと見つけたというか、おおよそ30年ぶりに持ってたのを思い出したのがコレ。

ボサノバの原点、名盤中の名盤。

アストラッド・ジルベルトの歌声は当然やけど、ジョアン・ジルベルトの声がなんとも心地よい。
若い時に初めて聴いた時はそこはかとなく漂うセレブ感みたいなのが気持ち良かったり悪かったりしたもんですが、
とにかく力を抜く、『脱力』ってのにこんな深い価値があるとは・・・今やっと気が付く事ができました。

ついでに『脱力の帝王』と言えばこの人とか・・・

言わずと知れたチェット・ベイカー。当時売れ過ぎたせいかドラッグに溺れ、辛そうな人生を送った人ではありますが、
ご本人はこの『脱力』の意義に気づけなかったんでしょうかね。
Wikipediaによるとジョアン・ジルベルトはこの人の歌い方をマネしたってありますが、ホンマでしょうか?。

でもやっぱ、あたしゃ、アストラッド・ジルベルトがええなぁ~。

今年は桜が長いのでスタンリー・クラーク・・・??

2019年04月14日 23時31分20秒 | 音楽
先月桜が開き始めてから寒い日が続いたせいか、今年は桜が長く咲いている。
近所の中学の校庭の桜は本日(4/14)現在葉桜ながらまだこんな状態だった。


で、桜繋がりでコレ。

ザ・スタンリー・クラークトリオとジャケットにはありますが、
たぶんこのアルバムだけの臨時編成。ドラムがレニー・ホワイトでピアノがかの上原ひろみ。
10年ほど前の録音、上原ひろみが例のトリオプロジェクトを始める前でしょうか。
タイトル通りスタンリー・クラークのリーダーアルバムなので、もちろん彼のベースがメイン。
なので上原ひろみもかなり控えめの演奏でスタンリーの引き立て役に徹している。
だからつまらないという訳ではないけれどアルバムとしてはやや凡庸だという印象を持つ人がいても不思議はないかも。
はっきり言って上原ひろみのピアノがなければ成り立ってないアルバムかもです。
おまけにこのジャケットのチープさときたら・・・いかにも「フォトショ」で合成しましたって感じがまた・・・(背景が写真では紅葉のようにも見えますが桜です)。
で、でも、それでも好きなんです、スタンリーのベースが。どんなに通俗的だと言われても。
この世代のジャズベーシスト(ウッドベースで)で言うとデイブ・ホランドとかミロスラフ・ヴィトゥースとかヨーロッパ系の人も多くて、ジャズの範疇に収まらないいかにも芸術点の高そうな元はクラシック畑?と思わせる人達が多いけどスタンリー・クラークって技巧的には物凄いのに、お高い感じが皆無です。センスが「ベタ」と言っちゃ失礼やけど・・・。
それでもいいんです、こんな「ベタ」さは好きです。いかにも70年代のクロスオーバーですって感じ?のベースが。
根っからのジャズマンなんでしょうね。
いや、何が言いたいかって単にウチの「なんちゃってバックロードホーン」と物凄く相性がいいっていう(録音が)・・・。
ウッドベースの胴鳴りはもちろん、アタックの瞬間のビンと来るというかドンと来るような弦の震えとか。
2曲目の「SAKURA SAKURA」なんかは音楽的には通俗の極で(笑えるくらい)上原ひろみのピアノでかろうじて成り立ってる感じなんでしょうけど私にしては珍しくオーディオ的に痺れてしまうんです。
まぁ~スピーカー自作を数少ない人生の楽しみとしている分にはこんな自画自賛のネタにできる音楽ソースがあっても良いのではと・・・。

でも桜は明日、明後日中には散りきってしまいそう・・・で、いきなり夏になったりしそうで怖い・・・。

バルトークはお好き?

2018年10月14日 10時39分35秒 | 音楽
「バルトークが好き」なんてことを言うと、
大方の人たちからは「変わってますね」とか「あんなのよく聴けますね」とか
「頭おかしくならないですか」みたいな反応が普通かと思う。
「私も好きなんですよ」なんて反応を得られることはほとんどないでしょう。
仮にそんなお仲間が稀に見つかったとしても、私自身は音楽の専門的なことをほとんど何も 知らないので、
お話に着いて行くことも叶わないでしょう。
まぁ~それくらいに難しい作曲家のひとりには違いないのかもしれない。

いきなり前回投稿の続きになりますが、
"I fear tommorow I'll be crying"これの翻訳間違えてますね。
直訳としては『私は明日泣いちゃうであろうことを恐れる』が正解ですよね。
『明日が怖いから泣いちゃう』と言うのとは相当にニュアンスが違います。
この発語者は泣き叫ぶ事が怖いだけで、明日が怖い訳じゃない。
泣き叫ぶくらいだから間接的には明日が怖いという解釈も成り立たない訳じゃないですが。
まぁ~これは明日が怖くて仕方のない私の勘違いということで(笑)。
一応この場を借りて、修正すべきは修正しておかないと、という事で・・・。

