学生の頃、十九世紀のロシア文学にはまって、ドストエフスキー、トルストイ、プーシキン、チェーホフといった作家たちの作品をいろいろ読んだ。
といっても、原文では読めないからほとんど翻訳で読んだ。ロシア語をすこしかじったので、チェーホフのいくつかの作品は辞書を引きまくって読んだけど。
ひと口に翻訳といっても訳者によって文章が違う。
いちばん面白い訳文は、小説家兼翻訳家の神西清氏によるものだった。
神西訳は文章がこなれているので、すらすら読めてしまう。たぶん、意味をきちんと把握して腹で消化したうえで、自分の言葉に置き換えているのだろう。よほどセンスがなければできない技だ。
ただし、神西訳には原文にない文章がでてきたりもする。
ある小説のラストシーンで非常に盛り上がる描写があった。どんなふうに書いてあるのだろうと思って原文を確かめてみたら、そんな文章はどこにもない。なんと、神西氏がワンセンテンスを創作して挿入してしまったのだ。たしかに神西訳のほうが原文より盛り上がるのだけど、訳者が勝手に文章を追加してしまうなんて今では許されない行為だ。昔はおおらかだったのだろう。
いちばんしっくりくる訳文は、関西出身の訳者が翻訳したものだ。
僕が大阪人だからだと思うのだけど、文章のリズムがなんとなくあう。読みやすかった。ほかの地方の人が読みやすいかどうかはわからないけど。
翻訳文は読みやすいことにこしたことはないのだけど、それだけでいいのかという議論もあって、できるだけ原文の雰囲気を訳文で再現しようとする訳者もいる。
ドストエフスキーの原文は、実は俗語や卑語のオンパレードで汚い言葉だらけだ。翻訳ではそこがそげ落とされてしまうから、原文を読むまではそんなことを思いもしなかったけど。原文で読んでみないとわからないこともけっこうあったりする。
江川訳の『罪と罰』は俗語や卑語を江戸の下町言葉に訳すことでその雰囲気を再現しようと試みた野心訳だ。
ただ、僕は読みにくかった。サンクトペテルブルグの庶民が江戸っ子のようにしゃべるというのがしっくりこない。舞台がサンクトペテルブルグなのか江戸なのか、わからなくなってしまう。おまけに、僕は大阪人なので江戸の下町言葉にもなじみがない。翻訳に方言を使うというのはじつにむずかしい。その方言になじみがない人は、違和感ばかりを感じて小説の世界へ入っていけなくなる。翻訳は標準語を使うのが無難だろう。というよりも、よほど特殊な場合を除いて、方言で訳すのはそぐわないと思う。
先日日本へ帰った時、遅ればせながら、亀山訳のドストエフスキーの作品を買ってきた。数年前話題になった新訳だ。
どんな訳文なのか、読むのが楽しみだ。
(2012年2月20日発表)
この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第157話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/