影はどこまでも追いかけてくる
誰かが追いかけてくる。
僕は薄暗がりを必死で逃げた。
振り返っても人の姿は見えない。ただ、誰かの影だけが見える。そいつが執拗に僕を追ってくる。強盗なのか、通り魔なのか、それはわからない。だけど、僕を狙っている。それだけはわかる。
思うように走れない。
足がもつれる。
目の前のドアを開け、部屋へ飛びこんだ。
その部屋は、実家の居間だった。
その光景は、あの日だった。
母親と弟が取っ組み合いをしている。母親は学校へ行きなさいと叱りつけ、弟はなんで行かなくちゃいけないんだと叫んでいた。酔って赤ら顔になった父親はあぐらをかいたまま嫌そうに顔を背けている。
弟が母の足を蹴る。
母親が悲鳴をあげる。
父親はざまあみろと皮肉に嗤った。
彼のゆがんだ表情を見た時、目の前の光景が急に遠ざかるような奇妙な感覚に襲われた。
――ここにいたら、自分がだめになる。
風船の空気が抜けるように、心がしぼむ。すべてが擦りガラス越しに映る影絵だった。
居間を満たしていたのは、家族の情愛の温かさでなく、相手を理解しようとする気持ちなどひとかけらもない憎悪と恣意だけだった。
母親は自分の都合の通りに弟を育てようとしていた。いや、世間の都合通りと言ったほうがいいだろうか。幼い頃から集団や規則になじめなかった弟は理解してもらえない絶望感から苦しみを募らせ、自己とも他者とも、誰とも折り合いをつけることができずにいた。父親は父親で、母が苦しむ姿に暗い歓びを覚えていた。父親は、自分の配偶者を受け容れることもできなければ、家族がどういうものなのかすら、わかっていなかった。彼にとって、自分がもった家庭はビールとつまみ付きのカプセルホテルのようなものだった。もしかしたら、自分の家族だという意識すらなかったのかもしれない。一つ屋根の下に暮らす人間がたがいに苦しめあう家族地獄だった。
父親は、やはり手酌でビールを飲んでいる。酒に逃げるのが得意技だった。情けない人だと蔑んだ。失望しか覚えない。そんなふうにしか思えない自分もむなしい。
僕は黙って背を向けた。
もうなにを言ってもむだなんだ。なにも変わらない。はっきり、そう悟った。
ここにいたら、自分がだめになるだけだ。
「ゆうちゃん」
目が覚めた。遥が僕を揺さぶっている。息が苦しい。口が渇く。
「夢か」
僕はまわりを見渡した。ふたりの家だった。
「うなされていたわ」
「ひどい夢だったから」
またあの夢を見てしまった。僕が家を出ようと決めた日の光景だった。遥と暮らし始めてから見たことがなかったのに。
流し台に立った僕はコップの水を一気に飲み干し、ベッドへ戻った。
すぐに眠ろうとしたけど、言いようのないざわめきと重圧感が心でとぐろを巻いていて、寝付けそうになかった。目覚まし時計の針は二時を指していた。
僕は、横向きになって遥の体を抱いた。肌さみしかった。
「眠れないの?」
遥は、首だけ曲げてじっと僕の顔を覗きこむ。
「目が冴えちゃった」
僕は夢のことを話した。僕が浪人生の頃にその夢をしょっちゅう見ていたことは、遥も知っていた。
「ゆうちゃんも苦しいのね。夢はただの夢よ」
遥は体を僕のほうに向け、子供を寝かしつけるように僕の背中を軽くはたく。すこし気分が落ち着く。
「家のことはもういいんだよ。帰るつもりもないし」
あのできごとがあった翌々日、僕は母の実家へ行き、祖父母といっしょに暮らした。浪人生活を送って東京へ出てくるまではしんどい思いもしたけど、今は遥とふたりで暮らすことだけを考えればいい。自分の明日を切り拓くために家を出たのだから。
飛騨の温泉から帰って二週間ばかりが過ぎていた。
完全に元通りとはいかないけど、遥の具合はかなりよくなった。遥が思い悩んだ様子を見せたら、僕はすぐに声をかけた。気持ちを軽く持ってと言ってから、抱きしめてキスする。それだけで遥は持ち直してくれた。すべての悲しみを潜り抜ければ着実で平凡な幸せの人生が見えてくると、今日読んだ本のなかに書いてあった。すこしずつでいいから、そんなものが見えてきてほしかった。
「今日ね、ささちゃんからメールがきたの」
遥はささやくように言った。
「なんて?」
