風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

西門豹伝の構造 ―― ライナーノーツにかえて ――

2011年05月01日 15時47分02秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 西門豹の話は『史記列伝』の『滑稽伝』に載っている。
 以前、中国に語学留学していた頃、外国人向けの北京標準語の教科書で読んだ。もちろん、古代文ではなく、読みやすく仕立て直した現代語訳で。小テストがあって、一部分を暗記して先生の前で暗誦したりした。
 西門豹のことを中国人の友人に話したら、みんな楽しそうに笑う。現代語訳が中国の教科書に掲載されていて、学校で勉強したのだとか。日本ではあまり知られていない話だが、本場の中国ではわりあい有名な話のようだ。

 西門豹伝に描かれた「毛沢東作戦」

『史記』に描かれているこの話のエッセンスを権力闘争の面に絞って抽出すると、次のようになる。

1、鄴は洪水によって疲弊しており、庶民の生活は困窮していた。そこへ西門豹が改革を実行するために送りこまれた。
2、中央政府と地方政府の間に反目があった。また、地方政府には激しい腐敗があった。
3、西門豹は、地方政府の腐敗と生活の困窮にあえぐ地元の村長や古老たちの支持を取りつけた。
4、西門豹は地方政府上層部の権力を剥奪し、中央政府の意向に従わせ、地元の村長などの支持のもとに改革を実行した。

 なんてことはない。これは農民の支持を取りつけて、都市の支配層を追い出す話だ。つまり、農村が都市を包囲するという「毛沢東作戦」である。
 中国の歴代王朝はたいていの場合、疲弊した農村の支持を得て政権を奪取した。中国の伝統的な権力の握り方が西門豹伝には書いてある。毛沢東もしかり。もちろん、中国全土を支配するのと一地方都市を支配するのとではスケールがまったく違うが、その構造は同じだ。中国は古代から「毛沢東作戦」で政権を掌握する国だったのだ。

 龍退治、もしくは自然への挑戦

 もちろん、この話の面白味は別のところにある。
 西門豹伝は、いわゆる「龍退治神話」のジャンルに属するものだ。
 龍は川の化身。そして、洪水のシンボルでもある。洪水に悩まされ続けてきた人類にとって、川をどう治めるかは大きな課題だった。龍を退治するということは、暴れ川を治め、洪水を克服するということ。つまり、自然への挑戦物語である。
 中国神話の一番最初は禹の治水物語。言い換えれば、治水をはじめるところから、「開発の文明」がはじまるといっていいかもしれない。ちなみに、中国の歴代皇帝のシンボルは龍だった。中国では川を治める者が皇帝となるのだ。
 神話には人の心を揺さぶる物語の原型《アーキタイプ》がある。龍退治もその一つである。西門豹伝は神話ではなく史実だが、この自然への挑戦物語という原型が変形した形で話の骨格として使われており、これが人の興味を惹きつける。洪水という巨大な敵をどうやって打ち負かすのか、ここにこの話の旨味がある。

 『史記』にかけられたバイアス

『史記』には、さまざまな歴史上の事実やエピソードが載っている。
 だが、それらの事実やエピソードはすべて司馬遷の視座《パースペクティブ》によって描かれており、さらにいえば、『史記』は客観的な歴史的事実を述べるために執筆されたものではなく、漢王朝、とりわけ漢の武帝の正統性を証明するという別の目的のために書かれたものだ。つまり、『史記』は司馬遷の目を通して描かれた括弧つきの「歴史」であり、司馬遷の見解が「正しい」わけではない。また、描かれた事実やエピソードも司馬遷の考え方や執筆意図に沿うものが選ばれている。歴史書にかけられたバイアスをどう読み解くのか、ということも大事なことだ。
『史記』の西門豹伝では、地方政府の腐敗と信仰を食い物にした詐欺事件が描かれている。このようなことは現代でも枚挙に暇がない。話としては面白い。いつの時代でも政治と宗教に腐敗はつきものだ。だが、果たして本当なのだろうかと疑ってしまう。先にも述べたようにこの話には、中央政府と地方政府と間における権力闘争の一面が色濃くある。権力闘争に敗れた側は悪く書かれるのが「歴史」の常なので、三老や巫女の地方政府がほんとうにそこまで激しく腐敗していたのかどうか、慎重に考えたほうがいいだろう。「歴史」は往々にして勝者によって書かれるものだ。とはいえ、勝者が必ずしも正義とは限らない。敗れたものが悪とも限らない。

 東洋的な古い「近代」

 西門豹伝の最後には、漢王朝の時代に西門豹が建設した水路を変更する命令が出たが、地元の人々は西門豹のおかげで暮らしがよくなったのだから、それを変える必要はないと反対し、西門豹の水路はそのまま使われることになったという話がエピローグとして紹介されている。それほど、西門豹は鄴の人々から感謝されていた。後代まで感謝される知事はなかなかいるものではない。西門豹が善政を敷いたのは確かなことだろう。
 西門豹は河伯が空想の産物であることを看破し、それを人々に証明してみせた。龍の幻影に怯えていた人々はその恐怖から解放され、その結果、開発が進み生活が向上した。生活がよくなったのはとてもいいことだ。西門豹の事業は高く評価されるべきだと思う。
 ここに東洋的な古い「近代」の形がある。
 西門豹伝は、一面からいえば、精霊信仰《アニミズム》の否定と人間中心主義《ヒューマニズム》によって描かれたエピソードということができる。龍=自然を崇めるという「信仰」を「迷信」として切り捨て、人間をこの世の主人とみなして「開発」を進めるというものだ。
 ここで注意しなければならないのは、西欧的な近代だけが近代のすべてではない、ということだ。中国には中国流の「近代」がある。
 中国は遅れた国と思われがちだ。たしかに、西欧近代科学による産業振興や民主主義による国造りといった西欧的な尺度をとれば、遅れをとっている。しかし、中国には悠久の歴史がある。日本にまだ文字がなかった時代に、政治、哲学、医学、歴史、兵法、詩などの各ジャンルにわたって数多《あまた》の書物が執筆されていた国だ。近代的な文明という観点からみれば、中国は日本よりもはるかに長い歴史を持っている。
「近代」とは神々を追放し、人間が世界の王座に坐ることだ。自然を人間に隷属させることだ。この点については、洋の東西に変わりはない。
『史記』の西門豹は、中国流の近代化の観点から好ましい人物として描かれている。西門豹は、龍信仰を迷信として切り捨てることで開発への道を切り拓いた。宗教によって制限されていた人間の活動領域が拡大した。現代流にいえば、開発独裁といったところだろう。
 西門豹は、人間中心主義《ヒューマニズム》と開発の推進という東洋的な古い近代を体現している。

 ヒューマニズムと開発の流れの先に

 西門豹の政策によって洪水が減少し、鄴は発展したわけだが、近代的なものがすべてよいと、手放しで賞賛するわけにはいかない。
 人間中心主義《ヒューマニズム》は、一歩間違えれば非常に危険な思想となる。不完全な人間が神になれるはずもない。なれるはずもないのだが、神になれるものだと思い上がってしまう。なにか崇高なものや理想といったものに対する敬虔な気持ちがなければ、優しさや理性の源泉がなくなってしまい、人間はすぐにでも野獣化してしまう。そんながらんどう人間中心主義人間の行き着く先は袋小路でしかない。行き場を失い、やがて文明そのものが終焉を迎えることになるだろう。
 小説では、ヒューマニズムに対置するものとして、精霊信仰の世界に生きる巫女の彩を描いた。彼女の考え方は、人間は自然のなかでしか暮せないのだから、やはり自然と共生する道を選ぶよりほかにない、そして、自然と共に生きるためには自然に対する敬意がなくてはならない、というものだ。
 西門豹のヒューマニズムの流れの先に今日の文明がある。ギリシア神話のギルガメシュも、森の神を殺す話だ。精霊信仰だけでは現代のような世界は出現しない。自然を殺すことで人の世は栄えた。
 今は非常に便利な世の中だ。行きたいところへどこへでも行くことができる。世界中を飛び歩くこともできれば、ネットに接続して世界中の情報を集めることができる。自動車も飛行機もカメラもパソコンも、西門豹の時代の人間から見れば魔法のようなものだろう。しかし、精霊信仰を完全に切り捨ててしまうのは、やはり問題ではないだろうか。
 もちろん、現代において、自然へ帰れといっても、今更後戻りはできない。たとえば日本で精霊信仰を取り戻そうとしても、もはや大多数の人々は自然のなかでは暮していない。精霊信仰は自然のなかでの営みによって生まれたものだから、コンクリートジャングルの都会や郊外の住宅地で暮らしながらそれを取り戻そうとするのは至難の業だ。とはいえ、「自然を殺す文明」ばかりが発展しすぎた。開発もある一定の線を越えれば、プラス面よりもマイナス面のほうが増えてしまう。たとえば、公害問題もその一つだ。黄河の水は奪いつくされ、季節によってはあの大河が断水するまでになった。かつては豊かな森だった平野も砂漠化が進み、北京は毎年猛烈な砂嵐に見舞われる。小説中の彩のようにとまではいかなくとも、「自然と共生する文明」の道を模索する必要があるのではないだろうか。もちろん、人間と自然の間ばかりではなく、人間同士でも共生する道を。どうやら、人間は自然と共に暮すことを忘れた時、人間同士共に生きることを忘れてしまうもののようだから。
『史記』の西門豹伝に描かれた西門豹は有能で非常に魅力的な人物だ。彼の功績は大きい。だが、ヒューマニズムと開発の行き過ぎた現代においては、逆の角度から、つまり精霊信仰の視点から物事を眺めることも重要ではないだろうか。



(あとがき)
 本文は『史記』の西門豹伝に潜む構造を筆者なりに解き明かしてみたものです。筆者の視座《パースペクティヴ》によって書かれたものであり、当然、筆者のバイアスがかかっていることは言うまでもありません。

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『西門豹』 (エピローグ)

2011年04月29日 06時24分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 五年後、西門豹は中止していた河伯祭を復活させた。
 もちろん、民から費用を徴収せず、規模も縮小させ、人身御供も取りやめさせた。だが、会場の賑わいは五年前と変わらない。西門豹は、屋台と人ごみの中をそぞろ歩きした。五年前は大事を前に控えて祭りを楽しむどころではなかったが、今回はその雰囲気を存分に味わった。なにより、人々の愉《たの》し気な姿が心地良かった。
 あの後、大々的な治水工事を行ない、堅牢《けんろう》な堤が完成した。民を苦しめた洪水はここ二年起きていない。十二本の灌漑《かんがい》用水を整備して黄河から水を引き入れ、死んだ荒地は郁々《いくいく》と緑なす小麦畑へ生まれ変わった。民の生活は大幅に向上し、都へ上納した税も増えて国庫に貢献した。抜擢してくれた文侯の期待に、見事に応えた。
 彩を忘れたことは一日もない。
 自宅に彩を祀り、朝と夕べに祈りを捧げた。
 時折、同じ夢を見る。
 黄河の底の龍宮を訪れ、庭先の亭《ちん》で彩と世間話をして帰る。そんなたわいもない夢だ。彩が見せる微笑みは、まろやかな幸せを手に入れた若妻のそれだった。満ち足りて欠けるところがない。
 夢を見るたび、西門豹はただ嬉しかった。それがおそらく真実だろうと思った。その「真実」が長い治水事業の中で困難に直面した時、心の支えになった。
 人波を縫って李駿がやってくる。李駿は以前この町へ連れてきた彼女と婚礼を挙げ、一児の父になっていた。もうすぐ二人目が生まれる。
 久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》した後、
「お前の父君の言付けを預かってきたよ」
 と、李駿が切り出した。休暇を取って都へ戻り、結納を上げろという。
 許嫁は三年前に親が決めた。会ったことはないが美人との評判は聞いている。相手の家は宰相の親戚だ。悪くない。だが、西門豹は仕事を口実に春節《しゅんせつ》(中国の正月)にも都へ帰らず、避けていた。
「そうだな。いい区切りかもしれない。結婚するか」
 西門豹は、昔より一層、精悍《せいかん》に見える頬に掌を当てて頷いた。
「区切りってなんだよ」
「ここでの仕事も一通り目処がついた。そろそろ踏ん切りをつけて、人生の次の段階へ進む時かもしれない」
 西門豹は会場を見渡し、ふっと優し気な微笑みを浮かべる。
「河伯祭も始めたことだしな」
 彩にしてあげられることはすべてした。なにもかもが終わったような気さえもした。
 ――断ち切れない想いも、思い出に変える潮時なのだろう。
 腕を組んで下を向き、子供が遊ぶようにして足元の小石を転がした。
「あれだけ苦労してやめさせたのに、どうしてまたやるんだよ」
 西門豹の想いを知らない李駿は不思議そうに言う。彩との件は李駿にも誰にも告げていない。自分だけのものにしておきたかった。
「民は龍神を信じている」
「だからといって迷信を認めるなんて、俺にはわからないよ」
「龍神を祀《まつ》って民の気持ちが落ち着くなら、結構なことではないか」
「もしかして、お前も河伯を信じているのか」
「信じている」
 西門豹は、あの夜巫女の村で出会った龍神を想い起こした。今も黄河の中から厳しい視線で見られている気がする。
「人間は神々を信じて、その神々に見つめられていたほうがいい。心が安らぐうえに、謙虚な気持ちになって己の限界を考えるようになるからな。この世に人間しかいないと思えば、人は思い上がって自分が神になったつもりになり、勝手放題をやりだす。正しいことと誤ったことの区別がつかなくなって、愚かさに歯止めがかからなくなる」
 滔々《とうとう》と流れる黄河を見つめた。
 黄色い濁流は、夏の光を浴びてひたすらにほとばしる。
 水辺で餌を探していた白鷺の群れが、一斉に宙へ羽ばたいた。



 了



 この小説は中国の歴史書である『史記』列伝に題材をとりました。最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

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『西門豹』 (第5章 -2)

