風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

日傘と君と

2017年08月29日 06時45分15秒 | 詩集

 さびしくなった浜辺
 おとなしくなった陽射し
 君は白いレースの日傘を
 ゆらゆらと揺らして

 暑い季節には熱い恋
 穏やかな季節にはやさしい愛
 まっさらな海原を眺めながら
 ゆっくり歩いてみようか

 青い空が吸い込む
 僕たちの想い出
 ふたりの足跡はそのままに
 ふたりの心もそのままに

 すこしくらいの過ちなら
 かばいあって生きていける
 大切なものがなになのか
 わかっているから

  日傘をくるりとまわして
  魔法をかけて
  若い頃へ戻れたらいいのにね
  二十歳くらいの姿になってさ

  そうしたらぼくたち
  どんな恋をするのだろう
  情熱のおもむくままに
  抱きしめ合うのかな
  なにも考えずに
  けんかばかりするのかな

 日傘が落とす影
 ゆらゆらとゆれる影
 僕たちふたりの影
 ほほえみ寄り添う影

 遠くとおくつづく浜辺
 波音をつつみこむ陽射し
 君は白いレースの日傘を
 ゆらゆらと揺らして


あんなことがあったあと

2017年08月22日 01時15分15秒 | 詩集

 あんなことがあったあとも
 私なりに生きてみました
 誰よりも愛してくれた
 あなたから遠く離れて
 ひとりきりになりたくて

 あんなことがあったあと
 もう生きてはいけないと
 思いつめた私でしたが
 千切れた心を針金で縛って
 こらえていました
 
 あんなことがあったあとも
 私なりに考えてみました
 どうしてああいうことになったのか
 そのわけを知りたくて
 本当の意味をわかりたくて

 あんなことがあったあと
 ちっぽけでおろかな
 取るに足りない私が身に沁みました
 悲しい自分と悲しい人たちを
 見すぎてしまったのかもしれません

 ずいぶんさまよい歩き続けて
 もうこれで終わりにしようとした頃
 大切な人に出会いました
 今ではその人と歩く道が
 自分の道なのだと素直に思えます

  今宵はそよ風です
  うれしいような
  さびしいような
  こころよいような
  せつないような
  淡い色の織り交ざった
  そんな夜風です

  あんなことがあったなんて
  ひたすら悪い夢を見ていたようで
  昔のことだとも思えなくて
  ただうなされていただけのようで

 あんなことがあったあとも
 人は生きるのですね
 人は生かされ続けるのでしょう


Tボーンステーキとシーフードリゾット(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第371話)

2017年08月15日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 イタリアのチンクエテッレへ行ってきた。
 チンクエテッレはイタリア北西部のリヴィエラ海岸沿いの漁村だ。絶壁の海岸沿いに村が点在している。青い海、断崖絶壁、石造りの家並みの取り合わせが美しい。風光明媚なので観光地として人気が高く、夏になると大勢の人が訪れる。
 チンクエテッレの村のひとつに宿を取り、村々を散策した。鉄道が走っていって村巡り用の一日乗り放題券を販売しているのでそれを買い、列車に乗って一駅ごとに移動して村を見て回った。日中、どの駅も観光客でにぎわっていた。
 海辺の漁村もあり、断崖のうえに立った村もある。海辺の風景もきれいだし、崖のうえからの見晴らしもいい。散歩しているだけでとても気持ちいい。どの村も観光客がぞろぞろ歩いていた。
 風景もいいけれど、ここでのいちばんの楽しみは、おいしい料理だ。
 お昼はアサリパスタを頼んだ。アサリもおいしいし、麺のゆで方がちょうどよかった。塩味も利いている。こんなにおいしいパスタはほんとうに十何年振りだなと思いながらぱくついた。
 夕食は、Tボーンステーキとシーフードリゾットを注文した。
 ステーキは五センチほども厚みがあって、肉汁がたっぷり出ている。大きさは両手を広げたくらい。二人前から三人前の分量だ。家内と二人で分け合って食べた。
 シーフードリゾットは、大きな土鍋にエビや貝や貝柱がたっぷり入っている。いい味だ。僕はおいしくいただいたのだが、塩味がききすぎてすこししょっぱく、生米から作るために米がいささか硬い。リゾットは好みがわかれるところかもしれない。
 食後はカプチーノ。イタリアではどこで飲んでもはずれがない。
 たらふく食べたあと、海辺をぶらぶら散策しながら宿へ帰ったのであった。































