風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

透明なかたつむり

2022年03月11日 05時15分30秒 | 童話
 そのかたつむりは一千万匹に一匹しかいない美しい体をしていました。
 背中にのせた左巻きの巻貝はまるでガラス細工のように透明です。体もすきとおっています。陽の光がそのかたつむりを照らすと、透明な巻貝は光を反射してきらきらとかがやき、透明な体のなかに虹色のつぶつぶが光ります。はっと息を飲むような美しさでした。
 かたつむりは自分の体が好きでした。毎日、沼のほとりに生えている草にそろそろと登り、沼に映った自分の体をあきることもなくじっと見つめます。見ればみるほどすてきに思えてなりません。かたつむりが自分のすがたをながめていると、てんとう虫が飛んできて透明な巻貝の上にとまります。てんとう虫は甘い声を出してかたつむりへささやきかけ、
「ぼくがかたつむりだったら、あなたと結婚するのになあ」
 と、なんどもため息をもらしました。
 てんとう虫だけではありません。その沼では評判のかたつむりでしたから、小鳥がやってきてはそのかたつむりへ話しかけ、野ねずみがやってきては話しかけといろんな生き物がかたつむりへ話しかけては、
「あなたの巻貝と体はほんとうにきれいだねえ」
 とほめそやします。
 一度、牛がえるがそのかたつむりを食べてしまおうとしましたが、牛がえるはかたつむりの美しさにはっと気づいて、
「だめだ。お前さんを食べるわけにはいかない。こんなに美しいのだからねえ」と言って、にゅっとつき出した長い舌を引っこめたこともありました。
 かたつむりは毎日、沼のほとりで楽しくすごしました。朝陽がのぼったらのそのそと起き出してえさを探し、夜になればぐっすり眠ります。その沼は海からそれほど遠くないところにありました。海から風が吹いてくる日は、潮の香りがなんとなくただよいます。沼のほとりはおだやかで平和でした。

