風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

ポルトガル・マデイラ島の旅 ~海辺の光景2

2012年08月31日 07時11分07秒 | フォト日記
 
 大西洋に浮かぶ島。ポルトガル・マデイラ島の写真の続き。
 

 

 ポルトガル・マデイラ島のフンシャルの町。


 



 

 海辺に残る古い城塞越しにフンシャル港を眺める。


 

 城塞の門。


 

 城塞の近くの岩浜で海水浴を楽しむ人々。


 

 

 


 

 早朝、まだ誰もいない海辺のテラス。


 

 波に揺れる漁船。


 

 城塞の見張り台の窓越しに青空と蒼い海。



ポルトガル・マデイラ島の旅 ~海辺の光景1

2012年08月29日 07時27分29秒 | フォト日記

 ポルトガルのマデイラ島へ行ってきた。

 

 マデイラ島は大西洋に浮かぶ小さな島。ポルトガル本土から飛行機で1時間半ほどのところにある。
 人間が住み始めたのは今から五百年ほど前。
 ポルトガルの植民地となり、大航海時代は新大陸への中継港として栄えた。
 気候は常春。夏はバカンス客が訪れ、冬はヨーロッパの避寒地となり、豪華客船が入港する。


 

 マデイラ島の中心地フンシャルの街並み。きれいな瓦屋根が続く。
 なにもないけれど、ぶらぶらと散歩するだけで楽しい町だ。


 

 

 フンシャル港。小さな静かな港。


 

 港にはヨットが多数停泊している。


 
 
 
 
 港を出港した遊覧船。大航海時代の船を模している。


 

 

 カヌーをする人や釣人が、思いおもいに海を楽しんでいる。


 
 
 ステーキの月桂樹刺し。マデイラの名物料理。


苛政は虎よりも猛なり(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第123話)

2012年08月28日 16時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 一般的には、「苛政は虎よりも猛(たけ)し」という読み方が流布しているかもしれない。この故事成語は『礼記』に載っている。
 ある未亡人が墓の前で泣いているのを孔子が見かけた。嘆き方があまりにも激しいのでその訳を問うと、彼女は義父も夫も息子も、虎に襲われて死んでしまったという。むりもないだろう。孔子がどうして他所の地へ移らないのかと訊いたところ、苛政がないからだと彼女は答えた。このことから、「苛政は虎よりも猛なり」という言葉(フレーズ)が生まれた。国家機構が暴力装置にほかならないことを端的に表現した言葉だ。
 苛政とは、収奪できるだけ収奪する政治を指す。国民が窮状にあえでいるにもかかわらず、理屈にならない理屈をあれこれつけては増税、徴発、徴兵を繰り返す暴政のことだ。
 人喰い虎が象徴する自然の脅威は、たしかに人を苦しめる。だが、悲しいことに、人間を最も苦しめるのは人間そのものにほからないのかもしれない。



(2011年9月3日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第123話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

成都散策 ~春熙路から

2012年08月25日 04時18分15秒 | フォト日記

 成都の写真の続き。今回は、成都の繁華街の春煕路(しゅんきろ)から。










 左側の向こうにイトーヨーカ堂の看板が見える。成都1号店。




 春煕路からすこし歩いたところに残っている古い町並み。




 四川省のケンタッキーのフライドチキンには必ず唐辛子の粉がついてくる。
 激辛料理が好きな四川人の好みにあわせてサービスしている。




 四川名物の肥腸粉。ごらんのとおりスープは唐辛子で真っ赤だ。
 食べると舌がひりひりぴりぴりしておいしい。

成都散策 ~武候祠4(蜀の文官と将軍)

2012年08月22日 19時38分45秒 | フォト日記

 四川省成都にある武候祠の写真の続き。
 今回は、蜀を支えた文官と将軍の写真。
 たまたま掃除かなにかで、ガラスが外れていた武将像を撮影した。


 

 左がホウ統、右が簡雍。
 ホウ統は、諸葛孔明と並び称された天才軍師。またの名を鳳雛という。入蜀合戦の際に流れ矢にあたって戦死。
 簡雍は、劉備の旗揚げ時からの家臣。豪放磊落で無礼だが、飾らない人柄だったようだ。


 

 傅トウ(ふとう)。夷陵の戦いに参加し、戦死した。


 

 費イ。諸葛孔明の二代後の宰相。
 清廉な人物。質素な暮らしを送ったが、酒好きがたたり、宴会で酔ったところを魏の降将に謀殺された。


 
 
 董和。硬骨の人。
 有能な人材だったため、諸葛孔明は「董和の仕事振りを見習うように」と蜀の文官たちに訓示した。


 

 呂凱。雲南遠征で活躍。後に雲南太守になる。
 秦の始皇帝のほんとうの父といわれている呂不韋が先祖だとの伝説がある。


 ※漢字表記の制約から、名前の一部をカタカナで表記しています。
  ご了承ください。

ニュースキャスターのコメント(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第121話)

