風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

雪の幻想

2019年01月02日 06時15分15秒 | 短編小説

 雪が降る。
 この世界を埋め尽くして雪が降る。
 北の大地の最果て。小さな村の小さな通り。村のなかも、村の外に広がる畑も、地平線さえも雪のなか。悲しみは雪の白に埋もれ、ひっそりため息をつく。
 あの人が連れられてくる。あの人は腰に薄汚れた布を巻いただけ。疲れ切った瞳、うつろなまなざし、ばらばらにほどけた長い髪、痩せた体には痛々しい拷問の傷の跡。わたしたちはただ息を飲み見守る。それしかできなくて。
 死刑執行人は雪の上に十字架を置く。あの人は、これが定めだというように自らゆっくりと十字架に体を横たえる。死刑執行人が、太い釘をあの人の掌に打ち付ける。あの掌は、いつかわたしの頭にかざしてくださった掌。わたしの心に棲んでいた悪霊と心を穢していた罪を追い払ってくださったやさしい掌。
 槌の音が無情に響く。死刑執行人は自分がなにを打ち付けているのかを知らない。打ち付けるのは愛。混じり気のない純粋の愛。神さまが地上へ送った無償の贈り物。かけがえのない奇蹟。死刑執行人はあの人の掌を打ち終えると、あの人の重ねた足に釘を打ち付ける。あの人の血が白い雪に点々と飛び散る。
 あの人は十字架ごと橇に乗せられる。あの人は目をまたたき、じっと降りしきる雪を見つめている。降りしきる雪はあの人になにを語りかけているのだろう。あの人の頬に、まつ毛に、雪が降り積もる。あの人はなにを想っているのだろう。
 屈強な体つきをした死刑執行人たちが橇にロープをつけて引っ張る。新雪を踏み抜く音だけがあたりに広がる。静まった村の小道を抜け、ゆるやかな丘を登る。わたしたちは神さまにあの人を救ってくださいと祈りながら後をついて歩く。それだけがわたしたちに許されたこと。祈ることだけが。ただ祈ることだけが。
 村の外れの低い丘。雪に埋もれた白い丘。ここがあの人の処刑場。死刑執行人たちは雪を掘り、四角い地面を空け、橇から十字架を卸す。わたしは思わず、
「もうこれで十分でしょう。村へ戻りましょう」
 と死刑執行人へ話しかける。死刑執行人は、
「あんたらがどれだけこの人を大切に思っているのかはわかっているさ。だけどよ、うちらにとっちゃ、この人はただの罪人なんだよ。罪人を処刑にするのがうちらの仕事。ただ仕事をしているだけ。さあ、邪魔だからどいておくれ」
 と首を振り、十字架を打ち立てる。空へ掲げられたあの人は穏やかなまなざしでわたしたちを見つめ、それから鈍色に染まった雪雲を見上げた。
 人間ほど恐ろしい生き物はいない。
 欲と傲慢に駆られた心は、純粋な愛を責め立て、神の子を罪びと扱いする。神の子が受肉した意味も考えず、ただのかりそめにすぎない虚栄と富を守ろうとして、愛を磔にする。愛を処刑した人々は、闇に心を奪われたまま自分自身と他人を苦しめ続ける。
 死刑執行人は槍を突き刺す。あの人の脇腹へ何度もなんども力をこめて。あの人の体から血潮が噴き出す。あの人は苦痛に顔をゆがめる。やがて血は勢いを失い、だらだらと体を伝って滴り落ちた。雪まじりの風があの人の長い髪を乱す。
 わたしたちは祈りを唱える。
 あの人に教えられた祈りを唱える。
 あの人が祈ってくださった時に感じた純粋な光、あたたかさ、それを失いたくないから。いつまでも、いついつまでもあの人にそばにいて欲しいから。
 神さま、どうか出てきてください。あの人をお救いください。あの人なしでは、わたしたちの生は輝きと潤いを失ってしまうのです。あの人だけが、わたしの心に確かな形と奥行きを与えてくださるのです。
 すすり泣きの混じった祈りの声が雪の丘に響く。白い風にさらわれた祈りはどこへ行くのか。わたしたちの願いは風にちぎれるだけなのか。それでも祈るしかなくて。
 どれくらいあの人を見守っただろう。わたしたちは祈り、そして、あの人を見つめ続けた。あの人は混濁した意識のなかでうわ言をいう。あの人の髪や肩や足に細かな氷のかけらがこびりつく。わたしはなにもできない。なにも助けてあげられない。なにもして差し上げられない。ひたすらに無力なわたしたち。
 あの人は数々の奇蹟を見せてくださった。湖のうえを歩きもすれば、見捨てられた重病人を治しもした。数えきれないほどの悪霊を退治して、死者すらも生き返らせた。それなのに、なぜあの人は自分自身のために力を使おうとはしないのだろう。純粋な愛は自分のために使うものではないから?
 あの人が、最後の力を振り絞ってわたしたちへ語りかける。
「必ず帰ってくる。それまで愛し合って暮らしなさい」
 わたしたちは涙を流す。思いやりに満ちた言葉、だけど、残酷な言葉。あの人を失っては生きる意味などないのに。純粋な愛のない人生は石ころと同じなのに。あの人に別れを告げてほしくない。
「わが神、わが神、なんぞ我を見捨て給いし」
 あの人は吹きすさぶ風へ叫ぶ。
 あの人も神さまを待っていたのだ。救いを待ちわびていたのだ。そう思うと胸が締めつけられる。あの人はどれほどつらかったことだろう。この世がもうすぐ愛で満たされることを信じていたのに。そして、もしかしてあの人はわたしたちを見捨てたのではないかと心の片隅で疑ったわたしを愧じた。
 ついに、あの人はうめき声をあげ、息絶えた。
 祈りがやむ。
 風の声だけがあたりをつつむ。
 退屈そうに待っていた死刑執行人があの人を十字架からおろす。凍りついた素肌、霜焼けた手、脇腹の傷跡、乾いた血糊、ぬくもりの消えた瞳。わたしは死刑執行人にお金を払ってあの人の遺体を引き取る。みんなはあの人のまわりに集まってむせび泣き、あの人の体にこびりついた氷を震える手で払いのける。みんな嘘だと笑って生き返ってくださったらどんなにいいだろう。
 雪が降る。
 純粋な愛を失った世界に雪は降り続く。
 白い闇がこの世を覆った。




 (了)