 夏になって、とんぼが飛ぶようになりました。毎日、さわやかないいお天気が続いています。そんなある日、野ねずみがあっちへ走ってはまた引き返してと、あわてたように走りまわっていました。
「野ねずみさん、いったいどうしたの? 今日のあなたはなんだか変よ」
 かたつむりは野ねずみに言いました。
「嫌な予感がする。胸がむずむずするんだ」
「悪い夢でも見たの?」
「おれは夢なんてまったく見ない。生まれてから一度も見たことがないよ。胸さわぎがするんだ。とんでもないことが起こりそうな気がしてしかたがないんだよ」
「とんでもないことって、どんなこと?」
「わからない。とにかくひどいことだよ。なあ、いっしょに逃げないか。ここにいたらあぶないと思うんだ」
「わたしはゆっくりとしか進めないから逃げようにも逃げられないわよ」
「おれの背中にのればいいさ。おれはすばしっこいから、どんなところへでも走っていける。今出発すれば、夕陽が沈むころにはあの山をこえて向こうがわへつくだろう」
「山の向こうはどんなところなの」
「こことあまり変わらないさ。川が流れていて、沼があって、田んぼがいっぱい広がっている。虫も動物も人間もたくさんいる」
「おじょうさん、だまされちゃいけないよ」
 草の下でじっと話を聞いていた緑色のへびが話にわりこんできました。
「野ねずみはきっとお前さんをさらうつもりだよ。お前さんを遠くへ連れていってひとりじめにしようとしているんだ」
「なにをばかなことを言っているんだ」
 野ねずみはおこりました。
「おれはそんな悪いことはしない。どうにも嫌な予感がしてしかたないんだ。ここから逃げなくっちゃいけないって、頭のなかでもう一人の自分がさわいでいるんだ。ほんとだよ」
「わたしはなんにも感じないね。いつもと変わらないよ」
 緑色のへびはうたぐりぶかそうな目で野ねずみを見つめます。
「へびは自分のしたいようにすればいいさ。おれは逃げるけどね。どうする? おれといっしょに逃げるかい?」
 野ねずみはかたつむりに聞きました。
「わたしはここにいることにするわ。わたしはこの沼をはなれたことがないし、遠くへ行くだなんてこわいわ。野ねずみさんのことをうたがっているわけじゃないのよ。ただ、ここをはなれたくないの」
 かたつむりは言いました。
「そうかい。それじゃ、おれはひとりで行くよ」
 野ねずみはくるりと背を向けていそいで走って行きました。
「へびさん、野ねずみさんの悪口を言ったらだめじゃない」
 かたつむりは緑色のへびに言いました。
「ふん、わたしはもともと野ねずみがきらいなんだ。それに、悪い予感がするだとか、ここにいたらあぶないだとか、おかしなことを言うのはゆるせないね。この沼にはもう何年も住んでいるけど、あぶないことなんていちども起きたことがないよ。いい朝だったのに気分が悪くなってしまった。まったく」
 緑色のへびはぷりぷりおこって茂みのなかへ入って行きました。
 かたつむりはちょっぴり不安になりました。でも、あたりを見まわしてもおかしなことはなにもありません。いつもとおなじようにさわやかな空気が流れ、空はぴかぴかにかがやいています。かたつむりはえさをさがしに行きました。朝ごはんをまだ食べていなかったのです。
 お腹いっぱいになってから、かたつむりは沼のほとりに生えている草に登って、二本の触覚を楽しそうにゆらしながら水面に映る自分の姿をじっと見つめていました。すると、大きななまずが浮かんできました。
「まだいたのか?」
 なまずはおどろいたように言いました。
「あなたはどなた?」
 かたつむりは大きななまずに会うのは初めてでした。
「わたしはこの沼の主ぬしと呼ばれているなまずだよ。もう三百年もここに住んでいる。もっとも主でもなんでもないけどね。体が大きいからそう思われてしまうのだろう」
「そうなの。はじめまして。ところで、どうして『まだいたのか』なんて言うの?」
「さっき野ねずみ君がいっしょに逃げようって言わなかったかい?」
「言ったわ」
「今朝、野ねずみ君から相談を受けたんだ」
「悪い予感のこと?」
「そうだよ。ゆうべ星を見たら、おかしなことになっていたんだ」
「おかしなことってなに?」
「星座がずれているんだ。あるはずのところに星がない。ないはずのないところに星が光っている。こんなことは前にも何回かあった。星座がずれるととんでもないことが起きるのだよ」
「とんでもないこと?」
「たいていは地震が起きたり、洪水が起きたりするのだけど、ほかにもっとひどいことが起きることだってある」
「たとえば?」
「わたしの祖父は星が落ちてきたことがあったと言っていた」
「星って落ちてくるものなの?」
「そうらしい。わたしもよくは知らないけどね。野ねずみ君が悪い予感がするというものだから、ゆうべの星のことを話したんだ。野ねずみ君はやっぱりおれの予感が正しいんだってよけいにそわそわしてしまった。それで野ねずみ君があなたを連れて逃げたほうがいいだろうかって聞くものだから、わたしはそうしたほうがいいだろうと言ったんだ」
「野ねずみさんはどうしてわたしを連れて行こうとしたのかしら」
「あなたが特別美しいからだよ。野ねずみ君は、あなたのような透明にかがやく巻貝を持つかたつむりがもし死んでしまったりしたらとても残念だと思ったのだ。あなたを安全なところへつれて行きたいと。わたしも美しいあなたを死なせたくないと思った。なにしろ、あなたは一千万匹に一匹しかいないかたつむりだからねえ。わたしはこの沼で生まれて三百年になるけど、あなたのような美しいかたつむりに出会ったのは初めてだ」
 大きななまずは言いました。美しいとなんども言われて、かたつむりはさすがにはずかしくなって顔を赤らめてしまいました。
「野ねずみさんはほんとうに親切なのね。でも、わたしは野ねずみさんに悪いことをしてしまったわ。だって、遠くへ行くだなんて怖いもの」
「気持ちはわかるよ。だれだってふるさとをはなれたくないものだ」
「野ねずみさんは遠くへ逃げて安心ね」
 突然、空がぴかりと大きく光ったかと思うと、どーんというものすごい音がひびいてきました。
 どうやら海の近くでなにかあったようです。
 はげしい風が吹き、あたりの木や草が大きくゆれました。とばされそうになったかたつむりはひっしになって草にしがみつきました。大きな雲がむくむくと立ち上り、やがてきのこのような形になりました。風が吹きぬけるとあたりはもとどおりになりました。いつもと変わらない穏やかで静かな沼です。
「ものすごい風だったな。きっと星座がずれていたのも、野ねずみ君が胸さわぎがすると言っていたのも、このことだったのだろう」
 大きななまずは言いました。
「なんだかみにくい雲ね。毒きのこみたいなかたちをしているけど。なまずさん、いったいなにが起きたの?」
 かたつむりは聞きました。
「わからない。星が落ちたのだろうか?」
 大きななまずはひとりごとのようにつぶやきます。
「とても強い風が吹いただけでここは大丈夫みたいね」
「そうだね。なんにもなくてよかった。ただ、空の様子が変だな」
「ほんと。いつもの空と違う」
 かたつむりは空を見上げて言いました。
「空が硬かたいわ。空が石になってしまったみたい。風も硬いわね。なんだかごつごつする風だわ。空も風もいつもは自由でやわらかいもの」
「さっきの爆発のせいかもしれないね」
 頭を水面から出した大なまずはひび割れたような空を見ながら心配そうに言いました。
 毒きのこみたいな雲が形をくずしながら空へ広がります。青くて明るかった空はたちまち雲におおわれて暗くなりました。
 雨が降り始めました。
 黒い雨です。
 びっくりしたかたつむりは悲鳴をあげて草のうらにかくれたのですが、草のうらにもどしゃ降りの雨が容赦ようしゃなくふきつけてずぶ濡れになってしまいました。
「冷たい雨ね。さむいわ」
 かたつむりは触覚をだらりとさげ、目をつむってじっとたえました。
 ようやく雨がやみました。お日さまの光を感じて目を開けたかたつむりは、
「あら」
 と言って息をのみました。
 ついさっきまできれいだった沼は雨のせいでまっ黒になっています。
「なまずさん、どこにいるの?」
 かたつむりは大声で叫びました。
 水面にぶくぶくっとあわがうかび、大きななまずがのっそりと姿をあらわします。
「おや、どうしたんだい?」
 大きななまずは不思議そうにかたつむりに聞きました。
「わたしはどうもしないけど……」
 そう言って水面に映った自分の姿を見たかたつむりはそのままかたまってしまいました。いつもの美しい姿ではなく、まっ黒になったかたつむりがそこに映っていたのでした。美しい透明の巻貝も透明の体もまっ黒です。たんに黒いだけではありません。ごみと油でよごれたような黒さです。
「いやだ。きたならしいわ」
 かたつむりは目に涙をうかべます。
「雨にほこりやごみがまじっていただけだよ。こんど雨が降った時に、雨水でよく体を洗うことだね。そうすれば元どおりになるさ」
 なまずはかわいそうに思いながらそうなぐさめました。
 かたつむりはあたりを見回しました。沼の水も、沼のまわりの草木もみんなどす黒く変わってしまっています。
「さっきの雨は変よ。みょうに黒いし、体がねばつくもの」
「そうだね。おかしな雨だった。わたしも体がねばねばちくちくするよ。おまけに沼の水が苦くなってしまった。こんな雨は初めてだ」
「ほんとうにこまった雨ね」
 かたつむりとなまずはしばらく話をした後、お腹が空いたのでそれぞれえさを探しに行きました。

