風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

 風 ~わたしをはこんできたもの~

2011年08月26日 06時45分15秒 | 詩集

 風 わたしの体を吹き抜けて
 風 わたしの心を洗い流す
 風 わたしの心を透明にして
 風 そんな時ふと気づかされる

 風 水をゆらして
 風 花をゆらして
 風 木の葉をゆらして
 風 わたしをゆらす

 風がどこから始まるのか
 それはだれも知らないけど
 たぶん、風はわたしの生まれた
 遠いふるさとから吹いてくる
 風はわたしを生んだ
 母の吹く口笛

 風 わたしの体を吹き抜けて
 風 わたしの心を洗い流す
 風 わたしの心を透明にして
 風 そんな時ふと気づかされる

 わたしがなぜわたしなのか
 それはだれも知らないけど
 きっと、わたしの魂というものは
 母の息吹が滴になったもの
 わたしは風がはこんできた
 母の心の鼓動

 風 命をはこび
 風 命をはぐくみ
 風 命をいつくしみ
 風 わたしをここへ連れてきた

 風 野原をわたり
 風 森をわたり
 風 海をわたり
 風 わたしをどこへ連れて行く
 

ニーハオ――中国の田舎では使わない言葉(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第53話)

2011年08月24日 23時18分22秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 いちばん最初に習う中国語は、やはり「你好(ニーハオ)」だ。日本人の場合、わざわざ教えられなくても知っている人がほとんどだろうけど、語学はあいさつの言葉から学び始めるのがお約束だから、とりあえず勉強することになる。「你好」の意味は、もちろん「こんにちは」。
 ところが、日本人でも知っている「你好」が中国の田舎で通じなくてびっくりさせられたことがあった。
 以前、雲南省の農村出身の友人が帰省する時にいっしょに連れて行ってもらったのだけど、出会った村人たちに「你好」とあいさつしてみても、みんなきょとんとするだけだ。なにも話さず、ただ不思議そうに僕の顔を見る。ぽかんと口を開ける人もいる。
 不思議に思った僕が、
「いくら標準語が通じにくいといっても、みんな你好くらい知っているよねえ」
 と友人に訊いてみると、
「このあたりじゃ你好なんて言わないわよ。あいさつする時は『ご飯を食べた(吃饭了吗)?』とか『どこへ行くの(你去哪里)?』って言うものなのよ」
 と、説明してくれた。
 田舎の農村のことなのでみんな顔見知りだから、そもそも知らない人にあいさつをする機会がない。だから、彼らの方言にはそれにあたる言葉もない。日本語で言えば「こんにちは」という言葉がないようなものだ。
「使い慣れない言葉で呼びかけられたから、みんなびっくりしちゃったのよ」
 彼女は楽しそうだった。
 夜、村のおじさんたちといっしょにお酒を飲んだ。
 おじさんたちは、
「あいさつすんときはやな、你好って言うんや。これからは標準語くらい話せんとあかんなわな」
「そうやで。これからの時代はやっぱり標準語やで」
「標準語を話せたら誰とでも話ができるしな」
「当たり前やん。標準語は中国人共通の言葉なんやから」
 などと口々に言い、お互いに肩を叩きあって盛り上がる。
「你好、你好。カンパーイ」
 挙句の果ては、你好という言葉を肴にして乾杯までしてしまった。
 いったいどこの国の人やねんとツッコミたいところだけど、国土も広大だし、十三億人もの人口がいるのだから、全員に同じ言葉で話しましょうといってもむりがあるのだろう。あるいは、日本人が「これからは英語くらい話せなくっちゃねえ」と言うのと似ているのかもしれない。実際、おじさんたち自身はがんばって標準語で話しているつもりなのだけど、訛りがきつくてよくわからないことも多かった。会話に行きづまると、友人を呼んで標準語と方言の通訳をしてもらった。もっとも、言葉が通じなくてとんちんかんなやりとりになっても、それがまたおかしくて笑い転げたりもするのだけど。あたたかく迎え入れてくれて楽しかった。
 翌日、村を散歩していると、
「你好っ」
 と笑顔で呼びかけられた。ゆうべいっしょに酒を飲んだおじさんだった。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第53話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


