風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

古本屋めぐり(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第102話)

2012年04月28日 08時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 学生の頃から古本屋にはお世話になった。
 東京の古本屋街といえば、やっぱり神田神保町がいちばん品揃えが豊富だけど、いちばんよく通ったのは学生街の古本屋だ。なだらかな坂の両側に古本屋が何軒かならんでいて、学校の帰り道によく冷やかした。古本屋を行き過ぎると、ロードショーから半年くらい遅れた映画を二本立てで放映している映画館があったので、よくそこへ入ったりした。学割料金で二本分の映画を楽しめるのだからお得だ。
 学生のことだから、もちろん、値段の高い本はよっぽど欲しいものや必要な本でない限り買えないけど、店先の百円均一のワゴンをよーく探すと掘り出し物があったりする。ごくたまにだけど、とうの昔に絶版になった岩波文庫の小説を見つけることがあって、それがとても楽しみだった。今でこそ、岩波文庫の絶版になったものが「リクエスト復刊」と称して定期的に復刊されるようになったけど、当時はそんなサービスはなかったから岩波文庫の古本は貴重だった。
 毎年、秋になると学校のすぐそばにある神社の境内で古本市が立ったので、それが始まったら授業そこのけで神社へ行って掘り出し物をあさった。トルストイの『生ける屍』を見つけた時は感動した。しかも、売値はたったの十円。戦前に印刷されたもので、昭和十七年○月○日にどこそこで読んだと昔買った人が表紙裏に鉛筆で書き込んでいた。彼はどんな感想を持ったのだろうと想像してみたりしたものだった。
 学生街の古本屋のいちばんいいところは、なんといっても値段の安いことだ。
 神保町では二千円で売られているような本が、たったの百円で手に入ったりする。トルストイの『生ける屍』は薄い文庫本だし、有名な作品ではないけど、神保町の古本屋ならそこそこのいい値段がついただろうと思う。少なくとも、十円や百円では絶対に売ってくれない。
 今は広東省に住んでいるから古本漁りもできなけど、今度東京へ行く機会があったら久しぶりに古本屋街をぶらついてみたいな。



(2011年5月3日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第102話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


空飛ぶクジラはやさしく唄う 第13話

2012年04月23日 08時05分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 銀色の雨を見つめていた君


 帰ってからすぐ、ユニットバスへ入ってシャワーを浴びた。
 まるでどす黒い廃油を頭からかぶったようで、どうにも気持ち悪い。肌がぬめる。心までがべとつく。
 この感覚はいったいなんなのだろう。
 遥の父親と激しいやりとりをして嫌なことをずいぶん口にしたから、その自己嫌悪もあった。遥を守るために必死だったし、いくらそうするのが遥のためだとわかっていても、家族関係を断ち切ってしまうのは、やはり胸の奥が疼く。だけど、そればかりでもない。
 考えあぐねているうちに、遥が時々口にする「死んだ愛情が腐っているのよ」という言葉を想い起こした。穢されたような気がするのは、きっと、あの男の心のなかで腐敗してしまったものが、言葉になって僕の心へ流れこんだからだろう。彼の腐った心に触れて、僕の心までが腐り始めたのだ。ちょうど、木箱のなかの腐ったりんごがほかのりんごもだめにしてしまうように。強欲と傲慢に心を乗っ取られた人間は始末が悪い。それを自分自身で自覚していなければなおさらだ。心が化膿して、膿だらけになってしまったようなものだから。
 遥が自分の欲望を抑えようとあれほどまでにこだわるのは、きっと自分の父親を反面教師としたからだろう。あの男の驕慢《きょうまん》がどれだけ家族を損なったのか骨身にしみてわかっているから、自分の強欲さに対しても過敏になってしまったのに違いない。
 僕は全身にせっけんを塗りたくり、体のすみずみまで力をこめて垢すりタオルでこすった。穢れをすべて落としたかった。
 バスタブをざっと流して栓をした。シャワーを壁にかけ、バスタブの底で三角坐りしながら熱い湯を浴びた。
 シャワーの音が雨のように響く。
 バスタブにすこしずつ湯がたまる。
 その音が呼び水になって、中三の頃のなんでもない日の光景が脳裡に甦った。
 たしか、秋の長雨が続いていた頃だった。教師たちは、夏休み前までは部活さえしっかりやっていればいいという態度だったけど、いざ引退試合を終えてクラブの運営を後輩たちへ譲り渡すと、今度は掌を返したように成績のことばかり言い始めた。進路相談や受験勉強で慌しい日々を送っていた。
 なにかの用事で帰るのが遅くなった。がらんとした放課後の下足室に、遥がぽつんと立っている。外は銀色の雨が降っていた。雨を眺める遥のうなじが白い。
「天草」
 僕が呼びかけると、遥はぼんやり振り返る。制服の肩がさびしそうだった。
「どうしたの? 傘は?」
 遥は黙って首を振るだけだ。
「僕の傘に入りなよ。送っていくよ」
 僕は遥を元気づけようと思ってわざと明るく言ったのだけど、遥はなにも言わずに瞳を翳《かげ》らせる。
「なにかあったの?」
「なんでもないわ。――いっしょに傘を差したら、瀬戸君はまたからかわれるわよ」
「べつにそんなのかまわないよ。言わせておけばいいんだから」
 僕は遥を見つめた。遥はずっと雨を見ている。
 ――ひとりぼっちなんだ。
 胸が締めつけられるようで、目頭が熱くなった。遥の孤独が痛いほど心にしみた。それが僕の心のなかで魔法の森の調べのように透き通った和音を奏でる。さみしいのは僕も同じだった。
 ――遥の孤独を抱きとめてあげたい。
 震えるような想いでそう願った。
 あの時、相合傘をしていっしょに帰ったような気がするけど、よく覚えていない。ただ、降りしきる雨を見つめる遥の横顔だけが、心のアルバムに焼きついている。
 僕はシャワーをとめた。
 熱い湯にじっとつかりながら、遥を想った。