2011年04月24日 08時39分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 いよいよ、河伯祭の当日を迎えた。
 よく晴れた朝だった。
 西門豹も賓客として招かれている。
 礼装した西門豹は、黄河のほとりの式場へ早めに入った。
 木目も真新しい小さな斎宮には橘黄色《たちばなきいろ》と深紅色《ふかべにいろ》の帷《とばり》を張りめぐらし、その前の祭壇には牛肉の塊や酒などを供えてあった。斎宮の脇に、色とりどりの花や幟《のぼり》で美しく飾りつけた筏《いかだ》が置いてある。新婦は筏の椅子に腰掛け、嫁入り道具とともに河へ流される。初めは浮かんでいるが、数十里行くうちに沈んでしまうという。
 三々五々と人が集まり、西門豹は徐粛や他の有力者たちと挨拶を交わした。誰もが、西門豹が河伯祭の開催に尽力したことの謝辞を口にする。心の中で唾を吐きながらも、うわべは愉快そうに振舞った。
 西門豹の瞳が揺らいだ。なにかに耐えるよう鈍く光る。まぎれもない彩の香りが西門豹の胸をくすぐった。
「久し振りだな」
 抑えきれそうもない想いをかろうじて抑え、声をかけた。彩は、なにも言わず会釈する。銀の髪飾りに吊るした翡翠がくるくる回転し、止まったかと思うとまた逆に回り始める。
 ――きれいになった。
 西門豹は素直にそう感じた。彩の顔がまぶしかった。
 大事な儀式を控えた緊張感と大巫女として大切な任務をこなすという責任感が、巫女ゆえの宗教的確信とあいまって内面から分泌する輝きをより強いものにしていた。初夏の陽射しが頬の柔らかい産毛に照り返る。
 初めて出会った時のように、彩は深く澄んだまなざしで西門豹を見た。西門豹の脳裏にあの夜の彩が浮かぶ。粟粒のような乳輪の感触も、汗に濡れた肌の質感も、男の野性を激しく揺さぶった吐息も、まざまざと想い起こした。さらってどこかへ連れ去りたい。永遠に自分のものにしてしまいたい。だが、それはできない。たわいない世間話でよいから一言二言声を交わしたかったが、そうすれば己が崩れてしまいそうでできなかった。彩の瞳を見つめ返し、ただ力強く頷いた。必ず約束を果たすので任せて欲しい、と伝えたかった。
 彩は二度頷く。計画の全貌を打ち明けてはいなかったが、女の勘で西門豹の言いたいことを悟ったようだった。丁寧に辞儀をして西門豹の傍らを通り過ぎる。
 西門豹は振り返り、ぴんと背筋を伸ばした白絹の後姿を見つめた。すべてを失う切なさに心が軋む。思わず目の縁《ふち》をしかめ、どこまでも晴れ渡った空を見上げた。
 もう儀式が始まろうかという頃、約三千人の観衆が集まった。
 縁日の賑わいだった。
 河原には串焼きや菓子を売る屋台が出て、物売りの陽気な声が飛び交う。人々の晴れやかなざわめきが鞠玉のように青い空へこだまする。
 ――頃合いだな。
 西門豹は、土手の上を見遣った。
 矛と盾を持った完全武装の兵が次々と現れ、空色を背景にして一直線に並ぶ。美しい整列だった。指先からつま先まで神経を張りつめた一挙手一投足から、遠目にも訓練と規律の行き届いた部隊だとわかる。隊伍を整えた五十人ばかりの兵隊はリズムよく甲冑の音を響かせながら土手の斜面をくだる。人海を割り、会場まで行進してきた。
 先頭には李駿が立っていた。伊達者の李駿らしく、磨き上げた瀟洒《しょうしゃ》な鎧《よろい》に身を包んでいる。おそらく、代々の家宝の品だろう。兵は、都から連れてくるように頼んでおいた文侯の親衛隊だ。体格に優れ、面魂のよい者を揃えた精鋭だった。李駿は、得意気な顔で西門豹へ向かって頷いてみせる。意外な闖入者《ちんにゅうしゃ》に会場がどよめいた。
 西門豹は、さっと裾を払って立ち上がり、
「彼らは文侯閣下の直属部隊の者だ。閣下直々のご命令で参列する。このように閣下から祝いの品も預かっている」
 と、足元に置いてあった壺を高く掲げ、銀塊を取り出した。熱波のような歓声が沸く。
 すかさず徐粛が立ち、兵に向かってそつなく労をねぎらった。徐粛の顔は満足そうだった。文侯から河伯祭のお墨付きをもらったと思ったようだ。親衛隊は、誰に邪魔されることもなく貴賓席のすぐ後ろに立ち並んだ。
 風が軍旗を殴る。予兆を孕み、ばたばた鳴る。
 ――時が来た。
 西門豹はにこやかな仮面を脱ぎ捨て、式場に集った人々を睥睨《へいげい》した。別の生き物が這《は》うように頬の筋肉が痙攣する。
「新婦が美しいかどうか、確かめさせてもらおう」
 渾身の力をこめ、険しい声を張り上げた。
 会場の後ろでどっと哄笑が沸く。民はやんやの喝采だった。口笛と掛け声が飛び交う。新しい県令が場を盛り上げるために冗談を言ったとしか思っていないらしい。だが、貴賓席に並んだ有力者たちは互いに顔を見合わせ、不審と不平が入り混じったささやきを口々に漏らした。あからさまな軽蔑のまなざしを西門豹へ向ける者もいた。
「いまさら、そのようなことをなさらずともよいでしょう」
 苦笑いした徐粛がおよしなさいと手で抑え、
「どうも県令様は、仕事がこまかすぎるようだ」
 と、周囲を見渡す。余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》だった。貴賓席で失笑が漏れる。
 西門豹はさっと手を振った。
 精兵が隣同士で矛《ほこ》を合わせる。死神の怒号にも似た物々しい金属音が人々を打つ。思わず後退った徐粛はうろたえて周囲を見回す。
「い、いけませんぞ。河伯様のばちが当たります」
 徐粛のうわずった声を無視して西門豹は短い階《きざはし》をのぼり、斎宮の扉を開けた。
 削りたての材木の清新な香りが満ちていた。麦藁《むぎわら》で編んだ筵《むしろ》の上に、白粉《おしろい》を塗って紅い花嫁衣裳を着た十六七の娘が坐っている。打ち合わせ通り、器量の落ちる女だった。
「安心しろ。今助ける」
 西門豹は娘の肩を叩いた。だが、娘は魂を抜かれたように、口を半開きにしたまま惚《ほう》け顔で壁を見つめるだけだった。恐怖の日々を送り、なにも考えられないようだ。
 斎宮を出た西門豹は後ろ手に扉を閉め、仁王立ちになった。
「この娘は美貌とは言えない。これでは河伯様を怒らせてしまうだろう。河伯様のめがねにかなう娘を選び直し、儀式は後日執り行ないたい」
 会場がざわめく。何人かの有力者が立ち上がり、西門豹を糾弾《きゅうだん》する。
「西門様、しきたりを守ると誓われたではありませんか。困りますな。本当にばちが当たりますぞ」
 徐粛は、おさまりがつかない風に喚《わめ》き立てる。
 ――ばちが当たるのは貴様だ。
 西門豹は、李駿へ目で合図を送った。兵が貴賓席へ分け入り、罵声を浴びせる有力者を取り押さえた。
 突然、乱暴な喊声《かんせい》が上がる。剣を振りかざしたならず者の一団が式場の脇から乱入してきた。徐粛の手なずけていた者たちだった。
 親衛隊が一列に並び彼らの前へ立ちはだかる。ならず者たちとぶつかった、と思った瞬間、両翼の兵はさっと移動して彼らを取り囲む。さすが精鋭部隊だけあって水際立った動きだった。兵は左手に持った盾で防ぎ、右手の矛を上から打ち下ろす。肉を打つ鈍い音とうめき声が響く。親衛隊は、あっという間に彼らを袋叩きにしてしまった。六人の有力者とならず者たちは西門豹の前へ引き出された。
「私は河伯様を篤《あつ》く敬い、またこの町の行く末を深く思うからこそ、美しい嫁を河伯様へ差し上げたいと申したのだ。本来であれば、逆らった者はこの場で打ち首にいたすところだが、河伯様の御前で殺すのは無礼というもの。よって後日沙汰いたす。引っ立てよ」
 一個分隊が彼らに縄をかけ、会場を後にする。
「三老殿、ご足労だがこのことを河伯様へ伝えに行っていただきたい」
 西門豹は地面にへたりこんだ徐粛の腕を掴んで引き起こし、人々によく聞こえるよう会場を見渡しながら言い放った。糞尿の匂いがする。徐粛の股間が濡れていた。
「どのようにしてですかな」
 徐粛は売られる子豚のように脅えた目であらぬ方を見ながらも、おもねった笑みを忘れずに首をかしげた。突然、徐粛は凄まじい力を振りしぼって西門豹の腕から逃れようとする。徐粛の肩のあたりで絹の裂ける音が鳴る。着物の袖が外れる。ぎりっと異様な音がして徐粛の肩が脱臼した。西門豹はとっさに徐粛のもう片方の腕を握り、軽くひねって徐粛を地面へ転がし、
「参られよ」
 と、鋭く叫んだ。
 徐粛は両手を前へつき、拍子木を続け様に打つような高く乾いた音を立てながら歯を鳴らす。狂ったように額を地面へ叩きつける。叩頭を繰り返すうちに徐粛の額が裂け、どろりとした血が垂れた。血は流れ落ち、老人の目が赤黒く染まる。
 西門豹は徐粛を見下ろした。まぶたが怒りに打ち震える。そのまなざしは、悪魔の化身のような気魄とどこか哀し気な憤りがない交ぜになっていた。
 屈強な兵士が二人、徐粛の両脇を抱えた。
 河は増水期を迎え、黄色い濁流が小気味よくうねりながら走っている。
 兵は徐粛を波打ち際まで引きずり、高々と濁流へ放り投げた。ざぶんと虚しい音がする。手足をばかつかせる姿がしばらく見えていたが、やがて波間に沈んだ。
「三老殿が帰ってくるまで、待つことにしよう」
 西門豹は、黄河へ向かって慇懃《いんぎん》に揖《ゆう》をした。会場は震撼《しんかん》を通り越した静寂に包まれ、物音一つしない。帰ろうとする者もいない。西門豹は組んだ両手を前に掲げ、四十五度腰をかがめ、龍神に敬意を表した姿勢のまま動かなかった。
 不意に、西門豹は巨躯を震わせた。
 閉じたまぶたの裏に黄河の濁流が映る。巫女の村の社殿で龍神と一体になった時と同じ感覚が甦る。水の冷たさも、泥水の肌触りもあの時のものだ。西門豹は意識の中で己が龍になり、流れをさかのぼっていた。
 木の葉のようにもまれる徐粛の体が前から流れてくる。
 口を大きく開け、強く噛む。骨ばった食感が口に広がった。
 赤黒い液体が目の前に噴き出し、河水に溶ける。
 視界の下の縁に揺れる老人の四肢が見え隠れし、骨の砕ける音が頭蓋骨いっぱいに反響する。腐った肉腫《にくしゅ》のような腥《なまぐさ》さが鼻を衝く。骨入りのすり身が食道の壁にぶつかりながらおりてゆく。口の中に、粘つく体液と肉のかすが残った。
 西門豹は獅子鼻の鼻孔をせわしなく広げ、大きく息を吸った。
 すっとした。
 胸のつかえが取れた。
 初夏の空気には、これまでに味わったことのない快感が混じっている。それは己が無限の力を得たようなつきぬける爽やかさだった。だが、その一方で西門豹は突き刺さるような痛みを喉に覚えた。後味の悪さが胸に残る。見えない手に握られるように心臓が圧された。
 ――やむを得ない。他に方法がないのだから。思い切ったことをしなければ、いつまでも与えられた状況を打ち破ることはできない。閉塞感の中で右往左往するだけだ。新しい状況を作り出すのは、己しかいない。
 心の内でつぶやき、ひりつく後悔を打ち消そうとした。
 三十分経った。当然、徐粛は帰ってこない。
「どうも三老殿は河伯様と話しこんでおられるらしい。催促をお願いしたい」
 西門豹は、鄴(ぎょう)で一番の大店の主人を指差した。この町の商業界を牛耳る人物だ。彼は死灰のように顔を蒼褪《あおざ》めさせ、椅子から崩れ落ちる。強気で鳴らした豪商も情けないものだった。兵が黄河へ投げ入れた。
 西門豹は、再び最敬礼の姿勢を執り続けた。
 沈黙の三十分が経過した。
 できれば、ここで切り上げてしまいたかった。
 なすべきことはすべてやり遂げた。そう思いたかった。実際、文侯から命ぜられた治水と開発を実行するためにはもう充分だった。地元の有力者を二人処して県令の権力と権威は確立できた。今後の施策は比較的円滑に運ぶはずだ。助けてくれと泣いた寒村の老人の期待にも、応えられるはずだ。
 だが、約束がある。片想いとはいえ、愛する人との約束がある。
 西門豹は、彩の横顔を見た。
 彩はわずかばかり背伸びして、遠く河面を見つめている。おくれ毛が風になびき、頬骨の上で目まぐるしく揺れながら風の模様を描く。今にも龍神が黄河から飛び出してくるのを待ち望んでいるようだ。
 ――さっき自分が見たのと同じように、彼女にはなにかが見えているのだろうか。
 西門豹は、ふとそんなことを思い、
 ――ここで送り出さなかったらどうなるのだろう。
 とも考えた。
 もし彩を妻に迎え、二人で幸せに暮らせるのならそれに越したことはない。二人の子を育て、平凡な家庭生活の幸福を得られるのなら、満足すぎるほどだ。だが、そんなことをすれば彩の輝きは消えてしまうだろう。この世にたった一つしかない宝石のような輝きは、いくばくも経たないうちにただの石ころへ変わってしまうだろう。彩は、どんな彩であるかを選べない。大巫女となるべくして生まれ、大巫女となるべくして育った。それが彩の宿命で、その宿命が十九歳の彩を形作った。そんな彩から巫女の使命と言葉を奪ってしまえば、彩は彩でなくなってしまう。西門豹が好きになったのは、神々と人間を取り結ぶ巫女としての彩であり、巫女として世俗の人々とともに生きる彩だ。
「誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」
 あの夜の彩の言葉が耳の底で響く。
 ――進むべきは光の射す方角だ。その人の理想とする方向だ。彩が彩であるためには、あくまでも巫女でなくてはならない。河伯に寄り添わなくてはならない。そうさせてあげるのが自分の責任というものだろう。
 視線に気づいた彩がふと西門豹へ向く。好きな人だけをただ想い、心ここにあらずといった様子で、あどけなさすら目許に漂っている。彩は西門豹の強いまなざしに驚いたようで、少しばかり首を傾げた。西門豹は彩へ歩み寄り、
「世俗の者は河伯様と話ができないのかもしれない。大巫女殿、すまないが行ってきてくれ」
 と、厳かに彩を見つめた。彩の潤んだ目に、息を凝らした西門豹の顔が映る。瞬間、西門豹の姿が水面を乱すように揺れた。ふっと、彩の瞳が燃え上がる。
 彩の全身から、あの夜と同じ、なにもかもを忘れさせるくるおしい色香が立ち上る。月の光を浴びた紅蓮《ぐれん》の香りに似ていた。妖しく激しいその香りは神だけが放つ香気なのだと、西門豹はようやく気づいた。彩は間違って人間に生まれた神なのだと、ようやく悟った。
「行って参ります」
 一揖した彩は龍の棲む河へ歩む。白絹の長い袖を風にはためかせ、ただ穏やかに、ただ静かに、ひっそりとした喜びに満たされた花嫁のように。
 西門豹は、ほとんど閉じたように目を細めた。まぶたの端に幾筋もの厳しい皺が寄る。くぼんだ眼窩の底に涙がにじんだ。
 取り澄ました彩。熱っぽく語る彩。あどけなく笑う彩。怒る彩。思い出が西門豹の脳裏を駆けめぐる。西門豹は、神が神々の世界へ戻るだけだと自分を諭した。
 黄土色の波が彩の足元を洗う。裳裾《もすそ》が濡れる。
 彩は、きらめく波間へ分け入った。
 長い黒髪が浮き草のように広がったかと思うと、体がふわっと流れに浮く。濡れた絹越しに、横へ広がったたわわな乳房と朱鷺色《ときいろ》の乳首が透ける。波が白い顔を洗う。
 彩はへその下あたりで両手を組み、柔らかく目を閉じた。微笑んでいるようだ。
 不意に、河面が泡立ち、大きく渦を巻く。
 女神が消えた。