 翌日の朝、かたつむりはいつものように沼のほとりに生えた草にのぼりました。沼の水はまだ黒いままです。沼のまわりの生き物たちはみんな口々に体が痛いとかひりひりするだとかぼやいています。かたつむりは水面に映った自分の姿を見ました。巻貝も体もまっ黒でみにくい姿です。かたつむりはかなしくなってじっとしていました。
 てんとう虫がやってきました。てんとう虫はかたつむりの黒い巻貝の上にとまり、
「おわかれを言いにきたよ」
 とか細い声で言います。
「てんとう虫さんも遠くへ行くの?」
 かたつむりは聞きました。
「遠くといえば、遠くだけどねえ」
 かたつむりは遠い目をします。
「どこへ行くの?」
「天国か、地獄か、どっちかだね。どっちも遠いんだろうね」
「もしかして死んじゃうの?」
「もうだめだと思う。ほら、ぼくの背中を見てごらん。みんなまっ黒だ」
「わたしといっしょね」
「体の調子がとてもわるいんだ。ぞくぞくと寒気がしたかと思うと急にあつくなってたまらなくなる。まっすぐ飛ぼうとしても、右へいったり左へいったりでふらふらしてしまうし、ひどい耳鳴りがして頭が痛いんだ」
「なまずさんはもう一度雨がふったら黒いよごれは落ちるだろうって言っていたわ。そしたら元気になるわよ」
「たとえよごれが落ちてもだめだと思う。ぼくはもうすぐ死ぬ。ぼくにははっきりわかるんだ」
「そんなかなしいことを言わないで」
「最後にあなたと話をしたかったんだよ。とても好きだった。大好きだった。毎日、あなたのことばかり考えていたよ。あなたはほんとうに美しい」
「ありがとう。ごめんね。あなたに美しい姿を見せてあげられたらいいのだけど」
「思い出のなかのあなたはいつも美しいよ。生まれ変わったらかたつむりになりたいな。あなたにプロポーズするんだ」
 てんとう虫の言葉を聞いて、かたつむりはなにも言えなくなってしまいました。かなしくて、かなしくて、ただ涙をこぼすばかりです。
「ぼくは草むらへ行ってしずかに死ぬことにする。ときどきでいいから、ぼくのことを思い出してくれたらうれしいな。元気でね。さよなら」
 てんとう虫はそう言ってふらふらと飛んでいってしまいました。
 かたつむりはしょんぼりとしたまま沼をながめました。てんとう虫はもう死んでしまったのだろうかとそんなことを思ってはなんともいえない気持ちになりました。ともだちをうしなうのはとてもさびしいことだと知りました。
 昼さがりになって大粒の雨がふりました。ごく普通の白い雨です。きのうのような黒い雨ではありません。沼いちめんに雨の穴が開きます。かたつむりは葉っぱのおもてへ出て雨をあびながら、
「体が元どおりになりますように」
 と祈っているうちにうとうととねむりました。
 起きたときには、もう雨はあがっていました。空にはきれいな虹がかかっています。かたつむりは水面に映った自分の姿をたしかめました。
「だめなのね」
 かたつむりはため息をつきます。背中にせおった巻貝も体もまっ黒なままでした。
「もうもとへはもどらないんだわ」
 つらくて心臓がきゅっとちぢんでしまうようです。きらきらとした透明な巻貝も透明な体も永久に失われてしまったのです。
「よかった。生きていたんだ」
 草むらから声がしました。逃げたはずの野ねずみでした。
「野ねずみさん、帰ってきたの」
「心配だからね」
 野ねずみは息を切らせて言います。野ねずみは山の向こうから走りつづけて沼のほとりへ帰ってきたのでした。
「どうしたんだい。まっ黒になってしまって」
「見ないで」
 かたつむりははずかしくてかくれたくなりました。また心臓がきゅっとしめつけられます。
「かわいそうに。おれがそのよごれをふき取ってあげられたらいいんだけどなあ」
「黒い雨に打たれたらこんなふうになってしまったの。どうやってもよごれが落ちないのよ」
「あれは毒の雨なんだ」
「こわい」
 かたつむりは触覚をだらりとさげてぶるぶるふるえました。
「ごめんね。こわがらせてしまって。でも、ほんとうのことを知りたいだろ」
「うん、なにが起きたのかを知りたいわ」
 かたつむりはこくりとうなずきました。
「変なかたちをした雲を見ただろう。きのこみたいな雲だよ。あれは人間が作った毒の雲なんだ。人間がなにかを爆発させると、毒の雲ができるらしい。それでその雲が広がって毒の雨を降らせるんだ」
「人間はそんなおそろしいことをするの」
「そうなんだ。このあたりから人間がどんどん逃げ出している。人間は自分たちで毒の雲や毒の雨を作って、自分で怖くなって逃げているんだ」
「どうして毒の雲なんてものを作ったのよ。ひどいじゃない」
「ほんとだね。ここへ帰ってくるあいだにいろんなところがこの沼みたいに黒く変わってしまったのを見た」
「毒の雨にやられてしまったのね。いつかもとに戻るのかしら」
「わからない。ねえ、おれと一緒に逃げよう。よごれていないところへ行こうよ。あなたに似合いのきれいな沼を見つけてあげる。そこで一緒に住もう」
「わたしはもうよごれてしまったわ。昔のわたしじゃないの」
「きれいなところに住めば、もとに戻るかもしれないよ」
 野ねずみがいくら逃げようとさそってみてもかたつむりは首を振るばかりでした。野ねずみの親切はありがたいと思ったのです。でも、かたつむりは知らないところへ行っていじめられるのが怖かったのでした。以前のように透明な巻貝や透明な体を持っていた頃なら、自信たっぷりだったかもしれません。ですが、今のみにくい姿になってしまってからはすっかりしょげかえってしまって自分に自信を持つことができませんでした。
「むりやりさらってしまうわけにもいかないし」
 野ねずみはかなしそうにため息をついてどこかへ行ってしまいました。