(2016年8月19日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第371話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


フィレンツェのジプシー(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第370話)

2017年08月14日 06時30分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 若い頃、フィレンツェへ旅行してジプシーに襲われたことがある。街をぶらぶら歩いていると、道端でたむろしていたジプシー女三人がいきなり「きゃー」と奇声をあげて僕を取り囲んだ。ジプシー女は腕を取ったり、リュックを引っ張ったり、足を触ったりしてくる。
 ――財布をすりにきたな。
 そう思った僕は、「この野郎っ!」と叫びながら、ジプシー女を押しのけて脱出した。さいわい、なにもすられずに済んだ。
 僕の同級生に、イタリアへ結婚旅行しに行ったカップルがいた。イタリアで結婚式を挙げて、そのままイタリアで新婚旅行する。なんともロマンティックな話だ。無事に式を終えてフィレンツェへ行ったのまではよかったのだが、彼らもおなじようにジプシーに襲われた。その時、いきなり襲撃されてわけのわからなくなった同級生は新妻を捨ててひとり脱出し、彼の新妻は自力でジプシーから抜け出した。なにも取られずに、けがもせずに無事だったのだけど、
「あなたは私を守ってくれなかった」
 と、同級生の奥さんはとても悲しそうだった。新婚旅行でそんなことになったらさぞショックだろう。
 フィレンツェは非常に美しい街だけど、ジプシーはいささか厄介だ。僕は周囲を見張りながら家内の手をつないでフィレンツェの街を歩いた。
 フィレンツェはあちらこちらに博物館がある。適当に街をぶらつきながら、何箇所か博物館へ入った。様々な彫像や彫刻が展示してあったけど、僕はいろんな人物を描写したレリーフがいちばん興味深かった。職人を描いたのが多くて、その作業の様子が面白かった。教会もたくさんあるから、通りすがりの教会へ入ったりもした。どの教会もなかは荘厳に飾ってあるので見ごたえがある。大聖堂のすぐそばに建っている塔に登ると、フィレンツェの美しい街並みを一望できた。
 街を歩いていると、白装束の異様な人が歩いている。顔もまっしろに塗りたくって、まるで歩く大理石の彫像のようだ。
 ――ジプシーだ。
 僕は家内の手を引っ張って、彼らの反対側を歩くようにした。白装束もジプシーの作戦だ。そうやって観光客の気を引いて、まずは握手を求める。そして、ハグしたりしながら、お金をねだったり、財布をすったりするのだ。家内には、ジプシーがいかにして悪さするのかをレクチャーしておいたのだけど、家内は陽気な性格の人だから握手してと手を差し出されれば、握手してしまうかもしれない。そうなるとあとが面倒だ。
 そうして何度かジプシーと距離をとるようにした。白装束のジプシーの道の反対側へ行ってほっと息をついた瞬間、目の前に別の白装束が現れた。
 ――うわっ。
 虚を突かれて僕はあせった。
 太っちょのおばちゃんジプシーだ。ジプシーはほほえみながらおどけた仕草で手を差し出す。家内は案の定、面白いなあという感じできゃははと笑う。そのまま握手してしまいそうだ。
 僕は家内の手を引き、ダッシュして逃れようとした。あまりに急ぎ過ぎたので、家内の胸にかけていたサングラスがぽとりと落ちた。ジプシーは落ちたサングラスを指してあははと笑う。僕は急いでサングラスを拾った。
 ジプシーに一本取られてしまった。



















(2016年8月15日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第370話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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記事の調子のよすぎるウェイター(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第369話)タイトルを入力してください(必須)

2017年08月13日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 夏休みをとって、家内とふたりでイタリアへ出かけた。
 まずはローマへ行き、コロシアムや古代の市場跡といった遺跡を見て回った。ローマの街の中にはごく当たり前のように帝国時代の遺跡がある。石造りだからそのまま残ってしまうわけだけど、過去と現在が何重にも交錯していてなんとも不思議な空間だった。
 夕方、宿の近くのレストランへ入った。道にテーブルが出してあり、そこで食事する。涼しくて気持ちいい。
 若いウェイターを呼びとめて、イタリアビールにパスタやピザを注文すると、イタリア流イケメンのウェイターは、
「日本人なの?」
 と僕に訊く。そうだよと答えると、
「僕は日本が好きなんだ。僕の飼っている犬の名前は『ジャパン』ていうんだ」
 と悪びれる様子もなく言う。僕はあっけにとられ、そうなんだとだけ返しておいた。そんなことを言ったら、喧嘩になってもおかしくないんだけどな。
 このウェイターは道行く人に、
「フリー・フード」
 と叫びながら客を呼び込んでいた。レストランが「ただ飯を喰わせる」といっても、それでその店に入ってみようかなという気になるわけがないじゃない。
 あれだけ適当なことを言っても生きていけるんだと思うと、ちょっぴり羨ましくもなったのであった。














