フリードリヒの日記

日常の出来事を、やさしい気持ちで書いていきたい

「共同幻想論」を読んで思ったこと

2011年06月08日 01時22分49秒 | 読書・書籍

 古本屋で買ってきた吉本隆明氏の「共同幻想論」をパラパラとめくってみる。この本はこれから先も長いスパンで読み継がれていくだろうなぁという予感がする。
 大学の授業で無理やりこの本を買わされて、何だこれはさっぱり分からないじゃないかと思ったのが、この本との出会いである。しかしながら、分からないながらも、遠野物語や古事記など例にあげながら、また、マルクス、ヘーゲル、フロイトなどの思想をも駆使しながら丁寧に論述されていることに、ある種の畏敬の念を抱いていた。吉本氏がよしもとばななの父親ということも興味をひいたひとつだと思う。

 小林秀雄は、個人の体験や内面を徹底的に追求することによって、狭い道から広い人間社会という道につながり、それが政治思想を創りだすのだと言っている。しかし、吉本氏はそのように方法では、戦争に突入していった愚かな日本の政治を、変えられなかったではないかとの問題意識がある。彼は、戦中に学生だったが、日本の愚かな政治状況を見抜けなかった。それは、相対的な視点、つまり外側から客観的に自分たちの状況を把握する視点が欠けていたことが問題であったことに気づくのである。だから、文学的な人間の内面だけを追求するやり方だけでは、不十分だとするのである。
 共同幻想論は、国家の成り立ちを根源的なところから考える壮大な試みである。戦中に日本国民を抑圧した国家という存在の謎を解明しようとする試みであるとも言える。
 つまり、人間の自由をより良く享受しようと思ったら、私たちを守ってくれる国家という安全装置を作り出し、そこで安全に生活するのがいい。しかし、その国家が逆に私たちを抑圧する装置にもなりうる。その矛盾した関係を、自己幻想(個人の内面の問題)、対幻想(男女間、家族の問題)、共同幻想(国家、規範の問題)に分けて、論証していく。

 日本人は、敗戦の時にうやむやにされてきた思想的問題をまだ解決出来ていない。戦争に負けたとき、まず最初にやらされたことは、戦争をした人たちを否定することである。つまり、それは、自分たちを命がけで守ってくれた身内の戦士たちに唾を吐きかけることである。
 命がけで守ってくれた人たちをないがしろにしてはいけないと考える人たちは右に行き、戦争という人殺しは絶対に悪いんだと考える人たちは左に行った。どちらの言い分もそれだけを取り出せば正しいのだが、両者は引き裂かれ分裂してしまった。
 戦後の日本はこのような問題を曖昧にしながら、経済発展という新たな目標を見つけて皆一生懸命頑張ってきたが、バブルがはじけ経済発展もままならなくなり目標を失ってしまった。国家としてどう進むべきかわからなくなって、またこの問題が表面化してきたのだと思う。みんな忘れているが、そもそも民主党が参議院選挙で負けてねじれ状態になったのは、鳩山由紀夫の普天間問題の曖昧さが原因である。あそこで民主党が勝っていれば、少なくとも今のような法案が通らないなどという政治的混迷はなかった。
 ただ、護憲派の旧社民党の人間を多く抱え込んだ民主党は、自衛隊の処遇という問題をいつも喉元につきつけられている。特に、東北の地震で自衛隊に助けられたあと、どうするのだろうか。軍隊の問題を曖昧にしたままで、政権を維持していくことは難しい。いつか普天間のような問題が再燃する。そうなれば、誰が総理をやっても民主党政権は、短命に終わってしまうだろう。

  
これからの日本の共同幻想(国家観)を、どのように作り出していくかをはっきりさせなくては、日本人の精神的安定は望めない。日本の歴史をもう一度検討しつつ、日本の進むべき方向を考えていかなければ、本当の意味での政治的混乱はなくならないと思う。
 吉本氏の仕事は、共同幻想(国家観)の成り立ちを分析することで、これからの国家観をどうつくっていくかのヒントを提示している。この問題意識を私たちは有効に受け継いでいかなくてはならないだろう。
 彼は外国の思想を翻訳しコピーしただけではない日本人固有の稀有な思想家であると思う。

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