おとうと

2014年05月11日 08時45分45秒 | 短編小説
 
 これが僕の人生のなかでいちばん古い記憶だと思う。
 僕は二歳と十か月だった。とてもおとなしい子供だったらしい。おかっぱみたいな髪型をしていたせいか、女の子とよく間違えられた。
 母と手をつなぎ駅前の歩道を歩いていた。クリーム色に青い帯を巻いた乗り合いバスが母と僕を追い越していく。そのバスに乗って川のほとりの団地から駅前まできたのだった。
 空は冷たく青く澄み渡り、ここちよい風がそよいでいた。冬の初めのやわらかい陽射しが歩道に降り注ぎ、街路樹の枯葉が散らばっていた。記憶が定かではないのだけど、楓(かえで)の葉だったような気がする。僕は枯葉を踏まないように、ジャンプして飛び越した。なんだか楽しかった。
「ねえ、だっこして」
 ふと甘えたくなった僕は母の足にしがみついた。だが、その返事は思いがけもしないものだった。
「お腹の赤ちゃんが大きいからだめやよ」
 母は諭すように言う。臨月間近の母はたしかに大きなお腹をしていた。だが、幼い僕はそれがどういうことなのか、いまひとつよくわかっていなかった。
「だっこってば」
 僕はだだをこねた。
「あんたのおとうとが生まれるねん。これからはもうだっこできへんのよ。おとうとができるんやで」
「おとうと?」
「そうやよ。お腹の中にはあんたの弟がいるんや」
「おとうとってなに?」
「兄弟やよ。あんたはおにいちゃんになるねん」
「おにいちゃん?」
 僕は母の言葉を理解できなかった。それがだっこしてもらえないこととどういうつながりがあるのかとなると、もうさっぱりわけがわからない。ただひたすら悲しかった。もう甘えることができないだなんて。
 この世を照らしている陽射しも、僕と遊んでくれた枯葉も、それから大好きな母さえも、急によそよそしく他人行儀になってしまったようだった。

「お父さんがきたで」
 母方の祖母の弾んだ声が響いた。
 僕は廊下でジェット旅客機の模型を持って遊んでいた。
「さあ、早(は)よ応接間へ行きや」
 祖母がせかしにきたから僕は逃げようとしたのだけど、すぐに捕まってしまった。祖母は僕の両脇を抱え、廊下を小走りに歩く。僕はけらけら笑った。
「パパ、ほんまにきたん?」
 僕は祖母に訊いた。
「ほんまやで。急がなあかんねん」
 応接間にはほんとうに父がいた。僕は意外だった。父が母の実家へくることは滅多になかった。時々、僕は母の実家に預けられたのだが、迎えにくるのはいつも母だった。
 母方の祖父は僕を溺愛していた。
 僕は初孫だったから可愛くてしかたなかったらしい。しかも男の子だ。大正生まれの祖父は、これで跡取りができたとほっとしたようだ。
 祖父は勤めから帰ってくると毎日必ず仏壇を拝んだ。
 背広から和服へ着替えた祖父は鐘を鳴らして、
「ナマンダブツ」
 と、何度か繰り返す。その後は、念仏を唱えるのでもお経を読むわけでもなく、手を合わせてひたすら祈る。
 祖父がなにを祈っていたのか、僕は知らない。
 彼を育てた大祖父や大祖母のことも祈っていただろうし、祖父の幼い頃、祖父の弟を死産してすぐに他界してしまった母親のことも祈っていただろう。それから、祖父の幼い頃に結核で亡くなった祖父の父親のことや、戦争で死んだ古い友人たちのことも祈っていただろう。家族の平安も祈っていたかもしれない。
 祖父が仏壇と向かい合い始めると、僕は祖父の傍にちょこんと正座して、
「まんまんちゃん、あん」
 と言って祖父の真似をして手を合わせる。
 しばらくそうして幼いなりにお祈りをしていると祖父は、
「よくお祈りできました」
 と僕の頭をなでてくれた。いつもそれを潮に僕は仏間から出た。祖父は祈り続け、仏壇の後は台所に飾ってあるいくつもの神棚を順番に拝み、庭へ出て蛇の神様を拝む。祖父の祈りがすべて済んでから祖父と祖母と三人で食卓を囲んで晩御飯を食べた。
 応接間のソファーに坐った父は丸顔に満面の笑みを浮かべた。
「お前の弟が生まれたんや」
「おとうと?」
「そうや。お前はお兄ちゃんになったんや。嬉しいやろ」
「わからへん」
「これからお父さんといっしょに病院へ行こう。ママに会おう」
「うん」
 母に会えると言われ僕は元気が出た。
 タクシーに乗って大阪市内の病院へ向かった。
 病室は汗と消毒薬が混じったむっとむせ返る匂いがする。部屋の雰囲気は明るく、活気がみなぎっていた。
「お母さんを捜すんや」
 父は嬉しそうに言った。
「見つけたらお父さんに教えてや」
 病室にはずらりとベッドが並び、母と同じくらいの若さの女性が寝巻き姿で並んでいる。幼い僕にはどこまでもはてしなくベッドが続いているような気がした。
 一つひとつベッドを確かめた。どの女性も顔を上気させ、頰がつややかだ。今から思えば、おそらく出産を間近に控えた妊婦ばかりを集めた部屋だったのだろう。病室のなかはこれから人生の大仕事をしようとする女の熱気と意気込みで満たされていたのだ。
 病室の端から端まで探したが、母の姿は見当たらない。窓の外を見ると、どんよりと曇った空は薄暗くなっていた。真っ直ぐ伸びた大通りには車の赤いテールランプが並んでいる。
「ママ、いいひんで」
 僕は父に訴えた。さびしい。
「せやな。おかしいな」
「ママはどこなん?」
「この部屋のはずなんやけど」
 父はポケットからメモを出して、
「部屋の番号はおうてるなあ。なんでやろ」
 と首を傾げる。
「よそのへやへいったんとちゃう」
「そうかもしれへんな」
 父は病室を見渡し、
「ほかの部屋を見てみようか」
 と僕の手を牽いた。
 廊下へ出たちょうどその時、向かいの部屋のドアが開いた。やつれた母がパジャマ姿で出てきた。
「ママ」
 僕は母へ駆け寄った。
 父と母はなにごとかを話す。父の声は晴れやかだったのだが、母は疲れきっていて声が小さかった。
 おとうとは一か月早産で生まれてきた。
 買い物に出かけようとした母は団地の階段から転げ落ち、それで陣痛が始まってしまったのだ。母からの連絡を受けた祖母が急いで団地へ駆けつけて母を病院へ送り、そのまま幼い僕を預かった。
 思いがけず出産が始まり、母は身も心もすり減らしてしまったのだろう。僕は母が病人のようなので大丈夫なんだろうかと心配だった。
 僕の記憶はここで途切れている。
 どう思い出そうとしても、生まれたての赤ん坊の映像は僕の脳裡に甦ってこない。それから父とどこでなにをしたのかも忘れてしまった。生まれたばかりの赤子に会えなかったのかもしれない。
 ともかく、おとうとが生まれた。

