そのかたつむりは一千万匹に一匹しかいない美しい体をしていました。
背中にのせた左巻きの巻貝はまるでガラス細工のように透明です。体もすきとおっています。陽の光がそのかたつむりを照らすと、透明な巻貝は光を反射してきらきらとかがやき、透明な体のなかに虹色のつぶつぶが光ります。はっと息を飲むような美しさでした。
かたつむりは自分の体が好きでした。毎日、沼のほとりに生えている草にそろそろと登り、沼に映った自分の体をあきることもなくじっと見つめます。見ればみるほどすてきに思えてなりません。かたつむりが自分のすがたをながめていると、てんとう虫が飛んできて透明な巻貝の上にとまります。てんとう虫は甘い声を出してかたつむりへささやきかけ、
「ぼくがかたつむりだったら、あなたと結婚するのになあ」
と、なんどもため息をもらしました。
てんとう虫だけではありません。その沼では評判のかたつむりでしたから、小鳥がやってきてはそのかたつむりへ話しかけ、野ねずみがやってきては話しかけといろんな生き物がかたつむりへ話しかけては、
「あなたの巻貝と体はほんとうにきれいだねえ」
とほめそやします。
一度、牛がえるがそのかたつむりを食べてしまおうとしましたが、牛がえるはかたつむりの美しさにはっと気づいて、
「だめだ。お前さんを食べるわけにはいかない。こんなに美しいのだからねえ」と言って、にゅっとつき出した長い舌を引っこめたこともありました。
かたつむりは毎日、沼のほとりで楽しくすごしました。朝陽がのぼったらのそのそと起き出してえさを探し、夜になればぐっすり眠ります。その沼は海からそれほど遠くないところにありました。海から風が吹いてくる日は、潮の香りがなんとなくただよいます。沼のほとりはおだやかで平和でした。
夏になって、とんぼが飛ぶようになりました。毎日、さわやかないいお天気が続いています。そんなある日、野ねずみがあっちへ走ってはまた引き返してと、あわてたように走りまわっていました。
「野ねずみさん、いったいどうしたの? 今日のあなたはなんだか変よ」
かたつむりは野ねずみに言いました。
「嫌な予感がする。胸がむずむずするんだ」
「悪い夢でも見たの?」
「おれは夢なんてまったく見ない。生まれてから一度も見たことがないよ。胸さわぎがするんだ。とんでもないことが起こりそうな気がしてしかたがないんだよ」
「とんでもないことって、どんなこと?」
「わからない。とにかくひどいことだよ。なあ、いっしょに逃げないか。ここにいたらあぶないと思うんだ」
「わたしはゆっくりとしか進めないから逃げようにも逃げられないわよ」
「おれの背中にのればいいさ。おれはすばしっこいから、どんなところへでも走っていける。今出発すれば、夕陽が沈むころにはあの山をこえて向こうがわへつくだろう」
「山の向こうはどんなところなの」
「こことあまり変わらないさ。川が流れていて、沼があって、田んぼがいっぱい広がっている。虫も動物も人間もたくさんいる」
「おじょうさん、だまされちゃいけないよ」
草の下でじっと話を聞いていた緑色のへびが話にわりこんできました。
「野ねずみはきっとお前さんをさらうつもりだよ。お前さんを遠くへ連れていってひとりじめにしようとしているんだ」
「なにをばかなことを言っているんだ」
野ねずみはおこりました。
「おれはそんな悪いことはしない。どうにも嫌な予感がしてしかたないんだ。ここから逃げなくっちゃいけないって、頭のなかでもう一人の自分がさわいでいるんだ。ほんとだよ」
「わたしはなんにも感じないね。いつもと変わらないよ」
緑色のへびはうたぐりぶかそうな目で野ねずみを見つめます。
「へびは自分のしたいようにすればいいさ。おれは逃げるけどね。どうする? おれといっしょに逃げるかい?」
野ねずみはかたつむりに聞きました。
「わたしはここにいることにするわ。わたしはこの沼をはなれたことがないし、遠くへ行くだなんてこわいわ。野ねずみさんのことをうたがっているわけじゃないのよ。ただ、ここをはなれたくないの」
かたつむりは言いました。
「そうかい。それじゃ、おれはひとりで行くよ」
野ねずみはくるりと背を向けていそいで走って行きました。
「へびさん、野ねずみさんの悪口を言ったらだめじゃない」
かたつむりは緑色のへびに言いました。
「ふん、わたしはもともと野ねずみがきらいなんだ。それに、悪い予感がするだとか、ここにいたらあぶないだとか、おかしなことを言うのはゆるせないね。この沼にはもう何年も住んでいるけど、あぶないことなんていちども起きたことがないよ。いい朝だったのに気分が悪くなってしまった。まったく」
緑色のへびはぷりぷりおこって茂みのなかへ入って行きました。
かたつむりはちょっぴり不安になりました。でも、あたりを見まわしてもおかしなことはなにもありません。いつもとおなじようにさわやかな空気が流れ、空はぴかぴかにかがやいています。かたつむりはえさをさがしに行きました。朝ごはんをまだ食べていなかったのです。
お腹いっぱいになってから、かたつむりは沼のほとりに生えている草に登って、二本の触覚を楽しそうにゆらしながら水面に映る自分の姿をじっと見つめていました。すると、大きななまずが浮かんできました。
「まだいたのか?」
なまずはおどろいたように言いました。
「あなたはどなた?」
かたつむりは大きななまずに会うのは初めてでした。
「わたしはこの沼の主ぬしと呼ばれているなまずだよ。もう三百年もここに住んでいる。もっとも主でもなんでもないけどね。体が大きいからそう思われてしまうのだろう」
「そうなの。はじめまして。ところで、どうして『まだいたのか』なんて言うの?」
「さっき野ねずみ君がいっしょに逃げようって言わなかったかい?」
「言ったわ」
「今朝、野ねずみ君から相談を受けたんだ」
「悪い予感のこと?」
「そうだよ。ゆうべ星を見たら、おかしなことになっていたんだ」
「おかしなことってなに?」
「星座がずれているんだ。あるはずのところに星がない。ないはずのないところに星が光っている。こんなことは前にも何回かあった。星座がずれるととんでもないことが起きるのだよ」
