風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

楽しい創作ノート作り(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第100話)

2012年03月29日 07時45分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 長い話を書き始める前は、創作ノートを作ることにしている。
 こんな話を書いてみたいなというイメージが脳裡に浮かんだら、仮のタイトルを決め、テーマと主要登場人物について、箇条書きでそれぞれ二行か三行くらいささっと書いてみる。
 テーマはシンプルであればあるほどいい。複雑にしてしまうと、なにを書きたいのか、自分自身でもわけがわからなくなってしまう。ネタバレになってしまうけど、例えば『貴女と蒼穹を翔びたかった』のテーマは「大切なもののために闘ったのか?」だった。主人公の気持ちになりきり、このことについてずっと考えを巡らせながら小説を書いた。
 プロットのほうはあまり練らない。というよりも、僕の場合、いくら考えてもうまく思い浮かばないので練りようがない。ストーリーは結末だけは決めておいて、あとは実際に小説を書きながらどうやって結末へ持っていこうかと考える。ストーリーは、物語の面白さよりも、どんなストーリーがテーマにふさわしいかという観点から決めるようにしている。たぶん、エンターテインメントではほとんど採らない手法だと思うけど。
 人称をどうするかも大事な問題だ。この連載の『一人称で書くか、三人称で書くか』でも書いたけど、一人称は使い勝手のよい小刀で、三人称は切った張ったと大立ち回りできる長剣みたいなものだと思う。一人称は主人公の気持ちになりきりやすいうえに、心理描写もみっちりできて、小説を主人公の世界観で染め上げやすいから、このところ一人称で書くことがほとんどだ。たまには三人称で書いておかないと、そのうち三人称が書けなくなるような気もするけど、とうぶん、一人称が続きそう。もとはといえば、僕は三人称のほうが好きだったのだけど。
 簡単に大枠を決めたら、とりあえず出だしを書いてみる。
 実際に書いてみないとわからないことも多い。出だしはその小説の世界観と主要人物の描写が主だから、試し書きをすればイメージがもうすこしはっきりする。僕はこんなことを書きたいのだなと自分で気づいたりもする。小説というものは、頭のなかのもやもやとしたイメージを引っ張り出して、楽しんだり四苦八苦したりしながら言葉でなんとか形をつける作業だ。もっとも、僕は描写が下手だから、こんな偉そうなことを言えたものではないけど。
 こんな感じでいいかなと思えるまで何度か冒頭を書き直す。冒頭だけでイメージを摑めないときは、もうすこし先まで書いてみる。
『生煮えの鮒』の場合、バイオリンを甲高い音でかき鳴らすようにして出だしを書いたので、そこだけでは全体の感覚を摑むのがむつかしかった。だから、とりあえず先へさきへと急いで書いてみた。
 冒頭をある程度固めたら、また創作ノートへ戻る。摑んだイメージの種を膨らませるのだ。
 ネットを検索して資料を集めたり、小説を読んだり、DVDを観ながら気になった言葉を書きとめたりして、ベッドにごろっと寝転がっては小説世界を思い浮かべながらいろいろ妄想してみる。あれやこれやと考えているうちにイメージが肉付けされて具体的になってくる。テーマについても、つっこんで考えられるようになる。ずいぶん時間のかかるやり方だなと我ながらあきれてしまう。でも、こうしないと長い話を書けないのだから、ほかにやりようもない。
 僕の好きな話には、かならず問題提起がある。問題提起が話を深め、そこから力強いメッセージが生まれる。
 問題提起などと書けば大袈裟に響くだろうから、プロ野球の出来事を例に引いてみよう。
 二〇〇五年四月二十一日、東京ドームで開催された阪神・巨人戦。七回裏ジャイアンツの攻撃。ツーアウト満塁の場面で清原和博選手がバッターボックスに立った。ピッチャーは当時中継ぎへ転向したばかりの藤川球児投手。藤川投手はフォークボールを投げて清原選手を三振させた。
 清原選手はまさか変化球で勝負されるとは思いも寄らず、