 縁側は陽だまりだった。
 モンシロチョウがささやかな庭の植木にとまっては羽ばたく。
 僕は空をあおいで目を細めた。こもれ陽がきらきら輝く。風の香りがあたたかかった。
 祖父も、祖母も縁側からテラスを眺めて微笑む。テラスでは母がおとうとをベビーバスタブに入れて湯浴みさせていた。
 プラスチック製の青いベビーバスタブの横にしゃがんだ母は、赤子が沈んでしまわないように頭と肩を片手で支え、もう片手に持ったタオルでふっくらとした肌をやさしく拭う。
 おとうとは、両腕を動かして小さく伸びをする。可愛らしくあくびして、それから、うっとり目を閉じる。
「気持ちよさそうやねえ」
 祖母が嬉しそうに言うとみんな笑い声を上げた。おとうとは、風呂につかるだけで家族をのびやかな気分にした。
 母はおとうとの頭に石鹸をつけ、湯が耳に流れこまないように気遣いながら丸っこい頭に薄くへばりついた髪をそっと洗った。
 みんな楽し気だから、僕も浮かれてしまった。心が歌うようだ。僕はサンダルを履いてコンクリートの叩き台へ降り、ベビーバスの端にしゃがんだ。なんでもないおとうとの仕草を見てははしゃいだ。しあわせな気分でいっぱいだった。

 団地の六畳間にベビーベッドを置き、母と僕はその隣で眠った。
 母は夜中に起きて授乳しただろうし、弟は夜泣きしたりしたのだろうけど、僕はなにも覚えていない。
 ベビーベッドのうえには、レースのフリルやプラスチックの花と葉っぱのついた回転飾りを天井からぶら下げてあった。僕は弟のいない時にこっそりベビーベッドのうえへはい上がり、回転飾りを見上げた。
 紐をひっぱるとオルゴールが鳴り、飾りが回転する。メロディーの音階が懐かしさを誘う。なんだか御伽噺のなかにいるようだ。魔法使いがやってきて、不思議の森のなかへ連れていってくれるような、そんな気がした。オルゴールを聴きながらゆっくり回る飾りを眺めているうちにうとうとする。とても安らかな気持ちになれた。
 ある晩、ふと目覚めた。
 おとうとはベッドのなかでぐっすり眠っている。隣の蒲団に母の姿は見当たらない。僕は台所へ行った。母はエプロンをつけ、流し台で洗い物をしていた。
「あら、起きたの」
 母は皿を洗いながら振り返り、
「ミルクティーを飲もうか」
 と言った。
 寝ぼけまなこだった僕はミルクティーってなんやったやろうと思いながらうなずき、テーブルの椅子に坐った。父はまだ帰ってきていなかった。
 母は小さな鍋で牛乳を煮立て、小さなバラ模様のついたティーカップへ注ぐ。カップにはリプトンのティーバックが入れてあった。
「熱いから気いつけや」
 母はカップを僕の前に置く。
 ミルクティーの表面には牛乳の膜が張っていた。僕はさっそくスプーンでそれをすくい、ふうふう吹いて口へ入れた。僕はホットミルクにできる薄い膜が大好きだった。牛乳の膜をたいらげてから、スプーンでカップをかき混ぜミルクティーをすすった。
「おいしい?」
 母もミルクティーを飲む。僕はうなずき、
「正太にものませてあげようや」
 と言った。正太はおとうとの名前だ。祖父がつけた。
「正太は眠ってるから起こしたらあかんよ」
「なんであんなにようねるん?」
「赤ちゃんは寝なあかんのよ。あんたもそうやったんやし。――おとうとができてよかったねえ」
「うん。かわいいわ」
「なかよくしいや」
「してるで。きょうもいっぱいあそんだもん」
 ミルクティーを飲み終えると母が僕を寝室まで連れていき、掛け布団をかけてくれた。僕はすぐに眠りに落ちた。
 この頃の母はまだのんびりしていた。
 父との不和も決定的ではなく、それなりにしあわせに暮していた。冷え切った家庭になってしまい、母がなにかに憑かれたみたいにいつも苛立つようになったのはそれから数年後のことだ。僕はこの頃のことを懐かしく思いだせるけど、おとうとにはその記憶がない。もし団地住まいをしていた頃のおだやかな家庭の思い出があれば、彼が思春期を迎えた時、あれほど苦しまずにすんだのかもしれない。

 ――タンポポみたいやな。
 僕は思った。
 やんちゃな目をしたおとうとが祖父の家の玄関に立っていた。おとうとの頭はたんぽぽの綿帽子だ。真っ白で、細くて、しゅわしゅわとちぢれた髪の毛が伸びている。おとうとは目をぎらつかせてあたりを見回す。なにかをたくらむちいさな怪獣だった。
 白いレースの日傘とケーキの箱を下げた母が玄関へ入ってくる。おとうとは玄関のなかをぐるぐる歩く。母は弟を抱き上げて上(あが)り框(かまち)に坐らせ、小さな靴を脱がせた。僕は縁側でお茶を飲んでいる祖父のもとへ戻った。まだお話の途中だったから、続きを聞きたかった。
「昔、あそこに土俵があったそうや」
 祖父は庭の一角を指し、お盆に置いた急須から湯飲みへお茶を注ぐ。
「どひょうっておすもうさんの?」
「そうや。おじいちゃんのおじいちゃんのおとうさんは相撲が大好きやったんや。それで、庭に土俵を作って毎日稽古していたんやそうや。負けず嫌いで強かったらしいわ」
「ぼくもときどきともだちとおすもうするで」
「強いか?」
「ううん。まけてばっかりや」
「そのうち強(つよ)なる」
 祖父は僕の頭をなでた。祖父の願いとは裏腹に僕が強くなることはなかった。僕は母に似て、運動神経ゼロのまま育つことになる。
 それから祖父は、日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃ち破った日本海海戦の話や戦国時代に織田信長が今川義元の大軍に挑んだ桶狭間の合戦の話をしてくれた。祖父は新聞広告の裏に図を描きながらおもしろおかしく話してくれる。たぶん、祖父が幼い頃に聞いた講談をそのまま僕に話してくれたのだろう。祖父の話はいつも楽しみだった。何度も同じ話をおねだりした。
 しばらく話をした後、祖父は昼寝すると言って立ち上がった。僕は台所へ行った。
「あら、あれへんわ」
 祖母は、母が買ってきたケーキの箱をのぞきこみながら目を丸くする。
「どないしたん?」
 僕は訊いた。
「あんたが食べたがってたいちごケーキなんやけど、いちごがあらへんねん」
「ええっ」
 僕はショックだった。母はたしかにいちごショートを二つ買ってきたと言っていた。僕とおとうとがひとつずつ食べるはずだった。
「なんであらへんの?」
 悲しくなった僕は泣きそうな声で言った。
「さっきテーブルのうえに置いた時はあったんやけど、どこへ行ったんやろ。おかしいなあ」
 祖母はケーキの箱を覗きこみ首をひねる。
 ふとベビー椅子に坐っているおとうとを横目で見ると、口のまわりにホワイトクリームがついていた。
「おばあちゃん、あれ」
 僕はおとうとの口許を指差した。
「ああ、正太が食べてしもたんやわ。いつのまにやろ」
「そんなあ」
 僕はがっかりしてしまった。しかも、スポンジとスポンジの間に薄く切ってはさんであるいちごまでなくなっていた。二重にがっかりだった。
 おとうとは祖父が新聞を読む時に使う虫眼鏡を取ろうとして懸命に手を伸ばしている。
「あんた、お兄ちゃんのいちごを食べたんかいな」
 祖母は笑いながら正太の頭をなでた。おとうとに言葉がわかるわけもなく、正太は虫眼鏡に夢中だった。
「どうする? チョコレートケーキにしとくか? いちごケーキはおばあちゃんが食べるわ」
 祖母が僕にそう訊いたけど、僕は首を横に振った。チョコレートケーキはあまり好きではなかった。
「ほな、いちごケーキを食べとき。いちごはあらへんけど」
 祖母はケーキを皿に移し、僕とおとうとの前にそれぞれ置いてくれた。
 僕はおとうとが玄関に入ってきた時のなにかをたくらんでいるような目つきを想い起こした。ずる賢いおとうとはいちごを狙っていたに違いない。油断も隙もなかった。
 おとうとは目の前のケーキにはまったく興味をしめさない。いちごをふたつも食べてそれで大満足のようだった。それにしても、どうやって箱のなかのケーキからいちごを取り出したのか不思議でしかたなかった。僕は物足りなさを感じながらもケーキを平らげた。
 いちごショートの悲劇も忘れてすっかり機嫌を直した僕は、
「ブランコであそぼう」
 とおとうとを誘い、縁側から庭へ下りた。テラスのそばに、家庭用の小さなブランコがあった。細い鉄パイプの支柱に小さなベンチが向かい合わせについている。僕は向かいの席におとうとを坐らせた。
「いくで」
 立ち上がった僕はブランコを漕ぎ始めた。
 おとうとはなにごとが起きたのかとびっくりしてうろたえる。泳いだ目できょろきょろと周囲を見渡し、おろおろする。ちいさな怪獣の面影はどこにもない。僕はそんなおとうとの姿がおかしかった。
「だいじょうぶやで」
 僕はスピードを上げず、ごくゆっくり漕いだ。ブランコはきこきこと音を立てる。
 夕陽が庭に射す。
 ようやく、これは遊びなんだとわかったようで、おとうとははしゃぎ声をあげた。
 