「とんでもないこと?」
「たいていは地震が起きたり、洪水が起きたりするのだけど、ほかにもっとひどいことが起きることだってある」
「たとえば?」
「わたしの祖父は星が落ちてきたことがあったと言っていた」
「星って落ちてくるものなの?」
「そうらしい。わたしもよくは知らないけどね。野ねずみ君が悪い予感がするというものだから、ゆうべの星のことを話したんだ。野ねずみ君はやっぱりおれの予感が正しいんだってよけいにそわそわしてしまった。それで野ねずみ君があなたを連れて逃げたほうがいいだろうかって聞くものだから、わたしはそうしたほうがいいだろうと言ったんだ」
「野ねずみさんはどうしてわたしを連れて行こうとしたのかしら」
「あなたが特別美しいからだよ。野ねずみ君は、あなたのような透明にかがやく巻貝を持つかたつむりがもし死んでしまったりしたらとても残念だと思ったのだ。あなたを安全なところへつれて行きたいと。わたしも美しいあなたを死なせたくないと思った。なにしろ、あなたは一千万匹に一匹しかいないかたつむりだからねえ。わたしはこの沼で生まれて三百年になるけど、あなたのような美しいかたつむりに出会ったのは初めてだ」
大きななまずは言いました。美しいとなんども言われて、かたつむりはさすがにはずかしくなって顔を赤らめてしまいました。
「野ねずみさんはほんとうに親切なのね。でも、わたしは野ねずみさんに悪いことをしてしまったわ。だって、遠くへ行くだなんて怖いもの」
「気持ちはわかるよ。だれだってふるさとをはなれたくないものだ」
「野ねずみさんは遠くへ逃げて安心ね」
突然、空がぴかりと大きく光ったかと思うと、どーんというものすごい音がひびいてきました。
どうやら海の近くでなにかあったようです。
はげしい風が吹き、あたりの木や草が大きくゆれました。とばされそうになったかたつむりはひっしになって草にしがみつきました。大きな雲がむくむくと立ち上り、やがてきのこのような形になりました。風が吹きぬけるとあたりはもとどおりになりました。いつもと変わらない穏やかで静かな沼です。
「ものすごい風だったな。きっと星座がずれていたのも、野ねずみ君が胸さわぎがすると言っていたのも、このことだったのだろう」
大きななまずは言いました。
「なんだかみにくい雲ね。毒きのこみたいなかたちをしているけど。なまずさん、いったいなにが起きたの?」
かたつむりは聞きました。
「わからない。星が落ちたのだろうか?」
大きななまずはひとりごとのようにつぶやきます。
「とても強い風が吹いただけでここは大丈夫みたいね」
「そうだね。なんにもなくてよかった。ただ、空の様子が変だな」
「ほんと。いつもの空と違う」
かたつむりは空を見上げて言いました。
「空が硬かたいわ。空が石になってしまったみたい。風も硬いわね。なんだかごつごつする風だわ。空も風もいつもは自由でやわらかいもの」
「さっきの爆発のせいかもしれないね」
頭を水面から出した大なまずはひび割れたような空を見ながら心配そうに言いました。
毒きのこみたいな雲が形をくずしながら空へ広がります。青くて明るかった空はたちまち雲におおわれて暗くなりました。
雨が降り始めました。
黒い雨です。
びっくりしたかたつむりは悲鳴をあげて草のうらにかくれたのですが、草のうらにもどしゃ降りの雨が容赦ようしゃなくふきつけてずぶ濡れになってしまいました。
「冷たい雨ね。さむいわ」
かたつむりは触覚をだらりとさげ、目をつむってじっとたえました。
ようやく雨がやみました。お日さまの光を感じて目を開けたかたつむりは、
「あら」
と言って息をのみました。
ついさっきまできれいだった沼は雨のせいでまっ黒になっています。
「なまずさん、どこにいるの?」
かたつむりは大声で叫びました。
水面にぶくぶくっとあわがうかび、大きななまずがのっそりと姿をあらわします。
「おや、どうしたんだい?」
大きななまずは不思議そうにかたつむりに聞きました。
「わたしはどうもしないけど……」
そう言って水面に映った自分の姿を見たかたつむりはそのままかたまってしまいました。いつもの美しい姿ではなく、まっ黒になったかたつむりがそこに映っていたのでした。美しい透明の巻貝も透明の体もまっ黒です。たんに黒いだけではありません。ごみと油でよごれたような黒さです。
「いやだ。きたならしいわ」
かたつむりは目に涙をうかべます。
「雨にほこりやごみがまじっていただけだよ。こんど雨が降った時に、雨水でよく体を洗うことだね。そうすれば元どおりになるさ」
なまずはかわいそうに思いながらそうなぐさめました。
かたつむりはあたりを見回しました。沼の水も、沼のまわりの草木もみんなどす黒く変わってしまっています。
「さっきの雨は変よ。みょうに黒いし、体がねばつくもの」
「そうだね。おかしな雨だった。わたしも体がねばねばちくちくするよ。おまけに沼の水が苦くなってしまった。こんな雨は初めてだ」
「ほんとうにこまった雨ね」
かたつむりとなまずはしばらく話をした後、お腹が空いたのでそれぞれえさを探しに行きました。
翌日の朝、かたつむりはいつものように沼のほとりに生えた草にのぼりました。沼の水はまだ黒いままです。沼のまわりの生き物たちはみんな口々に体が痛いとかひりひりするだとかぼやいています。かたつむりは水面に映った自分の姿を見ました。巻貝も体もまっ黒でみにくい姿です。かたつむりはかなしくなってじっとしていました。
てんとう虫がやってきました。てんとう虫はかたつむりの黒い巻貝の上にとまり、
「おわかれを言いにきたよ」
とか細い声で言います。
「てんとう虫さんも遠くへ行くの?」
かたつむりは聞きました。
「遠くといえば、遠くだけどねえ」
かたつむりは遠い目をします。
「どこへ行くの?」
「天国か、地獄か、どっちかだね。どっちも遠いんだろうね」
「もしかして死んじゃうの?」
「もうだめだと思う。ほら、ぼくの背中を見てごらん。みんなまっ黒だ」