で、何の話だったかというと、バルトークの話。
ほとんど意味のない問いではあるけど、
彼の一聴恐ろし気な作品群は、彼が明日を怖がったせいなのだろうか?
彼が生きた時代19世紀末~20世紀半ば、戦争の時代には違いない。
確かに明日が怖い時代だったろう・・・民族主義の興隆、第1次大戦、ナチスの横暴とロシア共産党の潜在的狂気、
晩年アメリカに逃れたとはいえ、彼が主に生きたのはそんな渦のど真ん中東欧ハンガリー。
しかしそのような感覚を直接創作衝動に結び付けるのは短絡し過ぎ。
あくまで彼の関心は民謡、民族音楽の収集とその研究にある。
音楽はそれ自体の表現の蓄積にのみ動機を見出す。社会情勢など間接的な副次要素に過ぎない。
だからこそ、年月を超えて訴えかける作品のパワーと深さが生まれる。

実際バルトークの魅力を言葉にしようとするのはとても難しい。
音楽の専門知識、専門用語とその概念を知らずにはおそらく本当の意義にはたどり着かないのだと思う。
「対位法」だったり「和声」だったり「調性」だったり、さらには「12音法」とか・・・。

全部の作品がそうだと言えないとしても多くの人たちは不安感を煽られるだけの音楽だと感じるでしょう。
何を隠そう私自身も高校生のころ初めて「弦チェレ」を聴いた時はそうでした。
なのでただでさえ潜在的不安感満載の日常生活の中にあって、
こんな音楽が好きだと言えば変人扱いしかされないのは一定理解できます。

がしかし!、バルトークの音楽にとって不安感を煽るのが目的であるはずがないし、
不安感の表現ですらないと私は感じる。

何故なら、私個人は彼のそんな音楽に癒される事が多々あるから。
極度に落ち込んでしまったとき、自暴自棄になりそうなとき、不安感に押しつぶされる間際、
そんな時バルトークの音楽に秘められた時空を超越した超現実の世界とも思われる絶妙な美しさに気が着く。
この美しさに触れると波立った心が静まり冷静になって考える力が湧いてくるような気がしたりする。

本当に落ち込んだ時は他人に優しくされてもウザく感じるだけだったりしませんか・・・、
逆に感情的になったり「余計なお世話」と却ってつむじが曲がったりとか。
ほっといて欲しいときにほっといてくれる、寄り添わない、突き放してくれるのがバルトークなんでしょうか?。
寄り添われない心地よさ、自立を促すかの突き放され方、
それは言い換えるとウソの無さ、究極の誠実さに繋がっていると言えたりしませんか。
でもこれは今は単なる私個人の主観。本当は『音楽』自体の内在性によって説明されなければいけない。

特別よく聴く(効く?)のがコレ。

『弦楽四重奏曲No.1~No.6』演奏:Alban Berg Quartett(他の奏者も聞きたいがこれしか今は持ってない)

不協和音のハリケーンです。
全曲一瞬たりとも緩むことのない緊張感の持続力と美しさ、恐ろしい集中力。ただ凄いと言うしかできません。
「逃げずに現実をよく見て立ち向かえ。」という叱咤激励なんでしょうか。
バルトークさんは結構厳しい~~~!(笑)。

で最後にコレを追加↓別にバルトークさんに触発されて作った訳じゃないけれど・・・

ただのお目汚し、やっぱかなり恥ずかしい(爆)。

今だからこそいえない??!(クリムゾン・キングの宮殿とか・・・)

2018年09月22日 16時42分15秒 | 音楽
いろいろと人には言いにくい辛い日々が続いている。
こんな事して遊んでる場合じゃないのは重々承知ながら、四六時中緊張状態でいる訳にも行かない。
こういう時こそ心のゆとりが大事・・・と自分に言い聞かせる毎日。
でも新しいスピーカーを企画するほど体力も資力もない今日この頃・・・。


えっ!?、だからってこれですか?(どういう脈絡なんやら)。

誰もが知ってる「クリムゾン・キングの宮殿」、不朽の1枚やね。
キング・クリムゾン自体はジョン・ウェットンやビル・ブラッフォードがいた頃や、
エイドリアン・ブリューの時代から比較的最近までいろいろと面白いバンドではありますが、
やはり表現の突出力(芸術力?)ではコレがダントツピカイチ。

リリースされたのがアポロ月面着陸の1969年、初めて聞いたのは高校1年の頃(1971年・・・歳がバレるやん)。
2年のブランクがありますが、当時洋楽の場合日本盤の発売が本国リリースから1~2年遅れるのは当たり前のことだった。
ラジオなどで聴けたのもそんなタイミング、レコードを手に入れたのは更にその?年後。
レコード1枚買うにもお小遣いを数か月貯めるかバイトに精を出すしかなかった。
しかも当時高校生にも出来るアルバイトはとても少なかった(コンビニはもちろんファストフードもファミレスもない)。
まぁ~家に再生装置があっただけでも幸運だったのか、それともそれが不幸の始まりか・・・いえいえ両親に感謝です(笑)。
そんな時代の多感?(そりゃ多汗やろってツッコミはなしね)な少年がこんなの聞かされちゃおかしくなるのも頷ける(爆!)。
ともかく「世界の現在」みたいなものをこんな音楽から感じていた、そんな時代だった。
その「重さ」たるや今の時代に匹敵するものを想像するのが難しい。
それは当時の日本と世界との距離感みたいなものだったのだろうか?
はたまたある種コンプレックスか・・・ちょっと取り止めなくなった。