 昼からふたコマぶんの授業を受けて、サークルの部屋にも寄らずにさっさと帰ってきた。遥の父親がマンションの近くで張りこんでいるのではないかと疑って近所を探してみたけど、彼の姿は見当たらない。僕はほっと息をつき、ワンルームマンションの狭い階段をのぼった。
「おかえりなさい」
 遥は、ドアのすぐそばにある流し台に立っていた。ペンギンのエプロンをつけて、にんじんを切っている。換気扇のファンが鈍くうなり、玉葱の匂いがかすかに漂っていた。
「ただいま」
 僕は遥の顔色をうかがった。
「どうしたの?」
 遥は不思議そうに首を傾げる。
「な、なんでも」
 僕は、首を振ってスニーカーを脱いだ。
「今日はカレーにするから」
「わかった」
「ゆうちゃん、なんかへんよ」
「ほんとになんでもないんだよ。手伝おうか?」
「いいわよ」
 遥はプラスチックの薄いまな板を持ち上げて、切り終えたにんじんをボールへ移す。僕は遥の後ろを忍び足でそっと通って部屋へ入り、テレビをつけてその前に坐った。
 彼女の父親がきたことを話そうかどうか、まだ迷っていた。授業も上の空で、帰り道もそればかり考えていた。
 あの男の言い分を突っぱねられるだけ突っぱねてどうにか追い払うことができたけど、あれですんなり引き下がるかどうかはわからない。遥に聞いていたとおり、彼はすべて自分の思うようにしないと気の済まない性格だ。またやってくるかもしれない。
 今日は、遥がいなくて不幸中の幸いだった。彼がきたことを言えば、遥は傷つくに決まっている。ようやく元気になってくれたばかりなのに、負担をかけるようなことは言いたくなかった。でも、もし彼がもう一度現れるのだとしたら、今ほんとうのことを言って、心の準備をしておいたほうがいい。たとえつらくても、いきなり父親が目の前に現れるよりは、ショックもやわらぐはずだから。どちらが、遥のためになるのだろう。
 じゅっとカレー肉が爆ぜる。遥はみじん切りにした玉葱を手際よく鍋へ放りこみ、にんじんとじゃがいもを炒めてから鍋に水を入れてぐつぐつ煮込む。遥は手を休めることなくレタスを洗った。野菜サラダも作るようだ。
 炊飯器から湯気があがる。遥はS&Bのルーを割り、おたまで溶かす。僕は、折り畳みのちゃぶ台を広げて布巾で拭いた。
「いただきます」
 僕たちは手を合わせて食べ始めた。
 ――やっぱり、ほんとうのことを言っておいたほうがいいんだろうな。
 スプーンでカレーライスをすくいながら、なんとなく思った。
「ゆうちゃん、たまごは?」
「あ、そうだね。遥は?」
「わたしはいらないわ」
 僕は、カレーに生卵をかけるのが好きだった。冷蔵庫から一つ取ってカレーへ落とすと、黄身と白身がカレーライスのうえを滑り落ちて皿の端からこぼれそうになる。僕は慌ててスプーンでかきまぜた。カレーライスの真ん中に穴を掘っておくのを忘れていた。
「ゆうちゃん、ほんとうにどうしたの? ぼんやりしちゃって、元気ないわよ」
「ちょっとね。いきなり先生にレポートを出せって言われてさ、どうしようかなって考えているんだよ」
 僕はとっさに嘘をついた。
「そうなの。急に言われても困るわね」
 遥は、なんとなく納得したような面持ちだった。
 ふたりとも黙ったまま食べた。僕はいつものように遥の作ったカレーライスをお替りした。