「わたしといっしょね」
「体の調子がとてもわるいんだ。ぞくぞくと寒気がしたかと思うと急にあつくなってたまらなくなる。まっすぐ飛ぼうとしても、右へいったり左へいったりでふらふらしてしまうし、ひどい耳鳴りがして頭が痛いんだ」
「なまずさんはもう一度雨がふったら黒いよごれは落ちるだろうって言っていたわ。そしたら元気になるわよ」
「たとえよごれが落ちてもだめだと思う。ぼくはもうすぐ死ぬ。ぼくにははっきりわかるんだ」
「そんなかなしいことを言わないで」
「最後にあなたと話をしたかったんだよ。とても好きだった。大好きだった。毎日、あなたのことばかり考えていたよ。あなたはほんとうに美しい」
「ありがとう。ごめんね。あなたに美しい姿を見せてあげられたらいいのだけど」
「思い出のなかのあなたはいつも美しいよ。生まれ変わったらかたつむりになりたいな。あなたにプロポーズするんだ」
てんとう虫の言葉を聞いて、かたつむりはなにも言えなくなってしまいました。かなしくて、かなしくて、ただ涙をこぼすばかりです。
「ぼくは草むらへ行ってしずかに死ぬことにする。ときどきでいいから、ぼくのことを思い出してくれたらうれしいな。元気でね。さよなら」
てんとう虫はそう言ってふらふらと飛んでいってしまいました。
かたつむりはしょんぼりとしたまま沼をながめました。てんとう虫はもう死んでしまったのだろうかとそんなことを思ってはなんともいえない気持ちになりました。ともだちをうしなうのはとてもさびしいことだと知りました。
昼さがりになって大粒の雨がふりました。ごく普通の白い雨です。きのうのような黒い雨ではありません。沼いちめんに雨の穴が開きます。かたつむりは葉っぱのおもてへ出て雨をあびながら、
「体が元どおりになりますように」
と祈っているうちにうとうととねむりました。
起きたときには、もう雨はあがっていました。空にはきれいな虹がかかっています。かたつむりは水面に映った自分の姿をたしかめました。
「だめなのね」
かたつむりはため息をつきます。背中にせおった巻貝も体もまっ黒なままでした。
「もうもとへはもどらないんだわ」
つらくて心臓がきゅっとちぢんでしまうようです。きらきらとした透明な巻貝も透明な体も永久に失われてしまったのです。
「よかった。生きていたんだ」
草むらから声がしました。逃げたはずの野ねずみでした。
「野ねずみさん、帰ってきたの」
「心配だからね」
野ねずみは息を切らせて言います。野ねずみは山の向こうから走りつづけて沼のほとりへ帰ってきたのでした。
「どうしたんだい。まっ黒になってしまって」
「見ないで」
かたつむりははずかしくてかくれたくなりました。また心臓がきゅっとしめつけられます。
「かわいそうに。おれがそのよごれをふき取ってあげられたらいいんだけどなあ」
「黒い雨に打たれたらこんなふうになってしまったの。どうやってもよごれが落ちないのよ」
「あれは毒の雨なんだ」
「こわい」
かたつむりは触覚をだらりとさげてぶるぶるふるえました。
「ごめんね。こわがらせてしまって。でも、ほんとうのことを知りたいだろ」
「うん、なにが起きたのかを知りたいわ」
かたつむりはこくりとうなずきました。
「変なかたちをした雲を見ただろう。きのこみたいな雲だよ。あれは人間が作った毒の雲なんだ。人間がなにかを爆発させると、毒の雲ができるらしい。それでその雲が広がって毒の雨を降らせるんだ」
「人間はそんなおそろしいことをするの」
「そうなんだ。このあたりから人間がどんどん逃げ出している。人間は自分たちで毒の雲や毒の雨を作って、自分で怖くなって逃げているんだ」
「どうして毒の雲なんてものを作ったのよ。ひどいじゃない」
「ほんとだね。ここへ帰ってくるあいだにいろんなところがこの沼みたいに黒く変わってしまったのを見た」
「毒の雨にやられてしまったのね。いつかもとに戻るのかしら」
「わからない。ねえ、おれと一緒に逃げよう。よごれていないところへ行こうよ。あなたに似合いのきれいな沼を見つけてあげる。そこで一緒に住もう」
「わたしはもうよごれてしまったわ。昔のわたしじゃないの」
「きれいなところに住めば、もとに戻るかもしれないよ」
野ねずみがいくら逃げようとさそってみてもかたつむりは首を振るばかりでした。野ねずみの親切はありがたいと思ったのです。でも、かたつむりは知らないところへ行っていじめられるのが怖かったのでした。以前のように透明な巻貝や透明な体を持っていた頃なら、自信たっぷりだったかもしれません。ですが、今のみにくい姿になってしまってからはすっかりしょげかえってしまって自分に自信を持つことができませんでした。
「むりやりさらってしまうわけにもいかないし」
野ねずみはかなしそうにため息をついてどこかへ行ってしまいました。
雨がふるたびに沼はすこしずつきれいになりました。かたつむりにしみついた黒色も、ほんのすこし色がうすまったようです。沼の生き物は減ってしまいました。みんななんとなく元気がなくなっていつのまにか数が減ってしまったのです。いつもならもっととんぼが飛んでいてもいいのに、はんぶんくらいしかいませんでした。かわりにこのあたりに出没しゅつぼつする動物が増えました。人間がほとんどいなくなったので、動物たちが自由に動きまわれるようになったのです。以前はあまり見かけなかった猪や鹿や猿たちが沼のまわりをおとずれるようになりました。
夏の終わりごろ、かたつむりは卵を産みました。じょうぶできれいな葉っぱを見つけて、その茎に百個ほどの卵をまとめて産みつけました。卵はきれいな色をしています。かたつむりは黒い卵が出てくるのではないかと心配だったのですが、黄土色の卵を見てほっとひと安心しました。
かたつむりは毎日、卵のようすを見にいきました。そして、卵たちがぶじに草の茎についているのを見てよろこびました。
ある満月の夜、なかなか寝つけなかったかたつむりは大きななまずをよんで、話し相手になってもらいました。
「すずしくなったわね」
かたつむりは言いました。