東京へ戻ってすぐ、僕たちはオカマさんを招待しようとしたのだけど、彼は仕事が立てこんでいるからそのうち連絡すると言っていたのだった。
「なかなか休みが取れないんだって。だから、遥ちゃんのお家で新年会をしましょうって書いてあったわ。今月はむりだけど一月は絶対に行くからって」
「忙しいんだ」
「うん、お店の理容師さんが突然二人も辞めちゃったんだって。それで、ささちゃんはてんてこ舞いなのよ」
「二人もいっぺんに?」
「そうらしいわ。ひとりは彼氏と大喧嘩して地元へ帰っちゃったんだって。前から暴力を受けていたらしいの。青あざをつくって出勤していたこともあったそうよ。それで、とうとう耐え切れなくなったんだって」
「女の子を殴るのはよくないよ」
「彼氏が店まで追いかけてきて、たいへんだったみたい。ささちゃんがなんとか追い返したんだけど、お客さんからも苦情を言われたりして」
「お店にいられなくなったんだ。彼氏もそこまでしなくてもいいのにね」
僕は、オカマさんが必死になって女の子をかばっている姿を想像した。面倒見がよくてやさしい彼のことだから、同僚のために一生懸命、間に入ったのだろう。
いろんな愛の形がある。でも、殴ることが愛情の表現というのは、どうしても理解できない。愛情の裏返しなのだろうか? それとも、彼女のほうに男を殴らせるなにかがあるのだろうか?
遥とそのことをすこし話してみた。遥は、おたがいの心のなかで死んだ愛情が腐っているのよと言った。それが響きあうと暴力という形をとって現れるのだと。
「それでもうひとりはね、腕が動かなくなったんだって」
「怪我でもしたの?」
「怪我というか、職業病ね。一日中、はさみをしゃきしゃき動かしているでしょ。それで、腕が麻痺してしまったのよ。手が震えてはさみを持てないんだって。そんな理容師さんはけっこういるみたい」
「きつい仕事なんだね」
「その人はお客さんに人気があったし、指名もいっぱい取っていたから、店長さんは腕の具合のいい日だけでも出られないかって引きとめたんだけど、彼はこれを機会にきっぱりヘアデザイナーを辞めたいって言ったそうよ。調子が悪いのを隠してかなりむりしていたんだって。ささちゃんは気づいていたみたいだけど」
「麻痺する前に休んで治せばよかったのにね」
「センスがあって仕事のできる人だから、そうするわけにはいかなかったのよ。お客さんだって待っているし、その人がいないとまわりが困るもの」
「仕事が集まりすぎて、どうにもならなくなったんだ」
「プレッシャーにつぶされちゃったのね」
遥の話を聞きながら、人生にはいろんなアクシデントがあるのだと思った。僕も学校を卒業して世の中へ出れば、思いがけもしないことやままならないことにたくさん出くわすのだろう。暗い闇へ漕ぎ出すようで、ちょっと怖い気もする。でも、遥と暮らしていくためには、うまく泳ぎきらなければならない。希望はすぐそばにあるのだから、勇気を出していかないと。
「篠山さんが落ち着いたら、遊びにきてもらおうよ」
「そうしましょ」
遥はうなずいた。
「あと三週間でクリスマスだよね。今年はなにしようか」
僕はなにげなく言った。
「ふつうでいいわ」
遥は、満ち足りたように瞳を輝かせる。
「ふつうって?」
「教会へ行ってお祈りして、それから家で食事を作って、買ってきたケーキを食べるの」
「僕もそれでいいよ」
「オーブンが欲しいな。わたしがケーキを焼くのに」
「バイト代が入ったら、電子レンジといっしょになってるやつを買おうか。コンパクトタイプの」
「それじゃ、つまらないわ。どうせなら、ガスオーブンで火力の強いのがいいもの」
「それってけっこう大きいだろ」
「そうね。場所をとるわね」
「ここは、そんなオーブンを置くスペースなんてないしなあ。そのうち、ここより広いところへ引っ越したら買おうよ」
「わたしが買うわ」
「どうして? 半分ずつ出してふたりで買おうよ」
「使うのはわたしだけよ。ゆうちゃんは使い方がわからないでしょ」
「僕だってなにかできると思うけど」
「なにをつくるの?」
「焼き芋でもしようかな」
「さつまいもを焼くだけじゃない」
遥はくすくす笑った。
「ねえ遥、去年のクリスマスイブを覚えてる?」