 遥が洗い物を終えた後、いっしょにお茶を飲んだ。遥は、今日授業で習ったことや街角で見かけたことをとりとめもなく話す。僕は、遥の話が途切れたら切り出そうとタイミングを計っていた。
 突然、チャイムが鳴る。
 思わずどきりとする。
 遥がインターフォンへ出ようしたのをとめて、僕が受話器を取った。
 あの男かと思って身構えたのだけど、相手は宅配便だった。僕は胸をなでおろした。
 僕の祖父が小包を送ってくれた。
 ダンボールを開けると、箱一杯にみかんがつまっていた。蓋の裏側に白い封書が貼り付けてあったので封を切った。祖父の直筆の手紙だった。学業に励むように、それから、正月に帰ってくるのを楽しみにしていると万年筆で書いてある。あたたかい励ましだった。
「いい香りね」
 遥は、みかんを鼻先にあてて匂いをかぐ。
「おいしそうだね。食べきれるかな」
 僕は、摑んだみかんをボール遊びでもするように手の甲に乗せ、
「ねえ、遥――」
 と、遥の父親のことを話そうとした。
「ゆうちゃん、今度の週末に教会のボランティアで施設へ行くんだけど、すこし持っていっておすそわけしてあげていいかな」
 遥は楽しそうに肩を揺らし、少女のようにくすくす笑う。
「いいよ。子供たちも喜んでくれるだろうね」
「ありがとう。いっしょに食べながら絵本でも読んであげようかしら」
 遥は、さっそくみかんをむき始めた。遥の嬉しげな姿を見ると、切り出せなくなってしまった。
「ちょっと、コンビニで立ち読みしてくるよ」
 僕は遥に言って部屋を出た。外の空気を吸って、気持ちを入れ換えたかった。
 セブンイレブンで週刊誌やコミック雑誌をぱらぱらめくってみたけど、あのことが気懸かりで落ち着かない。お菓子の棚をぶらぶら眺めると、新発売になったという油で揚げないポテトチップスが目に留まったので一袋買ってみた。金色のゴージャスなパッケージだ。ノンフライだから太らないと書いてある。目新しいものでも口にすれば、気分転換になるかもしれない。僕は一袋買うことにした。
 帰り道、ふと思い立ってオカマさんに電話した。彼ならどう考えるのだろう。意見を聞いてみたかった。だけど、オカマさんの携帯電話は話し中で通じない。道端で立ったまま五分ほど待ってかけ直してみたのだけど、やはり話し中だった。メールを打とうかとも考えたけど、あきらめて帰ることにした。
 街灯のともった住宅街の道を歩く。なんとなくあやふやで頼りない気分だ。中学校の下足室で銀色の雨を見つめていた遥の姿がまた脳裏に浮かぶ。
 これまでずっと、僕は遥の孤独を抱きしめようとしてきた。
 遥は僕の想いに応え、幸せになろうとがんばってくれた。現実と向かい合い、自分と向かい合い、神さまと向かい合い、なんとか折り合いをつけようと努力してくれた。もちろん、大切なことは忘れずに。
 ――ほんとうのことを言おう。
 ようやく、きちんと決心がついた。
 現実を見つめなければ、なにもはじまらない。遥が落ちこんだとしても、僕が支えてあげればいい。遥になにがあっても、僕はそばにいるのだから。遥のことが心配だと言いながら、逃げていたのは、実は僕自身なのかもしれない。
 近道の路地を抜けて、児童公園のそばを通りかかった。ブランコとジャングルジムとシーソーがあるだけの小さな公園だ。横目でなかを見た僕は、ふとなにかがひっかかった。
 僕は足をとめ、水銀灯に照らされた公園を見渡した。
 コートを羽織った中年男がベンチに坐っている。その背格好は遥の父親によく似ていた。