このアルバムの内容について私ごときがとやかく言う資格は何もありません、ある意味歴史の手垢が付きまくってます。
もちろん全曲が筋金入りのお気に入り。
でもこのLPレコード(なんと甘味な響きか!)を初めて通しで聴いた時からずっと気になってしょうがないと言うか、
耳の集中の仕方が他の曲と違ってしまうと言うか聴くたび発見があるというか・・・心の問答が始まるというか・・・。
もしかすると他の人なら退屈でパスしがちかもと敢えて取り上げたくなる・・・
それは嬉し恥ずかしB面の1曲目「MOONCHILD」。
それもボーカルが終わったあとの10分間。
リリカルで怪しく儚くも美しい幻想的な世界観がもしかするとその後の私の性向がかたち作られちゃったかもというくらいのドはまり具合。

この部分を即興演奏だとかフリージャズに影響を受けたとかってよく聞きますが、それはちょと違うんじゃないかと・・・。
ジャズの影響は多いにあるでしょう、でも私には即興には聴こえない・・・。素晴らしい録音(たぶん当時にしては超一級)なのだが、
生撮り一発の音には聴こえない・・・バランス良すぎ音が良すぎる(オーディオ的に)多重録音じゃないの?と・・・。しかも楽譜ありますよねと・・・五線譜の楽譜じゃないにしても進行構成チャートとか・・・確かにあの当時は即興演奏だと思ってましだが、今の耳で聞くと調性感もしっかりあって何より統制力があまりにもよく効いてる。とてもフリージャズなんかじゃない!(いえ、フリージャズも好きですけど)。
まぁ~、どうでもええっちゃ、どうでもええんですけどね。

↓で後年(?十年後やら)インスパイアされ続けてきた世界観からこんな画像を作ってしまった。

恥ずかしいのでちょっと小さめ画像で・・・絵に重ねたテキストも自作です、笑わないでね~(って笑)。

で恥ずかしついでに・・・今聴くとちょっとだけ頬が赤らむ感覚というか・・・それが気持ちええねんけどね。
A面3曲目「EPITAPH」。

こりゃもう超弩級の『演歌』やね、それとも浪花節(笑)。
今この時代に言えますか?「Confusion will be My Epitaph.」なんて、相当に恥ずかしくないすか?。
さらにもう一丁「Yes I fear tommorow,I'll be crying.」どうすかこのこっ恥ずかしさ。
当時はこれらのワードを超カッコ良く感じたんです(その後の人生狂わせたかもってくらいに)。
じゃ、なんで今恥ずかしいのかって・・・、
当時は子供だったからか? 人生既に狂っちゃったから恥ずかしいのか?。そうかもしれんね確かに。
でもね、ひとつだけ言っときたい。時代なんだと・・・。
当たり前やないかと言うなかれ、そんな意味じゃない。
発表された当時が混乱の時代だった?そんな部分も確かにあるでしょうよ、あの60年代末なので・・・でもね、
『混乱は我が墓碑銘』なんて言えるシチェーションって何でしょう?、それ内面的には全然混乱なんてしてないんです。
混乱はあくまで外的要因、対する自分の内面はしっかり屹立していないと言えないんです。
混沌の外界に対してしっかり対処法(たとえ間違いでも)を持っていると思える時こそカッコええのよね。

『明日が怖いから泣いちゃうよ(叫んじゃう)』というのも同じ、
明日に希望を見い出せるからこそ言葉に出しても受け入れられるんです。
ほんとに混乱の明日が待ち構えているならほんとに怖いのでこんな事言える訳がない。
明日が怖い時代に「明日が怖い!」って言ったら・・・『うるさいわ!』と言われるだけですよね、当たり前のことなので。
当たり前のことなどみんなは聴きたくないのです、ネガティブであるほどに。
今の時代の流行りの唄などを思い浮かべてみると・・・えっ?・・みんな明るくてとっても元気やね~。
「頑張ろう、頑張ったね」「あなたのために、みんなのために」・・・うん!素晴らしい!
「明日が怖い」なんて甘ったれた弱音は誰も吐きませんねぇ・・・素晴らしい!・・・えっ、で、でもほんとに?。
時に表現の世界は反語になることが往々にしてある・・・ということは・・・ほんとのこと言っちゃいけないんですか~~っ?
たまには大声でそうゆうた方がええんちゃうやろか・・・と言いたい今日このごろ。

あっ、そうそう忘れちゃいけないA面1曲目
「21st,CENTURY SCHIZOID MAN」
これ知らなきゃロックファンじゃない「21世紀の精神異常者」
この邦題タイトル最近「21世紀のスキゾォイドマン」なんて改題された表記を見つけた。
まぁ~直訳っちゃそうなんですが・・・かつて浅田なんちゃらって先生が流行らせたスキゾキッズ(意味わからんけど)とかの影響?
それともよくある社会的配慮?、もしそうならこんな言葉狩りはいい加減やめて欲しいと思ったり・・・。
せめて「21世紀の錯乱者」くらいにできなかったんでしょうかね~???。