「これくらいがちょうどいいかな。あつくもなく、さむくもなく、すごしやすいよ」
なまずはかすれた声で言います。
「なまずさんは元気がないわね。体は大丈夫なの?」
「調子はよくないな。黒い雨がふってからというもの、体に力が入らないんだ」
「わたしは、近頃昼でも夜でも突然ねむりこんでしまうようになったわ。体がとてもつかれているのね。それにしても仲間がへってさみしいわね。野ねずみさんは今ごろどうしているのかしら」
「野ねずみ君は死んだよ」
なまずはぽつりと言います。
「うそ」
かたつむりはおどろいて目をみはりました。
「ほんとうだよ。鳥が教えてくれた。野ねずみ君は山の向こうがわのそのもっと向こうへ逃げたのだけど、そこでひどくいじめられてしまった。もとからそこに住んでいる動物たちは、毒がうつるからあっちへ行けといって野ねずみ君をこづきまわしたそうだよ。このあたりから逃げていった動物はほかにもたくさんいたけど、みんな野ねずみ君とおなじ目にあったらしい」
大なまずは言います。
「ひどいわね。毒をあびたのは野ねずみさんのせいではないのに」
「そこの動物たちはこのあたりにふった毒のことがこわかったのだろ。動物というものは、おびえた時にあたりちらしていじめにかかるものだからね」
「野ねずみさんはここへ帰ってくればよかったのに」
「帰ってこようとしたらしいけど、けっきょく帰ってこれなかった。野ねずみ君はなんどもけとばされて、かみつかれて、ひどい罵声ばせいをあびて、体がぼろぼろになってしまった。体中の毛がぬけて、あざだらけになって見てはいられないありさまだったそうだ。やっとのことでとなりの川までたどりついたのだけど、野ねずみ君は、こんなかっこうではあなたに会えないと思ったらしい、あなたに会いたいけど、こんなみすぼらしいすがたをあなたに見せられないといって沼へ帰ってくるのをためらったんだ」
「そんな。わたしだって真っ黒になってしまったわ。ひどいすがたになったのはおたがいさまよ。わたしは気にしないわ」
「野ねずみ君は大好きなあなたの前ではやはりきちんとした身なりをしていたかったのだよ。野ねずみ君は沼へ帰ろうかどうしようか迷っているうちに川へ落ちて死んでしまったそうだ」
「かわいそうな野ねずみさん」
「お祈りをしよう。野ねずみ君が天国でやすらかにねむれますように」
「そうね」
大きななまずとかたつむりは神さまにお祈りしました。
そのとき、草の上からぱりぱりっとかわいた音が聞こえました。かたつむりが見上げると、かたつむりの卵がつぎつぎとわれ始めています。
「子どもたちが生まれるんだわ」
かたつむりはほほえみました。
「おめでとう」
大きななまずも卵たちを見上げて祝福します。
小さな卵から出てきた豆つぶほどのかわいらしい赤ちゃんが茎や葉っぱにくっつきます。体はとても小さいですが、もう立派なかたつむりです。背中に巻貝をせおってよちよち歩きます。
「子どもたちはみんな透明の巻貝に透明な体をしている。昔のわたしと一緒だわ」
かたつむりはうれしそうに叫びました。大きななまずは目をこらしてかたつむりの赤ちゃんを見つめました。大きななまずの目には赤ちゃんたちの体はみんなクリーム色に見えました。巻貝は茶色っぽいマーブル模様です。巻貝も体も透明ではありません。ごく普通のかたつむりです。でも、大なまずはそのことを言わずにだまっていました。かたつむりのよろこびに水をさしたくなかったのです。
「ママ、会いたかったよ」
赤ちゃんかたつむりたちはお母さんかたつむりのまわりに集まります。
「お前たちはきれいだね。よかったわ。黒い体の赤ちゃんが生まれるんじゃないかって心配していたの。黒い体にならなくてよかった。こんな不幸はお母さんだけでじゅうぶんだもの」
かたつむりの赤ちゃんはみんな、
「ママもきれいだよ。ママ、大好き」
と口々に言ってはお母さんにほおずりします。
「よかったわ。ほんとうによかったわ。元気に生まれてくれて」
かたつむりはうれし涙を流します。おおぜいの赤ちゃんかたつむりにかこまれて、お母さんかたつむりはしあわせそうでした。
どこかでぽちゃりと音がひびきます。かえるが水へ飛びこんだようでした。すずしい風がふき、草がゆれました。月の光がかたつむりの赤ちゃんたちをてらしました。とても小さな巻貝がきれいに光ります。
「いいお子さんが生まれてよかったね。赤ちゃんたちを見ているだけでなんだかうれしくなるよ」
大きななまずは目を細めてそう言ったのですが、かたつむりはじっとうずくまったまま答えません。かたつむりはほほえんだまま死んでいたのでした。
「赤ちゃんが生まれるまでは死ねないと思ってがんばっていたのだね。安心していいよ。あなたの赤ちゃんはみんな元気だ。きっとじょうぶなかたつむりに育ってくれるよ。なんの心配もいらない。あなたは天国でゆっくり休みなさい」
大きななまずは動かなくなったかたつむりに声をかけました。赤ちゃんかたつむりたちは葉や茎をつたって歩いていきます。大きななまずは黒いかたつむりの姿をしばらく見守り、赤ちゃんかたつむりたちが早く大きくなりますようにと祈りました。
季節はめぐり、次の夏がやってきました。
かたつむりの子どもたちは沼のあちらこちらへちらばって元気に暮らしています。みんな大きく成長しました。沼のまわりの木ではせみが鳴き始め、とんぼが飛んでいます。沼の水は苦いままでしたが、あたりはすっかり夏模様です。
大きななまずは水面から顔をのぞかせ、
「美しいかたつむりだったな」
と、大きくなったかたつむりの子どもの姿をながめながら透明なかたつむりを思い出してつぶやきました。目を閉じればきらきらとかがやくかたつむりのすがたをはっきりと思い出すことができます。大きななまずにとっても、透明なかたつむりと出会い、いろんなおしゃべりをしたことはいい思い出でした。今でもなんとなくあのかたつむりと話をしたくなる時があります。
「生まれ変わったらまたここへきておくれ」
大きななまずは白くかがやく入道雲を見上げながら今はなきかたつむりへ話しかけ、それからのっそりと沼の奥深くへともぐっていきました。
