風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

波打つ国道とスコールとエンジントラブル(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第170話)

2013年04月27日 11時25分10秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 広東省広州とその周辺には波打っている道がけっこうある。
 この辺りはもともと亜熱帯の湿地帯だからよほどしっかり地盤を固めてから舗装しないといけないのだけど、どうもそうせずに適当にアスファルトを敷いたようだ。新しい道でも二三年経つうちにがたがたになったりする。あまりに凸凹がひどいところだと、車に乗りながら波乗りしているような気分になる。
 先日、車に乗っていたら、空がどんどん暗くなった。まるで夜みたい。
「こりゃスコールだな」
 と思ったら、バケツをひっくり返したような大雨になった。フロントガラスをワイパーで拭いても、その瞬間にガラスがずぶ濡れになるからあんまり役に立たない。これから半年ばかり、こんな雨はしょっちゅうだけどね。
 みるみるうちに片側四車線の広い国道のあちらこちらで冠水が始まった。道が凸凹なうえに水はけが悪いというよりも、水はけを考慮して道を作っていないから、たまった水が道路の外へ流れない。そこらじゅう水溜りだらけだ。
 しゅわーと水を跳ねて車が進む。
 水溜りを避けようとした車が土砂降りのなかをむやみに車線変更しようとしたり、水溜りの前で停まったまま動こうとしない車がいたりするから危なっかしい。聞くところによると、中国の車の事故率は日本の十倍なのだとか。だから、日本と中国では物価が全然違うのに、車の保険の値段は日本と同じくらいらしい。
 ふと道路脇を見るとハザードをつけて停まった車がたくさん並んでいる。
「やっちゃったね」
 運転手に言うと、
「しばらくは動けないね」
 と彼はうなずいた。
 ハザードをつけて停まっている車は、水溜まりへ突っこんだときにエンジンをやられたのだ。ご愁傷様。
 日本だったら道路関係の役所に苦情が殺到するところだろうけど、中国では文句を言う先もないし、この状態は改善されないんだろうな。こんなところで商売にいそしむ中国人はやっぱりたくましいんだよな、とふと思った。




(2012年4月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第170話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

ひとめぼれ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第169話)

2013年04月20日 06時54分50秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 若い頃はしょっちゅう一目惚れしていたような気がする。
 といっても、だれに一目惚れしていたのかもう思い出せないから、ある女の子を見かけた瞬間にビビビッときて「わあ、かわいいなあ。ええなあ」とべた惚れして、しばらくして別の女の子に「めっちゃかわいいやん。もうあかんわ」と君に胸キュン状態になって前にかわいいと思った女の子のことを忘れたりしてと、そんなことを繰り返していたのだろう。まことに軽佻浮薄《けいちょうふはく》な僕でした。許してよ、って誰に言ってるんだか。
 先日、広州のバーで飲んでいたら一目惚れの話になった。
「わたしは一目惚れなんかしたことがないの」
 とAさんは言う。
「人を好きになる時は、その人のことをよーく知ってから、それからだんだん好きになるの」
「ほんとに? 中学生や高校生の頃に格好いいなあと思って、すぐに好きになったりしなかった?」
「なかったわ。今でもそう。わたしは美容師をやっているから、職業柄、ハンサムな美容師さんに出会ったりすることが多いの。でも、美形を見てもなんとも思わないわ。同僚で一目惚れしたりする女の子がいるけど、なんでそうなるのかわからないわ。わたしなんか、美形を見たらかえって怖いと思うもの」
「なんで? 美形がいっぱいいていいじゃない。うらやましいわよ」
 Bさんがびっくりした顔で訊く。
「だって、ハンサムな男の子のまわりにはいっぱい女の子がいるじゃない。みんな好きだから、追いかけるでしょ。男の子は遊びまくるでしょ」
 Aさんはとんでもないというふうに首を振った。
「ハンサムな人でも誠実な人っていると思うけどなあ。そりゃ、格好良かったらもてるけどさ、浮気するかどうかなんてその人によるんじゃない?」
 僕が言っても、
「安心感がないのよ」
 とやっぱりAさんは首を振る。
「一目惚れで結婚して幸せに暮す人もいるし、一目惚れも縁じゃないの?」
 Bさんがそう言っても、彼女は「安心感がない」と繰り返すだけで納得しなかった。
 裏を返せば、それだけ人に対する警戒心が強くて嫉妬深いということなんだろうな。Aさんのように考える中国人の女の子はわりあい多いのだけど。Aさんの場合は、恋のときめきよりも、その人に愛されているという安心感を重視するといったところなのだろう。
 ともあれ、一目惚れにせよ、だんだん好きになるにせよ、結果オーライ。しあわせになれたら、どちらでもいいのだと思う。とはいっても、一日だけでいいから一目惚れしていた頃の自分に戻ってみたい気がしないでもない。やみくもに恋をするのも、けっこう素敵だったから。





(2012年4月12日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第169話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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ストーカーという名の純愛?(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第168話)