「ストレートで勝負しないなんて信じられへん。ち×ちんついとんのかっ!」
 と怒りのコメントを発して、物議を醸した。
 これは、「男らしさとはなにか?」ということの問題提起だ。「男なら真っ直ぐ勝負しろ」というのが清原選手のメッセージ。もちろん、このメッセージが「正しい」かどうかはまったくの別問題。往々にして「正しさ」は個々人の価値観によるものだから。たぶん、ノムさんなら、「アホなこと言《ゆ》うてんと、もっと考えて野球せい」と言うだろう。
 これは問題提起の一例だけど、素材は身近なところにいくらでも転がっている。
 もちろん、問題提起やメッセージに具体性や重みを与えるのは、登場人物のキャラクターだ。キャラクターとメッセージが嚙み合っていないと頓珍漢なことになる。さっきの例で言えば、へなちょこな選手が「真っ直ぐ勝負しろ」と言ってみてもしょうがない。しかるべきキャラクターにしかるべき問題を提起させる必要がある。キャラクターをしっかり作り上げないと、問題提起やメッセージが生きいきとしたものにならない。
 キャラ作りをする際、僕は各キャラクターの声を必ず先に決めるようにしている。
 このキャラクターはどの声にしようかとあれこれ考え、俳優さんや声優さんや噺家の声を頭のなかで鳴り響かせてみる。もうすこしいい声はないかとほかの声も探ってみたりして、しっくりくるまで何度かその作業を繰り返す。キャラの役柄と性格にぴったりの声を見つけたら、キャラ作りはだいたい七割くらい完了だ。もちろん、このキャラはこの声でいくとはじめから決めておく場合もある。『祝福を遠くはなれて――エンタープライズ、カミカゼの奇襲を受く』のタイラー艦長は、前から一度この声で描いてみたいと思っていた声にした。誰の声なのかは内緒。
 声が決まったら、キャラクターの容姿を決める。俳優さんの声を選んだ場合、自動的にその俳優さんがキャラクターの容姿になったりする。容姿の描写は大事だから、いろいろ考えて、できりかぎりイメージをはっきりさせるようにしている。一人称小説の場合、カメラアイが主人公の視線に固定されるので、主人公自体の描写はなかなかしにくいけど、小説のなかで描くかどうかは別として、やはりきちんと決めておくことにしている。
 プロの作家の小説作法を読んでいると、書いている途中から登場人物が書き手のコントロールから離れて、勝手に動き出すといったことがよく書いてある。そうなればしめたものだと。僕の場合、声をしっかり決めておけば、書いている途中から勝手に喋ってくれるようになり、頭のなかで各キャラクターの声が互いに響きあうような感じになる。
『罪と罰』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』といったドストエフスキーの作品群を分析した哲学者バフチンは、登場人物の声がそれぞれ独立して響き合う形式の小説のことを「ポリフォニー小説」と呼んだ。僕の書くものはしょせんたかがしれているけど、ドストエフスキーの爪の垢でも煎じて、すこしでも近づけたらと思う。憧れの作家だから。
 声が響き合うようになれば、登場人物が勝手に動いてくれてストーリーも自然と固まる。格好をつけた言い方をすれば、「人の歩いた跡が道になる」といった感じだろうか。実際の人生にしても、できあいのストーリーがあって、それを僕がなぞるのではなく、ままならない現実や自分自身とえんやこらと格闘しているうちに、自分自身の物語ができるものなのだから。
 キャラクターの声と容姿が決まったら、出だしを書き直したり、もうすこし先を書いてみたりしてイメージを固める。できるだけ、キャラの声が頭のなかですっと自然に響くように何度も練習する。それから、また創作ノートへ戻り、あれこれと考えを練って、思いついたアイデアや途中でこんな場面を入れたいなと思ったものを書きつけておく。どんな小説にしようかと考えをめぐらせている間がいちばん楽しい時なのかもしれない。実現可能かどうかは別として、いろいろと夢が広がるから。
 いけない。
 軽く書くつもりがけっこう長くなってしまった。与太話ばかり書いていないで、肝心の創作ノートをちゃんと作らないと。
 それにしても、こんなことをしている僕とはいったい何者なのだろう?
 