ダムの下のプール

2011年08月20日 06時46分23秒 | フォト日記

 広東省の郊外の山へハイキングに行ってきた。



 亜熱帯の真夏のハイキング。めっちゃ暑い。







 山間のダムの下にある仕切り壁(?)が、ちょうどいい具合にプールみたいになっている。地元の人たちが泳いでいた。お腹の出たお父さんが小さな娘に浮き方を教えたり。おじいさんが孫に平泳ぎを教えたり。みんな涼しそうだ。わかっていたら海水パンツを持ってきたのに。おしいことをした。




 ダムのそばを抜けて渓谷沿いを歩く。靴を脱いで足を踏み入れたら、ひんやりして気持ちいい。山登りで火照った体をいい具合に冷ましてくれた。




 赤いトンボ。昆虫のことはあまりくわしくないのだけど、日本の赤とんぼとは種類が違うような気がする。なんていう名前なんだろう?





Shangri-La

2011年08月13日 07時00分15秒 | 詩集


 小麦畑色づく小川のほとり
 丸太の輪切りに腰をおろして低い空を見る
 折り重なる山なみ 湧き立つ入道雲
 その遥か南に君住む街

 石畳の坂道 手を繋いでのぼったね
 柔らかい温もりに心がときめいた
 たき火をかこんで納西《なし》ダンス ステップ踏んだ
 短すぎる恋を踊りつくした

 忘れるために旅に出て
 面影ばかりを探してる
 女々しくなるまい男だぞ
 自分に言い聞かせるけれど

 Shangri-La 君と出会えてよかった
 Shangri-La ほんとに大好きだったよ

 遠い遠い旅の空から
 君のしあわせ 祈ってる
 Shangri-La  Shangri-La


 少女たちが髪を洗う小川のほとり
 小さなひまわり 風に揺れて蝶々とたわむれる
 チベット焼けした子供たち ほがらかに笑う
 ほら旅が僕をなぐさめてくれるさ

 たった一度の口づけが世界を変えた
 愛することで今日を生きる勇気がわいてきた
 閉ざした心の扉を開けたのは君
 僕は君になにができたのだろう?

 ひとりっきりで旅に出て
 自分の影を見つめてる
 愛することの意味なんて
 まだまだわからないけれど

 Shangri-La 君と出会えてよかった
 Shangri-La ほんとに大好きだったよ

 旅から旅へ漂い続けて
 心の置き場をいつか見つける
 Shangri-La  Shangri-La


 低い空に背伸びして
 君の名前を呼んでみる
 なにも答えず 白い雲
 あしたへ向かって流れるだけ

 Shangri-La 君と出会えてよかった
 Shangri-La ほんとに大好きだったよ

 君は君のしあわせ つかんで
 心のShangri-La 見つけてくれよ

 Shangri-La  Shangri-La
 Shangri-La  Shangri-La

僕という迷宮(連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第49話)