牛のように働きますっ!(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第101話)

2012年04月20日 20時04分12秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
「田舎から来ました牛のように働きます」
 先日、日本語のできる中国人が送ってきた履歴書を読んでいたら、こんな表現を見つけた。もちろん、日本語を話せることが採用の条件なので、履歴書は日本語で書いてもらっている。
「馬車馬のように働く」という表現は知っているけど、田舎からきた牛のように働くというのは初めて知った。たぶん、これは中国固有の表現で、それを直訳したものなのだろう。
 それはともかく、なんだか迫力のある表現だ。一所懸命がんばりますという気合が伝わってくる。
 中国の農業はまだまだ機械化されていないから、農村では水牛が田んぼを耕していたりする。僕がぱっと連想したのは、いつか雲南省の山奥で見た棚田を耕す水牛の姿だった。ほとんど腹まで泥に浸かりながら、ゆっくりゆっくり鋤を牽いていた。相当な重労働だから、水牛も農夫もたいへんだ。たぶん、履歴書を送ってきた彼もそんな水牛の姿を念頭において書いたのだと思う。
 中国で暮らしていると日本ではみかけない表現によくでくわす。それがけっこう僕の脳味噌を刺激してくれたりする。これも外国暮らしの醍醐味の一つだ。
 


(2011年4月24日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第101話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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空飛ぶクジラはやさしく唄う 第12話

2012年04月15日 00時35分32秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 遥を守りたい