2013年04月14日 10時55分11秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 H君は小学生の時、同級生の女の子に恋をした。
 好きで好きでたまらなくなった彼は、夏休みの午後になると毎日、好きな女の子の住むマンションのまわりを自転車でぐるぐると何十周も回った。汗をだらだら流しながら、それでも、さもぶらぶら自転車を漕いで散歩を楽しんでいるような素振りをして。マンションの前へさしかかると速度を落としてゆっくり漕ぐ。もちろん、彼女に会える確率を高めるためだ。
 それに飽き足らなくなったH君は、大好きな彼女の住む部屋の扉へ近づき、ピンポンダッシュを敢行した。廊下の影から誰かが出てくるのを眺め、彼女のお母さんだとがっかりして、彼女が出てくるととてもしあわせな気分にひたった。
「純愛でした」
 とH君は美しい夢でも見るように初恋を振り返る。
 だけど、はたから見ればストーカー以外の何者でもない。
 ストーカーって、好きで好きで大好きでたまらないからこそ、あんなことをするんだろうけどさ。本人はただ純粋に愛しているとしか思ってないんだろうなあ。
 H君が警察に捕まらなくてよかったよ。




(2012年4月6日発表)
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鬼気迫る傑作――『歯車』を読んで(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第167話)

2013年04月07日 12時42分17秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 『歯車』は芥川龍之介の最晩年の代表作。
 たしか、自殺直前に第一章だけ雑誌に発表して、残りは遺作として掲載されたのだったと思う。といっても、もちろん同時代で読んだわけではないのだけれど。
 ――恐らくは、我滅びん。
 という文中の言葉からわかるように、このままでは自殺するよりほかないと覚悟していた芥川が最後の気力を振り絞って書いた短編だ。発狂しそうな自分の心理を見事に解剖している。
 芥川が凄いのは、ばらばらになってしまいそうな心をなんとか持ちこたえ、作品に昇華させていることだ。ふつうなら、とてもまともに小説を書けるような精神状態ではない。
 彼が追究していたのは、確固たる自我だった。だが、ひとつ間違えれば、自意識の牢獄もしくは地獄へはまりこんでしまう。心の闇を見つめれば見つめるほど、自分自身を蝕んでしまうことになるから。小説のなかに、分身(ドッペンゲルガー)が現れたという記述があるけど、もしかしたらほんとうなのかもしれない。
 鬼気迫る傑作だと思う。



(2012年4月2日発表)
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小さな物語と中くらいの物語と大きな物語(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第165話)

2013年04月02日 20時15分35秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 人は自分の小さな物語を生きている。
 その小さな物語のなかでは、銘々《めいめい》がその物語の主人公だ。
 ささやかな勤め人の物語、忙しく切り盛りする商店主の物語、世界を放浪する旅人の物語、子育てに忙しい主婦の物語、サッカーに打ちこむ少年の物語、ひっそり暮す老人の物語etc――人の数だけ小さな物語がある。
 だけど、世界は小さな物語それだけで完結しているわけではない。個人の生活が他者との関係のなかで営まれるように、小さな物語は中くらいの物語に包摂されている。
 とりあえず、小さな物語を個々人、中くらいの物語を社会や時代と考えてみればわかりやすいかもしれない。
 人は誰でも、その時代のその社会の枠のなかで生きている。
 太平洋戦争の時代の大学生は、いずれ学徒動員で戦線へ駆り出され死ぬものと覚悟するしかなかった。戦時体制のなかでは自由な人生など求めようもなかった。
 二十一世紀の今を生きるワーキングプアは、新自由主義による過酷な搾取に遭い、食うや食わずの暮らしを強いられている。ごく当たり前の真面目に働いてまともな暮らしを手に入れようとしても、社会の仕組みがそれを許さない。
 個々人の暮らしは、その時代のその社会の特性に制約され、その枠に逆らったり、そこから飛び出すことは容易ではない。人はその時代のその社会の物語のなかで自分自身の小さな物語を営んでいる。
 個々人の抱えた課題は――つまり、小さな物語の課題は、その時代と社会の問題と密接に結びついているため、そこへ目を向けない限り、往々にしてなぜ自分が悩んでいるのかわからなかったり、解決の糸口を見つけるのがむずかしかったりする。自分の内部だけ――つまり、小さな物語のなかだけに目を向けていても、どこへもたどり着くことはできない。堂々巡りを繰り返すだけだ。あるいは、終わりのない絶望と諦めと顛倒夢想しかそこにないといえばいいだろうか。
 さて、その中くらいの物語は、さらに大きな物語に包摂されている。
 もはやこうなれば宗教の世界になる。
 何十万年先の将来、阿弥陀仏がすべての衆生を救うだとか、ハルマゲドンが起きて千年王国が出現するといった大きなストーリーだ。陰(悪い時)と陽(よい時)を繰り返し、現世《うつせみ》が未来永劫続くというのも、大きなストーリーの一種になる。
 宇宙の膨張がいつかとまり、逆に宇宙がどんどん収縮してやがてビッグバンが始まる前の虚数宇宙に還るというのも「科学」という名の宗教かもしれない。
 もちろん、どの大きな物語が「正解」なのかは、神のみぞ知るといったところだけど。




(2012年3月25日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第165話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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