えっと・・・そんなこともどうでもよくて、
それにしても凄いですね~ピート・シンフィールドさん。いい詩書いてますね~。
こんなカッコイイ『言葉使い』になりた~い(あっ、いえ、なりたかった)・・・なんちゃって。

音『楽』家チック・コリア

2018年01月07日 17時37分41秒 | 音楽
いつの間にかこんなに溜ってしまったチック・コリアのCD。


初めてチック・コリアを聞いたのは高校2年くらいの時か?
初体験にしては強烈過ぎる「サークル」でのチック・コリアであった。
今改めて聴いてみると徹頭徹尾フリー指向のアンソニー・ブラックストンと、
現代音楽(クラシカルな)的志向の強いチック・コリアとのパワーゲーム?が面白いのだが、
当時は訳が分からずただただショックだった。
あの当時はこんなある意味難解で先鋭的な音楽も割と普通にFMラジオで流れたりしていたのだが、
クラシック音楽ではない『JAZZ=大衆音楽?』の先端部分がこんな処にあるという事を知ったのがショックだったのだ。
クラシック音楽を聴き始めるきっかけになっていたような気もする。
それはさておき、それから間もなく出てきたのが、カモメのジャケットで有名な「リターン・トゥ・フォーエバー」。
それ以前のチック・コリアとは180°方向転換のようでもあるが、
後にクロスオーバーとかフュージョンとか言われるジャンルの原点でもあり、それはそれでまた衝撃的であったのだが・・・。
その後、個人的な興味がよりクラシックへとシフトして行った事もあり、チック・コリアはあまり聴かなくなってしまった。

それが3~4年くらい前、上原ひろみのピアノトリオを聴いてしまったのをきっかけに改めてチック・コリアを聴き始め、
徐々に彼の真髄をわかり始めたという次第である。

王道ピアノトリオのチックコリア、
現代音楽志向のチックコリア、
エレクトリックなジャズロックのチックコリア、
アコースティックなジャズロックのチックコリア、
その他数多くのセッションでのチック・コリア

その時々であまりに多彩なアプローチを見せるチック・コリアであるが、
いずれも中途半端感のない完成度の高さにあらためて驚いてしまう。
何をやっても彼自身の軸なり核をしっかり感じさせてくれるのが凄い。
音楽に対する姿勢がブレないという事なんでしょうかね。

だからなのかどうかは分からないけど、
彼といっしょにやっているミュージシャン達の演奏はみんなとても生き生きしている。
デイブ・ホランド、ミノスラフ・ヴィトゥース、ジョー・ファレル、スンタンリー・クラーク、
デイブ・ウェックル、ジョン・パティトゥチ、その他大勢老若男女のミュージシャン達、そうそう超ベテランのロイ・ヘインズさえも。
みなさん難しいことをいとも簡単にそれも楽し気にやってのけちゃう。
メンバーに恵まれていると言えばお終いだけど、それって簡単なことじゃないのよね、「楽しさ」があればこそなのだ。
ラテン系故の楽天性?、素直さ?、というより自己肯定性なんでしょうね。
どんなに難しいことをやっても鬱屈しない、屈託がないのだ。

でも、表現の世界で積極的に自己肯定性を主張するというのは簡単そうで難しい。
表現の世界での自己肯定は中途半端な人が主張すると単に「無知」をさらけ出すか、独り善がりでしかないからだ(こういうのが意外に多い)。
チックコリアの自己肯定にはほんとに嫌味がない。本質(音楽の)に触れたことのある人だけが出来ることだ。
恐るべしチック・コリア。
まだまだうんと長生きして欲しいミュージシャンである。

モーツァルトという音楽、あるいは楽しみのための楽しみ

2016年01月24日 13時42分53秒 | 音楽
ずっとモーツァルトが苦手だった。嫌いという訳ではない。
その苦手意識が何処から来るのか自分の中でずっと引っかかっていた。
そんな今日この頃、こんな本を古本屋で見つけた。



著者は音楽の専門家ではなくドイツ文学者のようだ。
そのせいか特に前半はモーツァルトが生き音楽活動のために旅した地域と時代背景の特質が
とてもイメージし易く述べられていて、たいへん示唆に富んだ内容だった。