 
 肚《はら》を決めた僕は、携帯電話を握り締めながらドアを開けた。ただし、チェーンはつけたまま。相手がどう出るのかを見たかった。もし、足をドアの隙間に入れてくるよう真似をするなら、すぐに警察を呼ぶつもりでいた。
 遥の父は、ハイボールの似合いそうな渋い中年男だった。碁盤のようにしっかりとあごの張った四角い顔に小さく整った端正な鼻をしている。鼻筋は遥にそっくりだ。すらりと背が高く、歳相応の貫禄はついているけど肥っているというわけでもない。ポマードでなでつけた髪を七三に分け、縁なし眼鏡をかけていた。小さな目の眼光は鋭い。頭の切れそうなインテリ・サラリーマンといった風情だ。
「なんの御用ですか」
 僕が素っ気なく訊くと、
「御用って、君」
 と、中年男は途惑い気味に咳払いする。
「ここは天草遥の部屋かね」
「そうです」
「遥に会いたい。遥を出してくれ」
「外出しています。いたとしても会わせられません」
「君はいったいなんなんだ」
「遥の彼氏です。いっしょに暮らしています」
「同棲か」
 男は顔を背けたまま苦虫を噛み潰し、横目でぎろりと睨む。
「遥はいつ帰ってくるんだ」
「知りません」
「開けなさい。遥が帰ってくるまでなかで待つ」
「あなたを部屋へ入れるわけにはいきませんよ」
「私は遥の父親なんだがね」
「他人です。残念ですが、親権はないですよね。離婚された時に失った。違いますか?」
 僕の問いかけに遥の父親は押し黙った。彼のいらついた仕草がうっとうしい。
「私の意図をきちんと把握してほしいものだな」
 男は居直る。僕は許さない。
「意図というより、わがままといったほうがいいんじゃないでしょうか。あなたの言うとおりにしなくちゃけいない義理も道理もありません」
「もちろん君は他人だが」
 遥の父親の横顔には困惑と傲岸さが浮かんでいる。それから、弱みを見せまいとする虚勢も。目の色には、自分の意のままにならないことへの憤りと相手をねじ伏せたいという動物そのものの獰猛さが浮かんでいた。嘘喝《きょかつ》で凝り固まった人だった。
「外で話しませんか? きちんと言っておきたいことがありますから」
 僕は男を誘った。
「話? ――わかった。そうしよう」
 彼はしぶしぶうなずき、また嫌そうに顔を背けた。
 国道沿いの喫茶店まで黙ったまま歩いた。遥の父親は根掘り葉掘り尋ねたがっていたけど、僕は着いてから話をしましょうと言ってとりあわなかった。
 歩きながら何度も拳を握り締めた。
 こみあげてくる怒りを何度も抑えた。
 僕の大切な遥を不幸にしたのは、ほかならない彼だ。先入観で人を判断するのはやめようと心がけているつもりだけど、彼にだけはどうしてもできない。遥の父親というよりも、遥を傷つけたろくでもない男だと、そんなふうにしか思えない。もし遥の家が普通の家庭だったら、娘の彼氏にいきなり出くわした父親の途惑いを理解しようとしただろうし、彼と仲良くしようとも試みたのだろうけど。
 喫茶店のガラステーブルを挟んで彼と向かい合った。市販のレトルトカレーを電子レンジで温めてそのまま出すような、なんの工夫もない安っぽい店だ。椅子のクッションはすり減って硬い。色あせた無機質な内装のなかで、水着姿のキャンペーンガールを写したビールのポスターだけが真新しかった。
「ところで、どうやって僕たちの住所を知ったのですか?」
 僕は彼の目を見据え、切り出した。遥の父はうろんそうに僕を見て目をそらし、
「君は知らなくていい」
 と、木で鼻をくくったように言う。
「それを言っていただけないのなら、僕はなにも話しません」
「それより、君が名乗るのが先だろう」
「では、帰らせていただきます」
 僕は腰を浮かした。
「わかった。話せばいいんだろ。遥の通っている大学に伝《つて》があって、それで調べてもらったんだ」
「それって犯罪ですよね。個人情報保護法で他人に明かしてはいけないはずじゃないんですか?」
「だから君は知らなくていいと言った」
「まあ、いいですよ」
 僕は椅子に腰かけた。
「瀬戸佑弥と申します。遥とは中三の時からの付き合いです。恋人になったのは一年ほど前ですけど。あなたのことは遥からいろいろ聞いています」
「遥、遥って、気安く呼ばれちゃ困るね。よそ様の家の子供にはさんづけで呼ぶのが礼儀だろう、君」
 男は貧乏ゆすりを始めた。僕は目障りなその足を睨みつけた。
「もう一度言いますけど、あなたに親権はありません。他人です。遥もあなたを父親だとは思っていません。遥が高校へ上がる時、あなたは遥を取り戻しに行って拒絶されたそうですね」
 僕がそう言うと、男はひりつくように顔をしかめた。プライドを傷つけられたようだ。こんなことを初対面の人間に言われたら、誰でも腹を立てるだろう。だけど、彼の表情にはひとかけらの後悔や娘に対してすまないという気持ちも現れていなかった。
 ――自分の体面がすべてなんだ。
 僕はそう感じた。
「君は知らないかもしれないが、私は約束通り、遥が二十歳になるまで毎月養育費を支払った。一度も遅れることなく、きっちりとだ」