(エピローグへ続く)


『西門豹』 (第5章 -1)

2011年04月21日 07時13分10秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 西門豹は、人が変わったように愛想よくなった。
 とりわけ、賄賂を贈りにきた有力者を迎える時は上機嫌に振舞った。
 張敏は西門豹の演技がわざとらしいのでもっと自然にふるまったほうがいいと助言したが、有力者たちは誰も疑わない。目先の利害だけで付和雷同する俗物は、人の本心よりも得られる利益しか目に入らないのだろう。受け取った金品は厳重に封をして、いつでも送り返せるよう蔵へしまった。
 賄賂を取り、便宜を図れば図るほど、市場での西門豹の評判は高まった。西門豹が睨んだ通り、三老の配下が世論を操作していた。つまり、なあなあでうまく付き合うなら居心地よくいさせてあげますよ、ということだ。西門豹は虫酸の走る思いだったが、しばらくの辛抱だと自分をなだめた。
 毎日申《さる》の刻(午後四時)に仕事を切り上げ、一切の面会を謝絶して県庁の裏庭で弓を引いた。息を整え、なにも考えず、的も見ないで弓を引く。一日の中で唯一息を抜ける時間だった。日が暮れる頃にはたっぷり汗をかき、気持ちも発散して傾いだ心の平衡がいくらか元へ戻った。
 だが、それで気持ちがすべてまとまるわけではない。
 彩とは距離を置き、会わなかった。
 一度、彩のほうから会いたいと使いの者をよこしてきたが、西門豹は断った。会えば決心が鈍る。未練に引きずられる。それを恐れた。用件のある時は張敏に竹簡を持たせて連絡を取った。近頃、彩が日毎城内へきては人身御供にする娘を探しているとの消息が耳に入り、一目でよいから姿を見たいと心が疼《うず》いたが、西門豹は己を抑えて見に行かなかった。
 李駿からの書簡が届いた。
 文侯の裁可が下り、万事滞りなく極秘裏に準備を進めているという。文侯は全面的に西門豹を支持し、すべて西門豹の計画通り実行するようお墨付きを与えてくれたとも書いてある。
 喜ぶべきことだが、西門豹はなんの感慨も湧かなかった。ただ事実を確認したにすぎない。
 なにかが思考をとめていた。そして、桎梏《しっこく》となっているなにかを西門豹は明瞭に把握していた。恐ろしい考えが胸をしめつける。だが、わざと自分の心の動きを無視し、あえて考えないよう努めた。
 河伯祭の費用を例年通り徴収した。
 徐粛に求められるまま慣例に従って県庁の役人を派遣した。徐粛は前年より多めに集めたいと言ってきたが、西門豹は三老殿の専管事項なのでこちらが口を挟むことではない、好きなようにされればよいと返事した。市場での西門豹の評判は一層高まった。
 ほどなく人身御供が決まり、その翌日、早速結納式を執り行なうことになった。河伯祭の十二日前だった。徐粛がやってきて、大事な儀式なのでぜひ出席して欲しいと請う。西門豹は、業務の多忙を理由に固辞し続けた。押し問答を繰り返してやっと追い返したと思ったら、徐粛はすぐに催促の使者を寄越してくる。使者は、西門豹が参列しなければ徐粛の面子が立たないと泣き口上を並べ、ついには、西門豹が諾《う》と言わなければ自分は首にされ、家族が路頭に迷うなどと泣き落としにかかる。徐粛が彼にそう言わせているのはわかっていたが、仕方なく参列することにした。
 人身御供は、土間一間、部屋一間の長屋に住む貧しい家の娘だった。
 西門豹は徐粛の配下に案内され、下町の路地へ入った。
 路上に張った天幕に賓客が並んでいる。人をそらさない愛想笑いを浮かべた徐粛が西門豹を迎え入れる。二人の関係は表向き良好だった。少なくとも、徐粛はそう思いこんでいるようだ。西門豹が巫女の村から帰った後、徐粛はすぐに県庁に現れ、「雨降って地固まると申します。これからは仲良くやろうではありませんか」と西門豹の手を握ったものだった。
「西門様、何度も催促して申し訳ありませんでしたな。ですが、我々は仲間です。これからは些細な行事に思われても、どうか面倒くさがらずにぜひ参列していただきたい。儀式に参加すれば、それだけ絆《きずな》が深まります。それでこそ、我々は本当の仲間になれるのですよ」
 徐粛は目尻に皺を寄せ、人懐っこく目配せする。西門豹は軽い微笑みを作り、
「ええ、これからはそういたしましょう。ご忠告感謝します」
 と、頭を下げた。
「そう固くならずともよいではありませんか。今日はめでたい日ですぞ」
 徐粛は、西門豹の肩を叩く。
「ところで、龍神の許嫁はどのような娘なのでしょうか」
 西門豹は訊いた。
「さあ、わかりませんな。人選は彩様にお任せしております。私も今日初めて見るのですよ。どうしてまた」
「なんとなく興味を持ったものですから」
 西門豹は、彩が選んだと聞いて安心した。徐粛が邪魔しないのであれば、彩は打ち合わせ通りことを進められたはずだ。
「毎年、見目良い娘を選ぶことになっております。彩様はしきたりを熟知しておられますから、間違いないでしょう。――なるほど、西門様もそちらに興味があるのですな。いくらでもご紹介しますぞ。そうだ、ちょうどいいお相手がおります。大店の娘で、それは都人形のような雅な顔立ちをしておりましてな、この町で一番の器量良しと評判なのですよ。おまけに瑟《しつ》(琴の一種)がことのほか上手でして、合奏会があるたびに若い衆が押しかけます。彼女を追いかけている者は多いとか。河伯祭が終われば一つ話をしてみましょう。所帯を持ってもいい頃ではありませんかな」
「結構なお話ですが、私はまだ未熟でして妻を娶れるほどではありませんので」
「またまた。なんでしたら、私が都へ行って西門様のご両親を説得しましょう。ご両親もきっと喜んでくださるはずだ。この町の者を娶れば、それだけ結びつきも深くなるというものです。お互いにとっていい話ではありませんか」
 西門豹の渋い顔を知ってから知らずか、徐粛は高笑いする。
「じいじい」
 三つくらいの男の子が走ってきた。徐粛は相好《そうごう》を崩し、立ち上がる。徐粛の孫だった。退屈で迷惑な話から逃れられ、西門豹はほっと胸をなでおろした。徐粛は、高く抱き上げて孫をあやす。男の子ははしゃぎ、
「おひげ」
 と、徐粛のあごひげを軽く引っ張り、無邪気にじゃれる。
「じいじいのおひげが好きか」
 徐粛は目尻を下げ、子供のように笑う。その姿はどこにでもいる好々爺だった。市井《しせい》の老人となんら変わるところがない。この老人はこうして晩年の最後を楽しんでいるのだと、西門豹はふっと感じた。
 のびやかな囃子《はやし》が聞こえる。笛と二胡《にこ》の音が鳴り、鉦《かね》が景気よく響く。
 路地向こうに紅い儀礼服で揃えた楽隊が現れた。楽隊は門を行き過ぎたところで止まり、向きを変えて隊列を整え直す。
 彩が伏し目がちに歩いてきた。
 西門豹は、他の賓客と同じように頭を垂れた。小花模様を散らした白絹の履《くつ》が通り過ぎる。小さな履だった。着物の裾がはだけ、白いくるぶしが陽光を照り返す。あの夜、西門豹がいたわるようにさすったあのくるぶしだった。履は西門豹の前でふと歩みを緩め、ほとんど止まりそうになったかと思うと、意を決したようにまた歩み始めた。
「どうなされました。顔が赤いですぞ。具合でも悪いのですかな」
 徐粛にささやかれ、西門豹はどきりとした。陽に焼けた頬にさした赤味が一層増す。頭が痛み、そっとこめかみを押さえた。
「いささか暑いものですから」
 苦し紛れにそう答えた。
「暑い? 確かに暑いかもしませんな。ですが、大切な儀式の途中ですぞ。辛抱なさっていただきたい。じきに終わります」
「わかっております」
 西門豹は脂汗を垂らした。握りしめた拳が震えていた。
 小巫女の列を追って、四人がかりで舞う龍の灯籠《とうろう》が門をくぐる。荷車を牽いたこぶ牛が止まった。
 牛車は狭い路地いっぱいに連なっている。二十台ほどあるだろうか。どの荷台にも山盛りの荷物を載せ、紅い幕をかけてある。結納の品々だった。名工が制作した家具一式、越《えつ》の国から取り寄せた珊瑚細工などの装飾品、楚の国で産する最上級の絹の反物、青銅貨幣でふくれた麻袋、この町のどんな金持ちでも用意できそうにない様々な品が詰まっている。
 結納が終わり、喜びを祝う囃子が高らかに鳴った。思わず踊りだしたくなるような軽快な拍子だった。
 河伯の許嫁が現れる。
 人身御供はおろしたての紅い綾絹の衣裳を身にまとい、薄い絹布を頭から被っていた。顔も表情もよく見えない。ぎゅっと張りつめた絹の太股あたりに、雨の降るようなしみが浮かぶ。涙が落ちていた。
 西門豹は頬を苦味走らせ、憤慨とも溜息ともつかない息を漏らした。紅いベールの向こうに、彩の白い顔が見え隠れする。心なしか彩の頬はやせたようだ。それがいくぶん、彩を大人びて見せた。西門豹は再び息をついた。
「どうなされました」
 徐粛はうるさく訊いてくる。
「あの年端《としは》も行かない娘が龍神に嫁ぐのかと思うと、空恐ろしい気がします」
 西門豹は、本心を気取られないようとっさに言い繕った。
「恐ろしいと言えば恐ろしいことです。しかしですな、あの娘が嫁がなければ、もっと恐ろしいことが起こるのですぞ」
「重々承知しております。ですから、私もこうして参列しているのです」
「――そういうことですか。水臭い」
 徐粛ははっとした顔をして、西門豹に耳打ちする。
「彩様をご所望なのですな」
 西門豹は、面差しを硬くした。
「まさか」
「お声が高い」
 徐粛は、口に人差し指を当てる。
「我々の仲ですぞ。遠慮なさらずともよいではありませんか」
「そのようなことはありません」
「おせっかいなじじいと思われるかもしれませんが、西門様の嫁探しとあってはおせっかいを焼かずにはおられませんよ。――そうですな。大巫女様を娶るというのは、なにぶん前例のないことですので多少手間がかかるかもしれませんが、やってできないことではございません。なに、彩様を俗人に戻せばいいだけの話ですよ」
「徐粛殿、勘違いなさらないでいただきたい」
 西門豹は、吐き捨てるようにきつく言った。
 徐粛の提案に心が揺れないわけではなかった。彩を手に入れるためなら手段を選んではいられないとも、ふと思った。徐粛と手を結べば、この町でできないことはないだろう。だが、それは自分が許さなかった。ただ、己が許さなかった。
 徐粛に促され、西門豹は立ち上がった。
 不憫な娘はこれから黄河のほとりに建てた斎宮《さいぐう》(斎戒する家)へ移り、彩が毎日通って許嫁の身を祓い清める。西門豹は、徐粛と並んで行列の後についた。徐粛は、しきりに彩を娶らないかと勧める。是が非でも西門豹と地元の女を結び付けたがっているようだ。西門豹はろくに返事もせず、くぼんだ眼窩の底の目を半ば閉じ、瞑想にでもふけるような面持ちでゆっくり歩いた。
「しょうがありませんな。河伯祭の後でまた酒でも飲みましょう」
 徐粛は、機嫌を損ねたのではないかと気懸《きがか》りな風に西門豹の顔を覗きこむ。
「そうしましょう」
 西門豹は、気のない風にぽつりと言った。徐粛は、安心したように下卑《げび》た作り笑いを浮かべる。
 ――河伯祭の後はない。
 厚い唇を真一文字に結んだ西門豹は、獲物を見定めた狩人のような目つきになり、ふっと顔を上げた。



(続く)


『西門豹』 (第4章 - 2)