以下はこの本の感想でも紹介でもなく、この本に触発された私の個人的なメモというか、モーツァルト苦手意識の克服に向けての備忘録みたいなもんです。

モーツァルトの時代についてちょっと想像力を膨らませてみる。
フランス革命を間に挟んだヨーロッパ近世の末期である。
中世的遺制を残しつつ、近代の能率的な生産様式を獲得しつつあった時代。
中世の残滓のような感性と近代的意識の芽生えが綯い交ぜになったある種不思議な時代。
身分と人格あるいは職能と人格(強引に言葉を変えれば社会と個人)がまだ分化の途上にあった時代の感性。
現代と比較してそんな時代が人にとって良かったかどうかなんて事はどうでもいいが、現代の人間とは明らかに違う感性がそこに存在する。
モーツァルトはそうした時代の代表的感性であるだろう。
もうひとつ言える事は近代以降急速に進展する社会の分化(生産の分業化)とそれらを統合するための政治概念の劇的な変化は「人権」や「政治的平等」と引き換えに「法」という厳格な強制力をもたらしつつ、抽象的な感覚だがこれは社会の「曖昧さ」(曖昧さは良い意味では『大らかさ』の母体でもある)の死滅の始まりを意味するということ。
そこに至ってしまう直前のタイミング、フランスに比べればかなり牧歌的で国家としての体裁すら定かでなかったドイツ・オーストリアの状況(マリア・テレジア→ヨーゼフ2世の時代)。
モーツァルトにとっては絶妙なタイミングだったのかもしれない。
彼自身が目標としただろう身分や地位には登り切れなかったのだろうが、
その代わり職業として自立した音楽家あるいは作曲家への道程を図らずも開拓する結果になった。

音楽の専門知識を何も持ち合わせない私がただ音楽を聴くという範囲に於いて、
モーツァルトの大先輩であるバッハ、少し先輩であるハイドン、後輩のベートーベン、
これらの作曲家にはある種共通項というか、連綿と続く音楽的継続性を感じるのだが、
その間にいるモーツァルトには少し異質な何かを感じてしまうのだった。
その謎の全てが前述の歴史的社会的背景にあるとは思わないが、かと言ってそれが言い伝えられるモーツァルトの奇人的資質にあるとも思えない。

多くの音楽は「音楽のための音楽」というモチーフを少なからず内包しているが、
モーツァルトにはその部分が無いのか、相当に希薄に感じるのである。
もしかすると方法論としてそれらを打ち消してしまうだけの技巧を発揮しているのか・・・。
だとすればその目的は・・・『愉しみのための楽しみ』さらには理屈無用というより『脱論理』に向かっているとか・・・。
恐るべしモーツァルト。言葉ではなく音楽で思考している・・・。

誰でも聴けばわかるモーツァルトの音楽の特質は『優しさ、優美さ、そしてなにより邪気の無さ』にある。
昨年の大ヒットアニメではないが『ありのまま』がモーツァルトの方法論であり手法なのだろうか。
あまりに『ありのまま』であるため、その時代的感性に惑わされていたのかもしれない。
キーワードは、悩むな!考えるな!受け入れて楽しめ!と言うことか。

苦手なら聴かなければいいのだが、そういう形では打ち捨てられない重大な何かがあると今のところは思っている。
要するに聴いて慣れろという当たり前の結論か・・・う~ん、何か違う・・・。

てな事でこれから日曜日には必ずモーツァルトを1回は聴くことにしよう。

尾崎宗吉

2015年10月04日 16時34分11秒 | 音楽
つい最近までCDをネット購入することはほとんどなかったのだが、
よく通っていた新宿の某大手CDショップが2年ほど前に改装して輸入版の取り揃えが極端に減ってしまってからはネット購入の方が多くなってしまった。
そんなこんなで、先日なんとなく検索しながらいろいろ物色していたところ、たまたま引っかかったのがこのCD。



聞いた事のない作曲家の名前だったのでちょっと検索してみると・・・う~んこりゃまたどうも・・・つい勢いでポチッとしてしまった。

個人的には特にクラシック音楽の場合、単に時代背景や作曲者の境遇だけから作品の良し悪しを計るのはどうかと思うのだが、この人の場合はどうしてもそこから離れることが難し過ぎる・・・興味を持ってしまった人は「尾崎宗吉」で検索してみていただきたい。

で、肝心な聴いてみた印象は・・・単に私が無学なだけなのだろうが、1930年代の日本にグローバルな水準を凌駕した先鋭的な作曲家がいたことにまず驚いてしまった。
あの難しい時代の日本の音楽環境がどのようなものだったのかうまく想像できない分、こんな作曲家が存在したという事実そのものに衝撃を受けてしまう。

彼はバルトークやシェーベルク、ドビッシーやラベルなどの音楽に触れる機会はどの程度あったのだろう?
少なくとも楽譜からは学んでいたのだろうけど、肝心なのは普遍的な音楽表現の蓄積をきちんと内在させつつ自分自身のオリジナリティーを構築し切れているということだ。

あの時代を生き延びてさえいれば日本の音楽史を大きく書き換えていたに違いない。
忌まわしくも貧し過ぎる歴史展開の中ですり潰されてしまった類まれな才能・・・。
ご時勢的にいろいろ言いたいこともあるけど、今は残された数少ない彼の作品を享受できる幸運を感謝すべきなのだろう。

新譜CDを久々に買った。

2014年06月08日 18時53分18秒 | 音楽

上原ひろみのニューアルバムです。
発売間もない新譜などもう何年も買ったことがなかったのだが、
YouTubeでライブ映像を見て以来ずっと気になってたので、つい衝動買いしてしまった。
以前聞いたデビュー間もない頃のスタジオ盤はライブのパフォーマンスとは裏腹に、こじんまりまとまった感がありあまり興味を持てなかったのだが、このアルバムは違った。
ライブのようなパフォーマンスにスタジオ録音の緻密さが加わって凄い出来だと思った。