(2011年4月17日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第100話記念として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

作品の構造と作家の人生

2012年03月17日 10時00分15秒 | エッセイ
 
 作品と作者を切り離して考えてよいと教わった時、とても興奮した。
 教授は「従来の文学研究は作家研究であって、かならずしも作品研究にはなっていない。作品は作者から切り離して考えるべき」と主張し、構造主義による文学研究を講義した。
 それまで僕は、文学研究というものは作家の人生を調べ、その人生のなかからどのような小説が紡ぎだされたのかを解明するものだとばかり思っていた。たとえば、芥川の生い立ちが作品にどのような影を落としているだとか、太宰と誰それとの心中がどこの作品に描かれているといったことだ。
 ファン心理というものがあるので、好きな作家のことはいろいろと知りたくなるものだし、それはそれで面白いのだけど、物足りなさも感じていた。作品の分析が作者の人生にとどまっていて、それ以上の広がりや深みがない。有名作家の人生は調べつくされているから、新しい事実も新しい角度からの見解もなかなか出てこない。
 名作と呼ばれる作品には、人類の普遍的なテーマが描かれている。だからこそ、ドストエフスキーやトルストイといった十九世紀ロシアの作家が書いたものを読んでも感動するわけだし、同じ日本でも、漱石や芥川といった明治・大正の作家の作品を読んで共感を覚えもすれば、そこに自分の課題が描かれていると感じ入ったりもするのだ。とりわけ、漱石、芥川、中島敦、太宰といった作家が抱えた孤独感(孤立感)は、解消されるどころか、ますます広がっている。自傷(リストカット)の問題はまさにそうだろう。漱石は『こころ』のなかで、

 自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないのでしょう

 と書いている。この小説で漱石が「現代」と書いたのは大正時代の初め頃だが、二十一世紀の今でも充分通じる。現代的な課題だ。孤独感(孤立感)など感じず「この淋しみ」のない人はリストカットなどしたりしない。漱石が描いた課題は、今でもずっと続いている。「自由と独立と己れ」と「この淋しみ」は普遍的なテーマだ。
 ところが、作家研究では、その普遍性に対する分析が甘くなってしまう。触れられていないわけではないが、往々にして通り一遍のものになってしまう。作家という一個人の人生物語にこだわるあまり、大きなものを見逃してしまっているような気がしてならなかった。