(2016年8月14日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第369話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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豆腐のタイ風チリソースがけ(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第368話)

2017年08月12日 06時45分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 家族で上海料理のレストランへ行ったとき、おいしい豆腐料理があった。たぶん、その店の創作料理なのだろうけど、家庭でも簡単に作れるので、上海人の義母が時々作って出してくれる。
 まずはパン粉をフライパンでかりかりに炒める。お好みに合わせて、ガーリックスライスをいっしょに炒めてもいい。豆腐一丁まるごとを皿にのせ、豆腐のうえに炒めたパン粉をのせる。そのうえから、タイ風チリソースをかければできあがり。タイ風チリソースはタイ物産展で買ってきた。
 さっぱりしているし、ぴり辛だから暑い夏は食も進む。ビールをひと缶開けて、つまみにするのもいい。
 なお、レストランでのこの料理の名前は「你没吃过我的豆腐」というものだった。直訳すれば、「あなたはわたしの豆腐を食べたことがないのね」となる。もちろん、この訳は間違いではない。だが、中国語で「吃豆腐(豆腐を食べる)」とは、「おっぱいを触る」という意味の隠語でもある。豆腐のやわらかい感触から乳房を連想するわけだ。
 なので、この料理名は「あなたはわたしのおっぱいを触ったことがないのね」というのが正確な訳になる。なんとも直截な誘惑の言葉だ。豆腐料理にこんなネーミングをつけるのも、上海っ子のユーモアといったところだろうか。







(2016年8月1日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第368話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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去りゆくものたちよ

2017年08月11日 06時45分45秒 | 詩集

 消えていく
 失せていく
 俺の心から
 逃げていく
 去りゆくものたちよ

 夏の光がつらぬく
 八月の路上
 強すぎる光は毒さ
 心の奥で
 なにかがはじけた
 そばにいるお前を
 抱きしめようとは思わない
 もうお前を愛せない

 やり直すのは
 時間の無駄さ
 そこに意味など
 なにもありはしない
 出逢ったことも
 抱きしめあったことさえ
 お笑い種だと
 吐き捨ててしまえばいい
 もうお前を愛さない

  焼けつく暑さが
  うんざりさせる
  お前の涙が
  わざとらしい
  べとつくのは
  ごめんだね
  どこか遠くへ
  行ってくれ

 ふたりのすべてを
 忘れ去る
 憎むのは未練の証拠
 そんなものはいらない
 好きでもなければ
 嫌いでもない
 愛は死なない
 ただ消え去るだけ

 消えていく
 失せていく
 俺の心から
 堕ちていく
 去りゆくものたちよ
  去りゆくものたちよ


フランスへ厄介払い(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第366話)