 
 
 
 了

帰郷

2014年02月26日 07時45分45秒 | 短編小説
 
 雪解けがもう始まっていた。
 薄ぼんやりとした夕陽が低い山並みの向こうへ落ちる。紅く染まっていた田畑の雪は、灰を撒き散らしたように色を変える。レールを踏みしめる車輪の音がリズミカルに響き、踏み切りの警報機が乾いた音を立てながら車窓を流れた。
 僕は新庄発秋田行きの普通列車に乗っていた。赤い電気機関車が牽引する四両編成の客車列車だ。乗客たちはほとんど眠っているかのようで、青いボックスシートが並んだ車内は静かだった。
 僕は曇った窓ガラスを手で拭い、ぼんやり外を眺めた。あてのある旅でも、誰かを訪ねるための旅でもなかった。東京で暮らしているうちにどうしようもなく窮屈な気分になってしまったから、列車に乗ってどこか遠くへ行きたくなった。ただそれだけのことだ。今朝、上野発の始発列車に乗り、鈍行を乗り継いでここまでやってきた。
 僕の真向かいには三十過ぎくらいの男が坐っていた。男はずっと目を瞑っていたが、時々鼻を鳴らしたりするので眠っているわけではなさそうだった。丸い顔にがっちりとした体つきをしている。屋外で体を使う仕事をしているのだろう。顔は日焼けして、節くれ立った手は荒れていた。僕の隣には老眼鏡をかけた五十がらみの女性が坐り、手を休めることなく編み物をしていた。翡翠色のマフラーが彼女の膝元ですこしずつ伸びた。
 このあたりの雪がすっかり解ける頃、僕は卒業する。だが、まだ就職は決まっていない。さしあたって今のアルバイトを続けることになりそうだ。無名の業界雑誌を発行している小さな出版社で雑用係りをしていた。資料収集のために図書館へ出かけたり、新聞社のライブラリイへ行って写真を借りたり、図表のデータをそろえたり、文字校正をしたりと簡単な仕事だ。たまに編集長の気が向いた時には、小さな原稿を書かせてもらえた。一か月間フルで働いてもたいした稼ぎにはならない。身分もアルバイトだから不安定だ。会社の経営もうまくいっていないようで雑誌の発行部数も伸び悩んでいるから、いつ首を切られてもおかしくない。経済的にもきついし、精神的にもなかなか落ち着かないのだけど、とはいえ、仕事自体は気に入っていた。いつか責任を与えてもらって、取材へ出かけたり、自分自身の手でひとつの記事を編集できるようになりたかった。
 親は卒業したら里へ帰ってこいと言う。だが、帰りたくはなかった。帰ったところで目ぼしい就職先があるわけでも、親が就職の斡旋をしてくれるわけでもない。子供がそばにいなければさびしいから、というだけの話だ。延々と続く母親の愚痴を聞かされるのは、ごめんだ。気分が滅入って、気力が吸い取られてしまう。母親がよく通っている占い師の御宣託をもとに「あなたはこれだからだめだ」と断罪されるのも、もううんざりだ。母親は、僕の幼い頃に父親と義母――つまり僕の祖母――から手ひどくいびられ、心を圧(お)し潰されてしまった。それ以来、常になにかに苛立ち、終わることのない怒りを発散させている。占いによってすべてを解釈しようとするだけで、自分の頭を使って目の前の現実を考えようとはしない。浅く狂っていると思うが、今更、どうすることもできない。家にいると針のむしろに坐っているようなやり場のない気分にさせられる。どうにも折り合いのつけようがなかった。
 僕になにかができるとはとても思えない。自分のことは、あまり信用していない。それでも、ささやかでかまわないから、自分の人生は自分の手作りで生きたかった。
 通路のドアがゆっくり開く。
 初老の車掌が現れ、帽子を取って深くお辞儀する。
「毎度ご乗車ありがとうございます」
 と礼を述べた後、
「ただいまより、車内検札を始めます」
 とまた頭を下げた。車掌のアクセントはこの地方の訛りがかすかに香った。人の心を落ち着けるのんびやかさがあった。
 車掌は順番に検札し、切符を発券やら乗り越しの精算をすませる。
 僕は手慣れた仕草で仕事をこなす車掌にいささかの羨望を覚えずにはいられなかった。落ち着いた仕事を手に入れれば、落ち着いた暮らしが手に入り、落ち着いた倖せを得ることができるのだろうか。
 二年ほど一緒に暮した恋人は、先月、彼女の故郷へ帰った。僕に内緒で見合いをしたようだ。突然、別れを切り出した彼女は「チャンスだから」と何度も繰り返し言った。地元の名士の家との縁談がまとまったようだった。いい暮らしができるのなら、それも悪くない。ただ、二度と彼女とかかわりになろうとは思わない。忘れ物があるのから宅配便で送ってほしいと手紙が届いたが、そのままくずかごへ捨てた。それは僕のエゴイズムだとわかっているけど。
 車掌がそばにきた。
 向かいの男が小さな切符を渡す。車掌の顔が険しくなり、
「上野……」
 と、くぐもった声でつぶやいた。
 車掌が彼へ話しかける。カーブに差しかかった客車は軋み、車掌の声をかき消す。男が黙って頷くと、車掌は困惑にした深い皺を眦(まなじり)に刻みながら今度は彼の耳元へ口をあて何事かをささやいた。男はやはり表情を変えず、無言のまま頷いた。
「帰りたかったのけ――」
 車掌はやるせなく首を振った。僕の隣の女性が放心したように編み物の手をとめる。だが、彼女はずり落ち気味になった老眼鏡を手の甲で押し上げるとすぐに続きを編み始めた。
「あんただけが悪いわけじゃないんだけどな」
 そう言った車掌の顔には怒りも憎しみもなかった。ただ悔しさだけを謹厳な顔に浮かべている。なにが悔しいのだろう? キセルを見つけてしまった自分だろうか。それとも、男にキセルをさせてしまったこの世の理不尽に対してだろうか。たしかに、男は不幸に違いない。そんな男をキセル犯として告発しなければならない車掌も不運には違いなかった。帽子の庇に手をあてて哀しげにじっと視線を落とした車掌は、さっと踵を返した。
 おそらく、男は上野でいちばん安い切符を買い、ここまで列車を乗り継いできたのだろう。トイレにこもってやり過ごすこともできただろうに、素直に切符を見せた男が不思議だった。もうどうにでもなれとやけになったのだろうか。もしかしたら見逃してもらえるかもしれないと、心の片隅で期待していたのだろうか。それとも、なにがなんでもふるさとへ帰り着き、幼い頃の思い出たちと膝を交えて話をしてみたかったのだろうか? 置き去りにしていったわだかまりと和解したかったのだろうか?
 列車は、一つまたひとつと無人駅に停まっては出発する。男はじっと眼を閉じたままみじろぎもしない。運命というものがもしあるとすれば、それに身を任せるよりほかないと観念しているようだ。周囲の乗客はなにもなかったように静かだった。誰一人として、彼を見つめたりするものはいない。あるいは、同情のこもったやさしい沈黙だったのかもしれない。夜の帳が車窓に幕をおろした。
 やがて車掌が引き返してきた。列車は煌々と灯りのともった大曲駅へ滑りこむ。このあたりでは比較的大きな駅だった。鉄道警察の腕章を巻いた男が二人、プラットホームの真ん中あたりで直立不動の姿勢をとって列車を迎えた。
 車掌が男の肩を叩く。
 男は疲れたように立ち上がり、車掌に付き添われながら汽車をおりた。僕はさきほどまで男が坐っていた席に場所を移した。初老の女性はうつむいたまま編み物を続けている。
 ひゅっと鋭く笛が鳴った。
 客車が揺れ、定刻通りに出発する。
 薄緑色に塗ったホームの柱が窓の外でゆっくり動く。鉄道警察に両脇を抱えられた男の後ろ姿が瞬く間に後ろへ流れ去る。
「帰りたかったのけ――」
 車掌の言葉がやさしくむなしく耳の底で甦った。