了
背中にのせた左巻きの巻貝はまるでガラス細工のように透明です。体もすきとおっています。陽の光がそのかたつむりを照らすと、透明な巻貝は光を反射してきらきらとかがやき、透明な体のなかに虹色のつぶつぶが光ります。はっと息を飲むような美しさでした。
かたつむりは自分の体が好きでした。毎日、沼のほとりに生えている草にそろそろと登り、沼に映った自分の体をあきることもなくじっと見つめます。見ればみるほどすてきに思えてなりません。かたつむりが自分のすがたをながめていると、てんとう虫が飛んできて透明な巻貝の上にとまります。てんとう虫は甘い声を出してかたつむりへささやきかけ、
「ぼくがかたつむりだったら、あなたと結婚するのになあ」
と、なんどもため息をもらしました。
てんとう虫だけではありません。その沼では評判のかたつむりでしたから、小鳥がやってきてはそのかたつむりへ話しかけ、野ねずみがやってきては話しかけといろんな生き物がかたつむりへ話しかけては、
「あなたの巻貝と体はほんとうにきれいだねえ」
とほめそやします。
一度、牛がえるがそのかたつむりを食べてしまおうとしましたが、牛がえるはかたつむりの美しさにはっと気づいて、
「だめだ。お前さんを食べるわけにはいかない。こんなに美しいのだからねえ」と言って、にゅっとつき出した長い舌を引っこめたこともありました。
かたつむりは毎日、沼のほとりで楽しくすごしました。朝陽がのぼったらのそのそと起き出してえさを探し、夜になればぐっすり眠ります。その沼は海からそれほど遠くないところにありました。海から風が吹いてくる日は、潮の香りがなんとなくただよいます。沼のほとりはおだやかで平和でした。
夏になって、とんぼが飛ぶようになりました。毎日、さわやかないいお天気が続いています。そんなある日、野ねずみがあっちへ走ってはまた引き返してと、あわてたように走りまわっていました。
「野ねずみさん、いったいどうしたの? 今日のあなたはなんだか変よ」
かたつむりは野ねずみに言いました。
「嫌な予感がする。胸がむずむずするんだ」
「悪い夢でも見たの?」
「おれは夢なんてまったく見ない。生まれてから一度も見たことがないよ。胸さわぎがするんだ。とんでもないことが起こりそうな気がしてしかたがないんだよ」
「とんでもないことって、どんなこと?」
「わからない。とにかくひどいことだよ。なあ、いっしょに逃げないか。ここにいたらあぶないと思うんだ」
「わたしはゆっくりとしか進めないから逃げようにも逃げられないわよ」
「おれの背中にのればいいさ。おれはすばしっこいから、どんなところへでも走っていける。今出発すれば、夕陽が沈むころにはあの山をこえて向こうがわへつくだろう」
「山の向こうはどんなところなの」
「こことあまり変わらないさ。川が流れていて、沼があって、田んぼがいっぱい広がっている。虫も動物も人間もたくさんいる」
「おじょうさん、だまされちゃいけないよ」
草の下でじっと話を聞いていた緑色のへびが話にわりこんできました。
「野ねずみはきっとお前さんをさらうつもりだよ。お前さんを遠くへ連れていってひとりじめにしようとしているんだ」
「なにをばかなことを言っているんだ」
野ねずみはおこりました。
「おれはそんな悪いことはしない。どうにも嫌な予感がしてしかたないんだ。ここから逃げなくっちゃいけないって、頭のなかでもう一人の自分がさわいでいるんだ。ほんとだよ」
「わたしはなんにも感じないね。いつもと変わらないよ」
緑色のへびはうたぐりぶかそうな目で野ねずみを見つめます。
「へびは自分のしたいようにすればいいさ。おれは逃げるけどね。どうする? おれといっしょに逃げるかい?」
野ねずみはかたつむりに聞きました。
「わたしはここにいることにするわ。わたしはこの沼をはなれたことがないし、遠くへ行くだなんてこわいわ。野ねずみさんのことをうたがっているわけじゃないのよ。ただ、ここをはなれたくないの」
かたつむりは言いました。
「そうかい。それじゃ、おれはひとりで行くよ」
野ねずみはくるりと背を向けていそいで走って行きました。
「へびさん、野ねずみさんの悪口を言ったらだめじゃない」
かたつむりは緑色のへびに言いました。
「ふん、わたしはもともと野ねずみがきらいなんだ。それに、悪い予感がするだとか、ここにいたらあぶないだとか、おかしなことを言うのはゆるせないね。この沼にはもう何年も住んでいるけど、あぶないことなんていちども起きたことがないよ。いい朝だったのに気分が悪くなってしまった。まったく」
緑色のへびはぷりぷりおこって茂みのなかへ入って行きました。
かたつむりはちょっぴり不安になりました。でも、あたりを見まわしてもおかしなことはなにもありません。いつもとおなじようにさわやかな空気が流れ、空はぴかぴかにかがやいています。かたつむりはえさをさがしに行きました。朝ごはんをまだ食べていなかったのです。
お腹いっぱいになってから、かたつむりは沼のほとりに生えている草に登って、二本の触覚を楽しそうにゆらしながら水面に映る自分の姿をじっと見つめていました。すると、大きななまずが浮かんできました。
「まだいたのか?」
なまずはおどろいたように言いました。
「あなたはどなた?」
かたつむりは大きななまずに会うのは初めてでした。
「わたしはこの沼の主ぬしと呼ばれているなまずだよ。もう三百年もここに住んでいる。もっとも主でもなんでもないけどね。体が大きいからそう思われてしまうのだろう」
「そうなの。はじめまして。ところで、どうして『まだいたのか』なんて言うの?」
「さっき野ねずみ君がいっしょに逃げようって言わなかったかい?」
「言ったわ」
「今朝、野ねずみ君から相談を受けたんだ」
「悪い予感のこと?」
「そうだよ。ゆうべ星を見たら、おかしなことになっていたんだ」
「おかしなことってなに?」
「星座がずれているんだ。あるはずのところに星がない。ないはずのないところに星が光っている。こんなことは前にも何回かあった。星座がずれるととんでもないことが起きるのだよ」
