長い話を書き始める前は、創作ノートを作ることにしている。
こんな話を書いてみたいなというイメージが脳裡に浮かんだら、仮のタイトルを決め、テーマと主要登場人物について、箇条書きでそれぞれ二行か三行くらいささっと書いてみる。
テーマはシンプルであればあるほどいい。複雑にしてしまうと、なにを書きたいのか、自分自身でもわけがわからなくなってしまう。ネタバレになってしまうけど、例えば『貴女と蒼穹を翔びたかった』のテーマは「大切なもののために闘ったのか?」だった。主人公の気持ちになりきり、このことについてずっと考えを巡らせながら小説を書いた。
プロットのほうはあまり練らない。というよりも、僕の場合、いくら考えてもうまく思い浮かばないので練りようがない。ストーリーは結末だけは決めておいて、あとは実際に小説を書きながらどうやって結末へ持っていこうかと考える。ストーリーは、物語の面白さよりも、どんなストーリーがテーマにふさわしいかという観点から決めるようにしている。たぶん、エンターテインメントではほとんど採らない手法だと思うけど。
人称をどうするかも大事な問題だ。この連載の『一人称で書くか、三人称で書くか』でも書いたけど、一人称は使い勝手のよい小刀で、三人称は切った張ったと大立ち回りできる長剣みたいなものだと思う。一人称は主人公の気持ちになりきりやすいうえに、心理描写もみっちりできて、小説を主人公の世界観で染め上げやすいから、このところ一人称で書くことがほとんどだ。たまには三人称で書いておかないと、そのうち三人称が書けなくなるような気もするけど、とうぶん、一人称が続きそう。もとはといえば、僕は三人称のほうが好きだったのだけど。
簡単に大枠を決めたら、とりあえず出だしを書いてみる。
実際に書いてみないとわからないことも多い。出だしはその小説の世界観と主要人物の描写が主だから、試し書きをすればイメージがもうすこしはっきりする。僕はこんなことを書きたいのだなと自分で気づいたりもする。小説というものは、頭のなかのもやもやとしたイメージを引っ張り出して、楽しんだり四苦八苦したりしながら言葉でなんとか形をつける作業だ。もっとも、僕は描写が下手だから、こんな偉そうなことを言えたものではないけど。
こんな感じでいいかなと思えるまで何度か冒頭を書き直す。冒頭だけでイメージを摑めないときは、もうすこし先まで書いてみる。
『生煮えの鮒』の場合、バイオリンを甲高い音でかき鳴らすようにして出だしを書いたので、そこだけでは全体の感覚を摑むのがむつかしかった。だから、とりあえず先へさきへと急いで書いてみた。
冒頭をある程度固めたら、また創作ノートへ戻る。摑んだイメージの種を膨らませるのだ。
ネットを検索して資料を集めたり、小説を読んだり、DVDを観ながら気になった言葉を書きとめたりして、ベッドにごろっと寝転がっては小説世界を思い浮かべながらいろいろ妄想してみる。あれやこれやと考えているうちにイメージが肉付けされて具体的になってくる。テーマについても、つっこんで考えられるようになる。ずいぶん時間のかかるやり方だなと我ながらあきれてしまう。でも、こうしないと長い話を書けないのだから、ほかにやりようもない。
僕の好きな話には、かならず問題提起がある。問題提起が話を深め、そこから力強いメッセージが生まれる。
問題提起などと書けば大袈裟に響くだろうから、プロ野球の出来事を例に引いてみよう。
二〇〇五年四月二十一日、東京ドームで開催された阪神・巨人戦。七回裏ジャイアンツの攻撃。ツーアウト満塁の場面で清原和博選手がバッターボックスに立った。ピッチャーは当時中継ぎへ転向したばかりの藤川球児投手。藤川投手はフォークボールを投げて清原選手を三振させた。
清原選手はまさか変化球で勝負されるとは思いも寄らず、
「ストレートで勝負しないなんて信じられへん。ち×ちんついとんのかっ!」
と怒りのコメントを発して、物議を醸した。
これは、「男らしさとはなにか?」ということの問題提起だ。「男なら真っ直ぐ勝負しろ」というのが清原選手のメッセージ。もちろん、このメッセージが「正しい」かどうかはまったくの別問題。往々にして「正しさ」は個々人の価値観によるものだから。たぶん、ノムさんなら、「アホなこと言《ゆ》うてんと、もっと考えて野球せい」と言うだろう。