 雨がふるたびに沼はすこしずつきれいになりました。かたつむりにしみついた黒色も、ほんのすこし色がうすまったようです。沼の生き物は減ってしまいました。みんななんとなく元気がなくなっていつのまにか数が減ってしまったのです。いつもならもっととんぼが飛んでいてもいいのに、はんぶんくらいしかいませんでした。かわりにこのあたりに出没しゅつぼつする動物が増えました。人間がほとんどいなくなったので、動物たちが自由に動きまわれるようになったのです。以前はあまり見かけなかった猪や鹿や猿たちが沼のまわりをおとずれるようになりました。
 夏の終わりごろ、かたつむりは卵を産みました。じょうぶできれいな葉っぱを見つけて、その茎に百個ほどの卵をまとめて産みつけました。卵はきれいな色をしています。かたつむりは黒い卵が出てくるのではないかと心配だったのですが、黄土色の卵を見てほっとひと安心しました。
 かたつむりは毎日、卵のようすを見にいきました。そして、卵たちがぶじに草の茎についているのを見てよろこびました。
 ある満月の夜、なかなか寝つけなかったかたつむりは大きななまずをよんで、話し相手になってもらいました。
「すずしくなったわね」
 かたつむりは言いました。
「これくらいがちょうどいいかな。あつくもなく、さむくもなく、すごしやすいよ」
 なまずはかすれた声で言います。
「なまずさんは元気がないわね。体は大丈夫なの?」
「調子はよくないな。黒い雨がふってからというもの、体に力が入らないんだ」
「わたしは、近頃昼でも夜でも突然ねむりこんでしまうようになったわ。体がとてもつかれているのね。それにしても仲間がへってさみしいわね。野ねずみさんは今ごろどうしているのかしら」
「野ねずみ君は死んだよ」
 なまずはぽつりと言います。
「うそ」
 かたつむりはおどろいて目をみはりました。
「ほんとうだよ。鳥が教えてくれた。野ねずみ君は山の向こうがわのそのもっと向こうへ逃げたのだけど、そこでひどくいじめられてしまった。もとからそこに住んでいる動物たちは、毒がうつるからあっちへ行けといって野ねずみ君をこづきまわしたそうだよ。このあたりから逃げていった動物はほかにもたくさんいたけど、みんな野ねずみ君とおなじ目にあったらしい」
 大なまずは言います。
「ひどいわね。毒をあびたのは野ねずみさんのせいではないのに」
「そこの動物たちはこのあたりにふった毒のことがこわかったのだろ。動物というものは、おびえた時にあたりちらしていじめにかかるものだからね」
「野ねずみさんはここへ帰ってくればよかったのに」
「帰ってこようとしたらしいけど、けっきょく帰ってこれなかった。野ねずみ君はなんどもけとばされて、かみつかれて、ひどい罵声ばせいをあびて、体がぼろぼろになってしまった。体中の毛がぬけて、あざだらけになって見てはいられないありさまだったそうだ。やっとのことでとなりの川までたどりついたのだけど、野ねずみ君は、こんなかっこうではあなたに会えないと思ったらしい、あなたに会いたいけど、こんなみすぼらしいすがたをあなたに見せられないといって沼へ帰ってくるのをためらったんだ」
「そんな。わたしだって真っ黒になってしまったわ。ひどいすがたになったのはおたがいさまよ。わたしは気にしないわ」
「野ねずみ君は大好きなあなたの前ではやはりきちんとした身なりをしていたかったのだよ。野ねずみ君は沼へ帰ろうかどうしようか迷っているうちに川へ落ちて死んでしまったそうだ」
「かわいそうな野ねずみさん」
「お祈りをしよう。野ねずみ君が天国でやすらかにねむれますように」
「そうね」
 大きななまずとかたつむりは神さまにお祈りしました。
 そのとき、草の上からぱりぱりっとかわいた音が聞こえました。かたつむりが見上げると、かたつむりの卵がつぎつぎとわれ始めています。
「子どもたちが生まれるんだわ」
 かたつむりはほほえみました。
「おめでとう」
 大きななまずも卵たちを見上げて祝福します。
 小さな卵から出てきた豆つぶほどのかわいらしい赤ちゃんが茎や葉っぱにくっつきます。体はとても小さいですが、もう立派なかたつむりです。背中に巻貝をせおってよちよち歩きます。
「子どもたちはみんな透明の巻貝に透明な体をしている。昔のわたしと一緒だわ」
 かたつむりはうれしそうに叫びました。大きななまずは目をこらしてかたつむりの赤ちゃんを見つめました。大きななまずの目には赤ちゃんたちの体はみんなクリーム色に見えました。巻貝は茶色っぽいマーブル模様です。巻貝も体も透明ではありません。ごく普通のかたつむりです。でも、大なまずはそのことを言わずにだまっていました。かたつむりのよろこびに水をさしたくなかったのです。
「ママ、会いたかったよ」
 赤ちゃんかたつむりたちはお母さんかたつむりのまわりに集まります。
「お前たちはきれいだね。よかったわ。黒い体の赤ちゃんが生まれるんじゃないかって心配していたの。黒い体にならなくてよかった。こんな不幸はお母さんだけでじゅうぶんだもの」
 かたつむりの赤ちゃんはみんな、
「ママもきれいだよ。ママ、大好き」
 と口々に言ってはお母さんにほおずりします。
「よかったわ。ほんとうによかったわ。元気に生まれてくれて」
 かたつむりはうれし涙を流します。おおぜいの赤ちゃんかたつむりにかこまれて、お母さんかたつむりはしあわせそうでした。
 どこかでぽちゃりと音がひびきます。かえるが水へ飛びこんだようでした。すずしい風がふき、草がゆれました。月の光がかたつむりの赤ちゃんたちをてらしました。とても小さな巻貝がきれいに光ります。
「いいお子さんが生まれてよかったね。赤ちゃんたちを見ているだけでなんだかうれしくなるよ」
 大きななまずは目を細めてそう言ったのですが、かたつむりはじっとうずくまったまま答えません。かたつむりはほほえんだまま死んでいたのでした。
「赤ちゃんが生まれるまでは死ねないと思ってがんばっていたのだね。安心していいよ。あなたの赤ちゃんはみんな元気だ。きっとじょうぶなかたつむりに育ってくれるよ。なんの心配もいらない。あなたは天国でゆっくり休みなさい」
 大きななまずは動かなくなったかたつむりに声をかけました。赤ちゃんかたつむりたちは葉や茎をつたって歩いていきます。大きななまずは黒いかたつむりの姿をしばらく見守り、赤ちゃんかたつむりたちが早く大きくなりますようにと祈りました。

 季節はめぐり、次の夏がやってきました。
 かたつむりの子どもたちは沼のあちらこちらへちらばって元気に暮らしています。みんな大きく成長しました。沼のまわりの木ではせみが鳴き始め、とんぼが飛んでいます。沼の水は苦いままでしたが、あたりはすっかり夏模様です。
 大きななまずは水面から顔をのぞかせ、
「美しいかたつむりだったな」
 と、大きくなったかたつむりの子どもの姿をながめながら透明なかたつむりを思い出してつぶやきました。目を閉じればきらきらとかがやくかたつむりのすがたをはっきりと思い出すことができます。大きななまずにとっても、透明なかたつむりと出会い、いろんなおしゃべりをしたことはいい思い出でした。今でもなんとなくあのかたつむりと話をしたくなる時があります。
「生まれ変わったらまたここへきておくれ」
 大きななまずは白くかがやく入道雲を見上げながら今はなきかたつむりへ話しかけ、それからのっそりと沼の奥深くへともぐっていきました。