(了)


 小説家になろうサイト投稿作品
 2013年2月23日投稿
 http://ncode.syosetu.com/n7388bn/


雨傘

2013年09月29日 22時41分09秒 | 短編小説

 激しい雨音で目が覚めた。
 亜熱帯のスコールが窓の向こうの裏路地を容赦なく叩きつける。すきま風が薄いカーテンを揺らす。なにもかもが、自分の心でさえもが打ちのめされるようだ。頭がじんと痺れ、喉の奥がこすれたように痛んだ。分厚いビニールをひっかいたような嫌な咳が出た。
 肌寒さのせいで風邪を引いたのかもしれない。この地は服の調整がむずかしかった。短パンではいささか寒い。だが、長ズボンでは暑くて眠れない。生き延びるためにはこの地に適応しなくてはならない。それはわかっている。わかってはいるのだが、とはいえ、服に限らずいろんなことが合わなかった。慣れだろう。そのうち慣れるのだろう。ただ、亜熱帯のこの地にどう適応すればいいのか、はじめてのことばかりでなんとももてあました。
 黴の匂いが濃密に漂い、喉に刺さる。まるで黴だらけになった雑巾を口に押し込まれているようだ。さっきの咳はこの黴のせいだったのだと、逃れようもないぬかるみの心の隅でぼんやり想った。
 私は広東省広州市の郊外に住んでいた。
 旧市街地の中心部から地下鉄で二十分ほどのところにある住宅街だ。
 四階建ての一軒家が狭い路地にびっしり並んでいるなかの、ある家の一階を間借りしている。六畳くらいの部屋が二間に小さな流し台と狭いトイレがある。シャワーはトイレのなかについていて、跨座式の便器をまたぎながら瞬間湯沸かし器のスイッチをひねり湯を浴びた。二階から四階には大家の老夫婦と乳飲み子を抱えた娘夫婦が住み、時折、赤子の鳴き声が聞こえた。真夜中になると、裏路地から若い女の号泣が響いた。その声は強姦された後に嘆き悲しむ人ようでなんとも不気味だった。女がとぼとぼとさまよい歩きながら泣き叫ぶ時、決まって彼女を慰める男のささやき声も聞こえた。私はふと、ドストエフスキーが描いたペテルブルグのスラム街もあるいはこうだったのかもしれないと想像してみたりもした。
 この地は湿気が猛烈に強く、なんにでも黴が生えた。
 食物はいうまでもなく、勤めに履いていく革靴は二日間も放っておけばうっすらとした綿のような黴で覆われた。竹製の耳かきが黴に包まれたこともある。ほんのすこし生乾きのまま洋服ダンスに入れた木綿のシャツは一週間後には黴がびっしりと生え、二度と着られなくなってしまった。ある時、勤め先の中年の掃除婦と雑談をしていて一階に住んでいると話したところ、彼女はひどく驚いた表情をした。そんなところに住むものではないと眉をひそめ、「早く引越しなさい。病気になっても知らないわよ」と真顔で忠告してくれた。地元の人間は一階には住まないものなのだそうだ。つまりは、一階に住むのは私のような出稼ぎの人間たちだった。
 このままでは黴が肺に入ってしまう。
 なんとなくそんな焦燥が心の底にこびりつき始めた。
 肺のなかいっぱいに黴が生えてしまったらどうなるのだろう? そんなわけのわからない妄想が頭のなかに拡がる。肺の内側が黴で腐ってしまい、咳をする度に濃緑色した黴の胞子が口から飛び出し、そのうち息ができなくなってしまうのだろうか。そんなばかなことをつらつら考えているうちに、口のなかが黴でざらつくような気がしてきた。
 勤めへ出る支度をしなくてはいけない。
 ようやくのことで硬いベッドから起き上がり、枕をひっくり返した。
 ――やれやれ。
 私は深いため息をついた。枕の裏側とシーツのその部分に黴がびっしりと生えていた。
 おとといは特別蒸し暑くて寝苦しい夜だった。
 息苦しさに目覚めた私は寝汗でぐっしょり濡れた枕をひっくり返した。その汗が原因となって黴が生えてしまったのだろう。枕カバーをはがしてみると、枕の本体にも黴がうつっていた。これでは使い物にならない。私はやりきれない思いで枕カバーを外し、重い心を引き剥がすようにしてシーツをめくった。抹茶の粉をぶちまけたような黴が零れ落ちないようにそっと便所まで運び、プラスチックのたらいへ放り込んだ。勤めから帰ったらとりあえず熱湯消毒して漂白剤に浸けこんで洗ってみようかと、落とし穴へ自らおりてゆくような深い疲労と倦怠を覚えながら、こんなことをしている己に嫌悪を感じながら呆然とした。