2011年04月19日 07時19分43秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
「一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
 巫女の村の広場を横切りながら、ためらいがちに彩は問いかけた。夜の帳《とばり》が天蓋《てんがい》に降り始め、宵の明星がひときわ明るく輝く。春の夜の肌寒い風が吹いている。西門豹は、その冷たさをかえって爽快に感じた。
「なんでも訊いてくれ」
 ――彩殿といれば、なんでも快いのかもしれない。
 そんなことをふと思い、西門豹は目を瞬《またた》いた。
「西門さまは本当に河伯祭をやめさせるおつもりだったのでしょうか」
「嘘だ」
「よかった。やっぱりそうだったのですね」
 心の重荷から解き放たれたのか、彩ははしゃいだ風に肩を揺らす。
「噂を聞いて妙な気がしました。西門さまがそんな悪いことをなさるかただとは、どうしても思えなかったものですから。西門さまが皆のことを考えてくださっているのは、よくわかっていますもの。実を言うと、今日はどきどきしていたのです。西門さまにもしものことがあったらどうしようって心配でした。三老様も大慌てだったのですよ。怒ってひどいことを言ってしまったけど言い過ぎたって、皆があれほど怒るとは思わなかったって、そうおっしゃっておられました。それで三老様に頼まれて、わたくしは必死で皆を止めようとしたのです。うまくいってほっとしました」
「今日のところはな」
 西門豹は唇を噛んだ。彩は、自分が徐粛の奸計《かんけい》に乗せられているとは思いも寄らないようだ。彩の純真を利用した徐粛が腹立たしかった。
「あら、心配しなくても、もう大丈夫ですわ。西門様がしきたりを守るとおっしゃったのを聞いて、皆大喜びでしたもの。もちろん、わたくしも嬉しかったですわ」
「そのことで話がある。大事なしきたりは守るが、二つ改めたいことがあるのだ。一つは、今日民へ告げた河伯祭の費用徴収をやめること。彩殿だからすべて話そう」
 西門豹は、思い切って三老と有力者たちが行なう搾取について語った。話が進むほど、彩はやるせなく背中を丸め、目を潤ませた。
「先代の大婆さまは五六年前から急に欲深くなられたので、どこかおかしいと感じていたのですが、そんなことになっているとは知りませんでした。皆が苦しんでいるのですね。罪を犯している気がします」
「自分を責めなくていい。黒幕は徐粛だ」
「三老様はやはりよくないかたなのですね。半分本当で半分嘘のような笑い方をするので、どこかなじめないものを感じていました。それに、今日の鎮魂祭だって無理やりでしたし。わたくしは、心の中で河伯さまに謝りながら祈祷を上げていたのです。なにか、わたくしにできることはないでしょうか。皆がかわいそうでなりません」
「彩殿はこのような俗事に関わらないほうがいい。下手をすれば、民が悲しむようなことになるかもしれない。相手は老獪《ろうかい》だ。謀《はかりごと》をめぐらして、大巫女の権威を傷つけ、今日の私のように民が敵に回るように仕向けてこないとも限らない。民は皆、彩殿を慕っている。民にとって、彩殿は希望の星だ。彩殿が民をいたわるからこそ、この町の民はこのような悲惨な状況でもまだ望みを失わないでいられる。民は彩殿にすがるしかない。大巫女が民を失望させるわけにはいかないだろう」
「――そうかもしれません」
 彩は、考えこむようにして頷く。
「おっしゃるとおりですね。わたくしが皆を悲しませてはいけませんね」
 彩は、大巫女の機能と役割をしっかり把握しているようだった。精神的な拠り所になることこそ、最大の使命だ。それは鄴(ぎょう)という小宇宙の大黒柱と言っても過言ではない。とはいえ、口調こそはっきりしているものの、彩の顔にはかげりがあった。浮かない手つきで頬に掌をあてがう。
「彩殿はえらいな」
 西門豹は、励ますつもりで言ったのだがふと気づき、
「いや、すまない。子供扱いしたのではない」
 と、慌てて謝った。巫女の村で育った彩は、大巫女の役目など自然に理解しているはずだった。西門豹よりもずっと肌身にしみて。それが心の核をなすほどに。
「嫌ですわ」
 気にする風もなく彩は言った。
「わたくしはもう大人です。河伯さまがお望みなら、お嫁にだってゆけます」
「お嫁か」
「もう十九ですもの」
「その人身御供だが、むごい風習だと思う。生身の人間を差し出すのはいかがなものだろう。娘の代わりに人形を差し出すところもあると聞く。そうできないものか」
「それはいけません。人形で済ますなんて、身勝手もいいところです。神々を辱めるふるまいです。人はあるがままからいろいろなものを頂戴しているのですから、受け取った分はお返しをしなくてはなりません。妻を差し出すのは当たり前でしょう」
「人身御供になる娘や家族の身になって考えて欲しい。どれだけ嘆き悲しむか」
「わたくしは羨ましいくらいです。できることなら、代わってもらいたいほどです」
 彩のまなじりがかすかに吊り上がる。その表情には、人身御供への嫉妬がない交ぜになっている。西門豹は、説得の方法を考えたうえであたらめて話したほうがよいだろうと感じた。
 社殿《しゃでん》へ上がった。
 彩は、馬と樹木の彫刻を一面に施した重い木の扉を開ける。
 西門豹の肌がこまかく震えた。
 暗闇に濃密な気配が漂う。鬱蒼《うっそう》とした森へ分け入った時に感じるような、蠢くものたちの生々しい息吹と肌に突き刺す厳しい視線を感じる。香草の匂いだろうか。むせかえるほどの清冽《せいれつ》な香りがした。彩は闇の中を歩き、手慣れた様子で火を点《とも》す。
「龍でも出てきそうだな」
 と、西門豹がつぶやいた時、龍神の木像が浮かび上がった。
 頭は高い天井へ届き、力強く肢体《したい》をくねらせている。人を容易に寄せつけない王者の気品がある。燭《ともしび》が揺れ、光と影が龍神の顔に揺らめく。龍の木像は生命を孕んでいるようにさえ見えた。心臓の鼓動まで聞こえてきそうだ。
 一筋の汗が西門豹のこめかみから流れ落ちる。なぜか、動悸《どうき》が早まる。今までに味わったことのない緊張感に胸を締めつけられたが、
「化けて出てくるなら、その時はその時だ」
 と、小刀で掌を切って器へ誓約の血を落とした。彩は、その血を龍神に供える。
「西門さま、始めましょう」
 祭壇の前に彩が坐り、西門豹はそのすぐ真後ろに坐った。彩は低く祝詞を上げだした。
 短い休憩を何度か挟み、深夜におよんだ。
 西門豹は、ただ彩の声明に聴き入った。星まで届きそうな美しい声だった。声明のシャワーが凝り固まった神経の隅々までを解きほぐす。特効薬を入れた薬湯にでも浸かっているようで、今日の屈辱も、心に溜まった澱《おり》も穢れも、きれいさっぱり洗い流してくれる。
 そのうち、のぼせたように頭がぼおっとなり、この世のものとは思えない心地良さが身を包んだ。彩の声が荘厳なあの世の調べのように聞こえる。研ぎ澄まされた感覚が線香の灰の倒れる音まで聞き分ける。西門豹は、眼を閉じたままどこまでも澄んだ清らかな池を想い浮かべ、心の中に描いた水面を見つめた。
 ふと、なにかの前触れのように水面がさざめいた。
 白い閃光が走り、水中から二本の角が生える。棍棒《こんぼう》のような角だった。その内側に馬のような耳がぴんとそそり立ち、あたりの気配を探るように傾く。
 ――来たか。
 西門豹は心の内でつぶやき、気力が全身へ行き渡るよう深く息を吸った。怖くはなかった。驚きもしなかった。会わなければならないような、そんな気がしていた。
 一抱えもありそうな大きなあぶくが浮かんだ、と思う間もなく、ざあっと滝の落ちるような轟音とともに龍が現れた。怒っているのか、脅かしているのか、人くらいなら簡単に突き刺してしまいそうな鋭くとがった歯をむき出しにしている。長く伸びたあごの下から、水がしたたり落ちる。顔も体も銀の鱗で覆われていた。鱗は真夏の白日のように輝き、その質感は硬く、鉄の鎧よりも頑丈そうだ。瞳は赤。強いまなざしは、社殿へ入った時に感じたあの厳しい視線だった。なにものも見逃さないとでも言いた気なその目つきは、神々の王にふさわしい威厳に満ちている。龍はどっしりとした尾を振り、水面を叩きつける。爆薬が炸裂《さくれつ》するようにしぶきが飛び散る。龍の顔が西門豹の鼻先まですっと伸びてきた。
 西門豹は、眉一つ動かさずさっと拳を握った。
 片膝を立てながら張りつめた弓のように素早く右腕を引き、拳の礫を鼻っ面へ殴りつける。
 一瞬、西門豹の頬はひきつけを起こしたように歪んだ。
 銀の鱗は、へこみもしなければかすり傷もつかない。龍神の顔つきもびくともしない。西門豹は落ち着き払って拳を収め、また正座した。
 龍神は、ぶるっと息を吐く。生温かい風が西門豹の顔に吹きつける。龍の息は、宮殿の宝庫にでもしまわれていそうな西域渡来の気高い香木の香りと、生肉を喰い生き血をすする猛獣の強い匂いが入り混じっていた。
 西門豹は、すべてを見通すような赤い眼を無心に見つめ続けた。
 龍は黙して語らない。
 厳しい父のようだった。
 どのくらいそうしていただろうか。
 風に揺れるように、ふわっと龍のひげが動く。柔らかい柳の枝のように波を描く。
 我知らず、西門豹の背筋が反り返った。混じり気のない歓喜が背中を走り抜ける。
 龍は、険しく見つめながらも自分の存在を肯定している。いや、肯定するからこそ見つめるのだ。その視線が混沌《こんとん》とした己の心にまとまりを与え、そうして心の底を支えてくれている。いつか彩が語っていたことの意味をようやく識《し》った。
 龍の姿が赤くぼやけた半透明の光へ変わる。西門豹が見とれているうちに、龍の形をした光は、光の粒の集合体となってDNAのような美しい二重螺旋《にじゅうらせん》の鎖へ変化し、きらきらと神々しい輝きを放ちながらゆっくり回転する。光子の連鎖は徐々に移動して異相の大男を取り囲んだ。
 西門豹はまっすぐ顔を上げ、発作でも起こしたかのようにまぶたを痙攣《けいれん》させる。だが、その表情に苦しみは見られない。むしろ、澄みきった喜びにひたり、なにかへ向かって祈りを捧げているようだ。光はすっと西門豹の体内へ入った。
 河が、森が、山が、空が、ありとあらゆる自然の形象が西門豹の脳裏へなだれこむ。意識は、己が龍であり、龍が己だった。神と人間の二つの精神が融合し、矛盾なく調和していた。不思議で、それでいて自然だった。
 体が浮いた。
 少なくとも、西門豹はそう感じた。
 一直線に舞い上がる。凄まじい速さだ。
 ――ぶつかる。
 下を向いた西門豹は、社殿の床に坐っている自分の体を認めた。肉体という牢獄から解き放たれた西門豹の魂は、龍神と一つになった魂は、森の神々を描いた社殿の天井を通り抜けた。
 全身に気がみなぎる。だが、力が溢れるようで、どこにも力みはない。
 原生林をかすめ、荒野を越え、青白い月が波間に揺れる黄河へ飛びこんだ。
 水は刺すように冷たく、刺すように熱い。それが無上に心地良い。夜空から忍びこむわずかな光が泥水の中で乱れる。埃が舞うようにも、星が瞬くようにも見えた。波の調べが西門豹を優しくつつむ。まるで揺り籠で揺られているような安らかな想いがじわりと胸に広がった。
 激しい泥の流れをさかのぼる。大小の魚が眼前に現れてはさっと流れ去る。河の蛇行に合わせて自然に向きを変える。目の前の視界がほとんどきかないのにもかかわらず、どこがどう曲がっているのか遠い昔から住んでいるように肌で知っていた。
 やがて、河面へ躍り出たかと思うと、しなやかに右旋回して森へ入った。木々の間をすり抜け、自由自在に翔びめぐる。
 真夜中の森は賑やかだった。
 虫たちが交尾の相手を求めてかまびすしく鳴きすだく。それをとかげが貪り食う。むささびやこうもりが樹木を飛び交い、その下の草叢《くさむら》では狼の群れが猪を追いつめる。眠っていた鹿が気配に驚き、慌てて立ち上がる。突然、茂みから虎が躍り出て、鹿の喉笛に咬みつき押し倒す。虎の口が血で染まる。
 死に逝く個体も、生き永らえる個体もいる。だが、全体として森は息づいている。動物も植物も虫も微生物も、喰らい喰らわれ繰り返し生き続ける。一つの命が死に絶えたように思えても、それは錯覚にすぎない。生命は互いに取りこみ取りこまれながら、繰り返し生き続ける。流転を重ね、繰り返し生きる。それが生の本能だ。それが生の本質だ。彩の言うあるがままは流転そのものだと識った。流転する限り、死はない。すべての流転が止まった時初めて、虚無という永遠の死が訪れる。西門豹はどこか安堵感を覚え、その流転を護ることこそが龍の使命だと悟った。
 行く手に、樹齢三千年は下らないと思える柏の大木が立ちはだかる。十人がかりでも取り囲めなさそうな太い幹が伸びている。下草すれすれから直角に向きを変えた西門豹は、幹に沿って上を目指した。枝がしなり、葉が揺れる。葉擦《はず》れが鳴り渡る。
 視界が開けた。
 漆黒の海のような夜空に満天の星が浮かんでいる。
 気流を切り裂き、どこまでも垂直に上昇する。何層にも重なった薄い雲を突き抜ける。ひたすら天の川を目指した。ふと振り返ると、曲がりくねった黄河と黄土平原が遠ざかる。瞬く間に青い地球が遠ざかる。
 星に手が届いた。
 そう思った瞬間、無数の星が一斉に弾けた。
 光が逆巻き、なにも見えない。
 光線が入り乱れ、弾け合い、溶け合う。
 やがて、霧が晴れるように光が薄らいだ。
 ゆっくりと回転する渦巻き状の銀河が広がっている。
 ぽっかりと穴の開いた中心から、いくつもの光の筋がゆるやかな弧を描いて伸びる。長い光の尾が揺れて瞬く。まるで、小川の表面いっぱいにガラス玉を流し、夏の光を当てたようだ。
 深くふかく息を吸った。
 すべての感覚が消え去ってゆく。
 清浄な真理がエネルギーの流れとなって心をほとばしる。あともう少しで、宇宙の奥深くにひっそりとたたずむ最も大切なことを掴めるような気がした。相対性の連鎖を抜け出し、あらゆるものを見渡せそうな、そんな気がした。
 ふと、甘露の滴の落ちる音が響く。
 耳の底で不思議なこだまを残す。
 誰かが呼んでいる。
 西門豹は目を開けた。
 目の前の彩が神がかりになっていた。感極まった恍惚が妖しく鳴る。
 彩は、上半身を折り曲げては激しく跳ね起こす。ぐっしょりとした衣が背中に貼りつき、白い肌が透けていた。濡れ光る長い髪が振り乱れ、汗が飛ぶ。汗の滴が西門豹の唇に張りついた。味は熟れた梅のように甘酸っぱい。
 不意に、血が沸き立つ。
 抑えようもない感情の熱波が全身を駆けめぐる。
 鼻の穴を大きく開いた西門豹は、続け様に音を立てて息を吸った。異様なほどの汗がどっと噴き出て、くぼんだ眼窩の底の目が血走る。
 後ろから彩を抱きしめた。
 火照った温もりが心を満たす。まぎれもなく、宇宙を抱きしめていた。
 まるで焼き鏝を当てたように、一瞬、炎が心の臓を貫く。
 なにもかもが終わった後、西門豹は寝転がった。朦朧《もうろう》とした意識の中、白い龍が天井へ駆け上る様をぼんやり見送った。
 すすり泣きが聞こえる。
 彩は豊満な白い曲線をあらわにしたまましゃがみこみ、顔を覆っていた。散らかった衣を拾い上げ、彩の肩へかけた。彩は、西門豹の胸を拳で叩く。彩の哀しみが胸に響く。
「妻になってくれ」
 西門豹は、そっと抱きしめた。
 大巫女の彩を娶《めと》ろうとすれば、実際上様々な問題が起きることは、容易に想像がついた。築き上げた地位もなにもかも失いかねない。それでもかまわなかった。
「彩殿さえいてくれれば、すべてうまく行く」
「できません」
 彩は、西門豹の胸で頭を振る。
「彩殿を悲しませない」
「わたくしは河伯さまへすべてを捧げた身です。西門さまであれ誰であれ、人へ嫁ぐことはできません」
「苦しいのだろ」
 西門豹は、彩の額にまとわりついた細い髪を指先でかきわけた。彩は、こらえきれないように衣を握りしめ、
「西門さま、どうか、わたくしを河伯さまの許へ送ってください」
 と、震える声で心の切っ先を突きつける。
「わたくしは耐えてきました。ですが、もうこれ以上がまんできません」
 なにも言えず、西門豹は龍神の像を見上げた。木像は、冷ややかに西門豹を見下ろすだけだった。
 強く抱きしめた。離したくない。だが、彩の体は西門豹の心に応えない。空蝉《うつせみ》を抱くようだった。西門豹の腕に抱かれながらも、彩の心はよそを見つめているのがありありとしていた。砂時計の砂が落ちるように心が崩れる。想いの粒が落とし穴へ吸いこまれた後、むなしさだけが残る。
 ――龍神には勝てないか。神から彩殿を奪おうなど、初めから無理だったのだ。素直に負けを認めるしかないな。
「人身御供にでも送れと言うのか」
 つぶやいた瞬間、ある考えが西門豹の脳裏をかすめた。それは行政官としての冷徹な計算だった。彩の希望を叶え、自分の目的も達成できる一石二鳥の計画だった。
「わかった。彩殿を送り届けよう」
 閃いた考えを良心の秤へかける前にそう答えていた。彩はこくりと頷く。
 ――正しいかどうかはわからない。本来なら、そんなことをすれば民が悲しむと言うべきだ。だが、そうするよりほかにない。
 西門豹は、そう自分に言い聞かせた。
 遠雷が鳴る。
 土砂降りの雨の音が寒い社殿に響いた。



