彼らは日本人でもないのに「戦犯」という途方もない不名誉を着せられ、祖国は彼らを「対日協力者」とみなして見向きもしなかった。彼らはみな「我々の犠牲と死は一体誰のための、何のためのものだったのか」

2021-05-08 07:41:42 | 歴史に照らして整合性を!
 

[寄稿]「朝鮮人BC級戦犯」と国家の罪

登録:2021-05-07 03:08 修正:2021-05-07 07:36
 
 歴史上、国家は誰も触れることのできない偶像として君臨し、最も恐るべき暴力と殺傷をふるってきた。国家から偶像の仮面をはぎ取り、全能の絶対権力を剥奪できるのは、理性と倫理で武装した「目覚めた市民」だけだ。国家は国民に仕える僕とならねばならない。国民が国家という偶像に仕える僕となってはならない。
 
//ハンギョレ新聞社

 3月28日に日本で96歳の在日同胞が脳出血で他界した。名は李鶴来(イ・ハンネ)。1925年に全羅南道宝城(ポソン)で生まれた彼は、1942年春のある日、突然村の村長に呼び出された。「総督府で南方捕虜監視員の募集があったんだが、お前が行け」という通告だった。2年勤務で給料も出るという。17歳の少年は、軍に徴兵されるよりはましだと思った。軍属としてタイとビルマを結ぶ国境地帯の鉄道建設現場に派遣され、連合軍の捕虜を監視することになった。1941年12月に太平洋戦争を引き起こした日本は、東南アジア戦線のあちこちで勝利を収め、連合軍の捕虜は数十万に達した。捕虜を監視するため、3000人以上の朝鮮人青年が動員された。李さんが配属されたのはタイで、映画『戦場にかける橋』で有名になった地域だ。日本軍は捕虜たちに食糧と医薬品もまともに支給せず、過酷な労働を強いた。切り立った断崖を挟んで線路を建設する難工事は、多くの捕虜たちの命を奪った。

 李さんは、日本軍の工兵隊が要求する労役の人員を毎日選び出すため、捕虜側の代表とよく衝突した。捕虜の保護を規定した「ジュネーブ条約」などは聞いたこともなく、服従しない者は容赦なく殴る、というのが彼の受けた日本軍の教育のすべてだった。日本軍の道具として動員された朝鮮人捕虜監視員のうち148人は、連合軍による戦犯裁判で捕虜虐待の有罪判決を受け、23人には死刑が執行された。李さんもシンガポールで開かれたオーストラリア軍の軍事裁判で、たった2回の公判で死刑宣告を受けた。死刑囚監房に一緒にいた仲間たちが次々と刑場に呼ばれて出て行く恐怖の収監生活が8カ月続き、ある日懲役20年に減刑された。収監生活中、作業時間が終わると、彼は本を読んで学習を始めた。自分に着せられた無念の運命の理由を求めて、植民地の民だった自分が「加害者」へと化けた経緯を振り返った。日本という国家が行った不義と不条理に、言葉では言い表せないうっ憤を感じた。「私がその戦争に参加していなければ、このような逆境に陥ることはなかったのに…。戦争こそすべての害悪の根源だ」と彼は手記に書いた。李さんは自分を戦争に加担させた天皇制ファシズムを憎み、晩年はひたすら平和のための活動を求めた。

 日本は1952年のサンフランシスコ平和条約発効後、朝鮮人たちの日本国籍を剥奪し、福祉と援護の対象からも除外した。孤立無援となった人たちの中には、生活苦で自ら命を絶つ者もあった。1955年、70人あまりの朝鮮人BC級戦犯は「同進会」という自治会を結成し、日本政府に援護と補償を要求した。しかし1965年に韓日協定が締結されたことで、日本政府は「日韓間のすべての問題は解決済み」として、彼らを相手にしなかった。彼らは日本人でもないのに「戦犯」という途方もない不名誉を着せられ、祖国は彼らを「対日協力者」とみなして見向きもしなかった。彼らはみな「我々の犠牲と死は一体誰のための、何のためのものだったのか」と叫びながら、一人また一人とこの世を去っていった。