 了

川のほとりで女神は

2016年04月13日 06時45分45秒 | 童話

 小鳥が元気よくさえずっています。
 風は、やさしくかろやかに森のなかを吹きぬけます。
 森の一日が始まりました。
 朝の光が梟の眉をくすぐると梟は、
「こんな時間か。どおりで文字が読みづらいと思った」
 と頭をかき、本を閉じて寝支度をしました。といっても、梟の寝る準備はかんたんです。木の上をすこしばかり動いて、葉に隠れるようにするだけ。梟は考えごとをするのが大好きですから、ほかのことはあまりかまいません。誰かに眠りをじゃまされなければそれで十分というわけ。梟は枝の上でもういびきをかいて眠ってしまいました。
 お館の扉が開きました。
 森のお館は丸太で組んだ大きなお屋敷です。しんと澄んだ木々のなかにひっそりと建っていました。ふたりの侍女が玄関の前でかしずきます。子鹿や栗鼠や熊や犬といった森に棲むいろんな動物たちはお屋敷を遠巻きにして眺めます。
 美しい女神さまがゆったりと姿をあらわしました。
 ふんわりとした巻き毛の長い髪。白乳色の輝く肌。桜貝のような麗しい唇。口元にはやさしいほほえみをたたえています。
「みなさん、おはよう」
 女神さまがきらきらとした瞳であいさつをします。
「女神さま、おはようございます」
 森の動物たちは元気よく返事をします。ただ、はずかしがりやの子鹿だけは、顔を真っ赤にして逃げ出してしまいましたけど。子鹿はいつもこうなのです。
 女神さまは侍女から木の皮で編んだ籠を受け取り、階段を降ります。栗鼠が階段の下までさっとかけより、花で編んだ冠をさしだします。女神さまが栗鼠を掌にのせると、栗鼠は女神さまの頭に冠をかけました。
「ありがとう」
 女神さまは栗鼠の頰へお返しの口づけをします。栗鼠は照れてしまってただ頭をぽりぽりとかいていました。
 女神さまはふたりの侍女をしたがえて、森の径(こみち)へ入っていきます。女神さまが足を一歩進めるごとに、裳裾(もすそ)から黄金色の光の粉がさらさらとこぼれます。栗鼠が駆け寄って、光の粉を手に取ると、あら不思議、光の粉は七色の金平糖になりました。栗鼠はおいしそうに金平糖をかじります。
 森を抜けて広い野原に出ました。
 陽の光が一面を照らすから、とてもまぶしいです。野原には色とりどりの花が咲いています。花々は女神さまを見上げ、出迎えるように揺れました。
 野原のはしに水車小屋が建っています。水車小屋のそばには大きな楡(にれ)の木がそびえ、涼し気な陰を落としていました。
 女神さまが水車小屋からのびた桟橋のうえで空へ手を差し伸べます。女神さまの腕に玉のような赤子が姿を現しました。
「やさしく育ちなさい」
 女神さまは赤ん坊の額にくちづけます。赤子はむじゃきにわらうばかりです。女神さまが侍女へ赤ん坊を渡すと、侍女は慣れた手つきで赤子を布でくるんで木の皮で編んだ小舟のなかへ入れました。舟は赤ん坊がちょうどおさまるくらいの大きさです。川へ浮かべた舟はきらきらと光る川面を滑るように流れました。この川の流れの果て、女神さまの森が終わるところで、舟は地上、つまり人間の住む世界へ流れ落ちてゆくのです。赤子はどこかのお母さんのお腹へ入って、地上での暮らしを始めます。
「素敵な絵を描きなさい」
「おいしい料理を作るのよ」
「たくさん運動をしなさい」
 女神さまは一人ずつ声をかけて祝福します。
「あら」
 ある赤ん坊を抱きあげたとき、女神さまは首をかしげてうかない顔をしました。
「どうなさいました?」
 侍女が女神さまにたずねました。
「ううん、なんでも」
 女神さまは首を振ります。輝く金髪の長い髪がやわらかく揺れました。
「ちょっと悲しい運命かな。でも大丈夫。怖くない。強く生きるのよ」
 女神さまはにっこりほほえみます。なにも知らない赤子はただ笑っていました。

 午前中いっぱい、女神さまはせっせと赤ん坊たちを地上へ送り出しました。
 昼ごはんを食べた女神さまは、テラスで紅茶を飲みながら、ほっと一息いれます。赤子を抱き上げつづけるのは、なかなか骨の折れる仕事なのです。
 そよ風に吹かれて庭の花々を眺めていると、蹄の音が響いてきました。女神さまはテラスをおりて、庭へ出ました。馬が一声いなないてとまります。馬の上には黒づくめの衣装を着て黒いマントを羽織った騎士が乗っていました。
「叔父さま」
 女神さまは嬉しそうにほほえみます。騎士は目深にかぶった帽子を上げました。
「久しぶりだな。元気そうだね」
 騎士は片目だけで笑います。彼は左目に鉄の眼帯をかけていました。遠い昔、戦いで矢を受け、目玉を失ったのです。
「どうぞなかへ入ってくださいまし」
 女神さまは騎士をお館へ誘(いざな)います。騎士はさっと馬をおりて女神さまの後をついていき、ふたりはテラスのテーブルにつきました。
 女神さまは騎士のために手ずから紅茶を入れます。
「ここは変わらないね」
 騎士は懐かしそうに庭を眺めます。
「あら、叔父さまもちっとも変わりませんわ」
「そうかな」
「わたくしが小さな頃とおなじですもの」
「嬉しいことを言ってくれるね」
「ねえ叔父さま、旅の話を聞かせてくださいな」
「ああいいとも」
 騎士は乞われるままに西の砂漠に住む魔法使いの蛇や東の果ての海に浮かぶ楽園の島のことを話しました。騎士は若い頃から旅のなかで暮らしています。女神さまは叔父から知らない世界の話を聞くのをいつも楽しみにしていました。
「それでね、お前のお父さまから頼まれたことがあってね」
 旅の話をひととおり語り終えた騎士はふと改まった調子になりました。
「あら、まだ早いですわ」
 女神さまは驚いた顔をして、それでもきっぱりと言います。
「まだなんにも話していないのだが」
 騎士は、片目だけをぱちくりさせて途惑いました。
「すぐにぴんときましたもの。わたくしのお婿さん探しでしょう」
「察しがはやいね。賢い子だ。お前を肩車してあげた頃から聡明だった」
「叔父さまったら、わたくしをいつまでも子供扱いされては困りますわ。立派な大人ですもの」
「そう、もういい大人なのだから、そろそろ結婚してもいいのじゃないかな。お前のお父さまが素敵な若者を見つけたそうだ。こんど休みを取ってお父さまのもとへ行ってみてはどうだろう。お父さまが引き合わせてくださるよ」
「ここの仕事を休むわけにはまりませんわ」
「お前が帰っているあいだは、わたしが代わりをするよ」
「叔父さまが赤ちゃんを取り上げますの?」
「そうだが」
「似合いませんわ」
 女神さまはおかしくて吹き出します。
「すこしのあいだだけなら、わたしだって大丈夫だよ」
「お見合いをする気にはなれませんわ」
「堅苦しく考えなくていいのだよ。気に入らなければ断ればいい。ともだちになるだけでもいい。とりあえず会ってみればいいだけのことだ」
「そんな簡単なふうにおっしゃって、いざ会えば、みんなでよってたかってわたくしをお嫁にしようと躍起になるのでしょう。わかってますわ」
「やはりだめかね」
「ええ。わたくしはこのお仕事が気に入ってますの。命を地上へ送り出す大切なお役目ですもの。今はこのお勤めをしっかりやり遂げたく思います」
「そうはいってもねえ。いつかはお前も嫁がなくてはならないのだよ。お父さまも心配しておられる」
「わたくしの心配より叔父さまはどうですの? 叔父さまだっていつまでも旅暮らしというわけにはまいりませんわ」
「わたしは自由と放浪の神だ。家庭にしばられたりすれば、それこそお笑い種だ。わたしはさすらいつづけて生きるのさ」
「叔父さまったら」
 女神さまは楽しそうに笑い転げます。
「お前のお父さまにもうすこし待っていただくように伝えるよ」
「ありがとうございます。叔父さまはわたしのことをわかってくださるのね。叔父さま、大好き」
 女神さまは騎士の頬に口づけました。
「さあ、わたしはそろそろお暇するよ」
「きたばっかりですのに。夕食のしたくをさせますから、ご一緒しましょうよ」
「今回は急ぐ旅なんだ。お前のお父さまからもう一つ頼まれごとがあって、それを片づけなくてはならないのだ」
「なにですの」
「野暮用さ。南のほうで神様が喧嘩したらしい、それをいさめに行くのだよ。なに、すこしばかり話をすればすぐに仲直りするさ」
「出発は明日でもよろしいじゃございませんこと」
「お前も知ってのとおり、お前のお父さまはせっかちなのだよ。すぐに結果をご報告せねばならない。ご機嫌が悪くなってしまうからな」
「こんどいらっしゃるときはもうすこしゆっくりしていってくださいね」
「つぎはそうさせてもらうよ」
 騎士は帽子を取り立ち上がりました。女神さまは名残惜しそうに騎士を送ります。騎士を乗せた馬が森の木立のなかへ消えるまで、女神さまはその後ろ姿を見送りました。