演奏上のパフォーマンスに気を取られてなかなか気付けない部分だけど、この人作曲の才能も半端ないんじゃないかとも・・・。
複雑な変拍子リズムに乗ったメロディーラインの端々になんだか懐かしくなるような「和」のテイストがあったり・・・。

経歴を見てみると今やJAZZミュージシャン達の聖地となった感のあるバークレー音楽院の作編曲課を主席卒業してらっしゃるとか、
16歳の時にチック・コリアとの共演経験もあるとか・・・いやぁ~、とてつもないサラブレッドだったんですね。恐れ入りました。

まぁ~、そんなことは差し置いて、
6弦ベースのアンソニー・ジャクソン、サイモン・フィリップス(ドラム)との3人のパワーバトルの凄まじさは、
JAZZやROCKはもちろんCLASSIC(演奏として)さえ含め音楽史に残ると言っても大袈裟ではないのではと思うのだが・・・。
ひとつ言えることは、昔ジャズ喫茶でよく見かけたスピーカー、アルテックA-7で聴きたくなるそんな1枚だったり・・・。
まっ、そんくらい感動しちゃったって事ですわ。

ヒラリー・ハーン

2013年12月14日 16時23分53秒 | 音楽
新宿の某大手CDショップのポイントが貯まってたのだが、
今月中に使わないと失効しちゃうってことで、
会社帰りにぶらりと立ち寄り特にこれといった目的意識もなく、
なんとなく棚を眺めている時にふと目についたのがこのジャケット。



なんせこんな美人なんで、前々からずっと気にはなってたんですけどね。
曲はバッハの超有名なバイオリン協奏曲、まぁ~これなら失敗はないやろって事で即決した訳やけど、
いやぁ~参りました、この人素晴らしい!。
美人故なのかどうかはさて置き、この人コンプレックスなんてものとは無縁なんやろか。
そう思ってしまうほど伸び伸びしている。
本当は相当なテクニシャンなんだろうけど、そんな事よりまず演奏を心底楽しんでますね~。
ノリがいいってやつでしょうか、音楽に没頭させてくれます。
こういうのを本当のテクニックって言うんでしょうね~。
こんなスカっとするビートの効いたバッハ、始めて聴いたような感動でありました。
あ~~っ、死ぬ前になんとか生を聴きた~~い!。
「天は進んで二物も三物も与えた賜う」・・・ってこのお嬢さんのためにある?、コワイコワイ(笑)。

でもまっ、何事も楽しむ姿勢を忘れちゃいけませんね~。
日頃の自分の生きた方をちょっと(と言うか、かなり)反省したりして・・・、
60前のオヤジにそんな事を思わせるなんて、やっぱただ者じゃないぞ、このお嬢。

ところでこのCD、とてもバランスの良い録音というか、
ウチのなんちゃってオーディオでも通奏低音の音階を明瞭に追って聴く事が出来て、
とても楽しい録音でありました。

Celebration Day

2013年12月01日 16時43分57秒 | 音楽
Led Zepplin 2007年ロンドンでの一夜限りの復活ライブ、
去年リリースされてましたがCD+DVD版が少し安くなってたのでようやく入手。
なんちゅうてもやっぱコレですわ。



プラントのボーカルは確かにパワーの衰えがあるかもしれないが、
声質があまり変わってないのが驚き。
ペイジとジョン・ポールについては衰えどころか老獪とさえ言えるテクニシャンぶりを発揮している。
亡きジョン・ボーナムの忘れ形見ジェイソン君のパワーも素晴らしい。
どうせ、よくある同窓会ライブだろうと思ってたら大間違いだった。
元々Zepplinはライブテイクごとの即興性の高いアレンジの違いが楽しいのだが、
こりゃもう見事の一言、クセになります。
ところでジョン・ポール・ジョーンズさん、ピアノとオルガンちょっと上手くなったんじゃないですか?(笑)

こいつはバックロードホーンで聴くのがとにかく最高。
いやぁ~スカッとした~。

貧乏オーディオのススメ

2013年04月14日 16時16分44秒 | 音楽
私は単なる音楽好きでオーディオマニアではない。
CDや音楽ソースに少しお金を使っても再生装置への出費は一定の音質は維持しつつも最小限に留めたい。
だからスピーカーなど自分で作れるものは作るという方針でもある。

アナログレコードの時代にはレコード針からカートリッジといった音の入り口が最重要で、
嘗てかく言う私もそこだけはSUERのV15という高級機と呼ばれる物を使っていたこともあった。