 1990年代初めから、李さんと仲間たちは日本政府の謝罪と補償を求める法廷闘争を開始した。良心的な日本人(内海愛子・恵泉女学園大学名誉教ら)も彼らを支援し、連帯した。しかし日本の最高裁は1999年12月、「補償の必要性は認めるが、国の立法政策に属す問題」と規定し、原告敗訴の判決を下した。2008年5月、日本の国会の民主党議員たちが被害者1人当たり300万円の補償金を支給する法案を作成したが、国会議員の多くの無関心により廃案となってしまった。日本帝国は朝鮮の植民地化後、朝鮮の幼い10代の少年たちに、天皇のために命を捧げるのが皇国臣民の道理だと洗脳し、戦場に徴発した。この少年たちは東南アジアの密林の中で日本軍の手下となり、最悪の鉄道工事に動員された連合軍の捕虜たちを働かせて、「戦犯」というおぞましい容疑で法定最高刑を言い渡された。日本という国家は、何も知らない純真な他国の少年たちを連れて行き、戦争の元凶の罪を着せた。死刑になったり、長期刑を経て一生を罪人として隠れて暮らしたりした彼らは、日本という国家が犯した罪と不条理の犠牲者であり、被害者だ。

 李鶴来さんと仲間たちの悲劇的な話に接し、すぐに思い起こされたのは米国の始めたベトナム戦争に参戦した韓国軍人たちだ。私は2年前にベトナムのクァンナム省フォンニィ・フォンニャット村を訪れたことがある。ベトナム戦争当時、民間人が韓国軍によって集団殺害された場所だ。稲が青く育った野に74人の犠牲者の慰霊碑が立っていた。この村にはもともと南ベトナムの軍人の家族も多く住んでおり、韓国軍は味方だと思っていたという。ところがある日、韓国軍が村の横の道路に沿って行進する途中、村に向かって進入しはじめ、住民に無差別に射撃を加える事件が起きた。当時8歳の少女だったグエン・ティ・タンさんは、数人の生存者の一人だ。彼女も腹を撃たれたが、九死に一生を得た。母親と家族5人をすべて失ったグエン・ティ・タンさんは、2020年4月に大韓民国政府を相手取って損害賠償請求訴訟を起こした。裁判所は4月13日、国防部と国家情報院に対し、ベトナム戦争当時の韓国軍による民間人虐殺の関連資料の提出を求めた。

 ベトナムに派兵された軍人たちも、最初は生きている人に向かってなかなか引き金が引けない純朴な若者たちだった。しかし参戦軍人たちは告白する。戦闘が起こり、そばにいた仲間が血を流して敵の銃弾に倒れた瞬間、そこは地獄と化し、倫理や理性と決別することになると。目の前に登場する相手が軍人なのか民間人なのかを区別する余裕はないという。戦争が終わって家に帰ってきた兵士たちはひどく病んだ。自ら命を絶った人たちもいる。まだ深刻なトラウマを抱え、家族にも話せず、夜中に一人悪夢にさいなまれる人々がいる。国家が犯した罪の被害者だ。

 個人が罪を犯した時は審判が可能だ。国家権力を行使する個人も審判を受けさせることができる。しかし「国家」は最高の権威と権力の座を保有しているため、これを審判する者はいない。歴史上、国家は誰も触れることのできない偶像として君臨し、最も恐るべき暴力と殺傷をふるってきた。国家から偶像の仮面をはぎ取り、全能の絶対権力を剥奪できるのは、理性と倫理で武装した「目覚めた市民」だけだ。国家は国民に仕える僕とならねばならない。国民が国家という偶像に仕える僕となってはならない。

 
//ハンギョレ新聞社

カン・ウイル・ペトロ|カトリック司教 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )


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