ふたりで生きようね
柿が熟した田舎町を抜け、山道を進む。窓をすかすと、ひんやりした風が車内で渦を巻く。冷水で顔を洗ったようで清々《すがすが》しい。
ヘアピンカーブが連続する厳しい道を想像していたのだけど、比較的なだらかだ。思ったより楽に運転できる。遥は、かくんと首を折り曲げて熟睡したままだった。近頃は寝つきの悪い夜が続いていたけど、今日はよく眠っている。悪い夢にもうなされていないようだ。
ゆるやかな峠を越えて、狭い盆地へ向かっておりる。ところどころ色づいた林の向こうに、冬枯れた田んぼが広がっていた。細い川が盆地の真ん中を流れている。
山を降りたところに道の駅があったので、いささかくたびれた僕は駐車場へ入った。まだ早朝だから車の姿はまばらだ。おばさんが土産物コーナーのシャッターを上げている。
サイドブレーキの音で遥が目を覚ました。
「着いたの?」
うっすらと目を明けた遥は伸びをする。
「まだだよ。すこし休憩しよう。遥は顔を洗ってきなよ」
僕はあごあたりを指差した。
「えっ? うん」
遥は気恥ずかしそうにうなずく。よだれの痕《あと》がついていた。よほどぐっすり眠れたんだなと思って、僕は安心した。トランクを開けてボストンバッグを出した。洗顔セットを手にした遥は、さっそくお手洗いへ行った。
駅の裏手に和風庭園があった。鯉の泳ぐ池を囲むようにして松や梅が植わっている。きれいな芝生が庭全体を覆っていてさわやかだ。庭の片隅には信楽焼きのたぬきが「いらっしゃい」とでも言いた気に楽しそうな表情で立っていて、名前も知らない小鳥たちが梅の枝にとまっては飛び立つ。
僕たちは、池のほとりのベンチに腰かけた。遥が寒そうにしたから、僕は自分のジャンパーを脱いで、遥に羽織らせた。
「ゆうちゃんは寒くないの」
「平気だよ。お腹は空いた?」
「ちょっと空いているかな」
「朝ごはんにしよう」
僕は弁当箱を開けた。おにぎりにお新香をそえただけのシンプルな弁当だ。昨日、僕が作った。
「梅干とかつおぶしとこんぶがあるよ。どれがいい?」
「かつおぶしがいいな」
「この二つだよ」
僕は真ん中に並んでいるおにぎりをさし、
「お茶はここにあるから」
と、魔法瓶をふたりの間に置いた。
「いただきます」
遥は、海苔を巻いたおにぎりをちいさくかじる。
「おいしいわね。ゆうちゃん、上手ね」
「おにぎりくらい僕だってにぎれるよ。ほら、中学校の卒業式の次の日もさ、僕がおにぎりを作ってハイキングに行っただろう」
あの日、僕は遥を誘って渓流沿いのハイキングコースを歩き、山の中にある池へ行った。遥は入院したお母さんの看病や家事で忙しかったから、僕が弁当をこしらえることにしたのだった。
「あのスクランブルエッグを作ってくれた時ね」
「卵焼きのできそこないのね」
弁当に卵焼きを入れようと思って挑戦してみたのだけど、うまく作れなかった。卵を折りたたむのがむずかしい。しかたないからかきまぜて、スクランブルエッグにしてしまった。火加減がわからず、いささか焦がしてしまった。
「ふつうにおいしかったわよ」
「それならよかったんだけど」
「そういえば、あの日、ゆうちゃんは元気がなかったわね」
「そう見えた?」
「うん」
「実はね、遥に告白しようと思って、ラブレターを用意していたんだ。僕たちは別々の高校へ行くことになっていただろ。だから、どうしても僕の気持ちを伝えておきたかったんだよ。それで、緊張していたんだ。どきどきし通しだったよ」
あの日の光景が脳裡によみがえる。遥は紺色のリュックを背負っていた。あの頃のふたりがなつかしい。
「ボートに乗ったとき」
僕たちはふたり同時に言った。
「遥、なに?」
「いいのよ。ゆうちゃん、言ってよ」
「池でボートを漕いだ時、その手紙を渡そうと思ったんだけど、遥は僕を避けているような素振りだったから、とうとう渡せなかったんだ。なんだか怒っているみたいな感じがしたし」
「怒ってなんかいなかったわ。とまどっていたのはあったかもしれないけど」
「中三の時、誰かほかに好きな人がいたの?」
「ううん」
遥は首を振る。
「私もね、ゆうちゃんのことが好きだったの。机の引き出しを引いてはゆうちゃんといっしょに撮った写真をなんども眺めたり、一晩中、ゆうちゃんのことを考えて眠れなかったこともあったわ。ゆうちゃんがわたしのことを好きなのはわかっていたから、早く自分の気持ちを打ち明けてくれないかな、なんて思っていたこともあったの」
「ばれてたんだ」
「わかるわよ。だって、ゆうちゃんはいつもわたしのほうを見ていたじゃない。授業中も、掃除の時も、部活で校庭を走っていた時だって」
「なんだ。それだったら、あの時、思い切って渡せばよかったね。あの手紙は一週間くらいかけて何度も書き直したんだよ」