2017年08月10日 01時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 上海へ里帰りしている家内の姪が友達と遊びに出かけるというので繁華街まで送っていった。我々夫婦はその足で買い物をする予定だった。姪っ子は高校二年生だ。
 タクシーに乗っていると、姪っ子は友達に電話を掛ける。ふだん、家の中で姪っ子は内弁慶全開で騒いでいるのだが、友達へ電話する時は、華やいだかわいらしい声を作る。お人形さんのような声だ。
「あなた、この声をどう思う?」
 家内が訊いてくるので、
「かわいいふりをしてるな」
 と僕は率直に言った。
「あなたはこういうのが好きなんでしょ」
「若かった頃は、かわいいなって思ったよ。だけど、今振り返ってみると、なんだかだまされていたような気がしないでもない。かわいいふりをする裏側を見抜けていなかった」
「女の子はみんなかわいいふりをするものよ」
 姪っ子たちの集合場所へ行くと、彼女の同級生が集まっていた。四五人のグループでいっしょに遊ぶようだ。そのなかに男の子が一人いた。すうっと鼻の通ったいい顔立ちをしている。育ちのよさそうな、勉強のできるおぼっちゃんといった風貌だった。姪っ子を送り届け終え、僕たち夫婦はアイスコーヒーを飲みに行った。
「姪っ子はね、あの男の子と遊ぶのが好きなんだって」
「年頃だから、気になる男の子はいるだろうね。彼氏がいてもおかしくない歳だもの。彼は性格がよさそうだし、付き合ってみればいいんじゃないの?」
「違うのよ。そんなんじゃないわ。彼は男しか好きになれないんだって。完全に女の子の性格なのよ。それで、姪っ子とは気が合うみたい」
「なるほど。そういうことか」
「でもね、あの男の子はとてもかわいそうな子なのよ」
 家内は彼の家庭について語りだした。
 彼の父親は上海市内のとある会社のオーナー社長をしている。商売に成功して、かなりの資産家だ。ところが、彼の父親は中国の成金にありがちな行動を取った。彼の母親と離婚して、若い娘と再婚したのだ。家内によれば、中国の成功した男は、元の妻を捨てて若い娘と再婚したがるものなのだそうだ。どれだけ若い妻を抱えているかが成功者のステータスにもなるのだとか。よくわからない基準だけど、彼らの間ではそうなるのだそうだ。
 父親と再婚した若い娘は彼の異母弟を産んだ。このために、父親にとって彼は不要な存在となってしまった。父親は彼を厄介払いするために、彼をフランスへ留学させることにした。夏休みの終わりには、彼はフランスへ旅立たなくてはならない。
「お前の弟をじっくり育てたいから、お前は邪魔だ。だからフランスへ行っておけ、もう中国へは帰ってくるな、俺の邪魔をするな、ということよ。家も会社も弟のほうに継がせるつもりなのよ」
 家内は言った。
 歴史の本を読んでいると、若い妻を娶り、新しい子供のできた殿様や王様が、前妻の産んだ上の子を厄介払いして、新しい子供のほうに家督を譲る話が手を変え品を変え繰り返し出てくるけど、それとまったくおんなじだなと思った。
 彼は人の羨むようなお金持ちの家に生まれた。恵まれているはずだった。だが、母親は父に捨てられ、父親が必要な時期に、父親にも捨てられた。彼は性同一障害だということだから、普通の人に比べれば生き方がいささかむつかしくなる。それだけに、よけいに父親の支えが必要だろう。
「それが彼の運命ということなんだろうけどねえ」
 話を聞いていて複雑な気持ちになった。フランスへ留学したくてもさせてもらえない人はいくらでもいるし、彼はお金には不自由しないという恵まれた境遇にある。だけど、今の彼が幸か不幸かといえば、決して幸せだとはいえないだろう。姪っ子たちの集合場所で見かけた彼はにこにこ笑っていたけど、心は深く傷ついているはずだ。
 それが彼の運命で、つまりは、彼自身が乗り越えるべき試練だとすれば、彼はその壁を乗り越えるしかないわけなのだけど。普通の男の子が背負うには酷な課題ではあるけれど。
「お金があるのと幸せなのは、まったく別のことなのよ」
 上海人の家内は常々こう口にする。その意味がまたひとつわかった気がした。


(2016年7月25日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第366話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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落ちるシャッター(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第364話)