 物事にはある一定の構造があるのだと教わった。
 そして、物語にもある一定の構造がある。
 一番解りやすかったのは「父親殺し」のテーマだ。これは文学作品のみならず、さまざまな物語で繰り返し表現される人類の普遍的なテーマの一つだ。
 映画『スターウォーズ』には、ルーク・スカイウォーカーとダースベイダー親子の決闘シーンがある。教授がビデオでそのシーンを流した後、これは「父親殺し」のテーマだと解説し、ギリシャ神話の『オイディプス王』からオイディプスコンプレックスと名付けられているものだとも話した。
 男は父親を乗り越えることで大人になる。
 この課題を端的に表現したものが、オイディプス王の父親殺しなのだとか。
 神話には物語の原型があり、神話を解明すれば人間の心に潜むある一定の構造がわかる。なんだか、人類の秘密が解き明かされるようでわくわくした。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』やファーストガンダムの最後のほうでもこのテーマが語られている。「父親殺し」の例をあげれは枚挙に暇がない。
『スターウォーズ』の「敵を倒して姫を獲得する」、逆に言えば「敵を倒さない限り姫を得ることはできない」というストーリーも、よくある物語の構造だ。身近な例で言えば、ゲームの『スーパーマリオブラザーズ』はクッパ大王を倒さなければ姫を獲得できない。『古事記』のスサノオノミコトはヤマタノオロチを退治した後で、大蛇《オロチ》の生贄になるはずだった少女クシナダヒメを獲得する。英雄《ヒーロー》の在り方を示したものと言えるだろう。
 神話や物語だけではなく、近代文学にももちろん構造がある。
 ドストエフスキーの『悪霊』は、帝政ロシアで実際に起きた社会主義の秘密サークルのリンチ事件を題材にして描いた作品だが、一九七二年の日本赤軍浅間山荘事件でも同様の事態が起きた。地下鉄サリン事件などを起こしたオウム真理教でも、同じような事態が発生していたことがわかった。革命を志向する過激な秘密結社では、誰かをスケープゴートにして殺害し、メンバーがその秘密を共有することで結束の強化を図るものらしい。これも構造の一つだ。もっとも、ここまで極端な例でなくとも、秘密を共有することで絆が深めようとするのは日常生活でもよくあることだろう。
 漱石の『こころ』は、己の心に地獄を見つけてしまった人間の自己との壮絶な戦いだ。そして、「自由と独立と己れ」という近代的自我を確立するための物語でもある。この作品に描かれているように、近代的自我とは罪の意識、それも全人類に対する罪の意識と人間全般に対する不信感を通じて、それと格闘することによって確立するもののようだ。これも構造の一つだろう。
 歴史は繰り返すとよく言うが、物語も繰り返されている。人は時を超えて、民族を越えて、同じ構造の物語を繰り返し語るものらしい。人の心にある一定の構造がある限り、人は同じことを繰り返すのだろう。もう懲りたはずの悲しい過ちさえも。
 作品から作者を分離して作品のみを取り上げて研究する構造主義的文学研究は刺激的だった。目を開かされた感じがした。
 もっとも、なにぶん難解な用語がたくさん出てくるから、むずかしすぎて僕の頭ではよくわからないことも多かった。だが、作品にひそむ構造を解き明かすことで見えることがいろいろある。構造主義は、ある問題を一個人の枠のなかや、民族の枠のなかや、時代の枠のなかに閉じこめるのではなく、もっとスケールを大きくとって、時空を超えて変わることのない人類の普遍的な課題としてとらえるということだ。文学作品を比較することで構造が浮き彫りになる。構造主義による文学研究は物の見方を教えてくれた。

 ただし、構造主義は万能ではない。
