[寄稿]南北対決時代の新たな朝鮮半島統一論
キム・ヨンチョル|元統一部長官・仁済大学教授
南北の両方から統一が消えた。7月、現代グループのヒョン・ジョンウン会長が統一部に北朝鮮訪問を申請した際、北朝鮮の外務省が事前に「拒否」した。韓国の統一部に相当する北朝鮮の「祖国平和統一委員会」は、2019年8月の「南北対話中断」を宣言した談話以降は休業中で、委員長も長期にわたり空席だ。尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権も同じだ。人事と組織改編を通じて事実上の統一部廃止に着手した。「統一」への道が失われた。
戦後70年の年月で、このような「対話の不在」の長期化は初めてだ。かつて最も長きにわたり対話が途絶えたのは、1980年8月から1984年4月までの約3年8カ月だった。2018年12月の南北体育分科会談が最後であるため、「公式の対話」が消えてから4年8カ月を超えた。今後、当面の間は対話が再開される可能性もない。いつか水面下での対話は再開できるだろうが、公式の対話がなければ続かない。公式の対話を担当する統一部ではなく、水面下の対話を担当する情報機関に依存する方式は時代錯誤だ。
金正恩(キム・ジョンウン)体制における「失われた統一」は、南北関係の悪化を反映している。金正日(キム・ジョンイル)体制では民族を強調したが、金正恩体制は国家を強調している。金正恩体制で、国家を強調する歌を普及させ、国家のシンボルを作り、国家体育を強調する「国家第一主義」は、統一論と衝突する。南北関係が悪化し統一論としての民族という言説も消えた。「わが民族同士」という言葉が消えたのはかなり前だ。
北朝鮮の統一策は伝統的な高麗連邦制から、1991年には「緩やかな連邦制」に、2000年の南北首脳会談では「低い段階の連邦制」へと着実に変化した。他の分断国の事例をみれば、国力が弱い側は概して連合や低い段階の連邦制を主張し、国力が強い側は統合水準が高い連邦制を主張する。弱者は吸収に対する恐れのため敷居を上げ、強者は吸収する自信から統合の敷居を下げようとする。韓国と北朝鮮の国力の差が比べ物にならないほど広がった現状では、北朝鮮が連邦制から連合制に近い統一案に切り替え、統一への言及を減らすのは自然なことだ。これに対して、韓国の保守派が連邦制を主張するのが正常だが、残念なことに、彼らの認識は1950年代で止まっている。
分断の年月の間、保守勢力はしばしば統一についての議論を国内政治的に悪用した。朴正煕(パク・チョンヒ)政権は、7・4南北共同声明を維新体制推進の背景とし、金泳三(キム・ヨンサム)政権は、対北朝鮮政策を保守結集の機会に利用した。李明博(イ・ミョンバク)政権に続き尹錫悦政権は、北朝鮮に対する敵対政策が作り出した空白を、「吸収統一論」という理念で埋めようとしている。吸収という理念とは違い、対決政策は逆に二つの国家の実存を証明する。理念と現実の矛盾であり、残るのは統一問題の国内政治的な悪用だけだ。
対決の時代が長引き、二国家論が流行のように登場した。隣国として、国家と国家として併存すれば、問題が解決されるのだろうか。南北関係を国家間の外交でアプローチするのが難しい理由は、民族内部の関係が持つ特殊性によるものだ。そのような点から、1991年の南北基本合意書で南北関係を「統一を志向する暫定的な特殊関係」と規定したことは、今でも有効だ。ここでの特殊関係は、「二つの国家」という現実と「一つの民族」という使命の二重性だ。二つの概念の間の均衡点が、新たな統一論の重要な課題だ。
ドイツの事例は示唆する点を与える。1973年、バイエルン州政府が1972年の東西ドイツ基本条約は統一の使命を明記した基本法に反するため違憲だとして訴訟を起こした際、西ドイツの連邦憲法裁判所は、この条約が「性質上は国際法的な条約だったとしても、内容上は内的関係」だとしたうえで、「再統一の使命に違反していない」とする判決を下した。分断国家の特別な二重性を考慮したのだ。ヘルムート・コール首相が1982年の就任演説で「ドイツには二つの国家があるが、一つのドイツ民族がある」と宣言したのもやはり暫定協定の知恵を発揮したものだ。
民族主義的な統一論は説得力を失ったが、それでも二国家論は代案にはなりえない。分断の克服なしに二つの国の正常な関係は不可能だ。解放と分断、そして戦争と戦後の秩序は、南北の二者関係ではなく国際的な力の衝突と協力よって決定されたが、民族内部の関係の特殊性を否定することで、はたして朝鮮半島の運命に対する自己決定権を維持できるのだろうか。統一部を廃止しても統一の使命は消えないように、分断の現実を忘却しても分離体制は消えない。
キム・ヨンチョル|元統一部長官・仁済大学教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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