2017年08月07日 06時15分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 勤め先では倉庫のシャッターが時々落ちた。
 倉庫の出入口に取り付けたモーター付の自動巻き上げ式のシャッターだ。わりと広い倉庫なのでシャッターが十数台ある。危ないったらありゃしない。ひと巻きのシャッターがまるごと、人の一メートル横にどすんと落ちたこともあった。頭の上に落ちでもしたら、たいへんだ。あんな重いものに人間が耐えられるわけがない。下手をすれば死者が出てしまうかもしれない。
 以前、倉庫のシャッターのメンテナンスは別の部門の別の課長が担当していたのだけど、そいつが悪党でひどいことをしていた。メンテナンスの時期になると、自分の息のかかった業者にメンテナンスをさせる。ところが、その業者はシャッターの点検や修理の技術がない。下からちょっと見上げて、棒でシャッターをつっつき、シャッターの両サイドの溝にグリースを塗ってそれでおしまいだった。料金はかなり高い。そのぶん、業者からキックバックをたっぷりもらっていたに違いない。
 そんなものだから、シャッターは壊れっぱなしだった。ひどいときには、悪党の使っている業者が点検の際に棒でシャッターをつっついて壊してしまい、挙句の果てはその修理代金まで取られそうになったことがあった。悪党にしてみれば、そのほうが都合がいい。壊れれば壊れるほど、修理代のキックバックを得られるからだ。悪党はキックバックをもらうことが目的だから、きちんと修理して使えるようにしようという気はさらさらなかった。
 シャッターは落ちるし、壊れたシャッターは夜、開けっぱなしたままだ。いくら警備員がいるといっても、これでは泥棒にいらっしゃいと言っているようなものだった。あまりにもやばすぎるので、悪党からシャッターメンテナンスの権限を横取りして、僕のチームでメンテナンスすることにした。僕の下には、現場上がりのやんちゃな係長がいる。やんちゃだからゴン太君としておこう。ゴン太君は広東省の海辺の漁村で育った。中学を出てから現場一筋で叩き上げた係長だ。馬力がある。
 ゴン太君がいろいろと業者を探して、シャッター製造工場のメンテナンス部門の担当者にきてもった。新しい業者が点検したところ、あちらこちらで不具合箇所が見つかった。取り付け部分の金具がすっかり錆びてぐらぐらしているところもあれば、溶接が取れてしまったところもある。ひどい位置ずれを起こしているところもある。シャッターの開閉を繰り返すうちに斜めに巻き上がるようになってしまい、そのせいで軸がねじ切れそうになっているものもある。約半分のシャッターに重大な問題があった。予想はしていたけど、かなりひどい。よく今までけが人が出なかったものだ。
「ボス、悪党はほんとにひどいよ」
 ゴン太君はやれやれと首を振る。
「まったくなあ。あいつはキックバックをもらうだけだったからな」
 僕はぼやいた。
「ボス、でもさ、今度の業者は料金は三分の二ですむよ。安いし、ちゃんと仕事をしてくれる」
 ゴン太君が修理の手配をして、シャッターの問題はひとまず解決した。職人気質のゴン太君は仕事がうまくいって満足してた。
 新しい業者に定期的に点検してもらい、まめにメンテナンスすることにした。万が一に備えて、各シャッターの両脇に鉄柵を取りつけ、シャッターが脱落したとしてもその鉄柵で受け止め、地面へ落ちないように対策を施した。
 悪党はそのうち会社を首になり、我々を邪魔することもなくなった。全社に向けて我々の悪口を書いたメールを流されたりして、えらく迷惑したものだった。裏の利権を取り上げられれば、それくらいの仕返しは当然するだろうけど。悪口くらいですんでよかたともいえる。
 シャッターの状態はずいぶんよくなったのだけど、いくらこまめに修理してもやはり故障が出る。案の定、シャッターが脱落して鉄柵で受け止めたこともあった。
「やっぱり、シャッターそのものの質が悪いんだな」
 僕はゴン太君に言った。
「ボス、もう古いもの」
「古いっていってもまだ五年だけどねえ」
「業者は新しいのに交換したほうがいいって言ってるよ」
「そうしたいのはやまやまだけど、経費がかかりすぎるからむつかしいな。会社の認可が下りないよ」
 中国は基本的に「安かろう、悪かろう」で間に合わせる。だから、シャッターも取りつけてから五年しかたっていないのにぼろぼろになって修理が追いつかなくなる。シャッターだけではなく、基本的に建物は五年も経てばかなりぼろぼろになってガタがくる。メンテナンスに手間をかけるのは嫌だから、いい品物を使ってしっかり作っておこうという発想もあまりない。目先のコストが最優先になって、結局「安かろう、悪かろう」の製品を使ってしまう。
 点検するのも手間だし、修理するのも手間がかかる。その分の力をほかに使えば、いろんなことをもっとよくできる。いつまでも「安かろう、悪かろう」路線を続けるわけにもいかないとは思うのだが。




(2016年7月21日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第364話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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人さらいの映像を見ながら(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第363話)

2017年08月01日 01時15分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

「ねえ見てよ」
 スマホを持ってきた家内がある動画集を僕に見せた。
 中国の街角には、いたるところに警察(公安)が設置したカメラがあり、派出所へ行くと奥にそのモニター画面がずらりとならんでいるのが見えたりするのだけど、その中国各地の街角の監視カメラの映像をあるテーマに沿って編集したものだった。
 テーマは「人さらい」。
 中国各地で監視カメラがとらえた人さらいの現場が次から次へと流れる。

