前に話題になっていたダビンチコードをTVでやるというので観た。人によって評価が賛否両論だったのだが、個人的にはまあまあ面白かった。
支配者は自分たちの権力の正当性を根拠つけるために神の権威を利用する。そしてその拡大と維持のために布教がなされる。しかし権力者に歯向かい脅威になる者たちが必ず現れる。その者たちは権力者に迫害される運命にある。ダビンチコードは権力の目から逃れるためにメッセージを暗号にしその大切な秘密を守っていく物語だ。
映画の中に「教会ってどこも気持ちが悪い」というシーンがあったが、私もそう思う。死と権力者のにおいがプンプンするからだろう。
神父は信徒たちに自己の犯した罪を告白させ、来世における魂の救済を行う。しかし違う視点から見れば、信徒たちを救うふりをして、彼らを精神的な支配下に置くのだ。そのために罪を告白させるともいえる。それにより権力者の末端までの支配を完結させるのだ。このことを指して、ニーチェが「傷の痛みを鎮めながら、同時に傷口に毒を塗るのだ」といった。
どの時代も、もちろん現在もそうであるが、宗教は権力の拡大と維持のために利用される。信徒は自己の魂の救済のために信仰したのに、その宗教のために命を投げ出してしまう。その信徒が妄信的であればあるほどそうなる。完全な矛盾である。
しかし私は無神論者ではない。神がいるかいないかだったら、いるほうに賭ける。ただ権力者の支配下に置かれるのはごめんだ。自我を他人に預けず宗教の問題を考えることは可能だと思っている。
そんなことを考えながら映画を観ていた。
日常的な深い思索の影を感じます。
私はいない方に賭けますよ。
ちなみに「牧師」はプロテスタントらしいけど・・詳しかったら今度教えてください。