「とんでもないこと?」
「たいていは地震が起きたり、洪水が起きたりするのだけど、ほかにもっとひどいことが起きることだってある」
「たとえば?」
「わたしの祖父は星が落ちてきたことがあったと言っていた」
「星って落ちてくるものなの?」
「そうらしい。わたしもよくは知らないけどね。野ねずみ君が悪い予感がするというものだから、ゆうべの星のことを話したんだ。野ねずみ君はやっぱりおれの予感が正しいんだってよけいにそわそわしてしまった。それで野ねずみ君があなたを連れて逃げたほうがいいだろうかって聞くものだから、わたしはそうしたほうがいいだろうと言ったんだ」
「野ねずみさんはどうしてわたしを連れて行こうとしたのかしら」
「あなたが特別美しいからだよ。野ねずみ君は、あなたのような透明にかがやく巻貝を持つかたつむりがもし死んでしまったりしたらとても残念だと思ったのだ。あなたを安全なところへつれて行きたいと。わたしも美しいあなたを死なせたくないと思った。なにしろ、あなたは一千万匹に一匹しかいないかたつむりだからねえ。わたしはこの沼で生まれて三百年になるけど、あなたのような美しいかたつむりに出会ったのは初めてだ」
大きななまずは言いました。美しいとなんども言われて、かたつむりはさすがにはずかしくなって顔を赤らめてしまいました。
「野ねずみさんはほんとうに親切なのね。でも、わたしは野ねずみさんに悪いことをしてしまったわ。だって、遠くへ行くだなんて怖いもの」
「気持ちはわかるよ。だれだってふるさとをはなれたくないものだ」
「野ねずみさんは遠くへ逃げて安心ね」
突然、空がぴかりと大きく光ったかと思うと、どーんというものすごい音がひびいてきました。
どうやら海の近くでなにかあったようです。
はげしい風が吹き、あたりの木や草が大きくゆれました。とばされそうになったかたつむりはひっしになって草にしがみつきました。大きな雲がむくむくと立ち上り、やがてきのこのような形になりました。風が吹きぬけるとあたりはもとどおりになりました。いつもと変わらない穏やかで静かな沼です。
「ものすごい風だったな。きっと星座がずれていたのも、野ねずみ君が胸さわぎがすると言っていたのも、このことだったのだろう」
大きななまずは言いました。
「なんだかみにくい雲ね。毒きのこみたいなかたちをしているけど。なまずさん、いったいなにが起きたの?」
かたつむりは聞きました。
「わからない。星が落ちたのだろうか?」
大きななまずはひとりごとのようにつぶやきます。
「とても強い風が吹いただけでここは大丈夫みたいね」
「そうだね。なんにもなくてよかった。ただ、空の様子が変だな」
「ほんと。いつもの空と違う」
かたつむりは空を見上げて言いました。
「空が硬かたいわ。空が石になってしまったみたい。風も硬いわね。なんだかごつごつする風だわ。空も風もいつもは自由でやわらかいもの」
「さっきの爆発のせいかもしれないね」
頭を水面から出した大なまずはひび割れたような空を見ながら心配そうに言いました。
毒きのこみたいな雲が形をくずしながら空へ広がります。青くて明るかった空はたちまち雲におおわれて暗くなりました。
雨が降り始めました。
黒い雨です。
びっくりしたかたつむりは悲鳴をあげて草のうらにかくれたのですが、草のうらにもどしゃ降りの雨が容赦ようしゃなくふきつけてずぶ濡れになってしまいました。
「冷たい雨ね。さむいわ」
かたつむりは触覚をだらりとさげ、目をつむってじっとたえました。
ようやく雨がやみました。お日さまの光を感じて目を開けたかたつむりは、
「あら」
と言って息をのみました。
ついさっきまできれいだった沼は雨のせいでまっ黒になっています。
「なまずさん、どこにいるの?」
かたつむりは大声で叫びました。
水面にぶくぶくっとあわがうかび、大きななまずがのっそりと姿をあらわします。
「おや、どうしたんだい?」
大きななまずは不思議そうにかたつむりに聞きました。
「わたしはどうもしないけど……」
そう言って水面に映った自分の姿を見たかたつむりはそのままかたまってしまいました。いつもの美しい姿ではなく、まっ黒になったかたつむりがそこに映っていたのでした。美しい透明の巻貝も透明の体もまっ黒です。たんに黒いだけではありません。ごみと油でよごれたような黒さです。
「いやだ。きたならしいわ」
かたつむりは目に涙をうかべます。
「雨にほこりやごみがまじっていただけだよ。こんど雨が降った時に、雨水でよく体を洗うことだね。そうすれば元どおりになるさ」
なまずはかわいそうに思いながらそうなぐさめました。
かたつむりはあたりを見回しました。沼の水も、沼のまわりの草木もみんなどす黒く変わってしまっています。
「さっきの雨は変よ。みょうに黒いし、体がねばつくもの」
「そうだね。おかしな雨だった。わたしも体がねばねばちくちくするよ。おまけに沼の水が苦くなってしまった。こんな雨は初めてだ」
「ほんとうにこまった雨ね」
かたつむりとなまずはしばらく話をした後、お腹が空いたのでそれぞれえさを探しに行きました。
翌日の朝、かたつむりはいつものように沼のほとりに生えた草にのぼりました。沼の水はまだ黒いままです。沼のまわりの生き物たちはみんな口々に体が痛いとかひりひりするだとかぼやいています。かたつむりは水面に映った自分の姿を見ました。巻貝も体もまっ黒でみにくい姿です。かたつむりはかなしくなってじっとしていました。
てんとう虫がやってきました。てんとう虫はかたつむりの黒い巻貝の上にとまり、
「おわかれを言いにきたよ」
とか細い声で言います。
「てんとう虫さんも遠くへ行くの?」
かたつむりは聞きました。
「遠くといえば、遠くだけどねえ」
かたつむりは遠い目をします。
「どこへ行くの?」
「天国か、地獄か、どっちかだね。どっちも遠いんだろうね」
「もしかして死んじゃうの?」
「もうだめだと思う。ほら、ぼくの背中を見てごらん。みんなまっ黒だ」
「わたしといっしょね」