「渡してくれなくてよかったわ。あの時、もしゆうちゃんがわたしに告白したら、いいお友達でいましょうって言うつもりだったの。もしそうしてたら、こうしてふたりでいっしょに過ごすこともなかったかもね。ゆうちゃんはもっと素敵な人を見つけていたかもしれないわ」
「どうして断るつもりだったの?」
「怖かったのよ。男の人がみんな怖かったわ。――じつはね、高校の合格発表があった後、あの人から電話があったの」
「お父さんから?」
「うん。あの人の家でいっしょに暮らさないかって。高校生になるのを機会に、わたしを取り戻そうとしたのよ。もちろん、断ったわ。そんなつもりなんてぜんぜんないもの。お母さんをいじめたあの人を憎んでいた。今も、これからも、ずっとそうよ。あの人をお父さんなんて呼ぶことはないし、許すことなんてないわ。お母さんが鬱病になったのはあの人のせいだもの。
それでね、たぶん電話じゃすまないだろうなって思っていたら、案の定、あの人はうちへやってきたの。うわべだけの笑顔でわたしを説得しようとしたわ。いっしょに暮らせば経済的にも安定するし、家事はおばあちゃんが全部やってくれるから自分のことだけに専念すればいい、進学塾でも習い事でも好きなことをやらせてやる、将来のことを考えたらそのほうがぜったい得だとかなんとかいいことばかりいってね。まるでセールスマンよ。
わたしがどうしても首をたてに振らないものだから、あの人はやっぱりキレて怒鳴り始めたわ。でも、わたしに直接怒らずにお母さんの悪口ばっかりいうのよ。お前はお母さんを信用しているかもしれないけど、とんでもない女なんだって。聞いていられなかった。そばで坐っていたお母さんは泣き出しちゃうし。
あの人は、俺の言うことを聞くまではぜったいに帰らないっていう態度だった。しかたがないから、わたしは警察へ電話をかけて、お巡りさんにきてもらったの。駆けつけてくれたお巡りさんに、お母さんとあの人の離婚協議書のコピーを見せて、困っているから追い払ってほしいってお願いしたら、あの人は急に態度を変えてぺこぺこしだして、それでようやく退散したわ。警察沙汰になったら困るものね。
そのあとがたいへんだったわ。お母さんはひどく傷ついてしまって、また具合が悪くなってしまったの。結局、入院するよりほかに手立てがなかったわ。あの人がこなければ、あんなことにならなかったのに。わたしはわたしで、どうしようもないくらい落ちこんじゃった。高校に合格してほっとした矢先だったのにね」
遥は、やりきれなさそうに首を振った。
「そんなことがあったんだ。どうして話してくれなかったの」
「ゆうちゃんにも話せないくらいふさぎこんでいたのよ」
「それにしてもさ、それでどうして僕まで怖くなってしまうの? たぶん、僕は遥のお父さんと正反対の性格だよ」
「わかっているわ。わかっていたのよ。でも、もしゆうちゃんがあの人みたいになったらどうしようって思ってしまったの」
「遥をなじったり、いじめたりするってこと?」
「そうよ」
「そんなことしないよ。今まで一度もないだろ」
僕は、ついむっとしてしまった。
「怒らないで。わたしはどうかしていたんだわ。素直にゆうちゃんの愛情を受けとればよかったのにね。よけいなことは考えずに、素直に好きだって思っていればよかったのよ。――あの日、わたしはゆうちゃんに悲しい思いをさせてしまったのね」
「そんなことないよ。あの後も、遥は僕と会ってくれたんだし。――むっとしてごめん。遥の気持ちはわかる気がするよ。小さい時にいっぱい怖い思いをしたから、その恐怖感がどうしても抜けないんだよね。でも、遥のお父さんはもうこないから」
家族のもめ事のせいで自分の人生を思うように生きられない遥がかわいそうだ。家族という名の泥濘《ぬかるみ》に足を取られたのでは、たまったものではない。
「そうだといいけど」
遥は自信なさそうにつぶやく。立ち直りかけては悪いことが起きてだめになってしまう、そんなことを繰り返しすぎたからだろう。
「遥のお父さんには僕たちの住所も電話番号も教えていないんだろ」
「うん」
「だったら大丈夫だよ。もう忘れていいんだよ」
「忘れたいわ」
「今までのことはみんな忘れていいんだよ」
僕は遥を抱きしめた。遥の体温だけがあたたかい。
「大切なのはこれからだよ。ふたりで生きていこうね」
そっとくちづけをかわすと、僕の頰に遥の涙がつたう。遥の唇は、おにぎりの海苔の香りがほのかに漂った。
「ごめんなさい。せっかくの旅行なのに泣いたりして」
「いいんだよ。でもさ、ひとつだけ約束してよ」
「なに?」
「今日はなにも考えないで景色だけを楽しもうよ。ほんとに、なにも考えなくていいんだよ。それから、温泉につかってのんびりしよう。なにも考えちゃだめだよ」
「約束するわ」
遥は白い手で頰をぬぐいながらうなずく。僕は遥の背中をさすり、大丈夫だからと何度も繰り返しささやいた。