2011年08月04日 00時28分43秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 若かった頃、自分の心が不思議でしかたなかった。
 誰でもそうだろうけど、若い頃は心が揺れ動きやすい。ほんのちょっとした誰かの言葉に感動したり、動揺したり、傷ついたりする。友人や読んだ本からの影響も受けやすい。自意識が異常に過剰だったりするから、今から思えばどうでもいいようなことで死ぬほど恥ずかしくなったり、くよくよ悩んだりもした。
 めまぐるしく動く自分の心は、まるで迷宮《ラビリンス》だ。どうして誰かを好きになったり、嫌いになったりするのかもよくわからない。逆もまたしかり。
 心がいったいどういう仕組みになっているのか、摩訶不思議な自分の心の正体を知りたくて心理学の本を読み漁った。
 心理学関係の著作は書店の棚にいっぱいならんでいるけど、なかでも河合隼雄さんの著作をよく読んだ。
 河合先生は日本にユング心理学を紹介した第一人者だ。ユング心理学自体、どこか東洋的な思想を感じさせるものなのでそれが僕の心にフィットしたのかもしれない。それを日本流にアレンジした河合先生の分析や考察もわかりやすかった。迷宮のように複雑な心にもコード(ある一定の構造)があるのだと知って、なんだか安心できるような心持ちになれた。目から鱗が落ちるようだった。
 人間の心にはいくつもの原型《アーキタイプ》がある。
 たとえば、映画『スターウォーズ』には主人公のルークとダースベイダーの決闘シーンがあるけど、それは「父親殺し」という原型だ。
 これはオイディプスコンプレックスと呼ばれるもので、ギリシャ神話のオイディプス王の話から名付けられた。男の子は父親を乗り越えようとすることでなにかを掴み、成長する。このテーマは人類にとって普遍的なもので、たとえば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や村上春樹の『海辺のカフカ』といった文学作品でも繰り返し描かれている。
 人間の心には、テリブルマザーという恐ろしい怪物も住んでいるらしい。
 慈母という言葉があるけど、テリブルマザーはまったくその正反対の存在だ。子供の心を飲みこみ、すべてを自分の支配下に置こうとする。童話やファンタジーでは、たとえばヘンゼルとグレーテルの話に出てくる魔女のように恐ろしい老婆として描かれることが多い。身近な例でいえば、教育ママというのもこれにあてはまるだろう。
 河合先生の本はほんとうに勉強になった。わけのわからないことだらけだった心の秘密を解明できたようで楽しかった。
 だけど、そのうちはたと困ってしまった。
 いくら心理学の本を読破してみても、どうしてもわからないことがある。仕組みというものは、たんなる枠組みに過ぎない。
 僕が感じている痛みや怒りや焦りはどこからくるのだろう?
 人を好きになった時に感じる胸がいっぱいになるような心持ちはどこからくるのだろう?
 僕は、心の枠組みよりも、自分の心を突き動かしている動力源を知りたかった。
 人間の心にはメカニズム論だけでは解き明かせないなにかがある。人間の心にはある一定の構造があるにせよ、心は決してメカニズムそのものではない。心のメカニズムだけしか見ないということは、人間の体に通っている温かい血を否定することだ。心臓の鼓動を無視するということだ。メカニズム論はたしかに便利だけど、うっかりしていると、そのメカニズムの枠組みのなかでしか物事を考えられなくなる。人間の心には底知れない力が宿っているはずなのに、それでは生きる気力が奪われてしまう。
 心理学は心を知るためのいい補助線にはなるけど、心の本質までは解き明かしてくれなかった。僕は、また迷宮をさまよい歩くような気分へ逆戻りした。
 心の源泉という問題をつきつめれば、なぜ生きているのかということにぶちあたる。
 今から思えば、僕は自分の心を知りたいというよりも、むしろなぜ生きているのかということを知りたかったのだと思う。なぜ、喜怒哀楽を感じながら生きているのだろう? さらに言えば、なぜ僕は心を持っているのだろう? そんなことを知りたかったのだろう。追いつめられていた僕は自分の心が恨めしくてしょうがなかった。心なんてなければいいのに、と何度も思った。いっそ潰れてなくなってしまえばいいのにと。
 こうなれば、もう信仰の領域でしか解決のつかないことなのかもしれない。
 それも、習慣やしきたりや伝統といった袈裟を着たお仕着せの宗教ではなく、神さまか仏さまかお天道さまかは知らないけど、そんな偉大ななにかと一対一でさしで向かい合い、純粋な問いかけを投げかけるところからしか糸口が掴めないものなのだろう。そうして全身全霊を傾けて掴み取ったものしか、僕にとっての真実にはなりえないのだろう。

 嬉しいことに出会ったり、いろいろ痛い目に遭ったりして、ほんのひとかけらだけ物事がわかるようになった。
 おそらく、僕自身は自分が主体的に生きているように思っているけど、じつはそれはまったくの錯覚で、だれかに生かされている。なにかが僕を生かしている。なんとなくそんな風に感じる。だけど、まだまだわからないことだらけだ。
 僕は、もういい年をしたおじさんになってしまった。
 それなのに、今でも気持ちが揺れ動きすぎて自分の心がわからなくなることがしょっちゅうある。心の振り子は愛と罪の間をいったりきたりして、やさしくなろうという気持ちとエゴイズムという名の打算がないまぜになって混沌とする。自分自身の心をつぶさに点検してみれば、僕はこんなことを感じているのかと今でも発見がある。
 僕という迷宮の謎は、まだまだ解けそうもない。
 迷うことは進むこと。
 そう思って、てくてく歩こう。




 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第49話として投稿しました。
 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。
もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/


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