「体の調子がとてもわるいんだ。ぞくぞくと寒気がしたかと思うと急にあつくなってたまらなくなる。まっすぐ飛ぼうとしても、右へいったり左へいったりでふらふらしてしまうし、ひどい耳鳴りがして頭が痛いんだ」
「なまずさんはもう一度雨がふったら黒いよごれは落ちるだろうって言っていたわ。そしたら元気になるわよ」
「たとえよごれが落ちてもだめだと思う。ぼくはもうすぐ死ぬ。ぼくにははっきりわかるんだ」
「そんなかなしいことを言わないで」
「最後にあなたと話をしたかったんだよ。とても好きだった。大好きだった。毎日、あなたのことばかり考えていたよ。あなたはほんとうに美しい」
「ありがとう。ごめんね。あなたに美しい姿を見せてあげられたらいいのだけど」
「思い出のなかのあなたはいつも美しいよ。生まれ変わったらかたつむりになりたいな。あなたにプロポーズするんだ」
てんとう虫の言葉を聞いて、かたつむりはなにも言えなくなってしまいました。かなしくて、かなしくて、ただ涙をこぼすばかりです。
「ぼくは草むらへ行ってしずかに死ぬことにする。ときどきでいいから、ぼくのことを思い出してくれたらうれしいな。元気でね。さよなら」
てんとう虫はそう言ってふらふらと飛んでいってしまいました。
かたつむりはしょんぼりとしたまま沼をながめました。てんとう虫はもう死んでしまったのだろうかとそんなことを思ってはなんともいえない気持ちになりました。ともだちをうしなうのはとてもさびしいことだと知りました。
昼さがりになって大粒の雨がふりました。ごく普通の白い雨です。きのうのような黒い雨ではありません。沼いちめんに雨の穴が開きます。かたつむりは葉っぱのおもてへ出て雨をあびながら、
「体が元どおりになりますように」
と祈っているうちにうとうととねむりました。
起きたときには、もう雨はあがっていました。空にはきれいな虹がかかっています。かたつむりは水面に映った自分の姿をたしかめました。
「だめなのね」
かたつむりはため息をつきます。背中にせおった巻貝も体もまっ黒なままでした。
「もうもとへはもどらないんだわ」
つらくて心臓がきゅっとちぢんでしまうようです。きらきらとした透明な巻貝も透明な体も永久に失われてしまったのです。
「よかった。生きていたんだ」
草むらから声がしました。逃げたはずの野ねずみでした。
「野ねずみさん、帰ってきたの」
「心配だからね」
野ねずみは息を切らせて言います。野ねずみは山の向こうから走りつづけて沼のほとりへ帰ってきたのでした。
「どうしたんだい。まっ黒になってしまって」
「見ないで」
かたつむりははずかしくてかくれたくなりました。また心臓がきゅっとしめつけられます。
「かわいそうに。おれがそのよごれをふき取ってあげられたらいいんだけどなあ」
「黒い雨に打たれたらこんなふうになってしまったの。どうやってもよごれが落ちないのよ」
「あれは毒の雨なんだ」
「こわい」
かたつむりは触覚をだらりとさげてぶるぶるふるえました。
「ごめんね。こわがらせてしまって。でも、ほんとうのことを知りたいだろ」
「うん、なにが起きたのかを知りたいわ」
かたつむりはこくりとうなずきました。
「変なかたちをした雲を見ただろう。きのこみたいな雲だよ。あれは人間が作った毒の雲なんだ。人間がなにかを爆発させると、毒の雲ができるらしい。それでその雲が広がって毒の雨を降らせるんだ」
「人間はそんなおそろしいことをするの」
「そうなんだ。このあたりから人間がどんどん逃げ出している。人間は自分たちで毒の雲や毒の雨を作って、自分で怖くなって逃げているんだ」
「どうして毒の雲なんてものを作ったのよ。ひどいじゃない」
「ほんとだね。ここへ帰ってくるあいだにいろんなところがこの沼みたいに黒く変わってしまったのを見た」
「毒の雨にやられてしまったのね。いつかもとに戻るのかしら」
「わからない。ねえ、おれと一緒に逃げよう。よごれていないところへ行こうよ。あなたに似合いのきれいな沼を見つけてあげる。そこで一緒に住もう」
「わたしはもうよごれてしまったわ。昔のわたしじゃないの」
「きれいなところに住めば、もとに戻るかもしれないよ」
野ねずみがいくら逃げようとさそってみてもかたつむりは首を振るばかりでした。野ねずみの親切はありがたいと思ったのです。でも、かたつむりは知らないところへ行っていじめられるのが怖かったのでした。以前のように透明な巻貝や透明な体を持っていた頃なら、自信たっぷりだったかもしれません。ですが、今のみにくい姿になってしまってからはすっかりしょげかえってしまって自分に自信を持つことができませんでした。
「むりやりさらってしまうわけにもいかないし」
野ねずみはかなしそうにため息をついてどこかへ行ってしまいました。
雨がふるたびに沼はすこしずつきれいになりました。かたつむりにしみついた黒色も、ほんのすこし色がうすまったようです。沼の生き物は減ってしまいました。みんななんとなく元気がなくなっていつのまにか数が減ってしまったのです。いつもならもっととんぼが飛んでいてもいいのに、はんぶんくらいしかいませんでした。かわりにこのあたりに出没しゅつぼつする動物が増えました。人間がほとんどいなくなったので、動物たちが自由に動きまわれるようになったのです。以前はあまり見かけなかった猪や鹿や猿たちが沼のまわりをおとずれるようになりました。
夏の終わりごろ、かたつむりは卵を産みました。じょうぶできれいな葉っぱを見つけて、その茎に百個ほどの卵をまとめて産みつけました。卵はきれいな色をしています。かたつむりは黒い卵が出てくるのではないかと心配だったのですが、黄土色の卵を見てほっとひと安心しました。
かたつむりは毎日、卵のようすを見にいきました。そして、卵たちがぶじに草の茎についているのを見てよろこびました。
ある満月の夜、なかなか寝つけなかったかたつむりは大きななまずをよんで、話し相手になってもらいました。
「すずしくなったわね」
かたつむりは言いました。
「これくらいがちょうどいいかな。あつくもなく、さむくもなく、すごしやすいよ」