「もちろんよ」
「ふたりで教会へ行ったよね」
「退屈じゃなかった?」
「面白かったよ。ミサってこんなふうにするんだっていうのがわかったし、讃美歌もきれいだったし。パイプオルガンの響きっていいね」
「それから、ミサが終わってから、わたしはここへきたのよね」
「そうだったね」
あの日、遥は初めて僕の下宿へやってきた。今ふたりで住んでいるこのワンルームマンションだ。
「なにを料理したんだっけ」
「鶏肉のソテーだよ」
「思い出したわ。そういえば、ゆうちゃんが鶏肉がいいって言ったのよね」
「カニかまぼこ入りのマカロニサラダも」
「今年はなにがいいかしら?」
「やっぱり、鶏肉がいいな。モモ肉の照り焼きはどう?」
「それを作ろうと思ったらオーブンがいるわ。できあいのを買ってくるしかないわね」
「それはつまらないな。ほかのにしようよ」
「手作りがいい?」
「決まってるよ。なにがいいか考えておくね――」
遥は答えない。もう軽い寝息を立てていた。僕は掛け布団を引っ張りあげ、遥の肩が隠れるように整えた。
去年のクリスマスイブはふたりともはしゃぎ通しだった。
遥の手料理を食べてから、小さなデコレーションケーキに蝋燭を立てて火を点《とも》した。電灯を消すと、二十本の祝福がきれいに浮かんだ。遥は十字を切り、胸の前で手を組んでお祈りの文句を唱える。僕も教えてもらって、もう一度いっしょに唱えた。灯火《ともしび》は、喜びがそこに宿ったかのようにゆらめく。たしかに、僕たちを祝ってくれていた。ふたりはいっしょに吹き消した。
遥が嬉しそうに手を叩く。
僕は遥を抱きしめ、頰に口づけた。
ふっと、ふたりの体が震える。僕たちは、思わず大きく息を吸いこんだ。あこがれと不安と恥ずかしさがないまぜになって、照れ笑いしてしまう。もう一度きつく抱きしめた。遥の心臓の鼓動が聞こえるようだった。僕と遥の心がひとつに溶けあうような、そんな気がした。
「今日は、ずっといっしょにいようね」
僕はささやいた。実を言えば、前の日から何回もその台詞を練習したのだった。
「わたしも、ゆうちゃんとずっといたいわ」
遥は、瞳を閉じたまま小声で答えた。
どれくらいそのまま抱きしめあっていただろう。なにもかも忘れて、無重力の宇宙を漂うような心地良さがあった。遥は、すべてを僕にゆだねてくれた。
僕も遥もはじめてだった。
遥の肌の熱とやわらかい吐息が僕をつつむ。
ぎこちないけど、混じりけのない愛だった。
いちばん素敵な夜だった。
遥は朝早く出かけていった。一時限目の授業があった。
僕の授業は昼からなので、朝はゆっくり過ごした。
朝食の洗い物を片付けて、録音しておいたNHKラジオ講座の英会話入門を一週間分まとめて聞き返した。スピーカーから流れるフレーズを繰り返しながら、ふとゆうべ見た悪夢を思い出したりしたけど、すぐに頭から追い払った。考えたくもなかったし、過ぎ去ったことをいつまで引きずっていても、ろくなことはないから。
英会話入門の復習が終わったところで、大学の図書館で借りたユング心理学関係の本を開いた。河合隼雄の『影の現象学』だ。人間の心がどうなっているのか、知りたかった。
不意に、チャイムが鳴った。
僕は本にしおりを挟んで机を離れ、ドアの覗き穴を見た。
グレーの背広を着たサラリーマン風の中年男が魚眼レンズに映っている。
前に一度、似たような背格好をしたこのマンションの不動産管理会社の社員が現れたことがあったので、管理会社がなんの用だろうと思いつつ、インターホンを取った。
「天草遥はいる?」
中年男の声はいくぶんうわずっていた。
「どちらさまでしょうか」
「いったい、君は誰なんだ?」
突然、彼は僕をなじる。
「誰はないでしょう。どちらさまか、言っていただけませんか」
男の物言いにかちんときた僕は、冷たく言い返した。男は一瞬押し黙り、口を開いた。
「天草遥の父親だ」
招かざる来訪者だった。よりによって、こんな時に。崩れかけていた遥の心がようやく持ち直してきたばかりだというのに。とんでもないことになってしまった。暗い底なし沼へ引きずりこまれるような気がして、僕は首を振った。どうしたものかと考えあぐねた。