 女神さまは庭の花の手入れをしたり、栗鼠や小鳥たちを手のひらに乗せては話しかけたりして午後の時間を過ごしました。
 陽が西へ傾きます。ぼんやりとしたオレンジ色の光が森の上にやわらかく注ぎます。女神さまは夕方の仕事の支度して、ふたたび川のほとりの水車小屋へ行きました。
 女神さまはやはり侍女をふたりしたがえて、水車小屋の桟橋に立ちます。川の下流から小さな舟が何隻もさかのぼってきました。舟のなかには七八人が坐り、いちばん後ろには白装束の男が櫓をこいでいます。舟は次からつぎへと桟橋につき、舟のなかの人たちが桟橋へ上がりました。ほとんどは老人ですが、なかには中年や若者も、それから子供も混じっています。
「おかえりなさい」
 女神さまはみんなを出迎えました。
 そうです。彼らは女神さまが送り出した赤子たちなのです。地上で何十年の時を経て――といっても女神さまの森ではほんの数日の出来事ですが――命の森へ帰ってきたのです。
 女神さまは一人ひとりにお疲れさまのキスをします。そうして、金平糖を一つ口に含ませます。するとどうでしょう。おじいさんやおばあさんはみるみる間に二十歳の若者に若返ります。肌はつやつやになり、曲がった腰もしゃんとして元気な姿になりました。
「女神さま、ありがとう」
 若者たちは女神さまの頬へお返しのキスをして水車小屋のそばにとまっている三頭立ての馬車へ乗りこみます。馬車は十数人ほどの乗ったところで出発です。馬は翼を広げ、茜色した空へ翔びたちます。東の国へ、西の国へ、南の国へと、それぞれの場所へ女神さまの子供たちを送り届けるのです。
 絵描きの心を持った魂は画家の村で、楽器の好きな魂は演奏者の村で、家具づくりが得意な魂は家具職人の村でとそれぞれのふるさとで穏やかに楽しくすごし、そうしてしばらくすると、彼らはまた赤ん坊の姿に戻って女神さまの手で地上へ送り出されるのです。
「ごめんなさい」
 ちょうど幼稚園くらいの姿をした男の子が女神さまの足に抱きついて泣き出しました。
「どうしたの?」
 女神さまは男の子の頭をなでます。
「ぼく、ぼくね――」
 男の子はしゃくりあげて声をつまらせます。その男の子は腕白な坊やで元気に遊びまわっていたのですが、ある日突然、流行り病にかかって命を落としてしまったのでした。
「いたずらばかりしてたから、死んじゃったんだ。ぼくはわるいことをたくさんしたもん」
「あら、わるいことなんてなんにもしてないわよ」
「それじゃどうして死んじゃったの? パパもママも泣いてた。ぼくがわるいんだ」
「坊やはなにもわるくないわ。肉体を持つというのはすこしばかりたいへんなことなのよ。うまくいかないことだってあるわ。坊やはただ病気になっただけ。運がわるかったのよ。ただそれだけよ」
 女神さまは金平糖を男の子の口に含ませます。瞬く間に二十歳の若者の姿になりました。晴れやかな表情になった彼は女神さまの頬へ口づけ、「女神さま、さようなら、お元気で」と手を振り、馬車へ乗りこみました。
「女神さま、どうしてわたしはここにいるのでしょう」
 若い女が呆然と女神さまを見つめます。若い女は住んでいた村からバスに乗って町へ買い出しに出かけました。ですが、その町が空襲にあい、爆撃に巻き込まれてしまったのでした。事実を言わないわけにはいきません。女神さまはありのままを話しました。
「わたしがばかだったから。夫は危ないからやめなさいって何度もわたしをひきとめたのです。でも、どうしても娘にダウンジャケットを買ってあげたくて。――夫と娘はぶじでしょうか」
「大丈夫よ。元気に暮らしているわ。悲しんではいるけど」
「お願いです。わたしを地上へ戻してください。わたしがいなければ、だれが家族の世話をするのでしょう。わたしの気持ちをわかってくださるでしょう」
「それはできないの」
 女神さまはかなしそうに首を振ります。
「つらいのはわかるけど、戻ってきた魂はしばらくここで暮らすのが定めなのよ。後戻りはできないの」
 これまで女神さまはいったいどれほどのこの願いをしりぞけてきたことでしょうか。
「どうしてこんなことに」
「もうすこし生きたいという願いはだれもがもつものよ。でも、運命を受け入れるよりほかにすべはないの。これで終わりではないわ。次があるのよ。また生まれ変わるから」
 女神さまは金平糖を食べさせます。若い母親はすこしだけ若返り二十歳の娘になりました。
「あら、わたしったら」
 娘は自分の体を眺めて驚き、
「女神さま、ありがとう」
 とおじぎします。娘はもう地上での記憶をほとんどなくしました。嬉しいことも悲しいことも思い出として残っていません。かすかに記憶の影といったものを覚えているだけです。金平糖には地上でのことを忘れさせる作用があるのです。娘は馬車へ向かっていきました。
 女神さまはにこやかな笑顔をつくって娘を見送りました。そして、女神さまはふと真顔になって考え込みます。人はなぜ死ななければならないのか。もうすこし生きることがどうしていけないのか。女神さまもじつはよくわからないのです。もっとわからないのは、祝福して送り出した命がなぜおたがいに苦しめあうようなことをするのかということです。傷つけあう理由など、ほんとうはないはずなのに。地上の悲しみや苦しみなど消してしまおうと思えばすぐにでもできるはずなのに。女神さまは、人間をもっとも苦しめるものが人間自身であることがとても残念でなりませんでした。
 最後に、灰色の顔をした人たちが舟に乗ってやってきました。
 この命たちは地上で恐ろしい罪を犯してしまったのです。みんな無口でいらだっているようです。女神さまは彼らに金平糖を与えません。彼らはそのままの姿で檻の馬車へ乗りこみます。女神さまは、灰色の顔をした人たちの不仕合せがいやされることを祈りながら、いつの日か魂が清められて昔暮らしていた東の国や、西の国や、南の国にある郷里の村へ戻れる日のくることを願いながら、たださびしそうに見送るだけです。
 檻の馬車は北へ向かって飛び立ちます。北の国には、女神さまのおじいさまが番をしていて、おじいさまが彼らをさばくことになります。おじいさまは厳しい方でした。女神さまにはとってもやさしいのですが。