が、維持経費が嵩み過ぎるアナログレコードを諦めるとするとデジタル主流になってしまった今、
CDに限界を感じるマニアな人達はサンプリングレートの高いハイレゾナンスな音源を求めてPCを使ったオーディオに移行しつつあるのかも知れない。
しかし、そのような音源は高価なものばかりでソース自体も少なく加えて再生環境にも新たな投資が必要になるし、個人的にはあまり一般化して欲しくはない。
ひとつ忘れてならない重要な要素として、そうしたハイレゾと呼ばれる音源の録音環境という問題がある。
いくらデータとしての音源のスペックが素晴らしくても肝心の録音がきちんと為されていないと全く意味のないものになる。
何故そこが気になるのかというと、近年は音楽業界の不況のよるものか録音という工程に予算をかけずにとりあえず録音しておいて、
デジタル技術の進歩を良い事に後から音源を加工するという方法が採られているらしいからだ。
そうなると元の生な音がどうようなものであったのかなど想像することも出来なくなるし、
極端な言い方をすればそこには単に高度なスペックが残るだけで肝心の音楽がないということになり兼ねない。
そうした理由によるものかどうかわからないが、近年FM放送などから聴こえてくる流行の歌や曲を聴くと粗雑な音質に感じ歌や曲は良いのに残念に思うこともある。
若い人達の間では「耳栓」やヘッドホンが主流なので、それに合わせた音質なのかもしれないがそれにしても・・・。
ともかくこれからの音楽産業がどういう方向に向かうのかたいへん気になるところではある。

前置きがちょっと脱線してしまったが、何が言いたかったかというと音楽好きとしてのソースはまだまだまCDに頼る他はないということだった。
話を元に戻すとなんだかんだと言いながら今はCDプレーヤーが再生音楽の入り口と言うことである。

で、ここからやっと本日の本題。
実は7~8前に購入した激安7980円コンポ(今は無きAIWA製)のCDプレーヤーの調子がひと月ほど前からおかしくなった。
今はサブとして使っていただけだし、まぁ~いいやと思っていたのだが、やっぱりちょっと不便。
でも新たにCDプレーヤーを購入するのも当然もったいない。
そこでふと気がついたのが最近よく出回ってる激安DVDプレーヤーを流用したらどうかという事だった。



ちゃんと日本のメーカー製(当然中国生産だろうけど)某大手家電ショップで4380円だった。

とりあえず7980コンポの外部入力端子に繋いでみると、おやおや元の音より良さ気に聴こえるではないか。実用十分なオーディオ音質である。



使ってからわかったのだが、CDのトラックナンバーを表示する機能がない・・・演奏時間は表示されるのに・・・ちょっと不便なだけで必須ではないが・・・やっぱテレビを繋げってことか(笑)。



それにしても純粋にオーディオ機器として売られているCDプレーヤーのあの値段はいったい何なんだろう、まぁ~世の中プラシーボ効果によって生きてる人達がそれだけ多いって事でしょうか・・・。
旧態依然のオーディオ業界が難しいというのは一定理解はできますが・・・。

気になると、とことん気になるショスタコーヴィッチ

2013年04月08日 00時10分14秒 | 音楽
って訳で会社帰りについ買ってしまったショスタコーヴィッチのCD

弦楽四重奏曲と交響曲4番、13番。四重奏曲は前回記事の本を読んでからかなり気になっていたのだが、
交響曲の方は適当に買い易かったものを選択しただけ。
演奏者や指揮者の選択をどうしても迷ってしまうのは歴史的背景ノイズのせいか(笑)。
が、ショスタコーヴィッチに接する姿勢としては歴史背景を完全に忘れて、バッハやベートーベンなんかと接する時のように素直になった方が良い。
で、ショスタコーヴィッチほぼ初体験者としての感想は・・・。
一口で言うとなんと絶妙な音楽であることか、正直今まで彼の作品について全く無知だった自分に驚いてしまった。
楽譜も読めないただのリスナーでしかない私の印象など論理的な根拠は何もないのだが、
あの時代、あの国の状況を全て捨ててしまったところできちんと成り立つ音楽だと言う事がよくわかる。
世間の風評による先入観がどんなに災いしていたかという良い見本であった。

ショスタコーヴィッチについての一般的な印象は件の歴史背景のせいもあり重厚で重々しくオドロオドロしく難解だと言ったところだろうか。
しかし、私的には彼の作品の重々しさやオドロオドロしさは主には音楽史的理由によるもので、
一概に一般に言う歴史的社会背景を理由にするものでは無い気がする。
彼の音楽をじっくり聴くとどことなくマーラーあたりに繋がるものを感じることが出来るし、
計算し尽された調性感の壊し方は歴史的悲劇性の表現というより、
バロック時代から連綿と連なるヨーロッパ音楽が行き着く必然としての表現に違いない。
単に感覚的な重々しさやオドロオドロしさだけならシェーンベルクやベルクやバルトークの方が遥かに物凄いし、
そんなヨーロッパの先鋭的な作曲家と比べるとショスタコーヴィヴィッチには古典的な感覚が多く残っていてうんと聴き易い。
ただそれまでのヨーロッパの作曲家と違う部分があるとすれば、全てが計算し尽された推敲のうえに成り立っていて、しかもそれを聴いて感じることが出来るという事だろうか。
まさしくその部分にこそ彼が置かれた過酷な歴史背景が垣間見えるということか・・・。