「お金の問題じゃないですよね」
「そうとも。金の問題じゃない。誠意の問題だ。私は誠意を見せた。だから、遥には帰ってきてほしい」
 男は金の問題ではなく誠意の問題だというけど、どうも混同しているようだ。お金を払うのが誠意のすべてだと勘違いしている。まるでお金さえ払えば自分の娘が帰ってくるかのように。僕が聞きたかったのは、ほかの言葉だった。
「離婚協議書で約束したことは反故《ほご》にして、あくまでも取り戻したいということですか」僕は訊いた。
「遥は私の娘だ」
「他人です。どうしてそんなにこだわるんですか? 遥は嫌がっているのに」
「血は水よりも濃いと言ってね。親子の絆は簡単に断ち切れるものじゃない」
「遥はあなたを忘れたがっています。あなたが遥のお母さんをいじめたのが、トラウマになっているんですよ」
「あんなやつがなんだ」
 男は吐き捨てた。
「私は遥の母親とは性格が合わなかったんだよ」
「合わせようとしたのですか? 理解しようとしたのですか?」
「君にそんなことを言われる筋合いなどない。夫婦のことなど、君の歳ではわからんさ。惚れたの腫れたのって言っているだけなんだからな」
「失礼ですね。そんなことはありません。僕は、遥のことは誰よりも知っているつもりです」
 僕は遥の状況を説明した。
 遥は自分を責めすぎて悩み苦しんだ状態からようやく立ち直りかけたところなので、あなたに現れてもらっては迷惑だとはっきり告げた。男は、またプライドを傷つけられたような顔をしたけど、僕はかまわなかった。彼のゆがんだプライドなど、知ったことじゃない。悲しみを乗り越えて生きようとする遥を守るほうがよっぽど大切だ。
「あんな鬱病の母親といっしょにいたからそうなるんだ。鬱がうつったんだ」
「どうして遥のお母さんのせいにするんですか? 遥のお母さんを鬱病にしたのは、あなたですよ。あなたが遥のお母さんをいびりまわして人格を破壊するような真似をするから、そうなったのですよ。わかっているんですか」
「君には関係ない」
「遥の問題は、僕の問題です」
「娘のことをそこまで考えてくれるのはうれしいがね。君は遥の代理人というわけか」
 男は唇を皮肉に曲げた。
「言っておくが、鬱病になったのはあいつ自身の問題じゃないか。私にはなんにも関係ない。離婚した時、あいつはまだ病気じゃなかった」
「言い逃れですね。遥の幼い頃から、遥のお母さんはいつも死にたいって口走っていたそうですよ」
「記憶にないな」
 男の視線が一瞬、宙に浮いた。嘘をついている。
「また言い逃れですね。どうして、ほんとうのことを話してくれないんですか?」
「どうして君はそう喧嘩腰なんだ?」
「あなたが喧嘩腰だからです。あなたは信用できません」
「もともと信用しようなんて気はないじゃないか。誰も私のことをわかってくれようとはしないんだ」
 男は声を荒げる。
「それはどうでもいいんですけど」
 僕は冷たく受け流した。ほんとうにどうでもよかった。遥のことだけが心配だった。
「僕はずっと遥を支えてきました」
「面倒くさいなら、ほかの女性を探せばいいだろう。いくらでもいるじゃないか」
「そんなことは一言も言っていません。これからもずっと遥を支えるつもりです。でも、あなたに邪魔されたんじゃ、遥は元気になれないんです。そっとしておいてあげてくれませんか。そのほうが遥のためなんですよ」
「君ではらちがあかない。遥に会わせろ」
「それはできません。どうしてもと言うのなら、警察を呼びます。あなたの会社にも電話します」
「けっこう汚い手を使うんだな。おぼこい顔をしてさ」
 遥の父親はいらだたしそうにテーブルをこつこつ叩き、蔑んだ目で僕を睨む。だけど、その目は本心から蔑んでいるのではなかった。自分自身が後ろめたいことをした時に、逆に相手が悪いと責めるための戦術だ。そうしたほうが、相手にダメージを与えられるからという計算でしかない。なにも信じていない人間特有の狡猾な目つきだった。
「大学に裏から手をまわして、僕たちの住所を手に入れたのは誰でしょうか? 遥のためだったら、僕はなんでもします」
「私だってそうだ」
「でしたら、遥には会わないでください。もし遥があなたと会う気になったら、いつか会えるでしょうから」
「だからそれはいつなんだ。私はいつまで待たされるんだ」
「わかりません」
「離婚してあの子に悲しませてしまったのは悪かったと思っている。だが、私はもう十分に償った。どうしてわかってくれないんだ」
「あなたを許すかどうかは、遥が決めることでしょう。どうして、自分のことしか言わないんですか。僕は不思議です。娘がかわいいって言いながら、結局、いちばんかわいいのはあなた自身なんじゃないですか」
「誰だってそうだろう」
「そんな理由で正当化できることではありません。遥は幼い時に心の痛手を負って、今でもそれと闘っているんです。その姿を間近で見ていないからご存知ないかもしれませんけど、トラウマの元凶が目の前に現れたらどうなるか、見当がつくでしょう」
「ずいぶんな言い方だな」