これは問題提起の一例だけど、素材は身近なところにいくらでも転がっている。
もちろん、問題提起やメッセージに具体性や重みを与えるのは、登場人物のキャラクターだ。キャラクターとメッセージが嚙み合っていないと頓珍漢なことになる。さっきの例で言えば、へなちょこな選手が「真っ直ぐ勝負しろ」と言ってみてもしょうがない。しかるべきキャラクターにしかるべき問題を提起させる必要がある。キャラクターをしっかり作り上げないと、問題提起やメッセージが生きいきとしたものにならない。
キャラ作りをする際、僕は各キャラクターの声を必ず先に決めるようにしている。
このキャラクターはどの声にしようかとあれこれ考え、俳優さんや声優さんや噺家の声を頭のなかで鳴り響かせてみる。もうすこしいい声はないかとほかの声も探ってみたりして、しっくりくるまで何度かその作業を繰り返す。キャラの役柄と性格にぴったりの声を見つけたら、キャラ作りはだいたい七割くらい完了だ。もちろん、このキャラはこの声でいくとはじめから決めておく場合もある。『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』のタイラー艦長は、前から一度この声で描いてみたいと思っていた声にした。誰の声なのかは内緒。
声が決まったら、キャラクターの容姿を決める。俳優さんの声を選んだ場合、自動的にその俳優さんがキャラクターの容姿になったりする。容姿の描写は大事だから、いろいろ考えて、できりかぎりイメージをはっきりさせるようにしている。一人称小説の場合、カメラアイが主人公の視線に固定されるので、主人公自体の描写はなかなかしにくいけど、小説のなかで描くかどうかは別として、やはりきちんと決めておくことにしている。
プロの作家の小説作法を読んでいると、書いている途中から登場人物が書き手のコントロールから離れて、勝手に動き出すといったことがよく書いてある。そうなればしめたものだと。僕の場合、声をしっかり決めておけば、書いている途中から勝手に喋ってくれるようになり、頭のなかで各キャラクターの声が互いに響きあうような感じになる。
『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』といったドストエフスキーの作品群を分析した哲学者バフチンは、登場人物の声がそれぞれ独立して響き合う形式の小説のことを「ポリフォニー小説」と呼んだ。僕の書くものはしょせんたかがしれているけど、ドストエフスキーの爪の垢でも煎じて、すこしでも近づけたらと思う。憧れの作家だから。
声が響き合うようになれば、登場人物が勝手に動いてくれてストーリーも自然と固まる。格好をつけた言い方をすれば、「人の歩いた跡が道になる」といった感じだろうか。実際の人生にしても、できあいのストーリーがあって、それを僕がなぞるのではなく、ままならない現実や自分自身とえんやこらと格闘しているうちに、自分自身の物語ができるものなのだから。
キャラクターの声と容姿が決まったら、出だしを書き直したり、もうすこし先を書いてみたりしてイメージを固める。できるだけ、キャラの声が頭のなかですっと自然に響くように何度も練習する。それから、また創作ノートへ戻り、あれこれと考えを練って、思いついたアイデアや途中でこんな場面を入れたいなと思ったものを書きつけておく。どんな小説にしようかと考えをめぐらせている間がいちばん楽しい時なのかもしれない。実現可能かどうかは別として、いろいろと夢が広がるから。
いけない。
軽く書くつもりがけっこう長くなってしまった。与太話ばかり書いていないで、肝心の創作ノートをちゃんと作らないと。
それにしても、こんなことをしている僕とはいったい何者なのだろう?
(2011年4月17日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第100話記念として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/