彼が恐怖の時代を生き抜くことが出来たのは、彼の作品がそんな強固な音楽的根拠に根ざしていたからだと思われる。
スターリンにしろフルシチョフにしろせいぜいコサック民謡ぐらいしか(あくまで喩えとしてで、コサック民謡を悪く言うつもりはない)理解できない連中に、
ショスタコーヴィッチの極めて高度な音楽表現の本当の意味がわかったはずがない。
確かに彼はソヴィエトアカデミズムからいくつも賞を与えられているが、それは彼の権力への迎合というより、
西側への外交的牽制として彼の亡命を恐れた権力側が逆に媚を売った結果とも解釈できる。

彼が悲劇の作曲家であったと言えるとすれば、命がけだったが故にビートルズのように勲章を投げ返す事が出来なかったと言う点に尽きるのか・・・。
それはともかく彼は正真正銘「20世紀」の作曲家だったのだ、恐るべしショスタコーヴィッチ。

ショスタコーヴィッチの証言

2013年03月31日 17時10分20秒 | 音楽
風邪を引いたのかここ2~3日微熱が下がらない。体中節々痛いしとにかくダルくてしょうがない。
こういう時は好きな音楽を聴きながら寝てるのが一番、
調子の悪いときはヘンデルやヴィヴァルディみたいなバロック系の音楽が良いようで・・・。

先日会社の後輩がこんな本を貸してくれた。

後輩に言わせると2~3ページ読むとすぐ眠くなり睡眠誘導材にちょうど良いとのことであったが、
私にとっては興味深い事ばかりで、たいへん面白くあっという間に読めてしまった。

私にとってショスタコーヴィッチは一番わかり難い作曲家という印象が強かったのだが、
それは曲自体の難しさという意味ではなく、彼自身の置かれた環境とその関係性のわかり難さにあったのである。
もちろん作曲された作品の良し悪しはそんな事とは無関係な事なのだが、
そこはやはり、およそ芸術表現というものにとっては、戦前戦中の日本の環境やナチスドイツでの環境などより、
遥かに過酷でおそらくは人類史上最悪と思われるスターリン時代のソ連でのことである。
彼がグラズノフやストラヴィンスキーのように亡命しなかったのは何故か?などなどなかなか想像の及ばない事柄が多すぎたのだ。

彼がスターリンに迎合していたのか、そうでないのか?とか、社会支配体制と芸術表現の関係性は如何にとか、
そんな事は全て表層的な事柄で、実際そんな環境の中で生きている人間にとってはどうでも良い瑣末な事柄である。
ショスタコーヴィッチが亡命しなかった理由はおそらく彼自身の国や社会に絶望していたのと同程度に西側社会にも絶望(絶望の予感というものかもしれない)を感じていたのだと私は想像する。
この事について彼自身はこの本の中であまり多くを語っておらず、読んだ印象から受ける推測に過ぎずしかもしっかりした論拠がある訳でもない、ただ何となくそう感じるのである。
おそらく彼は社会とか体制とかはたまた歴史とか、とかく言葉によって語られる事柄を拒んだより深い次元の人間を音楽によって表現したかったのだろう。
こういう風に口にしてしまうと、あらためて言う事でもない当たり前の事になってしまうが、当たり前の事を当たり前のようには口に出来ないほどに私自身が私自身の置かれた地域的歴史的社会的環境にどれほど惑わされいるかという証明なのだろう。

そう思って余計な事を考えず、素直に彼の音楽を聴き直してみると(とは行っても今は手元には交響曲5番と7番のCDしかないが)、
しごく当然だが全く別の音楽に聴こえてくる。
多分彼の本当の真価が正しく評価されるのはまだまだ時間の経過が足りないのかもしれない。

どっちにしても彼の音楽をもっとたくさん聴きたくなった。

最近ハマッてるCD

2013年02月24日 14時24分02秒 | 音楽
意に反してというか即してというかどっちでも良いのだが、
(どっちでも良いというのはどっちにしても儲からないという意味である)
ともかく忙しくなってしまったので、しばらくCGはお休み。

って事でこういう時こそ今まで作ってきたスピーカー達に癒しを求める事になる。
とは言ってもスピーカー達も鳴らす音楽ソースがないと話にならない。

で、ここ1~2年すっかりハマっているのがインディア・アリー。


日本での知名度は今ひとつの感があるが、
アメリカではグラミー賞のおなじみさんだったりで人気のシンガーである。
とにかくこの人、60年代~90年代のありとあらゆる音楽ジャンルのエッセンスを吸収してきたという感がありつつ、
とりわけ70年代のスピーディー・ワンダーの影響を強く感じるが、それ以上にジャズ、ロック、ソウルなどのジャンルを問わず、
ポピュラー音楽の正統な継承者としての資質を彼女に認めない訳には行かない。
60年代後半~70年代前半に音楽的な青春期を過ごしたオヤジとしては、そこが一番カユイ処に手が届いているという感じでとにかく嬉しい。
おねぃちゃんボーカルが好きだけどノラ・ジョーンズじゃちょっと食い足らないという人にちょうど良いかも。