2012年08月19日 08時00分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 ニュースを伝えた後でニュースキャスターが語る何気ないコメント。
 聞き流してしまえばなんてことのないコメントだが、注意深く聞いてみれば、そこに仕組まれた罠に気づく。ニュースキャスターは何気ない風を装い、実は世論を誘導するためのフレーズを発信している。
 もし彼が主義主張をはっきり述べたのなら、受け手はそのコメントについていろいろ考えるだろう。だが、ニュースキャスターの語るコメントは、視聴者がすっと受け容れられるように巧妙な台詞回しを使っている。「分別」や「良識」といったものに訴えかけ、受け手になるほどと思わせてしまう。受け手は、知らずしらずのうちに自分の考えがある方向へ誘導されていることに気づかない。
 怖いな、と思う。




(2011年8月19日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第121話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

最後の特攻 ―― 責任の取り方 ――(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第120話)

2012年08月15日 08時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 一九四五年八月十五日、最後の特攻機が飛び立った。玉音放送が流れ、全国民に日本の降伏が知らされた後だった。
 特攻に出撃したのは、大分基地で第五航空艦隊司令官として指揮を執っていた宇垣纒《うがきまとめ》中将。艦上爆撃機・彗星の後部座席に乗り組み、彗星隊十機を伴っての出撃だった。特攻隊は沖縄方面へ向かった。宇垣提督の坐乗した特攻機は沖縄の米軍キャンプ付近に墜落したとする説が有力だ。
 宇垣提督は日米開戦時の連合艦隊の参謀長を務め、真珠湾奇襲作戦やミッドウェー作戦の実現に尽力した。その後、第一戦隊司令官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加し、第五航空艦隊司令官になる。第五航空艦隊は沖縄・九州方面に来襲した米艦隊に対して特攻作戦を実行した。
 彼の特攻に対してはいくつかの疑義が呈されている。
 日本が降伏を受諾した後――つまり、戦争が終わった後なのだから、敢えて攻撃する必要はない。もし日本に戦争継続の意志ありと看做《みな》されれば、厄介なことになる。しかも、自分独りで行なうならまだしも、部下を道連れにしている。そこまでする必要があったのかどうか。もちろん、昂《たかぶ》る感情が現場に充満していたことは間違いないだろう。供《とも》をさせてほしいと部下たちが懇願したかもしれない。とはいえ、それを宥《なだ》めるのも指揮官の大切な仕事だ。もし部下たちが特攻へ行きたいと言い出したのであれば、きちんと説得したうえで諦めさせ、生き残って日本の再建に努力するように諭すべきだった。
 とはいうものの、揚げ足取りばかりしてもしかたない。上述の疑義はともかく、宇垣提督が責任を取ったということは間違いない。彼の採った方法は疑問点があったかもしれないが、「私も後から行く」と特攻隊員にかけた言葉に対して、自らの命を捨てて責任を取ったのだ。なかなかできることではない。地位のある人間であっても、自分の責任を自分のものとして引き受ける者はさほど多くない。
 特攻作戦については、フィリピン攻防戦の際、当時第一航空艦隊司令だった大西瀧治郎提督が始めたという通説が流布されているが、この説は大いに疑問だ。特攻作戦は第一航空艦隊が独自に始めたものではなく、明らかに軍令部(帝国海軍の中央司令部)が作戦立案したうえで、組織的に行なった作戦だ。大西提督は現場の将軍であり、中央において指揮する立場にはない。当時の大西提督には、組織的に特攻を行なうための部隊編成や機材調達の権限がなかったので、彼が独自に準備できる作戦ではない。特攻作戦の首謀者は軍令部にいなければおかしい。
 大西提督は終戦の翌日の八月十六日、特攻隊員への謝罪の言葉を記した遺書を残して割腹自殺している。おそらく、死人に口なしとばかりに、特攻作戦の責任を大西提督へなすりつけたものと思われる。
 一部の提督は武人として己の責任を取った。しかし、残念ながら、特攻作戦の真相は戦後六十六年経った今日でもまだ解明されていない。
 宇垣提督の特攻を最後として、このような悲劇が二度と繰り返されないことを祈るばかりだ。
 




(2011年8月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第120話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

成都散策 ~武候祠3(関羽と張飛)

2012年08月11日 17時39分45秒 | フォト日記

四川省成都にある武候祠の写真の続き。
扉の写真は関羽像。
関羽はあまりの人気の高さに神様扱いになっているため、皇帝の姿で像が作られている。





関羽のボディーガードだった周倉の像。関羽の脇に置いてある。
周倉は小説のなかの架空の人物だが像が作られた。




こちらは張飛。




劉備、関羽、張飛の義兄弟を祀った「三義廟」。








劉備、関羽、張飛の像。こちらのほうが親しみやすい感じだ。




















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