 今日の仕事を終えた女神さまは、お館へ戻りました。あたたかいクリームシチューとレタスサラダを食べ、お風呂にゆっくりつかります。
 女神さまはバルコニーのソファーに腰かけました。夜空は満天の星です。白や赤や青の色とりどりの星が咲いています。女神さまは、洗い髪を星明りで乾かしながら夜空を眺めるこのひとときが大好きでした。
 天空のメロディーが聞こえてくるようで荘厳な想いが胸を満たします。世界はなんて美しいのだろうと思わずにはいられません。そして、命の不思議を考えます。それは女神さまにも解けない宇宙の神秘なのです。女神さまは空を満たす星々にむかって、今日送り出した命たちがしあわせになれますようにと祈りをささげました。梟の鳴き声が夜の涼しい風に乗って森の梢からかすかに流れてきました。







シャンプーハット

2013年05月30日 21時08分25秒 | 童話

 シャンプーハットが、きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 正太、こうやっておまじないをかけるとうまくかぶれるんだよ。
 お兄ちゃんとおまじないをかけてみようね。

 シャンプーハットが、きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 そう、ちゃんとおまじないができたね。
 それじゃ、あたまにおゆをかけよう。ぬらしたら、シャンプーハットをかぶりやすくなるから。だいじょうぶだよ。ただのおゆだもん。シャンプーじゃないから。
 よいしょ。
 おゆはこれくらいでいいよな。ぬらすだけだもん。
 はい、お目めをつむって。
 ざあああー。

 これでじゅんびはよし。
 お目めをあけていいよ。
 お兄ちゃんも、さいしょはこわかったんだよ。
 だって、シャンプーが目に入ったら、いたいじゃない。でもね、だいじょうぶ。お兄ちゃんがちゃんとやってあげるから。
 じっとしたままだよ。
 シャンプーハットは、まっすぐかぶらなきゃいけないんだ。
 かぶせるよ。そろりそろり、ゆっくりと。
 あ、正太、うごいちゃだめ。
 いやいやしたらだめ。
 シャンプーハットがゆがんじゃったじゃない。せっかくうまくいってたのにさあ。これじゃあ、シャンプーハットがやくに立たないよ。
 あ、そうだ。おまじないをわすれてた。
 おまじないをしなかったからしくじっちゃったんだな。
 お兄ちゃんといっしょにおまじないをかけながら、もういっかい、やりなおそうね。

 シャンプーハットが、きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 もういちど。

 シャンプーハットが、きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 ふう、うまくいったね。
 おまえはしあわせだよ。
 こうやってお兄ちゃんにめんどうをみてもらえるんだもん。ぼくなんか、いつもお母さんにじぶんでやりなさいって言われるだけだもの。お母さんは、かじとか、おまえのせわとかでいそがしいしさ。
 ほら、ちゃんとすわって。立ち上がらないで。まだおわってないんだもん。
 なに?
 あたまをあらうのはきらいなの?
 お兄ちゃんもそうだったけどね。でも、あらわなかったらかゆくなるし、くさいままなんだよ。正太のかみはにおうなあ。くさいよ。ちょーくさいよ。こんなにくさかったら、おまえのすきなケイちゃんにきらわれちゃうよ。あそんでくれなくなるよ。それでもいいの?
 そうだろ。
 よくないだろ。
 だったら、お兄ちゃんのいうことをちゃんときくんだよ。

 シャンプーをつけるよ。
 正太のかみはほそいなあ。もっとのりを食べたほうがいいよ。のりを食べたら、おとうさんみたいに黒くて太いかみになるんだよ。こんどお母さんとスーパーへ行ったときにかってもらいなよ。
 手をひざのうえにおいて。じっとするんだよ。シャンプーハットがずれたら、シャンプーがかおにながれて、お目めに入っちゃうよ。いいね。
 前のかみをごしごし。
 あたまのてっぺんをごしごしごし。
 よこのかみもごしごしごしごし。
 シャンプーハットの下のかみの毛も、ごしごしごし。
 ごしごし、ごしごしごしっと。
 だいたいこれくらいかな。
 もうちょっとごしごししたほうがいいかな。
 正太、かゆくない?
 だいじょうぶだね。
 かおにシャンプーがながれてないから、これでよし。
 それじゃ、おゆでながそう。
 いきを大きくすって。お目めをしっかりつむって。こわくない。
 はい、かけるよ。
 ざあああー。
 ほら、だいじょうぶだろ。
 こわがることなんて、なんにもないんだよ。
 もういっかい、おゆをかけるよ。
 ざあああー。
 さあ、シャンプーハットをとろう。
 おまじないをいっしょにとなえるんだよ。