 構造はただの骨組みに過ぎない。骨組みばかりに目が行き過ぎると、作品に通っている人間の魂や血潮といったものを忘れることになる。いわば、人間を研究するつもりが、人間の骨格ばかり研究するようになってしまう。人間には死ぬまで鼓動し続ける心臓もあれば、体を巡り続ける血もある。見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるといった五感は骨格には現れない。骨格標本だけを調べても人間のことがわからないように、構造だけを見ていたのでは大切なことを見落としてしまう。
 文章の味わい、といったものは構造主義ではとらえることができない。たとえば、「どくとるマンボウ」こと北杜夫先生の詩情やユーモアに溢れた文体を構造主義的に分析しようとしてもむりだ。感覚や感性に属するものを構造主義によって分析するのはかなりむずかしい。たとえ分析したとしてもこじつけになってしまうだろう。文章の味はいわく言いがたいものだが、作家それぞれにそれぞれの文体があってそれが読者を惹きつける。小説の大切な要素であるにもかかわらず分析は困難だ。
 プーシキンの文体にはロシア人の心を躍らせる独特のなにかがあるらしい。僕がロシアを旅行した時に出会ったロシア人は、じつに楽しそうに「自由」という詩を朗読した。このことなんだなと僕は感じた。だが、プーシキンを研究して何十年という研究者でも、なぜプーシキンの文体がロシア人の心のつぼを押すのかはわからないそうだ。プーシキンをプーシキンたらしめているものを構造主義では分析することはできない。
 分析できないものは文体ばかりではない。
 ありとあらゆる構造を究めたとしても、「なぜ生きるのか」「なぜ恋をするのか」「神は存在するのか」「私の魂はどこからきたのか」といった根源的な問いかけには答えてくれない。構造の分析はこういう仕組みになっているということを明かすだけであって、その構造を突き動かす根源的な力までは分析できない。
「なぜ彼女のことが好きなのか?」
 と問いかけてみても、その答えは出ない。たとえ、「恋をするのは人間の本能だ。なぜなら、子孫を残そうとする本能に突き動かされているのだから」といった答えが返ってきても、それは問いかけに対する答えにはなっているようでなっていない。
 人は誰でも恋をする。
 だが、誰にでも恋をするわけではない。
 先の骨格と血肉の例えでいえば、「恋は誰でもする」というのは構造にあたり、「なぜ彼女なのか?」というのは、血肉や感覚の問題に当たる。数多《あまた》いる異性のなかで、その人だけを選ぶのだから、なぜ彼女なのか、というのは非常に重要な問題だ。なぜ彼女でなければいけないのか、そこにその人の人生にとって大切なことを解き明かす鍵がある。いささか大袈裟な言い方をすれば、人生の神秘がある。
 なぜ、彼女なのか?
 なぜ、彼なのか?
 だが、この謎は容易には解明できない。
 だからこそ、時代や民族を超えて数多くの恋愛小説が執筆され、大勢の人々に読まれるのだろうけど。
 さらに、
「私《わたくし》の存在の意味は?」
 と問いかけても、なんにも答えてくれない。
 構造主義は、この世の仕組みや存在の仕組みを教えてくれても、存在の意味までも明らかにしてくれるものではない。構造主義は機械論だ。世の中を機械仕掛けの時計ととらえている節がある。人間の心やその心が紡ぎだす物語のメカニズムを理解することは大事だが、人間は完全な機械仕掛けではない。機械は意味を問いかけたりはしない。時として、意味を問わずにいられないのが人間だ。もっとも、人生の意味といった根源的な問いかけに対する答えを見つけようとするのは、もはや宗教的な領域になるのだろうけど。