「何度同じことを言えばいいんですか。あなたが遥のお母さんを罵倒したからです。幼い頃の遥はそれを見て、いつも怖くて震えていたんですよ。あなたが怖くてしかたないんです。あなたは取り返しのつかないことをしてしまったんです」
「遥を手放したのは間違いだった。ばかみたいにお人好しで、世間知らずで、頭のおかしいあんなやつと一緒に暮して、さぞ苦労したことだろう。あいつの母親もいけすかないばばあだからな。私は償った。養育費だって払った。遥に嫌われるのが耐えられない」
 男はどんとテーブルを叩いた。異様なくらいの音が響く。コーヒーが飛び跳ね、焦げ茶色の滴がテーブルに散らばった。
「私は自分の家族を取り戻したい。ただそれだけなんだ」
 遥の父は肩を震わせる。
「自分のために遥を利用するだなんて、あんまりですよ。すこしは遥のことも考えてあげてください」
「どうして遥はそんなに私を嫌うんだ。あの子に母親にいろいろ吹きこまれたんだろう。自分の母親を信じているのかもしれないが、あいつはなにもわかっちゃいないやつなんだ」
 遥の父は、僕の話を聞かずに激高しだした。このエゴイズムの塊のような性格が遥の母親と遥を追いつめたのだろう。会社のなかではそれで通用するのかもしれないけど、そのやり方を家族に応用したのでは、家庭が壊れるに決まっている。僕は冷ややかに彼を見た。
「なんでもする。土下座でもなんでもする。殴って気が済むのなら、殴ってくれて結構だ。遥にそう言ってくれ」
「だから、もう取り返しがつかないんですよ。あとは、あなたがその事実を受け容れるかどうかの問題なんです。覆水盆に返らずって言いますよね。そういうことなんですよ。とりあえず、落ち着いてください」
「あの子の母親と離婚した後、私は会社でずいぶんつらい思いをした。針の筵に坐るようだった。いろいろ陰口を言われたものだよ。そのせいで出世だって遅れた。だが、養育費を支払わなければならない。あの子の姉さんだって育てなくちゃいけない。だから、仕事を続けた。私はこれまで努力してきたんだ。どうしてそれを認めてくれないんだ」
「あなたが相手を認めようとしなかったからです。とりわけ、遥のお母さんを。だから、あなたはその報いを受けているだけなんだと思いますよ。いちばんの問題は、さっきも言いましたけど、あなたが自分のことしか言わないことです。はっきり言って、傲慢だと思います」
「たしかに、私はプライドが高いと言われる。だが、そんなことは君には言われたくない。赤の他人なんだからな」
「そうですよ。赤の他人ですよ。これからもずっと他人です。遥とあなたとの間柄も」
 僕は、自分でも嫌なことを言っていると自覚していた。こんなことを僕に言わせた彼を憎んでもいた。でも、遥を守るためだ。遥のためだったら、なんでも言う。言わなくちゃいけないことは、きちんと言う。
「とにかく、遥の前には現れないでください。きっと、遥はパニックになります。またひどく落ちこんでどうしようもならなくなってしまうのは目に見えていますから。この間は、友人が助けてくれたこともあってなんとか持ち直しましたけど、今度そうなったらどうなるかわかりません」
「もういいっ」
 遥の父は席を蹴り、
「話をするというから、私のことを聞いてくれるのかと思ったのに」
 と、捨て台詞を吐いてそのまま喫茶店を出て行った。
 僕は彼の後ろ姿を見送り、水に濡れた伝票を持ってレジへ立った。
「悪いことはもう起きないって遥に約束したんだけどな」
 僕はつぶやいた。
 喫茶店の店主は不機嫌そうな顔で僕を見る。遥の父が大声を出していたので腹を立てたようだ。
「なんでもないです」
 さすがに遥の父親のかわりに謝る気にはなれず、僕は首を振った。二人分のコーヒー代を支払ってさっさと店を出た。

夕暮れ

2012年04月04日 04時30分06秒 | 詩集

 春の夕暮れは
 あたたかかくって
 せつなくて
 重いコートもいらないというのに
 どこへも行けない僕は
 ただ、夕暮れを眺めるしかないのです

 少女の打ち上げたバトミントンが
 苺色した空にゆっくり舞って
 たおやかに
 やるせなく
 二階建てバスとすれ違いながら
 暗い地面へ落ちていきます

 あたたかい風は
 ふたりの恋心をどこへ運ぶのでしょうか
 いいえ
 行き先などないのです
 僕を信じてる人になにもしてあげられなくて
 なにもしてあげられないからこそ
 去らねばならないのですが

 これを裏切りというのだと
 バトミントンの羽はゆっくり落ちます
 残酷な言葉を考える僕を恨みます
 いっしょに遊ぼうとはしゃいでる
 やさしい少女の誘いに
 僕はまたもや生返事

 春の夕暮れは
 あたたかかくって
 さみしくて
 重いコートもいらないというのに
 どこへも行けない僕は
 ただ、夕暮れに身を任すしかないのです



「小説家になろう」投稿作品。
http://ncode.syosetu.com/n2006bd/


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