 シャンプーハットが、きゅっ、きゅっ、きゅっ。

 正太、もういちどお目めをつむって、みみをふさいで。
 うしろにおゆをかけるよ。
 はい、できあがり。
 ちょろいね。

 ゆぶねにつかろうね。
 お兄ちゃんがあひるさんであそんであげるから。
 おふろはたのしいよね。お兄ちゃんもおふろは大好きだよ。
 えっ?
 おしりをおさえてどうしたの?
 うんち?
 うんちがしたいの?
 そういえば、お兄ちゃんもおふろに入ったときはよくうんちがしたくなったなあ。どうしてなんだろう?
 こまったな。
 どうしよう?
 おかあさーん。



 了


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なかよく、はんぶんこ

2011年07月21日 06時15分00秒 | 童話
 
 ぼくとおにいちゃんは、いつでもなかよく、はんぶんこ。
 おかあさんが、いたチョコをかってくれたから、さっそく、はんぶんこ。
 あれえ、おにいちゃん、ちゃんとわってよ。
 おにいちゃんのほうが、ちょっとおおきいじゃない。
 ねえ、ここのところが、ななめになってるでしょ。それでね、ここのところが、とびでてるでしょ。そのぶん、おにいちゃんのほうが、おおきくなってるんだよ。ぼくには、ちゃあんとわかるんだからね。
 そうだよ。これくらいかな。
 ありがとう、おにいちゃん。
 おにいちゃんて、やさしいね。

 おばあちゃんがもってきてくれたドロップを、ぜんぶおさらにならべたよ。
 あか、あお、きいろ、みどり、オレンジ、しろ。きれいだな。
 いつものように、はんぶんこ。
 おにいちゃんをしんじてないわけじゃないけど、こういうことは、ちゃんとしておかなくっちゃね。
 ねえ、おにいちゃん、きいろってレモンあじでしょ。ぼく、レモンあじがすきなんだ。あんまりすきじゃないみどりをあげるから、ぼくのとかえっこしてよ。
 あれえ、おにいちゃん、むっとしちゃった。どうしよう。
 ねえねえ、ぼくがにばんめにすきなオレンジをあげるから、やっぱり、さんばんめにすきなあおをあげるから、おにいちゃんのきいろとかえっこしてよ。
 わーい、ありがとう。
 おにいちゃんて、やさしいね。

 おせんべいは、おいしいね。
 おにいちゃんはくいしんぼうだから、すぐにぜんぶたべちゃって、ぼくのをいちまいほしいってねだるよ。
 だめだよ。もうはんぶんこしたじゃない。そんな、ぼくみたいなことをしたらいけないよ。ぼくはおとうとだからいいけど、おにいちゃんはだめ。だって、おにいちゃんは、おにいちゃんじゃない。
 ええっ、どうしてえ? どうしてそんなことをいうの?
 おにいちゃんは、よなかにおしっこしにいきたくなっても、もうついていってあげないっていうんだ。
 ひどいよ。
 ほんとにひどいよ。
 よなかは、まっくらなんだよ。トイレへいくのは、こわいんだよ。おばけがでたら、どうするんだよお。がまんしすぎて、おねしょをしたら、どうするんだよお。
 なきたくなっちゃう。
 ぼく、ないちゃうよ。
 いちまいあげるから、ぼくがトイレへいくときはついてきてね。
 おしっこしがおわるまで、トイレのそばでまっていてね。
 おねがいだから、ぼくをおいて、さきにおふとんへもどらないで。
 え? もういちまい?
 おにいちゃんはずるいなあ。しょうらい、おかねもちになれるよ。
 わかったよ。
 もういちまいあげるから、やくそく、やぶらないでよ。

 おじいちゃんが、ボンタンアメをくれたんだ。
 やったあ。ボンタンアメ、だいすき。
 おじいちゃん、ありがとう。
 おじいちゃんも、だいすき。
 おじいちゃんは、ぼくのあたまをなでなでしてくれたよ。
 ボンタンアメはね、おじいちゃんからぼくへのプレゼント。だから、はんぶんこしないの。だって、ぼくのものだもん。
 うわっ。おにいちゃん、おこった。
 にげろ!
 おかあさん、たすけてえ。
 おにいちゃんが、ぼくをいじめる。
 ぼくは、だいどころでばんごはんをつくっているおかあさんのスカートのなかへかくれたよ。
 ここなら、ぜったい、だいじょうぶ。
 おにいちゃんは、はいれないもん。そんなことをしたら、おかあさんに「おにいちゃんでしょ」って、しかられてしまうんだよ。
 おかあさんのスカートのなかは、まほうのおしろ。おにいちゃんだって、おばけだって、ぜったい、はいれないんだ。
 おにいちゃんは、めのまえで、ぼくをまちかまえてるよ。たのしいな。
 なあに、おにいちゃん?
 だめだめ。
 おにいちゃんのしゅくだいは、はんぶんこしないの。
 しゅくだいって、おにいちゃんが、いつも、いやいややってるやつでしょ。なんで、ボンタンアメはんぶんと、しゅくだいはんぶんをかえっこしなくちゃいけないんだよお。おにいちゃんが、じぶんでやりなよ。ぼくは、こうみえてもいそがしいんだ。いろいろとね。
 それ、なあに?
 かんじのれんしゅうちょう?
 しゅくだいじゃないの?
 ほんとう?
 うそだ。
 ばかにしないでよ。だって、しょうがないじゃない。まだならったこと、ないんだもん。じはしょうがっこうへあがってから、ならうんでしょ。ぼくは、まだ、ようちえんだもん。おにいちゃんには、まけたくないけどさ。
 ほんとう?
 ぼくにもかんじが、かけるようになるの?
 おにいちゃんが、おしえてくれるの?
 ぼくのなまえが、かけるようになるの?
 やったあ。
 おにいちゃん、ちゃあんとおしえてよ。とちゅうでゲームをやったりしたらだめだよ。おにいちゃんは、あきっぽいんだから。
 ボンタンアメと、かんじのれんしゅうちょうをはんぶんこ。
 ちゃんとかんじをかいたら、おにいちゃんのたんにんのみやざわせんせいが、あとでまるをつけてくれるんだって。うんとがんばったら、はなまるっていってね、まるのまわりにおはなをかいてくれるんだって。はなまるって、どんなのかなあ? たのしみだな。うれしいな。
 ありがとう、おにいちゃん。
 おにいちゃんて、やさしいね。
 ぼくとおにいちゃんは、いつでもなかよく、はんぶんこ。


 了

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