南アルプス縦走のブログは、写真やらなんやらで時間がかかるので、もう少しお待ちを。
今日は、読んだ本について。
南アルプス縦走に、京極夏彦のデビュー作、「姑獲鳥の夏」を持っていった。
縦走登山の場合、夕方の2時か3時にはテントに入って休んでいるので、何か読む本を持っていく。
ただ、疲れているので面白い本じゃないと読む気がしない。そこで、面白いという評判のこの本をわざわざ読まずに取っておいた。
結論を言うと、すごーく面白かった。
面白すぎて寝れなくなり、睡眠時間が削られるのが怖くて、読むのを強制的に中断したくらいだ。
簡単なあらすじを言うと、主人公の陰陽師である京極堂が、妖怪、幽霊、化物のお祓いをして、事件を解決していく物語である。
このように書くと、オカルト小説と思われるかもしれないが、微妙に違う。
京極堂は、人間が妖怪や幽霊などの幻覚を見て、民話などにまで高められていく様を、脳科学、物理学などを駆使して説明する。それが、人々の生活にまで入り込んでいくさまを冷徹に分析している。
しかし、彼はそのようなオカルト的なものが「ある」とも「ない」とも言わない。
そういうものが、「あるかないか」はそれほど重要ではなく、重要なのは幽霊が人間に与える影響なのである。
つまり、その幽霊が人間に悪影響を与えている場合に、それを取り除くことが重要なのである。
例えば、お釈迦様が、矢の刺さった人に「人生に生きる意味があるのか」を問うよりも、さっさと矢を抜いてあげなさいと言ったことと共通するのかもしれない。
苦痛を取り除くための手段は何でもいい。オカルトが効くのであれば、オカルトを使えばいい。
京極堂は、人々が主観的に囚われている「呪い」を、軽快に解いていく。
従来、ミステリーの謎は科学的、客観的な証拠で解いていくのが、普通であった。
しかし、この小説の面白さは、人間の主観的な囚われ、つまり、「呪い」を解いていくことによって事件を解決していくことだ。
呪いは、言葉によって作られる。言葉に実体はない。犬という言葉は犬そのものではない。
しかし、実体は無いが、人間は言葉にとらわれる。
言葉は、過去の記憶によって紡ぎ出される。
だから、呪いを解くということは、過去の記憶の呪縛から開放することなのである。それには、呪いとしての言葉を溶かして壊していかなくてはならない。そのために、オカルトが必要ならオカルトを使う。
私もオカルト的なものについて、あれこれ考えてブログにもずいぶんアップしてきた。
その結果、思ったことは、本人が主観的に見た幽霊は、本人にとっては存在するということである。客観的は存在しないが。
作者はそのようなことを啓蒙するべく、小説の形にしたのだと思う。10年以上前にこんなすごい小説を出していたとは。もっと早く読めばよかった。
ただ、このようなことに全く興味がない人は、前半の京極堂と関口先生の議論は、小難しくて読みづらいかもしれない。しかし、登場人物の魅力にぐいぐい引っ張られるから心配はない。
そうだ、言い忘れたことがあった。
物語りは関口先生の視点で進んでいく。関口先生は、京極堂の友人で、ちょうどシャーロック・ホームズのワトソン君に当たる。
関口先生を含めその他の人物のキャラ設定が卓越しているのもこの小説の特徴だ。キャラの魅力が、小説を読み進める上での推進力の役割をしている。
今、京極堂の第二弾、「魍魎の匣」を読んでいるところだ。 良い小説を見つけた。