(第5章へ続く)


『西門豹』 (第4章 - 1)

2011年04月16日 22時45分55秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 山が崩れる。
 そんな轟《とどろ》きだった。
 山鳴りに追われるようにして、裾をからげた張敏が執務室へ転がりこんできた。
「暴動です。暴徒が押し寄せています」
 張敏は、うわずった声を上げる。
 西門豹は、慌てずに張敏を連れて門楼へ向かった。門楼は、小さな城市の役所にしては立派すぎるほどの構えだった。弓形の隧道を穿った石造りの門の上に二層の物見櫓《ものみやぐら》が載っている。二階の露天回廊へ出て、胸の高さの外壁に手をついた。
 暴徒は荒れ狂った波だった。大通りまで埋め尽くし、押し合いへし合いになりながら殺到する。彼らは、徒手で門を押し開けようとしていた。
 熱泉が噴き上がるように、そこかしこから怒号が沸き上がる。最低限の生存条件さえ満たされない、行き場を失った人々のくぐもった怨念がこもっている。無実の罪で餓鬼地獄へ落とされた亡者たちの阿鼻叫喚《あびきょうかん》にも似ている。
 西門豹は拳を握った。
 みなぎった手の甲に青く太い静脈が浮き上がる。
 これほどまでに痛ましい叫びを聞いたことがなかった。声高に叫ぶ民《たみ》をよく見てみると、暴徒というよりもむしろ、逃げ惑う難民の群れのようだった。あまりにも粗末な服装がそう思わせるのかもしれない。
「むごい」
 西門豹は激しく憎んだ。いくら憎んでも飽き足りなかった。この群れのどこかにひそんでいるはずの扇動者を。人々をここまで追いつめた犯罪者を。しかし、感情に身を任せたのではまともに戦えない。韋《なめしがわ》を一揉みして、さっと気持ちを切り換えた。
「探したよ」
 李駿が背後から西門豹の肩を叩いた。急いで走ってきたようで息が乱れている。
「あいつらは鎮魂祭から流れてきたんだ。偶然通りかかってさ、彼女がどうしても見たいってせがむもんだから、冷やかし半分で見物したんだけど――」
 李駿は、鎮魂祭の模様を語った。
 儀式は、厳粛かつ円滑に進んだ。
 急ごしらえの祭壇の前で鶏や牛などの生贄を屠《ほふ》り、彩が祝詞《のりと》を上げ、巫女が唱和する。祈り声の響く中を有力者と民が替わる替わる礼拝を捧げた。
 型通りの儀式が終わり、徐粛の計らいでワンタン汁がふるまわれた。李駿も彼女と一緒に舌鼓を打った。豚骨の出汁がよくきいていて美味だった。お替りを頼もうとした時、徐粛が演説を始めた。
 初めは目立ちたがり屋の顔役がしゃしゃり出てきたといった塩梅《あんばい》で、とくに変わったこともなかったのだが、突然、
「我が町を破滅させる者がいる」
 と、切り出し、西門豹が河伯祭の中止を目論んでいると語った。民衆は、不安などよめきをあげた。
 稲妻よりも速く駆け抜け、すべてをなぎ倒す奔流《ほんりゅう》。逃げるいとまもなく、なにもかもが一瞬にして沈む城市《まち》。濁流に押し流される家屋の残骸。泥水を飲んでもがきおぼれる人々。音もなく静かに浮かぶ家畜の屍体。ようやく水が引いた後に姿を現す破壊しつくされた廃墟。生き残った者は誰もいない。例の俗諺を繰り返し強調しながら、徐粛は巧みに大洪水の形象を描き出し、この世の終わりの風景を人々の脳裏に刻んだ。
 悪霊に憑かれたように、群衆が不気味に揺れだした。誰もが、龍神に無礼をはたらき、決定的に怒らせてしまうことを恐れた。勢いづいた徐粛は西門豹批判を繰り広げる。煽られた民は次第に熱を帯び、西門豹のせいで破滅させられてしまうと信じこんでしまった。
「これから県庁へ押しかけて抗議する」
 徐粛の一声で群衆が沸騰した。一斉に走り出した。皆逆上していた。
「手品みたいだったよ。まるで集団催眠だ」
 李駿は、信じられない風に首を振る。
「矛盾」
 張敏は、理解できないとつぶやく。
「なにがだ」
 西門豹は訊いた。
「民は河伯祭の費用徴収で苦しんでいるのですよ。私が聞いた限りでは喜んで費用を納める者など一人もいません。口を開けば、あれさえなければ暮らしが楽になるのにとこぼします。それなのに河伯祭を続けろとはどういうことでしょうか」
「河伯祭の中止まで望んでいないのだよ。もともと龍の実在を信じていたところへ、今回はその証拠の化石まで出てきた」
 西門豹は、群衆を見渡しながら言った。逆立った濃い眉を少しばかり吊り上げ、ただ冷静に眺めている。
「あれは贋物ではありませんか」
「民は本物だと信じている。贋物であろうとなかろうと、本物と思いこめば、それが彼らにとっての真実になってしまう。この地は長年洪水に悩まされているのだ。あんなものが出てきて、皆畏《おそ》れたと思う。もっと酷いことが起こりはしないかとね。だが、龍は洪水を起こすだけではなく、雨も降らせる。龍がいなければ雨は降らない。旱《ひでり》では農作物は育たない。洪水を起こされる恐怖と雨をもたらしてくれる期待、この二つの相反する感情を龍に対して抱いているのだよ。いずれにせよ、龍と共に生きるしかない。だから、河伯祭は欠かせない。徐粛はそこへつけこんだのだ。本当に嫌なら、負担に耐えかねてとっくの昔に暴動が起きたはずだ」
「そうだとしても、なんで西門様が民を破滅に追いこもうとするのですか。的外れです」
 張敏は、若さに任せて愚直に憤った。
「悪い噂が飛んでいたんだろ。豹が役所の中で悪いことばかり企んでいるんだろうくらいにしか思っちゃいないさ」
 李駿が唾を吐く。
「あいつらにしてみれば、豹がどれだけ努力しているかなんて知ったことじゃない。深く知ろうともしないし、考えようともしない。本当の敵が誰かなんて、なおさら知らない。風になびく草と同じさ。春風が吹けば、春風になびき、秋風が吹けば、秋風になびく。何も考えちゃいない。その時々の風評と思いこみに振り回されるだけなんだ」
「兵を出して彼らを抑えます」
 張敏がかしずき進言する。
「だめだ。民が怪我をする。無辜《むこ》の民は傷つけられない。彼らは暴れたくて暴れているわけではない。追いつめられてどうしようもなくなり、怒りに我を忘れているだけだ」
「なに悠長なことを言ってるんだよ」李駿が言う。
「私は民を傷つけるために、ここへきたのではない」
「殺されたらなんにもならないだろ。軍隊で蹴散らせよ。しょせん烏合の衆じゃないか。どうにでもなるさ」
「彼らを追い払ってもなんの解決にもならない。問題は裏で操っている奴らをどう始末するかだ。民を苦しめる奴らをどう処分するかだ」
「民、民って言うけど、お前は民衆を美化しすぎだよ。税をごまかすわ、兵役から逃げ出すわ、民だって結構汚いんだぜ。それにさ、普段は人任せ神頼みでなんにもしないくせに、困った時だけ一揆を起こして押しかけてくるんだ。こっちの苦労も知らないでわがままをむき出すんだよ。そういうもんだろ」
「民が聖者ではないことくらい知っている。世の中の発展のためのどうすればよいのか相談できる相手でないこともわかっている。しかしだ、私が守ってやらなければ誰が守るのだ。踏みつけられた者の気持ちを考えろ。それが県令の務めだ。民がここまで追いつめられたのは私の責任でもある」
「この城市の奴のせいじゃないか。徐粛なんて狸もいいところだぜ。格好つけてお前が責任を取ることなんてないんだよ」
「格好をつけているのではない。危険と責任を引き受けるのが県令だ。逃げてほっかむりするのなら県令など要らない。責任をよそになすりつけるのは大人のすることではない」
「西門様、鐘と太鼓を鳴らして民を黙らせます」張敏が言った。
「やってくれ」
 張敏は階段を駆け下りる。
 石の礫が飛んできた。一人が投げ出すと、群衆は我もと道端の石を投げ出す。西門豹と李駿は外壁の下に身を屈め、石を避けた。爆竹の炸裂に似た音があたり一面を覆う。跳ねた石が硝煙《しょうえん》のように煙る。
 ――危機ではない。待ち望んだ好機だ。
 西門豹は、してやったりと微笑んだ。決戦が始まったのだという興奮が身をつつんでもいた。素早く考えをめぐらし、作戦を組み立てた。
 暴動を指揮しているのは、言うまでもなく徐粛だ。騒乱が治まった後、民の目前で徐粛と話し合うことになるだろう。徐粛は集めた民を力の拠《よ》り所にして、民意を大義名分にして、河伯祭に手出しをするなと要求してくるだろう。
 ――その時、逆手を取ればいい。あれを提案すればいい。
 西門豹は固く目を閉じた。
 河伯祭の実施は地元に任せる。だが、その費用は民から徴収せず、県庁が負担する。民のために県が支出する。民の窮乏《きゅうぼう》を理由に、三老から費用徴収の特権を取り上げてしまうのだ。貧困にあえぐ民は喜んで受け入れるだろう。なにかの拍子に暴走しかねない群衆を前にしては、いかに徐粛といえども抵抗できるはずがない。こうすれば、誰の命を奪うこともなく目的を達せられる。理想的な無血改革だ。
 鐘と太鼓が鳴った。
 激しい響きが繰り返され、群衆はようやく静まった。石もやんだ。
 西門豹は、立ち上がって深く息を吸いこみ、
「三老殿はいないか。話し合いたい」
 と、力の限り叫んだ。すべての視線が西門豹に集まる。
 ――必ずうまくいく。後は落ち着いてやるだけだ。
 己に語りかけながら動かない群衆を見渡した。どこか晴れ晴れとした表情さえ浮かべている。
 だが次の瞬間、西門豹はあっと小さく叫び、息を呑んだ。右手がせわしなく動き、韋を揉みしごく。西門豹はくぼんだ眼窩の底の目をかげらせ、群衆の奥を凝視した。
 海が割れるように細い道が開く。ぼろをまとった泥色の群れの一点に、柔らかい午後の陽射しを浴びた白装束があざやかに浮かび上がった。白い服は門へ向かって歩む。足を進めるたび、周囲の民は次々と跪いて平伏する。まるで伝説の救世主が現れ、荒波が鎮まるかのようだった。白装束は群衆の先頭で立ち止まり、ゆっくり顔を上げた。白い顔は彩だった。潤みがちに光る大きな瞳が、じっと西門豹を見つめる。
「徐粛殿はどこだ」
 西門豹は言い知れない不吉に駆られ、じれったく何度も韋を握り直した。
「三老様はおりません。わたくしが話をいたします」
 彩は、柔らかく響かせ、
「県令様はしきたりを守っていただけるのでしょうか」
 と、澄んだ声を放つ。
 西門豹は軽いめまいを覚え、手すりに両手をついた。
 思惑が外れた。彩とは争いたくなかった。とはいえ、相手が誰であろうと説き伏せるよりほかに道はない。西門豹は、腹をくくって自説を開陳した。しかし、すぐさま、
「彩様を侮辱するのか」
「貧しいからといって我らを見下すのか」
「よそ者は帰れ」
 と、口々に野次が飛ぶ。周囲は再び騒然となった。野次はすさまじい怒号へ変わる。大風がうなるようだった。
 この状況では西門豹がなにを言っても、民は「我らの彩様」に口答えをしたとしか取らないだろう。これでは話し合いにならない。西門豹は失敗を悟った。徐粛は雲隠れして前面へ出ず、民が絶対的な信頼を寄せる彩のカリスマにすべてを託して、西門豹の口を封じてしまったのだ。
「徐粛のほうが一枚上手だったな」
 西門豹は、力なくつぶやき、
 ――彩殿を巻きこみたくないと思ってなんの働きかけもしなかったが、今にして思えば根回しが必要だった。彩殿が傍観してくれさえすれば。不覚だ。
 と、己の不明を恥じた。
 彩があたりを見渡す。それだけで群衆は静まりかえる。
「わたくしたちは河伯さまを大切に崇めてきました。それが鄴(ぎょう)の民の誇りです。しきたりを守っていただけるのでしょうか」
「守ろう」
 西門豹は声を絞り出した。
 人の海が揺れる。勝鬨《かちどき》が上がる。彩への賛辞が飛び交う。
 ふと気づくと、西門豹は千切れた韋を手にしていた。よほど強く引っ張ったのだろう。韋を睨みつけ、宙へ放り投げた。韋はすぐに速度を失い、くるくると回りながら諸手を上げて喜ぶ群衆に吸いこまれる。西門豹は、雀躍《じゃくやく》する民の中で独りたたずむ彩の姿を見つめた。
 ――彩殿に負けたと思えば仕方ない。
 そう考えるとさばさばした。笑いたくもなった。彩様が祈れば洪水はなくなりますよと目を輝かせたいつかの農夫を想い起こした。
 ――民の暮らしに寄り添い続けてきた彩殿と、都からきたばかりの私では、民の信頼が違う。勝負になるはずがない。当然のことだ。――苛立っている場合ではない。さて、敗戦処理に取りかかるとしよう。まずは、私が本当にこの町のしきたりを守ると皆に思いこませねばな。
「聞いて欲しい。私はこれから彩殿の村へ行き、しきたりを守ることを神々へ誓おう。よろしいだろうか」
 西門豹は叫んだ。
「いいでしょう。喜んで受け入れます」
 彩が答える。民は再び沸いた。勝利の快感に酔いしれている。
「今そちらへ行く」
 西門豹は、さっと巨躯を翻《ひるがえ》した。
「おい、正気かよ」
 李駿が腕を掴んで引き止める。
「あんなところへ行ったら、なにをされるかわかったもんじゃないぜ」
「大丈夫だ。彩殿は無法な真似をする人じゃない。それに今は巫女の村にいたほうがかえって安全だ。あそこは聖域だから誰も手出しできない」
 そう言ってから、西門豹は意図を説明した。今回の件で県令への信頼は失墜した。その失地を恢復するために、ここはしきたりを墨守する振りをして民の信頼を得るのだと。
「すまないが留守を頼む」
「わかった。気をつけろよ」
 いつになく李駿は真剣に西門豹を見つめ、励ますような面差しで手を握る。
「ありがとう」
 西門豹は力強く友の手を握り返し、小走りに階段を下りた。



(続く)


『西門豹』 (第3章 - 3)