 ひとしきり降りしきった雨はやがて小降りになった。
 汗がじっとり皮膚に張りつき、脂がまとわりついてねちねちする。亜熱帯のせいだ。日本では考えられないような暑さと湿気のせいだ。
 部屋を出た私はドアを閉め、蛇腹式の鉄格子を引いて南京錠を掛けた。
 裏路地のあちらこちらに水溜りができている。普段でも陽の当たらない路地には水垢や黴や油の匂いが入り混じり、段ボールや押し潰したペットボトルを載せた廃品回収のリアカーが音もなく私とすれ違った。
 傘を差して表通りを歩く。
 この町に住み始めてから半年が過ぎようとしていた。
 以前、私は中国の片田舎で三年ほど暮らしたことがあり、ひととおりの漢語を操れた。私はバックパック一つ背負って広州へ来て、ユースホステルの相部屋に泊まりながら仕事を探した。ここへきた理由はといえば、とくに広州に興味があったからではなく、中国のなかでは日本人現地採用社員の待遇がまだましなほうだったからだ。
 どうなることかと不安だったが、日系の人材会社で登録したところ幸いにもある日系商社の通訳の仕事がすぐに見つかった。なにはともあれ、収入の道が見つかったのは嬉しかった。もうこれで日本から持ってきたわずかばかりの一万円札を人民元へ両替しなくて済む。お金が減っていくだけの生活はやはり心細かった。
 中国で働くのも、中国人に混じって仕事をするのも、今回が初めてだ。しかも、職場は日系企業とはいえ、社長以下、全スタッフが中国人だった。
 アウェイの戦い。
 敵陣にぽつんと私一人だけ日本人がいた。
 習慣や考え方の違いは三年間の中国生活でおおよそ掴んではいたものの、仕事となればその差は予想以上にきつかった。中国人はよく働く。が、彼らは自分の眼前にあるものしか見ず、段取りを考えない。自分の前と後ろの工程の人間がどんな仕事をしているのかを知ろうともしなければ、周囲を見渡した上で自分がどのように物事を処理してどのように振る舞うべきかといったことも気にかけない。目の前の状況が変わるがままに任せて互いに振り回しあい、そしてそれは当然のことながら私にも及んだ。ただ不思議だったのは、彼らが互いに振り回しあうことを当然のことと思い、誰も怒ったりしないことだった。
 数人の同僚とはそれなりに仲良くなれた。が、棘草(いらくさ)に腰掛けるような奇妙な居心地の悪さが常につきまとった。日本人現地採用の給与は中国人社員のそれと比べれば三倍ほどはある。もっともそれは日本の生活保護にも満たない金額なのだが、世界中のどこへ行っても中国と同じだと信じこんでいる彼らにはそれが理解できない。そのために妬まれたり疎まれたりもした。
 中国人たちは陰へ回ると誰それが出入りの業者から賄賂をいくら貰っているだとか、某(なにがし)が幹部に取り入って裏の利権の分け前にあずかっているだとか、そんな類の噂話を好んで話した。中国では職権を使って賄賂を稼ぐことは当然の役得とみなされる。もちろん、なかには賄賂を受け取るなどとはいただけない話だと憤る中国人もいるが、裏を返して彼の本音を解剖してみれば、賄賂を稼ぐポジションにいない自分を嘆き、賄賂が欲しいと叫んでいるにすぎないことがほとんどだ。ここで働くということは、私とはなんの関係もない裏の利権を稼ぐための駒として使われるということでもあった。到底納得できるものではないが、中国で働くとはそういうことなのだと割り切るよりほかにない。
 ある時、日本の本社から監査役がきた。
 前髪の禿げ上がった日本人の監査役は、人の好さそうな、それでもどこか頑固さを宿したまなざしをしていた。彼の任務は海外の現地法人を訪れて経営状態を調べ、組織上の問題点がないかどうかを確認することだった。私は通訳として中国人幹部たちとの面談に立ち会った。
 監査役が到着する日の朝、総経理(社長)、副総経理、財務部長といった幹部たちはみな顔を強張らせ、ぴりぴりとした表情を隠そうともしなかった。中国人の総経理は先月出張で行ってきたというフランス土産のチョコレートを休憩室に置き、みんなで食べてくれと言う。出張から帰ってきた直後に渡すのではなく、監査役到着の日に配るところに彼の怯懦(きょうだ)が看て取れた。総経理はあることないことを監査役に密告され、地位を失うのを恐れていた。荒っぽい権謀術数を使って激しい下剋上ばかり繰り返している中国の組織のなかにあっては、彼の懼(おそ)れは当然すぎるほど当然のことではあったが。
 驚いたのは、監査役との一対一の面談の際、副総経理が、
「私のことをお認めください」
 と平身低頭しながら何度も懇願したことだった。
 副総経理は三十代半ばの女だった。狆(ちん)のような平べったい顔に脂ぎった強欲さをいつも浮かべ、水色やピンクの花柄といった華やかで肌の露出の多い服を好んで着た。そんな派手な服装は彼女の自己顕示欲の強さを物語っていた。
 頭を下げる彼女の姿を冷ややかに見ながら私はふと、テレビドラマの時代劇に出てくる悪徳商人を想い起こした。それほどわかりやすかった。あるいは、彼女は己の働いた悪事がばれ、それで監査役がやってきたのだと思いこんでいたのかもしれない。
「そんなことを言われてもねえ」
 と、困惑した表情を浮かべた監査役は額に皺を寄せ、
「今面談で行なっているのは監査であって、私はこの現地法人が会社組織としてきちんと機能しているかどうかを調査しているだけなのだよ。だから、あなたのことを認めるとか認めないといったことは、私が取り扱うテーマじゃないんだ。あなたを認めるかどうかは、総経理があなたの仕事振りをみて決めることだがねえ」
 と首を捻る。
 解しかねるという監査役の表情を見た彼女は、自分が認められていない、つまり苦労して築いた地位も会社を喰い物にした裏の利権も失ってしまうと焦った。怯えが狆の目に走り、顔を蒼ざめさせた彼女はテーブルにぶつけんばかりにして続けざまに頭を下げる。今にも泣き出しそうだった。
 監査役は、会社の監査の役割とその目的について噛んで含めるようにしてもう一度丁寧に説明した。私はただ淡々と監査役の言葉を漢語に置き換えて通訳した。が、彼女はもうなにも聞こうとはせず、ひたすら、監査役が「お前を認めてやる」と言うのを待っていた。監査役があなたを認めるとひとこと言えば、素敵なプレゼントでも贈るつもりでいたのだろうか。
 面談を終えた彼女は憎しみに満ちた一瞥を私にくれ、ぎざぎざした歯を歯軋りさせながら会議室を出た。
 彼女は、通訳である私が監査役にとりなさなかったことを怒っていた。私は自分に謂れのない憎しみを向ける彼女を憎み、己の心に掻き立てられた憎悪に途惑い、自分の心に宿した冷酷さに己自身が突き放されるのを感じた。そうして、得体の知れないものに蝕まれる自分をなす術もなく見つめるよりほかになかった。
 周囲と接すれば接するほど、自分が異邦人であることを思い知らされた。
 中国語を話して相手の言うことが聞き取れても、彼らの理屈がわからない。逆に、私がいくら中国語で道理を説明しても彼らは理解しようさえしない。それは日本と中国の文明の差異だった。どうしても乗り越えられない一線がある。受け容れられない一線もある。なるべく周囲に溶け込もうとは心がけた。が、私は中国人になりたいわけではなかった。私は私になりたいだけだった。
 どういったあてがあってこの町へきたわけでもなかったとはいえ、こんなはずではなかった。
 毎日が自己嫌悪の繰り返しだった。
 こんな日々を送っていて、果たしていつかどこかへたどり着けるのだろうか? ディスコミュニケーションを繰り返すだけのこんな仕事にどのような意味があるのだろうか? ただの徒労ではないのだろうか?
 どうしようもない想いが心の底でからからと空回りする。
 私一人、行き場がなく、袋小路の行き止まりでもがいているような気がした。そんなことは決してないはずだが、どうしてもそんな想いを振り払えない自分がいる。夢が痩せ細っていくばかりのやるせなさに足元をとられる日々だった。

