風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

春節の日の神戸中華街

2013年02月20日 22時20分14秒 | フォト日記



 神戸中華街の入口。
 2月10日春節(中国の旧正月)の日に神戸中華街へ行ってきた。
 ほんのちょっぴりでも春節気分を味わってみたかった。




 豚まん売場。




 中華街はすごい人出だった。
 元旦の初詣みたいだ。




 催し物をやっていた舞台。
 残念ながら歩きながらでしか観ることができなかったから、観たのはほんのちょっとだけ。
 それでも、すこしは春節の気分を味わえたかな。


翻訳文の味わい(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第157話)

2013年02月16日 08時15分45秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 学生の頃、十九世紀のロシア文学にはまって、ドストエフスキー、トルストイ、プーシキン、チェーホフといった作家たちの作品をいろいろ読んだ。
 といっても、原文では読めないからほとんど翻訳で読んだ。ロシア語をすこしかじったので、チェーホフのいくつかの作品は辞書を引きまくって読んだけど。
 ひと口に翻訳といっても訳者によって文章が違う。
 いちばん面白い訳文は、小説家兼翻訳家の神西清氏によるものだった。
 神西訳は文章がこなれているので、すらすら読めてしまう。たぶん、意味をきちんと把握して腹で消化したうえで、自分の言葉に置き換えているのだろう。よほどセンスがなければできない技だ。
 ただし、神西訳には原文にない文章がでてきたりもする。
 ある小説のラストシーンで非常に盛り上がる描写があった。どんなふうに書いてあるのだろうと思って原文を確かめてみたら、そんな文章はどこにもない。なんと、神西氏がワンセンテンスを創作して挿入してしまったのだ。たしかに神西訳のほうが原文より盛り上がるのだけど、訳者が勝手に文章を追加してしまうなんて今では許されない行為だ。昔はおおらかだったのだろう。
 いちばんしっくりくる訳文は、関西出身の訳者が翻訳したものだ。
 僕が大阪人だからだと思うのだけど、文章のリズムがなんとなくあう。読みやすかった。ほかの地方の人が読みやすいかどうかはわからないけど。
 翻訳文は読みやすいことにこしたことはないのだけど、それだけでいいのかという議論もあって、できるだけ原文の雰囲気を訳文で再現しようとする訳者もいる。
 ドストエフスキーの原文は、実は俗語や卑語のオンパレードで汚い言葉だらけだ。翻訳ではそこがそげ落とされてしまうから、原文を読むまではそんなことを思いもしなかったけど。原文で読んでみないとわからないこともけっこうあったりする。
 江川訳の『罪と罰』は俗語や卑語を江戸の下町言葉に訳すことでその雰囲気を再現しようと試みた野心訳だ。
 ただ、僕は読みにくかった。サンクトペテルブルグの庶民が江戸っ子のようにしゃべるというのがしっくりこない。舞台がサンクトペテルブルグなのか江戸なのか、わからなくなってしまう。おまけに、僕は大阪人なので江戸の下町言葉にもなじみがない。翻訳に方言を使うというのはじつにむずかしい。その方言になじみがない人は、違和感ばかりを感じて小説の世界へ入っていけなくなる。翻訳は標準語を使うのが無難だろう。というよりも、よほど特殊な場合を除いて、方言で訳すのはそぐわないと思う。
 先日日本へ帰った時、遅ればせながら、亀山訳のドストエフスキーの作品を買ってきた。数年前話題になった新訳だ。
 どんな訳文なのか、読むのが楽しみだ。




(2012年2月20日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第157話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

花に呼びかけながら水をやると (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第156話)

2013年02月09日 08時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 花にやさしく呼びかけながら水をやるときれいに咲く、と誰かが言った。
 やさしくされたほうが気分がいいから、花は元気になってきれいな花を咲かせるのだとか。人間だって、そうされたほうがいいに決まっている。
 なるほどとみんながうなずいていたところへ、理系の友人がこう言った。
「やさしく呼びかけようが、呼びかけまいが、そんなのは花に影響しないよ。やさしく呼びかけるってことは、それだけ人間のほうが丁寧に世話するってことだろ。丁寧に育てたら、当然、花はきれいに咲くよ」
 夢がないといえば夢がないけど、冷静な分析だ。
 僕としては、やさしく呼びかけたほうが花が元気になると思いたいのだけど、さてさて、どうなのだろう?



(2012年2月10日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第156話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

自分だけは変わらずにいられるから(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第154話)

2013年02月02日 01時27分41秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 好きだから小説を書いている。
 いわゆる、下手の横好きというやつで、いっこうに上達しない。進歩しないなと自分でも思う。
 小説で世界を変えられるはずもないけど、小説を書いていれば自分だけは変わらずにいられる。僕にとって、小説を書くという行為は、大切なことを確認するための作業なのかもしれない。
 世の中が嫌な方向へ流れていっても、自分だけは流されずにすむ。つらいことがあっても、信念だけは曲げずにいられる。こんなことをしていては、うまく世渡りできないのは当たり前なのだけど、それでいいと思っている。つまるところ、覚悟の問題だ。
 もちろん、僕はかなり不完全で不器用な人間だから、まだまだ足りないところだらけだ。人間もできていない。だから、できるだけ進歩しなくてはと思っているし、自分なりに努力もしているつもりだ。
 ただ怖いのは、よかれと思って努力したつもりが、逆にマイナスの方向へ働きはしないかということだ。「よいこと」をしたつもりが、反対に「悪いこと」のためにがんばっていた、なんことが往々にしてあるものだから。
 人間という生き物は悟りでも開かなければ、悪から逃れられないものだと思う。
 欲望がある限り、悪いことをしてしまう。自分の欲望をある程度満たさなくては生きていかれないから。世の中の大きな仕組みのなかで身動きが取れず、不本意とはいえ、すまないことをしなくてはいけないこともある。世の中の仕組みにある程度順応しなくては、生きていかれないから。すべての人にいい顔をするわけにもいかない。
 それは重々承知のうえなのだけど、自分だけは変わらずにいたいと思ってしまう。ままならない自分だけど、変わってはいけないことを変えてはいけないと思うから。
 小説を書きながら、こんなことをふと思った。




(2012年1月29日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第154話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

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