2011年04月14日 06時50分50秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 いつものように母屋の中央の間で会った。
 徐粛は、甥にでも接するように親し気な笑顔を浮かべる。嫌味のないその笑顔を見れば誰でも徐粛を信じるだろうと、西門豹はふと思った。
「大変なことが起きました」
「どうしました」
 西門豹は、ことを起こしたのはあなただろうと腹の中で冷ややかに思いながら、射抜くような目で老人を見据えた。
「溜池のほとりで龍の化石が見つかったのです」
「珍しいものではないでしょう。龍の骨なら煎じて飲んだことがあります。子供の頃、病気をした時に母が購《あがな》ってくれました。もっとも、正真正銘の龍の骨なのかどうか、私は存じませんが」
「龍骨《りゅうこつ》」と称する薬は、値段は張るものの比較的簡単に手に入った。市へ行けば行商人が売っている。熱病や中風などの特効薬として用いられた。
「それは龍骨のかけらですな。私も時々飲みます。見つかったのは、龍の全体がそっくりそのまま残っている化石なのですよ」
 徐粛は「本当に大きいのですよ」と両手をいっぱいに広げながら、孫を遊びに連れ出そうとする爺やのように目尻に笑い皺を作る。西門豹はどこを見るわけでもなく、黒曜石のような瞳を小刻みに動かした。徐粛がなにを企んでいるのかはわからないが、相手の手に乗ってみなければ事態は動かない。掌で太股を叩き、
「見てみましょう」
 と、言って案内を頼んだ。徐粛は、願ったりかなったりだと頷く。
 二人は、城市からさほど遠くない現場へ行った。
 なんの変哲もない、ひなびた池だった。広さは半里(約二百メートル)四方といったところだろうか。若草が静かに周囲を覆い、藤色のこまかい花が咲き乱れていた。のびやかな春風が水面にさざなみをたて、こぶ牛の水浴びする姿が遠く見える。向こうの池の縁沿いに崩れた低い土塁が続いていた。その昔、ここには小さな邑《ゆう》(城壁で囲った集落や町)があり農民が住んでいたのだが、ずいぶん前に打ち捨てられ、廃墟になっていた。池はかつての邑の貯水池だった。
「あそこです」
 徐粛が指差す。
 池の一角に純白の幕が張ってある。幕は風を孕《はら》んでは鳩の胸のようにふくらみ、息を吐き出すようにそっとしぼむ。傍には角材が積み上げられ、大工が鉋《かんな》をかけていた。風に煽られた削り屑が浪の花のように舞い上がる。もっこを担いだ人夫がその下を無造作にくぐり抜ける。
 二人は幕の内へ入った。
「どうです。素晴らしいではありませんか」
 徐粛は感に堪えない声を上げ、豊かなあごひげを自慢気にしごく。
 龍の形をした大きな骨格が黄土の上に横たわっている。
 西門豹はわずかに右の眉を吊り上げただけで、なにも言わない。化石の頭で立ち止まって両足を揃え、ぶんまわしのように正確な歩幅で足を進めて尻尾の先までの長さを測った。六歩(約六メートル半)あった。西門豹は振り返り、再び全体を見渡した。化石は、磨き上げた大理石のようにまぶしい光沢を放っている。長年土の中に埋まっていたものとはとても思えない。不自然にぎくしゃくと曲がった背骨は、童が描いた絵にも似てまるで玩具のようだ。
「立派なお姿でしょう。昇龍のようですな」
 徐粛は、満面に笑みを浮かべた。
「お言葉ですが、そんな風には見えません。私には空の真ん中でまごついて失速した龍のように見えます。さしずめ空を昇りきれない昇り龍、もしくは墜落中といったところでしょう。徐粛殿、どうやって埋めたのですか」
 険しいまなざしのまま西門豹は言った。徐粛は、からからと愉し気な声を上げる。冗談だと受け取ったようだ。
「そんな畏れ多いことはいたしませんよ」
「龍ではなく、ただの大蛇かもしれませんね」
「そんなことはございません。そこを見てください」
 徐粛は溌剌《はつらつ》とした風情で小走りになり、化石の胸のあたりに近づいた。
「ほら、足があるでしょう。蛇には足がありませんよ」
 確かに、足の骨があった。太い足指が三本伸び、指先にはざっくりとした鉤爪《かぎづめ》までついている。
「爪まで念入りにこしえらたのですね。顔はどう見ても牛のようですが」
「龍も顔が長いから似たような形になるのでしょう」
 徐粛は、しゃあしゃあと言ってのける。
 ――証拠と証言さえ揃えられれば、龍の化石を偽造して民をたぶらかした罪で逮捕することもできるな。手荒な真似はあまり気が進まないが。
 西門豹は、化石の一点を睨みながら心の内で考えをめぐらした。最善の策は逮捕によって徐粛の権力をそぐことではなく、彼が自分に協力せざるを得ないよう仕向けることだった。
 ――だが、とりあえず張敏に命じて極秘裏に捜査させるか。逮捕に踏み切る必要が出てこないとも限らない。いずれにせよ、選択肢は多いほうがいい。
 西門豹は腹を決めた。
「まだ私が埋めたとお疑いですかな」
「ええ」
 西門豹は、張り出した頬に薄笑いを浮かべた。徐粛は、我々は同志だろとでも言いた気になれなれしく西門豹の肩を抱き、
「この池で釣りをしていた者が偶然見つけたのです。が、まったくの偶然だとも思えません。河伯様が私たちになにかを伝えたくて、このお骨をお見せになったのではないでしょうか」
 と、耳元へささやきかける。
「と言いますと」
「私は、河伯様が自分たちをもっと大事にしてくれと言っておられるような気がする。私財を投じてここに立派な祠を建て、この龍神様を祀るつもりです。鄴(ぎょう)の民のためにそうするのです。故郷に貢献したいのですよ」
 徐粛は、自分の言葉に酔っていた。
 ――だいたい詐欺師はまず自分を騙して己の妄想に酔いしれるものだ。自分に嘘を信じこませれば、他人を騙しやすい。端《はた》から見れば、嘘をついているようには見えないからな。
 西門豹は徐粛を一瞥し、
「贋物《にせもの》を祀ったところでご利益などないでしょう」
 と、素っ気なく言った。
「本物ですよ。そう決めつけずに、我々の河伯様に対する熱い想いを理解していただきたいものですな」
 徐粛の配下が彩の到来を告げた。
「西門様、彩様の意見を聞こうではありませんか。彩様が本物と言えば、納得なさるでしょう」
 徐粛は自信たっぷりだ。
「いいでしょう。彩殿の霊力の高さは私も認めます」
 西門豹は、もっともだと頷いた。
 彩が現れた。
 大きな鷺羽を一枚、髪に挿している。よく似合っていた。
 彩は、近所の人に挨拶するようにごく自然な親しみのこもった顔で微笑んだ。西門豹は照れくさくもあり、嬉しくもあった。西門豹も近所の子供の様子を聞くようにこの間の男の子の様子を尋ねた。順調に恢復《かいふく》して、今ではすっかり元気だと言う。龍骨の正体を調べて欲しいと頼むと彩は快諾した。
 彩は細長い棒の先を器に入れた清水にひたし、呪文を唱えながら弾くようにして棒を振る。きれいな弧を描いた水滴が化石に振りかかる。軽く目をつむった彩は頭を垂れ、じっと精神を集中させて交霊した。
 ふっくらと丸みを帯びた体の周りで、ふっと気流が揺れる。目に見えない微細な波が広がる。清楚な花の香りが西門豹の鼻を撲《う》った。彩の心の香りだと感じた。
 ――どこか似ている。
 西門豹は、遠い記憶をまさぐった。そして、少年時代にあこがれた理知の世界の清明さに似通っていると思い当たった。神々を見つめる心と澄んだ論理の二つがどう結びつくのか、そこまではわからない。ただ似ていると感じた。
 十代の頃の西門豹は、理知の世界にこそ真善美がある、そう信じて万巻の書物を読み、師と問答を交わしたものだった。その時に学んだことが、血となり肉となり、心の芯になった。しかし、官吏として生きる日々は、当然のことながら青年期に形成した信念をたやすく実践できるほど容易ではない。もし今ここで彼女を抱きしめれば、現実世界にまみれるなかで失ったすべてを取り戻せるような、そんな想いにも囚われた。
 やがて、彩は大きく息をつき、
「龍神さまの姿は感じませんでした。この化石に牛と亀の霊が憑いているのはわかるのですが」
 と、汗ばんだ額を手の甲で拭った。
「なにかの間違いでしょう」
 徐粛は、とぼけた甲高い声を出す。
「いいえ、龍神さまではありません」
「彩様、どう見ても龍の形をしているではありませんか」
「それはそうですが」
 彩は杏子《あんず》のような目をかげらせ、困った風に首を傾げる。誰かが故意に埋めたとは、疑いもしないようだ。巫女として純粋培養された年若の彩には俗世の狡知《こうち》が見えないのだろう。
「彩様、民は龍神様のお骨が出てきたと言って喜んでいるのです。そのようなことをおっしゃられては皆悲しみます」
「恐れおののいている者もいるでしょうね。彩殿が違うと言うのですから、やはり贋物でしょう」
 西門豹は割って入り、冷静に諭した。
「なんですと」
 常におおらかに振舞っていた徐粛が初めていらついた顔を見せた。彩に本物でないと言われ、かなり動揺している。
「贋物の龍を祀るのはいかがなものでしょうか。徐粛殿の沽券《こけん》に関わると思いますが」
 西門豹はあくまでも穏やかに言ったが、徐粛は顔を真っ赤にしてなにも言わない。
「民を正しく導くのが三老殿の役目のはずです。無理が通れば道理が引っこむと申します。よく考えていただきたい。それに、彩殿が困っているではありませんか」
「彩様も彩様だ」
 徐粛は、怒ったようにつぶやく。
 ――世の中の人間は、皆自分に都合のよいことしか言わないものだと思いこんでいるのだな。猿と同じだ。なにが正しいかなどと考えようともしない。他人は自分が利用するためだけにいるとしか思っていないのだろう。
 西門豹は唇を噛み、腰に下げた韋を揉んだ。韋の表面に波紋のような皺が寄り、きゅっと軋んだ音が鳴る。
「彩殿は本当のことを言ったまでのこと。咎《とが》めるのは筋違いと言うものでしょう。彩殿は神々に仕える身ですから、嘘をつけるはずがないではありませんか。そんなことをすれば、神罰が下ります」
「口出ししないでいただきたい」
 徐粛は老人の癇癪を起こし、きっと唇を歪めて西門豹を睨み据える。
「彩殿は気兼ねして言えないから、私が代わりに申し上げたのです」
「これは鄴(ぎょう)のことであって、あなたには関わりのないことですぞ」
 徐粛は、西門豹に背を向け、
「彩様、明日鎮魂祭を行ないます。よろしいですか。民のために祈ってください。彩様が祝詞を上げれば、皆心安らかになるのです」
 と、拝み倒さんばかりに繰り返した。西門豹がいくら止めようとしても聞く耳を持たない。
 結局、彩は祈祷を上げることになった。皆のためと言われれば断りきれなかった。西門豹はまだ打ち合わせが残っている二人を置き、先に帰路へついた。
 彩が名付け親になった蒼風を走らせる道すがら、
 ――徐粛はやっと挑発に乗ってくれたな。本気で怒らせたから成果は十分だろう。
 と、今日のやりとりを思い返しながら総括した。しかし、ふと、彩と徐粛は今頃どんな話をしているのだろうかと考え、なんとも言えないざらつきを心に覚えた。
 ――鎮魂祭を止めらなかったのは心残りだった。彩殿は道化師もいいところだな。気の毒なことをした。
 ああして、彩は大人たちの喰い物にされてしまうのだろう。考え方や立場は違っても、神々へ捧げる彩の純粋な想いを大切に守ってあげたかった。人類の理想から程遠いこの不完全な世界にあって、それはかけがえのない想いなのだと西門豹は識《し》っていた。もちろん、そのからくりは重々承知のうえでだ。彩の純粋な想いは、いわば嘘だ。嘘と言うのがきつければ、作り話だ。彩の想いは、現実を蒸留に蒸留を重ねた後でしたたる極上の美しい作り話の滴だ。虚構の結晶だ。いくらきれいに思えても、神々や理想などはしょせん御伽噺にすぎない。だが、人は皆汚辱にまみれているからこそ、そのようなものが不可欠なのだとわかっていた。人の心の良質な部分を永遠に支えるのは、この世にはあり得ない純度一〇〇%の作り話にしかできない。それがあるからこそ、人間は人間であり続けられ、他人を幸せにすることもまた可能なのだ。このままでは、その清らかな一滴を徐粛らによって薄汚い錬金術の道具にされてしまう。
 光が目に射しこむ。はっと心を打たれたような気がして、西門豹は蒼風を停めた。
 溶鉱《ようこう》のように煮える落陽が黄色い大地の向こうへ落ちてゆく。
 西門豹は、喰らいつきそうなまなざしを夕陽へ投げかけた。
 ――理性を鍛えろ。焼けた鋼《はがね》を鍛えるように、思考を鍛えろ。考え抜け。大切なものを守るためにどうすればよいのか、考えるのは己しかいない。立ち上がるのも己しかいない。
 心の底に得体の知れない力が湧く。それはたぎる闘志のようでもあり、破壊的な暗い衝動のようでもあった。
 明日の朝、太陽が東の地平線から生き返れば激しい戦いが始まる。そんな予感に駆られ、西門豹は巨躯を震わせて雄叫びを上げた。



(続く)

『西門豹』 (第3章 - 2)