 小雨がスニーカーを濡らす。
 つま先が凍え、冷気が足から遡(さかのぼ)って体を震わせる。
 大通りの交差点の信号は壊れてしまったようで暗く沈黙したままだった。交通整理の巡査の姿は見当たらず、交差点は我先にと突っこむ乗用車やバスでごったがえしていた。クラクションがそこかしこで飛び交う。ほんの少しばかり機転を利かせて互いに道を譲りあえば少しは車が流れそうなものだが、誰もそうしようとしない。混乱はますますひどくなるばかりだ。私は車に轢かれないよう用心深く大通りを渡った。
 歩道に敷き詰めた正方形のコンクリートブロックはところどころ壊れ、どす黒い汚水がたまっていた。私はそれを踏まないよう足元に気をつけ、右へ左へと蛇行しながら歩いた。
 ガス店の前では日焼けした男たちが柿色のガスボンベを小さなトラックへ積みこみ、銀行の前にとまった現金輸送車のそばでは、分厚い防弾チョッキを着た警備員がショットライフルを構えてあたりをいかめしく睨んでいた。この国ではこうして現金を護衛するのが当たり前なのだが、この風景だけは何度見ても慣れない。心臓がきゅっと締まり、厄介なできごとが持ち上がって流れ弾が飛んでくるようなことになりはしないかと思わず周囲を見渡してしまう。
 十五分ばかり歩き、地下鉄駅の入口に着いた。
 街路樹の芒果(マンゴー)の下に雨合羽を着た客待ちのバイクタクシーが数台並び、屋台の大きな蒸籠(せいろ)から湯気が立ちのぼる。車の雨を轢く音だけがあたりに響きわたった。コンクリートの軒下には新聞売りの自転車がとまっていて、若い男が籠に入れた新聞の束をじっと両手で押さえていた。私は傘を畳み、入口へ入った。
 人影もまばらな薄暗い階段を降り、改札口のゲートでカードを当てた。
 コンビニでチャージしておけば地下鉄とバスの両方で使え、スーパーの買い物にも利用できる便利なカードだが、インターネットの新聞にはこのカードにまつわる横領事件の記事が何本も掲載されていた。数名の職員が共謀して信じられないほどの大量の金額を不正チャージし、遊興に使い込んだらしい。かなり荒っぽい手口だ。この国では、大きな金銭が動くところには大きな醜聞(スキャンダル)があり、小さな金銭が動くところにもそれなりの醜聞(スキャンダル)がある。そんなふうに騙し合い奪い合う中国人は他者に対する猜疑心が異常に研ぎ澄まされている。そして、この私もそんな色に知らずしらずのうちに染まり、警戒心ばかりが心を埋めるようになってしまった。
 あいにく、地下鉄は出たばかりだった。私はホームの天井にぶらさがったテレビ画面をぼんやり眺めた。
 朝のニュースは、裁判所が偽札犯への判決を下したと伝える。手錠のかかった犯人たちが法廷にずらりと並び、男女合わせて十人くらいの顔が映し出されていた。画面はふと切り換わり、法廷を出てきた主犯らしき人物へのインタビューになる。彼は憤った顔を隠そうともせず、運が悪くて捕まっただけだといったことを早口でまくし立てた。
 くぐもったこだまが幾重にも重なり、トンネルから汽笛が響く。
 風切り音とともに列車がホームへ滑りこんできた。
 車内はいつものように空いている。鈍く光るステンレスの座席に腰掛けた。
 私は鞄から文庫本を出した。吉田兼好の『徒然草』だ。切りのない不安や苛立ちに苛まれていた私は、貪るようにして何度もこの本を読み返した。ある時は黙読して、またある時は声に出して音読して。『徒然草』を読んでいる間だけ居心地の悪い現実を忘れ、自分が自分でいられるような落ち着きを取り戻した。中国人に囲まれて自分を見失いかけていた私は、己の拠り所を生まれた国の古典に求めたのかもしれない。『徒然草』だけがぐらつきふらついた私の心を支えてくれた。
 ふと視界の端に傘が揺れる。
 横目で隣を見遣ると、黄色いTシャツにデニムのショートパンツを履いた二十歳くらいの女の子が股を広げながら坐り、安物の折り畳み傘を下げて意味もなくぶらぶらさせていた。彼女の連れなのだろう。襟と袖にフリルのついた白いワンピースを着た同い年くらいの女の子が寄り添うようにして隣に坐り、ぽかんと口を開けて携帯電話の画面を眺めている。
 私は再び文庫本に視線を落とした。やはり、眼の端を傘がちらちらする。傘に跳ね返る光が目を刺す。
 いつもなら揺れる傘は気にもならなかっただろう。が、今の私にとってはそれだけで集中力を失わせるには十分だった。次の駅を告げるアナウンスがスピーカーからけたたましく響く。私は険しい感情を心の底に抱き、ぐったりとしたうっとうしさを覚えた。
 窓が明るくなった。
 地下鉄は通勤客が列を作るホームへ到着した。
 ドアが開き、人民がどっと流れこむ。二人の女の子は私のほうへ席を詰める。黄色いTシャツの女の子はやはりぶら下げた折り畳み傘を振り子のように揺らし続ける。
 ――もう本を読めないな。
 私はどこか意地悪い気持ちをこめて傘を見つめた。
 彼女が悪いわけではない。
 それはわかっている。
 今朝はなんとも気持ちの悪い目覚めだった。それが今も続き、神経が荒くささくれだっている。
 私はこの街にいるべきではないのだろう。
 どこかへ立ち去るべきなのだろう。
 黴の生えないからっとした土地を求めて。
 心穏やかに話せる人々を求めて。
 がら空きだった席はすべて埋まり、白髪の老夫婦がドアの近くに立った。
 七十過ぎとおぼしき老婆があたりを見回す。老婆の背中はいささか曲がり、顔には深い皺が刻まれていた。
 揺れる傘がとまった。
 黄色いTシャツの女の子が白いワンピースの友達の肩を叩き、見てごらんとあどけない目で合図する。老夫婦を見上げた二人はすくっと立ち上がり、老夫婦に声をかけ席に坐らせた。
「唔該晒(ムンゴイサイ)」
 老人は広東語で二人にどうもと礼を言った。老婆の顔には安堵の表情が浮かんでいる。女の子の二人連れは会釈してドアまで歩き、華やいだ声でお喋りを始めた。
 ふっと、なごやかな気持ちが私の心の底に湧いた。
 この国にはこの国の流儀のやさしさがある。
 私がこの国に住み着くようになったのもそれを感じてのことだった。
 きついことが多々あるのは、日本でも中国でもどこでも同じことだ。ましてや、生活の糧を得るために働くとなれば。
 女の子たちはなにがおかしいのか楽しそうだ。
 私は肩や背中に入りすぎていた力が自然と緩むのを感じ、身体を深く席に沈めた。
 目覚めた時から激しく続いていた疲労と倦怠が、ほんの束の間、鳴りをひそめた。