 人通りの多い白昼の商店街。
 三歳くらいの子供が母親の近くでぶらぶら歩いている。傍にいた中年の男がその子をあやすように手を差し伸べたかと思うと、やおら抱きかかえて連れ去ろうとした。あわてた母親が我が子に飛びつき、男ともみ合いになるが、男は母親を振り払い、その子を抱いたままどこかへ走り去った。

 小さな売店の前でよちよち歩きの子供が一人で遊んでいる。
 乗用車が止まり、ドアを開けて男が飛び出してきた。男は、さっとその子を抱いて車へ連れ込む。車は急発進して走り去る。あっという間のできごとだった。

 住宅街の通り。五十過ぎの初老の女性が赤子を抱いてあやしている。おそらく彼女の孫だろう。丸刈りのいかつい男が近づいたかと思うと、初老の女性の腕から強引に赤子を奪い取ろうとする。初老の女性は必死になって赤子を手放すまいとふんばる。しばらく揉みあいになった後、男はあきらめて走り去った。周囲には何人か人がいたが、傍観するだけだった。

 幼稚園くらいの子供が歩道を一人で歩いている。後ろから二人乗りのスクーターがゆっくり近づく。後ろに坐った男が腕を伸ばして子供の襟を摑んでさっと片手で吊り上げた。子供をさらったスクーターはそのまま走りさった。

 人さらいの動画は十数本あったのだけど、最後まで観ることができなかった。見るに堪えない。小さな子供を持つ親なら背筋が凍りつくような映像だ。
 人さらいはどれも白昼堂々と子供をかっさらおうとする。それもかなり荒っぽい手口だ。鬼畜としか言いようがない。
「今の中国は道徳の底が抜けちゃっているのよ。こんな社会に前途なんてないわ」
 家内はぽつりと言い、
「これでわかったでしょ」
 と僕を見つめる。
「人さらいだらけなんだね。わかったよ」
 僕はうなずいた。
 中国では小学生の通学の際、親か祖父母が必ず送り迎えをする。朝の登校時間になれば小学校の前の道に子供を送りにきた車が押し寄せて渋滞する。下校時間には門の前で家族が子供を待ち受ける。親は仕事をしているから、たいていは小学生の祖父母だ。彼らが必ず付き添って連れ帰る。僕は家内に、「そんな過保護なことをすると子供のためにならないからやらないほうがいい」と言ったことがあった。
「日本だと子供が自分でバスや電車に乗って通学するのが当たり前かもしれないけど、中国でそんなことをしたら、すぐにさらわれてしまうわよ。誰だって子供を失いたくないでしょ」
「まあね。国情が違うってことだね」
 僕は言った。
 身代金目的の誘拐もないわけではないけど、その数は少ない。人さらいは身代金の要求などといったまどろっこしいことをせずに、そのまま子供を売りさばいてしまう。
 赤子の場合は農村へ売る。子供のいない夫婦が買うのだ。とくに男の子は跡継ぎにできるため高く売れる。言葉を覚える前の子供は腕をへし折ったり、足を切ったり、目をえぐったりしてわざと身体障害者にしてしまい、街角で物乞いをさせる。乞食はかなりのいい稼ぎになる。その子は大人になっても、一生物乞いとして生きてゆかなければならない。言葉を覚えた子供は腑分けして臓器を売る。女の子の場合は売春させることもある。
「さらわれた子供を探すために仕事をやめて、食うや食わずの生活をしながら十何年も駆け回っている親だっているのよ。警察へ届け出たところで、まじめに捜索してくれるわけじゃないしね。こんな風だから、中国ではお金持ちになるとみんな先進国の治安のいい場所へ移住しちゃうのよ」
 話を聞いていて悲しくなってしまった。
「中国はどうしようもない」といったことは、家内に限らず多くの中国人が口にする。自分の国の問題は根深いとわかっているのだ。だが、誰も変えようがない。身内とお金しか信用できないという社会の仕組み――つまり、他人をまったく信頼できない仕組み――になっていて、そこから誰も逃れようがない。逃れるとすれば、外国へ行く場合だけだ。
 経済発展した中国は豊かな国になった。だが、経済発展の先に出現したのは、安心して子供を育てられない社会だった。どこの国にも暗黒面はあるものだし、中国より治安の悪い国はいくらでもあるけど、いつも人さらいにおびえながら暮らさなければならない社会は、決していい社会とはいえないだろう。他人をまったく信頼できない社会は恐ろしい。もしかしたら中国人は悲しい国の悲しい人民なのかもしれない、とふと思った。




(2016年7月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第363話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
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