2011年04月10日 04時12分20秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 午を告げる太鼓が鳴る。
 食堂へ向かう役人たちのざわめきが、開け放した戸口から入りこんでくる。
 西門豹は執務室の机に向かって書類に目を通しながら、餡《あん》ころ餅へ手を伸ばした。いかめしい風貌からは想像もつかないが、西門豹は甘党だった。仕事が押し詰まると西門豹は好んで餡ころ餅を用意させた。食べると頭の血の巡りがよくなり、疲れた脳がすっきりした。小さくかじり、大きく口を動かしてよく咀嚼《そしゃく》する。傍目《はため》には、貴重な珍味を惜しみながら食べているようにも映る。幼い頃、保母の婆やが遮二無二《しゃにむに》食べようとする西門豹を何度も叱りつけ、正しい食べ方を繰り返し躾《しつ》けたおかげでそんな癖がついた。
 昼食は餡ころ餅で手軽にすませ、夕方までに溜まった書類を片付けてしまいたかった。ここ数日、昨日のような訴訟に時間を取られ、執務が滞りがちだった。明日こそ時間を作り、巫女の村を訪れたかった。
「よう、精が出るな」
 李駿の声だった。西門豹は、ゆっくり餅を嚥下《えんか》して、
「知らせをくれれば迎えをやったのに」
 と、言いながら椅子を勧めた。口に物を入れたまま話してはいけないと厳しく教えられた。食べ方に関しては妙に育ちのよさがある。
「そんなのいいんだよ。えらいさっぱりしたよな。壺も掛け軸もみんなしまったのか? 竹簡ばっかりで書生の部屋みたいだな」
 机を挟んで向かいに腰かけた李駿は、飾り棚を取り払って書架を並べただけの殺風景な執務室を見渡す。
「売った」
「全部?」
「そうだ。あんなもの不要だ。前任者は贅沢品で部屋を飾るのがよほど好きだったようだが、ここは美術品の展示室ではない。それに、たぶん賄賂の品だろう。見るだけで胸くそが悪くなる」
「お前らしいや。売った金はどうしたんだよ」
「蔵に置いてある。いずれ治水事業を始めるとなれば、いくら金があっても足りないからな」
「そんなのお前が頂いとけばいいじゃないか。役得だろ。誰もとがめないぜ」
「自分がとがめる。人がなんと言うかは関係ない」
「まあいいや。損したければ、勝手に損しろよ。だけどさ、おせっかいかもしれないけど、なんか高そうなものでも置いといて、俺は県令だぜってところを見せておいたほうがいいんじゃないの。こんな貧相な部屋で仕事してたら軽く見られるぜ」
「ここでは人と会わないから体面を繕《つくろ》う必要もないだろう。応接用の部屋は豪華なままにしてある。――彼女を連れてきたのか」
「それもあるけど、今回はお上のご命令できたんだ。豹の様子を見てこいとさ」
「なにがあった」
 西門豹は、くぼんだ眼窩の底の目をしかめた。
「お前が不正してるって、この町の者から密告があったんだよ。お上としては調べないわけにはいかないさ」
 李駿は、文侯から授かった印綬《いんじゅ》を見せる。話を聞くと、根も葉もない訴えは宴席で言い合った有力商人からのもので、西門豹にやりこめられたことに対する腹いせのようだ。
「なるほどな。だが、それで駿を検察官に任命したのだから、お上は本気で調べるつもりなどない。調査したという形だけ整えて事実無根としたいのだろ」
 西門豹は愁眉《しゅうび》を開いた。召喚《しょうかん》でもされれば、都で面倒に付き合わされているうちに河伯祭を過ぎてしまうだろう。今までの努力が水泡に帰してしまう。
「そうだけどさ、お上だってわかっているけどさ、落ち着いてる場合じゃないよ。都はお前の件で大騒ぎだったんだ。豹は敵が多いからな。足を引っ張りたがっている連中は山ほどいるんだぜ。自分でもわかってるだろ。お上がかばいきれなくなったらどうする? もうちょっと敵を作らずにうまくやれよ」
「敵を作る作らないは関係ない。肝心なのは、なんのために、誰のために、なにをするかだ。それで敵ができるならしょうがない。私は信念を貫くだけだ。自分の損得勘定しかしない奴らが敵に回るならそれでいい」
 西門豹はきっぱり言い切った。理想と信念さえ見失わなければ、どこにいても、なにがあっても自分が自分であり続けられる。そう信じていた。
「やれやれ。豹はいこじすぎるよ。もうちょっと損得勘定をしたほうが身のためだぜ」
 李駿は首を振る。
「西門様、遅くなりました」
 張敏が市場から帰ってきた。市場では様々な階層の住人が話に花を咲かせ、あるいは議論を戦わせ、世論を形成する。その動向を探るように命じておいたのだった。張敏は、李駿に「お久し振りです」と挨拶をして席につく。
「どうだった」
 西門豹は訊いた。
「どの者も西門様を口汚く罵ります。極悪非道な冷血漢だとの評判が広まっていて、ひどい言われようです。ついこの前までは民をいつくしむよい県令だと持ち切りだったのですが」
「噂に振り回されるのは人間の性《さが》だ。とくに悪い評判はすぐ信じたがる。しょうがない」
「どうも、誰かが悪い噂を撒《ま》き散らしている模様です」
「三老の配下だろうな」
「調べてみます。ただ、民は不満のはけ口として西門様の悪口を言っているとしか思えません。やはり、根本の原因は生活の厳しさからくる抑圧の鬱積《うっせき》だと思います。いくら稼いだところで河伯祭の費用としてほとんど持っていかれるわけですから、その鬱屈《うっくつ》は相当なものです。とはいえ、三老様や地元の旦那衆を悪く言うわけにもいかず、よそ者の西門様を標的にしているのではないでしょうか」
「今は仕方ないな。うまく運べば、わかってくれるだろう」
「ばかばかしい。お前を叩いて憂さを晴らす奴らなんて、助けてやることないだろ」
 李駿が口を挟む。
「そんな言いかたはよせ。皆苦労しているんだ。彼らを救い導くのが私の仕事だ」
 西門豹は、むっとして眉間を歪めた。
「よさないよ。むかつくだろ。言っとくけど、豹がここの開墾に成功して奴らの暮らしがよくなったって、奴らは感謝しないぜ」
「どうしてだ」
「決まってるじゃないか。うまく行ったら全部自分の手柄。自分の能力が高いから成功したんだって思うもんだ。逆にうまくいかなかったらなんでも人のせい。お前の責任にされるんだよ」
「確かにそういうものかもしれない。だが、そんなことはどうだっていい。なすべきことをやるだけだ」
「わかったよ。正義の味方はお前に任せた。とにかく、俺は三日ほど滞在していろいろ調査したことにするから。――張敏、明日馬車を貸してくれないか。彼女と出かける」
「手配します。それでは」
 張敏が退出しようとすると、小間使の女がやってきて張敏に耳打ちする。
「三老様がお見えのようです。なんでも急ぎの件とか。食事時になんでしょうか」
 張敏は、腑に落ちない顔で西門豹へ告げる。
「いよいよ向こうが動き出した。お通ししろ」
 西門豹は挑むように眼を光らせ、太く張った声を響かせた。



(続く)


『西門豹』 (第3章 - 1)

2011年04月09日 04時23分10秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
  
 夜が明けるとすぐに出仕した。
 冷たく冴えた空気の中、執務室の簡素な机に向かい、未決箱の竹簡《ちくかん》に目を通した。土地家屋の登記、穀物の管理、武器の購入、城壁の修理、租税の徴収、訴訟案件など多岐にわたる項目の文書が山積みになっている。これらはすべて県令の所管事項だ。地域行政の他に、司法、軍事も扱った。西門豹は黙々と判を押し、指示を記すべきものに朱筆を入れ、職員が登庁する頃にはすべて片付けた。
「おはようございます」
 青年書記官の張敏《ちょうびん》が現れた。
 張敏は、都から連れてきた側近の一人だった。卵のような顔に人のよさと育ちのよさがにじみ出ている。まだ経験は浅いが、几帳面な性格で仕事を丁寧にこなす点と口の堅いところを買い、目をかけていた。歳月を重ねて場数を踏めば、志を持ったよい官吏になると西門豹は見こんでいた。
「おはよう。これを頼むよ。私は出かけてくる」
 西門豹は席を立ち、決済を終えた竹簡を指した。
「あの、三老の徐粛《じょしゅく》様がお見えなのですが」
「ちょうど、こちらから出向こうと思っていたところだ。手間が省けたな」
 西門豹は母屋の中央の間へ入り、揖をして上品な光沢を放つ座椅子へ腰かけた。
「申し訳ありませんな。年寄りは朝が早いもので」
 徐粛はからから笑う。
 遊び上手の小粋な老人だった。三老というよりも商家の楽隠居といった風情だ。鳩尾《みぞおち》まで届く白いあごひげは、太書き用の筆のようにふっくらとしており、塗りこんだ椿油がつややかに光っている。おそらく、若い頃は相当な二枚目でもてたのだろう。皺だらけになった今でも、女心をくすぐりそうな、氷砂糖を思わせる甘さが目許に漂う。
「この城市にはもう慣れられましたかな」
 徐粛は丁重に言った。
「お気遣いありがとうございます。鄴(ぎょう)の水にも、ずいぶんなじんできました」
「大変結構なことです」
「今日はなんのご用でしょうか」
「遠縁に当たる者の息子が都で勤めたいと言い出しましてな。読み書きができて、なかなか達筆なのですよ」
「友人が戸籍係の手が足りないと言っておりました。それでよろしければ」
「申し分ありません」
「では」
 西門豹は張敏を呼んで筆と硯《すずり》を運ばせ、その場で紹介状をしたためて手渡した。
「ほう、なかなか豪気な字ですな。字は人を表すと申しますが、全身これ胆なりという西門様のお人柄がよく出ておりますな。いや、恐れ入りました」
 徐粛は、さも感心した顔を作り、
「後で使いの者がお礼を届けに行きますので」
 と、満足そうに頭を下げる。
「これしきのこと、礼にはおよびません」
「それは困りますな」
「いえ、本当にお気になされなくて結構です」
 西門豹は強く手で制した。ちょっとした頼みごとをして不相応に高額な謝礼を弾み、自分の仲間に抱きこんでしまおうという魂胆は見えている。その手に乗るわけにはいかなかった。さっきの世辞で気をよくするほど、西門豹はやわではない。
「字も豪気だが、肚も太いですな。昨日貧しい農民に施しをしたとか。早速評判になっておりますよ」
 徐粛は、茶目っ気たっぷりに微笑む。持ち上げて気持ちよくさせようという意図は見え透けていたが、どこか憎めない愛嬌があった。生まれつき人に愛される術を身につけた人間なのだろう。加えて、徐粛は声がいい。柔らかな笛の音色のようで、聞く者を心地良くする声だった。昔話を子供に語れば、どんなむずかり屋でも、雲に抱かれたような心地になってすぐに寝入ってしまうだろう。だが、西門豹は本能的に、経験的にその声を警戒した。人をうっとりとさせて騙す詐欺師の声だと感じた。
「たいしたことではありません。彼らの暮らしぶりは実に憐れでした。胸が痛みます」
「洪水のせいです。河伯様の怒りが激しすぎましてな。なかなか鎮められません」
 徐粛は、もっともらしく頷く。西門豹は、もし龍神がいるなら真っ先にあなたを絞め殺すだろうと毒づきたくなるのをぐっとこらえ、
「効き目がないのなら、河伯祭などやらなくても同じではないでしょうか」
 と、冷たくあしらった。目には傲岸不遜《ごうがんふそん》ともとれる蔑《さげす》みの色さえ浮かべている。民の暮らしを顧《かえり》みない軽薄さを、憎まずにはいられなかった。
「とんでもない。やめればこの町はおしまいです。この土地の古くからの俗諺《ぞくげん》に『もし河伯様に妻を娶《めと》らせなければ、大洪水が起きてすべてが水底へ沈み、民はすべて溺《おぼ》れる』と言います。毎年必ず河伯祭を催して、嫁を送らなくてはなりません。まさか、西門様は反対するおつもりではないでしょうな」
「龍神を祭るのはかまなわないのです。信仰ですから」
「県令様はわかっていらっしゃる」
 徐粛は、安堵の表情を浮かべた。
「ですが、はっきり申し上げましょう。民からの費用徴収は反対です。民は疲弊《ひへい》しています。私はこれまでに何度も飢饉に見舞われた農村を視察したことがありますが、あれほどの荒れ果てようは初めて目にしました。洪水もさることながら、河伯祭の費用負担が重くのしかかっているからです。負担を免除して、民を休ませるべきです」
「河伯祭は金がかかるのですよ」
「ならば、儀式を簡素にして、費用を抑えればよいではありませんか」
「格式というものがございます。河伯様は神のなかの神ですぞ。そこらの貧乏神と同じにしては叱られるでしょう」
「では一度試してみようではありませんか。儀式を簡略にしてみて、もし本当にもっとひどい洪水が起きれば、以後私は喜んで三老殿の意見に従いましょう」
「大洪水が起きてからでは遅いのですよ。この地を守るためにやっていることです。皆の協力が不可欠なのです」
「民よりも龍神のほうが大切だとおっしゃるのですか。三老殿は痩せ細った民を見て、なにも思わないのですか」
「もちろん、心を痛めておるのは私とて同じことです」
 徐粛はしれっと言う。
 ――愚問だったな。
 西門豹は、心の内で舌打ちした。罪の意識がないのは、初めからわかっていた。三老は集めた費用を私することを、当然の特権としか思っていない。民の暮らしぶりは目に入らず、有力者の仲間うちでどう利益を分かち合うのか、それしか興味がないのは明らかだった。人間は欲に駆られれば、なんでもする。誰でも平気で踏みにじる。
「心を痛めているのなら、もっと広い見地に立って考えていただきたい」
「立っておりますとも。都からこられた西門様は奇異に思うかもしれません。が、我々は河伯様とともに生きております。俗諺はいわれないことではありません。古人の知恵でありましょう。河伯様を盛大に祀るのは、我ら鄴(ぎょう)の民にしてみれば大切な常識なのです」
 徐粛は嫌な顔一つ見せず、書物の講義でもするように穏やかだった。
 ――なにが常識だ。
 西門豹は腹立たしかった。己の利益のために常識という言葉を振りかざす人間を日頃から嫌悪していた。常識と決めつけて相手の思考を奪い、理性の営みのことごとくに蓋《ふた》をしてしまって相手を自己の支配下に置こうとする薄汚いやり口を蛇蝎《だかつ》のごとく嫌っていた。
 ――確かにあなたは偉大な常識人だ。自分がかわいいのも常識。うまい汁を吸いたいと願うのも常識。仲間に利益を分け与え、ちやほやされたいのも常識。人間の自然な感情に違いない。だが、あなたの常識とはなんだ。ただの己の欲ではないか。それが地位のある人間の「常識」なのか。
 そう痛罵《つうば》してやりたかったが、もちろん言えない。そんなことを口走れば、相手がどんな反応を示すかは、経験を積んだ西門豹には容易に予想がついた。相手を怒らせるのが目的にしても、論法と言葉は慎重に選ばなくてはならない。直截《ちょくせつ》にものを言いすぎて何度も左遷の憂き目に遭った西門豹は、骨身にしみてわかっていた。
「常識を守ることは大事なことでしょう。それはわかります。しかし、常識を守るやり方には二通りあります。一つは常識をなにも疑わず墨守《ぼくしゅ》すること。それがよいものであろうと、悪いものであろうとおかまいなしにです。もう一つは、その常識が正しいものなのかを常に疑い、なんのためにその常識があるのか、その本質を考え、常識のよい部分を守ろうとすることです。どちらがよい方法なのかは、言わずもがなでしょう」
「いや、参りました。なかなか舌鋒《ぜっぽう》鋭いですな。歴代の県令様のなかでも、西門様の頭の回転の速さは抜群ですよ。おそらく、およぶかたはいますまい。稀有《けう》の人材が我が城市へこられたことを私は嬉しく存じます。いや、まったく」
「私はお世辞が聞きたくて話しているのではありません。徐粛殿、この地を治める処方箋は、はっきりしています。民の生活を少しでも落ち着かせ、然《しか》る後に、民を大規模な治水工事に動員するのです。そうすれば、洪水も飢饉もなくなり、皆救われるでしょう」
「まあまあ、そう勝手なことを申されても困りますな」
 徐粛はあくまでもにこやかに、そしてその表情に微量の渋みをにじませながら、きかん気の小僧をなだめるように言う。
「勝手なこととは、どういうことですか」
 西門豹は気色ばんだ。獰猛な野獣の唸りに似た凄みがある。だが、徐粛は大様な態度を崩さない。
「着任早々でやる気なのはわかります。が、冷静になっていただきたい。私からも申し上げておきましょう。河伯祭は我々の祭りです。いくら県令様とはいえ、余計な口を挟まれては、地元の者は黙っていられません。治水工事はぞんぶんになされればいい。ですが、工事を請け負うのは我々鄴(ぎょう)の者です。西門様が我々を理解してくださらなければ、全面的に協力できないでしょう。そこのところをお忘れなく」
「私はより多くの民が幸せになるためにはどうすればよいのか、それを考えているのです」
「きつく響いたかもしれませんが、ここでよりよくお過ごしいただくために、老婆心ながら申し上げたこと。そう喧嘩腰にならずに、まずは仲間になろうじゃありませんか。西門様はまだこの土地のことを知らないのですよ。河伯様は洪水を起こすだけではありません。恵みももたらしてくれるのです。龍がいなければ、雨は降らないのですから」
 徐粛は思わせ振りに言う。恵みの雨とは河伯祭の分配金だ。
「私の考えがわかってもらえるまで、何度でもお話するつもりです」
 西門豹は譲らなかった。並の県令ならそれで丸めこめるのかもしれないが、私は違うと言ってやりたかった。
「いいですとも。話し合うことが大切ですからな。もっとも、堅苦しくせずに、酒でも飲みながら気楽にお喋りしましょう。きっと我々のことを理解してくださると思います。お忙しいところ、長居してしまいました。ではまた」
 徐粛は、桃の花でも眺めるようになごやかな微笑みを浮かべて去った。
 隣の部屋から張敏が出てきた。緊張した面持ちをしている。
「冷やひやしました」
「聞いていたのか」西門豹は言った。
「盗み聞きをしたのではありません。お声が大きくて、部屋中に響いていましたから」
「あれくらいで怯《ひる》むな。向こうは海千山千だ。こちらが挑発しても、迂闊に乗って話がこじれるような真似はしてこない。今までどんな県令がきても、そのたびに抱きこんできた自信もあるだろうしな」
 西門豹は思いを巡らすようにして腕を組み、硬く唇を結ぶ。
「わざと喧嘩をふっかけたのですか」
「そうだ。正攻法では、こちらに勝ち目はない」
「どういうことでしょう」
 張敏は眉間に浅い皺を寄せ、首を傾げた。
「鯀《こん》と禹《う》の話は知っているな」
「はい。洪水を治めたという神話ですね」
「鯀は自然の摂理に背いて河をせき止め、山を崩し、沢を埋めようとして、失敗した。つまり、力押しではだめだったということだ。鯀の後を引き継いだ禹は、天地に従い、河の勢いをたすけて、水の流れをよくしたから、治水に成功した。力ずくで困難を押さえこむのではなく、逆に相手の力をうまく使ったのだよ。洪水対策も、県を治めるのも同じことだ。相手の力が大きければ大きいほど、その逆手を取ることを考えねばならない」
「しかし、さきほどの西門様は力押しのように見えました」
「相手は、真綿でくるむようにしてこちらをとりこむつもりだ。ずるずるとやられたのでは、相手の力を利用できない。だから、怒らせて反発を引き出そうとしたのだ。圧力をかけ続ければ、必ず向こうも負けずに押し返してくる。その時が好機だ」
「そうでしたか。ですが――」
 張敏は、納得と困惑が入り混じった表情で不安そうに言葉を濁す。
「賭けなのはわかっている。だが案ずるな。成功させてみせる。弱い者いじめは許さない」
 西門豹は、世界中が束になってかかってきても決して屈しないとでも言いた気に、異相の頬に不敵な笑みを浮かべた。