なまずはかすれた声で言います。
「なまずさんは元気がないわね。体は大丈夫なの?」
「調子はよくないな。黒い雨がふってからというもの、体に力が入らないんだ」
「わたしは、近頃昼でも夜でも突然ねむりこんでしまうようになったわ。体がとてもつかれているのね。それにしても仲間がへってさみしいわね。野ねずみさんは今ごろどうしているのかしら」
「野ねずみ君は死んだよ」
なまずはぽつりと言います。
「うそ」
かたつむりはおどろいて目をみはりました。
「ほんとうだよ。鳥が教えてくれた。野ねずみ君は山の向こうがわのそのもっと向こうへ逃げたのだけど、そこでひどくいじめられてしまった。もとからそこに住んでいる動物たちは、毒がうつるからあっちへ行けといって野ねずみ君をこづきまわしたそうだよ。このあたりから逃げていった動物はほかにもたくさんいたけど、みんな野ねずみ君とおなじ目にあったらしい」
大なまずは言います。
「ひどいわね。毒をあびたのは野ねずみさんのせいではないのに」
「そこの動物たちはこのあたりにふった毒のことがこわかったのだろ。動物というものは、おびえた時にあたりちらしていじめにかかるものだからね」
「野ねずみさんはここへ帰ってくればよかったのに」
「帰ってこようとしたらしいけど、けっきょく帰ってこれなかった。野ねずみ君はなんどもけとばされて、かみつかれて、ひどい罵声ばせいをあびて、体がぼろぼろになってしまった。体中の毛がぬけて、あざだらけになって見てはいられないありさまだったそうだ。やっとのことでとなりの川までたどりついたのだけど、野ねずみ君は、こんなかっこうではあなたに会えないと思ったらしい、あなたに会いたいけど、こんなみすぼらしいすがたをあなたに見せられないといって沼へ帰ってくるのをためらったんだ」
「そんな。わたしだって真っ黒になってしまったわ。ひどいすがたになったのはおたがいさまよ。わたしは気にしないわ」
「野ねずみ君は大好きなあなたの前ではやはりきちんとした身なりをしていたかったのだよ。野ねずみ君は沼へ帰ろうかどうしようか迷っているうちに川へ落ちて死んでしまったそうだ」
「かわいそうな野ねずみさん」
「お祈りをしよう。野ねずみ君が天国でやすらかにねむれますように」
「そうね」
大きななまずとかたつむりは神さまにお祈りしました。
そのとき、草の上からぱりぱりっとかわいた音が聞こえました。かたつむりが見上げると、かたつむりの卵がつぎつぎとわれ始めています。
「子どもたちが生まれるんだわ」
かたつむりはほほえみました。
「おめでとう」
大きななまずも卵たちを見上げて祝福します。
小さな卵から出てきた豆つぶほどのかわいらしい赤ちゃんが茎や葉っぱにくっつきます。体はとても小さいですが、もう立派なかたつむりです。背中に巻貝をせおってよちよち歩きます。
「子どもたちはみんな透明の巻貝に透明な体をしている。昔のわたしと一緒だわ」
かたつむりはうれしそうに叫びました。大きななまずは目をこらしてかたつむりの赤ちゃんを見つめました。大きななまずの目には赤ちゃんたちの体はみんなクリーム色に見えました。巻貝は茶色っぽいマーブル模様です。巻貝も体も透明ではありません。ごく普通のかたつむりです。でも、大なまずはそのことを言わずにだまっていました。かたつむりのよろこびに水をさしたくなかったのです。
「ママ、会いたかったよ」
赤ちゃんかたつむりたちはお母さんかたつむりのまわりに集まります。
「お前たちはきれいだね。よかったわ。黒い体の赤ちゃんが生まれるんじゃないかって心配していたの。黒い体にならなくてよかった。こんな不幸はお母さんだけでじゅうぶんだもの」
かたつむりの赤ちゃんはみんな、
「ママもきれいだよ。ママ、大好き」
と口々に言ってはお母さんにほおずりします。
「よかったわ。ほんとうによかったわ。元気に生まれてくれて」
かたつむりはうれし涙を流します。おおぜいの赤ちゃんかたつむりにかこまれて、お母さんかたつむりはしあわせそうでした。
どこかでぽちゃりと音がひびきます。かえるが水へ飛びこんだようでした。すずしい風がふき、草がゆれました。月の光がかたつむりの赤ちゃんたちをてらしました。とても小さな巻貝がきれいに光ります。
「いいお子さんが生まれてよかったね。赤ちゃんたちを見ているだけでなんだかうれしくなるよ」
大きななまずは目を細めてそう言ったのですが、かたつむりはじっとうずくまったまま答えません。かたつむりはほほえんだまま死んでいたのでした。
「赤ちゃんが生まれるまでは死ねないと思ってがんばっていたのだね。安心していいよ。あなたの赤ちゃんはみんな元気だ。きっとじょうぶなかたつむりに育ってくれるよ。なんの心配もいらない。あなたは天国でゆっくり休みなさい」
大きななまずは動かなくなったかたつむりに声をかけました。赤ちゃんかたつむりたちは葉や茎をつたって歩いていきます。大きななまずは黒いかたつむりの姿をしばらく見守り、赤ちゃんかたつむりたちが早く大きくなりますようにと祈りました。
季節はめぐり、次の夏がやってきました。
かたつむりの子どもたちは沼のあちらこちらへちらばって元気に暮らしています。みんな大きく成長しました。沼のまわりの木ではせみが鳴き始め、とんぼが飛んでいます。沼の水は苦いままでしたが、あたりはすっかり夏模様です。
大きななまずは水面から顔をのぞかせ、
「美しいかたつむりだったな」
と、大きくなったかたつむりの子どもの姿をながめながら透明なかたつむりを思い出してつぶやきました。目を閉じればきらきらとかがやくかたつむりのすがたをはっきりと思い出すことができます。大きななまずにとっても、透明なかたつむりと出会い、いろんなおしゃべりをしたことはいい思い出でした。今でもなんとなくあのかたつむりと話をしたくなる時があります。
「生まれ変わったらまたここへきておくれ」
大きななまずは白くかがやく入道雲を見上げながら今はなきかたつむりへ話しかけ、それからのっそりと沼の奥深くへともぐっていきました。
了