 作家は血の通った人間だ。
 そして、作品は血の通った人間によって書かれるものだ。
 もちろん、読み手である「私《わたくし》」も血の通った人間だ。
 構造論だけでは割り切れないものを抱えている。それだけでは解き明かせない魂を持っている。作品を機械仕掛けのもののようにとらえるわけにはいけない。
 作家には作品を書くために血反吐を吐くようにして格闘した人生があり、作品はそうした格闘から生まれてきたものだ。そう考えれば、作家の伝記的文学研究を読み、作者の人生や想いを理解してから作品を読み返せば、また違う味わいが出てくる。構造主義は非常に有効な方法だが、作品と作者を完全に分離したままにすることはできない。
 要はバランスなのだろう。作品の構造と作家の人となりや人生をバランスよく見ることができれば、つまり、人類の普遍的なテーマとそれに対する作家という一個人の格闘を同時に見ることができれば、もっと深くておいしい小説の読み方ができるのではないだろうか。



Character assassination (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第85話)

2012年03月08日 08時05分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 誰でも、根も葉もない噂を立てられて困ったことがあるだろう。
 人間ほど噂に弱い生き物はない。
 とりわけ、妬みや恨みをかきたてるような噂にはあっけないほど弱い。
 それは、人の心にどうしようもないほどに、後ろめたい欲望が渦巻いているからだろう。たぶん、人の心の奥には、自分はこれほど努力しているのに評価されないという恨みつらみや、自分は苦労しているが他の誰かは楽をして不当な利益を得ているという妬みがわだかまっている。彼の足を引っ張り、自分より上に立たれるのを邪魔したいという暗い願望もあるだろう。恨みつらみを掻き立てられた人間は、得てして自分自身の心に渦巻く悪を検証もせずに、自分が正義だと思いこみやすい。実際のところは、後ろめたい欲望にただ操られているだけなのに。
 ある人物に狙いを定めてあらぬ噂をまき散らし、その人物を社会的に抹殺してしまうことを、英語では"character assassination(人物破壊)"と呼ぶそうだ。"assassination"には、暗殺、名誉の毀損という訳語があるけど、この場合はまさに「暗殺」がぴったりくる。
 敵を葬りたいと思えば、この人物破壊が手軽で便利だ。それが事実であろうとなかろうと、悪い噂はあっという間に広まってしまう。
 劇場版『フランダースの犬』を例に挙げるとわかりやすいかもしれない。
 少年ネロは風車に放火したと決めつけられ、村八分にされてしまう。しかも、誰にも相手にされなくなるどころか、パトラッシュが牽く荷車でミルクを運ぶ仕事も奪われてしまい、生計すらも立てられなくなったネロは、最後には自殺同様に死んでしまう。彼を死に追いやったのは、少女アロアの父ばかりではない。積極的であれ、消極的であれ、村人たちも加担していた。無実の放火罪を背負わされたネロは死ぬよりほかに道がなかった。『フランダースの犬』が日本で流行ったのは、人物破壊がまかり通る世間の愚かさや怖さがよく描かれているからなのかもしれない。
 今の日本の政治の世界では、小沢一郎議員に対する人物破壊が行なわれている。「政治とカネ」をめぐる虚偽のキャンペーンによって、評価は貶められ、しかもでっちあげの罪で起訴までされてしまった。彼に限らず、"character assassination(人物破壊)"によって政治家が失脚することは歴史を紐解けばいくらでもある。
 人物破壊をしかける側には、必ず欲望や野心が働いている。
 ネロを追いつめたアロアの父は、自分の娘がネロと仲良くなるのを好まず二人を疎遠にさせたかった。小沢議員を社会的に抹殺したい人々は築き上げた特権を守り、既得権の甘い蜜を吸い続けようとしている。自分自身の利益に過敏な人間は、自分自身に対する噂にも敏感だから、どんな噂を流せば人々がどう反応するかも心得ている。人物破壊をしかける輩は煮ても焼いても食えない。
 とはいえ、どういう形であれ、人物破壊の片棒を担いだ後で、後味の悪い思いをしたり、損をするのは自分自身だ。消極的であれ、積極的であれ、そんなことには加担したくない。迂闊な噂にのって、大切な友人や知人を傷つけたりするのはごめんだ。自分の首を絞めることに手を貸すのもごめんだ。
 巧妙にしかけられた人物破壊を見抜く智恵を持ちたい。後ろめたい欲望を掻き立てられるような噂を耳にしても、冷静でいられる平常心を持ちたい。もちろん、たっぷり自戒をこめて。




(2011年3月11日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第85話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


隣の市の給食はおいしい(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第83話)

2012年03月03日 13時02分14秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 高校に入学したばかりの頃、隣の市に住む新しい同級生と学校給食の話で盛り上がったのだけど、隣のH市の話を聞いてびっくりしてしまった。
 僕が通っていたN市の小学校では、年に二三回、お雛様の日や六年生の最後の給食の日といった特別な日だけケーキが出た。お雛様のケーキは、桃色、白、黄緑の三色ケーキで、それがとても楽しみだった。
 ところが、H市ではなんと毎月一回、給食にケーキがついたという。しかも、なんのイベントもないごく普通の日に。H市のクラスメイトはケーキくらいどうってことないよといった顔をしていた。僕はうらやましくてしょうがなかった。
 僕が通っていた小学校では、月に一回ご飯食が出た。砂糖をいっぱいまぶした揚げパンや黒パンは好きだったけど、普通のコッペパンとご飯を比べたら、やっぱりご飯のほうがいい。いっそ、毎日ご飯だったらいいのにと思ったものだった。
 ところが、H市では週に一回はご飯食だったそうだ。しかも、ただの白いご飯ではなく、炊き込みご飯や五目御飯などが多かったのだとか。僕は話を聞いているだけでつばが出てきた。
 僕の家からチャリンコで十分も走ればH市だったのだけど、市が変わるだけでこんなに給食が変わるものかと不思議でしょうがなかった。
 なんでも、H市には工業団地があって企業がたくさんあるので、税収が多くて市の財政が潤沢なのだとか。それで、給食のメニューも豊富だったそうだ。いまさら小学生に戻って給食を食べなおすわけにもいかないからどうしようもないのだけど、なんだかなあとちょっと割り切れなかった。
 ちなみに、給食のメニューのなかでは、デザートのカルピスゼリーがいちばん好きだった。ぺらぺらの薄いプラスティックの容器に入った四角いゼリー。たしか、月に一、二回は出ていたと思う。カルピス色のゼリーを見ただけで、なんとなく楽しい気分になれた。もういちど食べてみたいな。





(2011年3月5日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第83話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

ツイッター