(続く)


『西門豹』 (第2章 - 3)

2011年04月05日 21時30分08秒 | 歴史小説『西門豹』(完結済み、全12話)
 
 貧しい村だった。
 どの家も土塀が崩れ、激しく痛んだ日干しレンガ造りの家屋が覗き見える。
 破れた板戸を押し、門をくぐった。
 二人が奥の部屋へ入ると、やつれた中年女が疲れ果てた風に平伏した。黒ずんだ蒲団に垢じみた男の子が臥せり、荒い息を繰り返す。外は乾いた風が吹いているのに、なぜか肌に粘つく湿った空気がよどんでいた。彩は男の子の腕を取り、脈を診た。
「どうだ、助かりそうか」西門豹は訊いた。
「脳に熱の塊がありますが、なんとかなるでしょう。すみません、今からお祓いをするので外で待ってください」
 彩は手拭いで男の子の額の汗を拭き、包みを開く。四つ目のおどろおどろしい形相をした鬼祓いの面と薬草が出てきた。西門豹は、男の子の母親と一緒に部屋を出た。
 女が西門豹にもたれかかった、かと思うと崩れ落ちる。西門豹はとっさに抱きとめた。女は気を失っている。西門豹は枕を抱いているのかと思うほど軽い体を土間に横たわらせ、表へ出て人を呼んだ。
 ぼろをまとった女子供が集まる。誰の顔も、誰の首筋も、倒れた女と同じように肌は脂気《あぶらけ》もなくかさかさに乾き、骨と皮ばかりになっている。破れ衣はどれもだぼだぼして見えた。痩せ衰えたために服が大きくなったのだろう。
「生き地獄」
 西門豹は、目を虚ろにしてつぶやいた。そうとしか思えない。
 事態を告げると、女たちは一言も発せず無関心とも思えるほど面倒くさそうに頷き、ぞろぞろと門の内へ入った。
 彩の唱える悪霊祓いの呪文が朗々と流れる。高く低く節をつけたその声は、村人たちの弔いのようにも響いた。
「くま」
 幼い女の子がぽかんと西門豹を見上げる。小さな腹は、栄養失調のせいで風船のように丸く膨らんでいた。その子の姉だろうか、顔立ちのよく似た十二歳ほどの娘がさっと幼児を抱きかかえ、怯《おび》えた風に里道の向こうへ駆けてゆく。
「どうもご無礼をつかまつりました」
 老人が現れ、前に杖をついて深く頭を下げた。
「あなた様のような立派な体格のかたを見たことがないもので、あんなことを口走ったのでしょう。どうか子供のことですので、ご容赦ください」
 白くまばらなあごひげをたくわえた顔貌《かおかたち》に、西門豹はどこか惹《ひ》きつけられた。修練《しゅうれん》を重ねて人間の生臭味をそぎ落としたような、山水画から抜け出してきた仙人にも似た風貌《ふうぼう》だった。
 西門豹は会釈して名乗った。老人は、前の村長の劉騰《りゅうとう》だと告げる。代々村長の家で、今は彼の息子が村長を務めていると言う。祈祷と治療の間、彼の家で待たないかという申し出を受け、西門豹は厚意に甘えることにした。
 劉騰の家もあばら屋同然だった。村長の家であれば立派な家具や調度品がなにかしらあるはずだが、それらしいものはなに一つ見当たらない。それどころか、家具らしい家具も、調度らしい調度もない。天井の隅には、大小の蜘蛛の巣が張ったままになっている。屋根が壊れ、一条の陽射しが家の中に舞う埃を照らしていた。
 劉騰は縁の欠けた茶碗に自家製の糟酒《かすざけ》を注ぎ、西門豹に勧める。
 二人は乾杯した。酒は粗悪な雑穀から醸造したものだった。舌を刺す臭みがあり、どうにか飲めるほどの味だが、赤貧の中で精一杯もてなしてくれていることを考えると西門豹は貴い酒に思えた。作法通り一息に飲み干し、茶碗を逆さにして空けたことを証した。
 前の村長は、問わず語りにこの村の状態についてぽつりぽつり語った。昔はそれなりに豊かだったが、水害続きですっかり畑が荒れ、村人の数は三分の二に減った。しかも、盗賊団が増え、襲撃を受けることもしばしばあると言う。
「なにもない村へ押し入るのですから、賊もよっぽど困っておるのでしょう」
 劉騰は恬淡《てんたん》と笑う。諦めているのか、もともとあっさりした性格なのか。おそらく、その両方なのだろう。
「ところで、河伯祭に関して妙な噂を聞いたのですが、なにかご存知ないでしょうか」
 西門豹はこの老人ならと噂の内容を話し、河伯祭について調査しているところだと告げて協力を求めた。劉騰はのどにからんだ痰を苦し気に切り、なにか言いかけて口をつぐむ。
「私は良民のためにここへ赴任してきたのです。なんでもおっしゃっていただきたい」
 西門豹は膝をにじり寄せ、身を乗り出した。
「実は、毎年お役人が河伯祭の費用を徴収しにやってきます。麦ばかりではなく、豆類も、なけなしの雑穀まで持って行ってしまわれます。ただでさえ収穫が少なくて困っているというのに、これでは食べるものが残りません」
「そうでしたか。役人も強盗も似たようなものですね」
 役所の記録は調べたが、河伯祭の費用徴収についてはいっさい記載がなかった。
「まったく、なんと言えばよいのか。河伯様のお怒りが激しいということで、祭りを大がかりになさるのはよろしいのです。それで怒りがおさまって、河が元通りになれば、ここの百姓たちも安心して畑を耕せるのですから。ただいただけないのは、集めた銭の大部分を、前の県令様や長老がたや商人たちが自分たちの懐へ入れてしまうことです。数百万銭も集めて、河伯祭に使う額はわずか二三十万銭。これでは詐欺《さぎ》ではありませんか」
 劉騰は、他人事のように淡々と語る。それがかえって痛々しい。
「彩殿はそのようなことを知っているのですか」
「たぶん知らないでしょう。巫女様は、祭事《さいじ》を執り行なって分け前をもらうだけですからな」
「では、取り仕切っているのは誰ですか」
「三老《さんろう》様です」
 三老は長老の中でも一番地位が高く、徳のすぐれた人物とされていた。どの城市でも、三老は最高の敬意を払われる。また三老のほうでも、民の暮らしぶりにこまかく目を配り、徳行を奨励して非道が行なわれればそれを正す。いわば民衆の精神的指導者であり、さらに地元住民の意思を代表して政府へ伝えるという重要な役割を担っていた。
「呆れたものだ。率先して民から搾取《さくしゅ》するとは。とくはとくでも、損得の得にすぐれたかたなのですね。私がやめさせます」
「頼もしいお言葉ですが、難しいでしょう。前の県令様も最初はそうおっしゃっておられました。ですが、地元の者から見れば県令様はよそ者。鄴(ぎょう)の慣例を改めようとしても、地元の者は言うことなど聞きません。多勢に無勢、結局だめでした。そのうち、銭の味を覚えてご自分から率先して費用を集めるようになられましたよ。いや、これはたいへん失礼なことを申しました」
「いえ、いいのです。正直にお話していただいたおかげで、いろいろなことがわかりました。なんとか手立てを考えます」
「そろそろお祓いも終わった頃でしょう。参りませんか」
 劉騰は西門豹の意気ごみには答えず、力なく首を振る。西門豹は、諦めるよりほかに術のない劉騰の苦衷《くちゅう》を察し、
「わずかばかりですが、どうぞお受け取りください」
 と、布銭《ふせん》(農具の鋤状《すきじょう》の硬貨)の入った巾着《きんちゃく》を差し出した。
 劉騰はかっと目を見開き、怒りに唇をわななかせ、枯れた体のどこにそんな力があるのかと思うほどの力で茶碗を土間へ投げ捨てる。茶碗が割れ、乾いた音を立てる。
「私は窮《きゅう》しております。まずい糟酒をすすり、始終鼻水を垂らすみっともない老人です。が、乞食ではありません。いわれもなく恵んでいただくわけには参りません」
「そんな風に取らないでください」
 西門豹は穏やかに諭した。自尊心だけが高い官吏なら老人の非礼に怒り出しただろうが、西門豹の顔にはいたわるような微笑が浮かんでいる。西門豹は、飢饉《ききん》のさなかでも誇りを失わない老人に好意を抱いた。
「恵むのではありません。村の子供たちのために使っていただきたくてお預けするのです。彼らがやせ衰えているのを、見過ごすわけにはいきません。せめて、子供たちに温かい食事を与え、暖かい服を着せてやってください」
 劉騰の手を取り、力強く巾着を握らせた。風雪を刻んだ劉騰の皺にしょっぱい涙が流れる。涙の粒が西門豹の手へこぼれ落ちる。
「先ほどの無礼はお許しいただきたい。ここ数年来辛いことばかりでしたが、今日ほど嬉しい日はありません。我々に頼る人はおりません。どうか助けてください」
 劉騰は床に額をこすりつけ、鼻汁をすすり上げる。西門豹は、胸がこみ上げて目頭が熱くなった。自分を必要とする人がいる。その人たちのために正しいと信じたことを成し遂げるのだと、強く誓った。
 涙で動けなくなった劉騰を残し、病人の家へ戻った。すでに祈祷は終わり、彩は床の上に置いたすり鉢で薬草をすり潰していた。苦い匂いがぷんと鼻を衝く。
「よくなったようだな」
 西門豹は、気持ちよさそうに寝息を立てる男の子を見やった。その隣には、子供の母親が横たわっている。疲れてぐっすり寝入っているようだ。
「ええ、もう大丈夫です」
 彩は振り向き、明るい笑顔を見せる。こまかく並んだまっさらな歯がこぼれる。夏空に向かって咲くひまわりのようだ。上気して紅潮した顔に、健やかな汗がにじんでいる。その表情にも、体にも、いつも放つ色香はない。城市で見かける良家の子女といったところだろうか。あどけない十九の娘の素顔に戻っていた。
「熱も微熱になりましたから、お薬を飲んで三四日寝ていれば元に戻ります。おばさんのほうはちょっとした貧血ですから、少し休めばよくなるでしょう」
「そうか。それはよかった。部屋の空気もさらっとしたな」
 西門豹は中を見渡した。
「困らせ屋さんの霊が憑《つ》いていたので慰めてあげて、元居たところへ戻るよう言い聞かせました。ちゃんと言うことを聞いて出て行ってくれたから、空気もよくなったのですよ」
「ほう、調伏《ちょうぶく》するのではないのか」
「そんなかわいそうなことはいたしません。西門さま、元から悪い霊なんていないのですよ。寂しかったり、傷ついて自分を見失っていたりするから、悪さをするだけです。ともだちになってあげるからさみしくなんかないよと言ってあげれば、まともになります」
「なるほどな。悪い人間もそうだといいがな」
 西門豹は、三老や有力者たちの顔を思い浮かべた。
「人も同じです」
「では、悪い奴らも、彩殿にお祓いしてもらって真人間に戻してもらうか」
「いつでもお引き受けします」
「それなら、まず私を祓ってくれ」
 西門豹は、冗談とも本気ともつかない風に言う。
「いいですわ。薬を調合したらすぐに始めましょう」
 破顔した彩は大きな瞳をくるくる動かせ、陽射しを浴びた水飛沫のように光らせる。
「西門さまは、ご冗談などおっしゃらないかたなのかと思っておりました」
「本気だ」
 西門豹は、澄まし顔で逆毛の眉を片方だけ吊り上げた。彼なりの精一杯のユーモアだった。
 彩はすり鉢を脇に置き、笑いをこらえきれず身をかがめた。打ち震える背中は、春風に揺れる一面の菜の花に似ている。ふっと、西門豹の心の中に透きとおる風が吹き抜ける。胸が軽やかになる。西門豹は鷹のような鋭い眼つきをやわらげ、腹の底から野太い笑い声を放った。



(続く)

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