 了


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迎え火

2013年06月29日 16時05分26秒 | 短編小説

「はじめよっか」
 ハルは庭の片隅に小さく積んだ薪の下へ使い終えた割り箸の束を挿し入れた。ヒロシは黙ってマッチを擦り、丸めて棒にした新聞紙に火を点けた。片隅に小さく上がった炎がめらめらと広がる。
「火傷するよ」
 ハルがぽつりと言うと、
「わかってるよ」
 と、ヒロシもぽつりと返事して新聞紙の松明を薪の下へ突っこむ。炎が割り箸へ移り、新聞紙の燃えかすが灰となって舞う。乾いた音を立てて割り箸が爆ぜた。
 蒸し暑い真夏の夜だった。
 木綿の浴衣を羽織っているだけなのに、じっと汗ばんでしまう。ふたりはそろいの浴衣を着ていた。模様は咲き乱れる夕顔だった。
 ハルの部屋からこぼれる蛍光灯の灯りだけがぼんやり庭を照らしている。夜空は厚い雲に覆われ、月影も、星一つさえ見えない。台風が近づいていると、ラジオのニュースが言っていた。
 ハルの家のささやかな庭には樅《もみ》の木がそびえ、焼き板の塀沿いにつつじの植えこみがあった。裏木戸のすぐそばに古い蔵が建っている。ヒロシがはじめてハルの制服のリボンを解いたのは、農具がならべてあるそのなかでだった。幼い頃に隠れんぼをして遊んだ蔵がふたりの愛の巣になった。
 テラスには、雨樋から地面までネットが張ってある。蔦が縦横無尽にからまって緑の葉が茂り、葉っぱの陰から瓢箪の青い実が顔を覗かせていた。踏み切りの警告音とディーゼル機関車の汽笛が響いてくる。しんと静まった村の空気がかすかにひび割れる。貨物列車のレールの軋みが遠ざかり、やがておぼろになった。
「早く燃えてくれないかな。暗いから道に迷っちゃうよ」
 枝を手にしたハルは地面にしゃがみこみ、薪の下を突っついた。炎色がハルの顔にゆらめく。
 ハルはぱっちりとした目をしたかわいらしい女の子だった。彼女の顔を漫画に描き、キャンディやチョコレートのキャラクターにすれば似合いそうだ。茶髪を頭の後ろへかきあげ、蝶々をあしらった髪留めでとめている。髪留めからぴんと逆さに跳ねた髪が愛らしい。こんがり陽に焼けた頰にそばかすが浮かんでいた。
「あんまり突きすぎると火が消えるよ」
 ヒロシは隣にしゃがみ、小さな肩を抱いた。ハルはおっとり首を傾げ、ヒロシの肩に頭をもたせかける。ハルの髪はリンスのいい香り。小学生の頃、ヒロシはそれがハルの匂いだとばかり思いこんでいた。
 ヒロシの顔はまだあどけなさを残している。やさしげな目許をしているのでよけいにそう見えるのかもしれない。前髪を短く切り、額を広く出していた。永遠の少年という名の能面のような整った顔立ちだった。
 しばらく、肩を寄せ合いながら炎を眺めた。ふたりの顔がしだいに火照る。ふっと炎が大きくなった。ハルの瞳がきらきら瞬く。薪の底が燃え始めた。
「ほら、帰ってきた」
 ハルは誰もいない裏木戸を見やった。
「誰?」
「おばあちゃん。――お帰りなさい」
 まるで通り過ぎる人を見送るように、ハルはゆっくり顔を動かす。ハルは子供の頃から不思議なことをよく言った。霊感が非常に強く、他人《ひと》には見えないものが見えた。
 幼稚園の夏休みのことだった。
 裏山で遊んでいたハルはヒロシやほかの幼馴染とはぐれ、迷子になった。夕暮れまでに見つけなければと村人が急いで捜し回ったが一向に見つからない。ハルは神隠しにあったのだという村人もいた。幼かったヒロシは、このままハルが帰ってこなかったらどうしようと思い、さみしかった。だが、夕闇が空をつつみ蛍が飛び交い始めた頃、ハルはヒロシの心配をよそに、けろっとした顔をして独りで歩いて帰ってきた。ハルが言うには、曽祖父やほかの先祖の霊魂が山の獣道を導いてくれたそうだ。だから、ちっとも怖くなんかなくて、むしろ楽しいくらいだったのだとか。
 小学校へ上がってからはさすがに人前で言うことはなくなったが、ヒロシにはしょっちゅうそんなことを口にした。ヒロシは慣れっこだったものの、誰かにこっそり聞かれてしまわないかとそれだけが心配だった。告げ口されれば、ハルは叱られてしまうから。
 毎年、お盆の初日になると、ヒロシとハルはふたりだけで薪を燃やし迎え火を作った。
 先祖の霊魂はその灯りを目印にして家へ帰ってくる。このあたりの村では、どの家も迎え火を焚いて先祖の魂を迎えた。特別なものでもなんでもなく、ただ庭でささやかな焚き火をするだけだ。もちろん、ヒロシは自分の家の迎え火をやらなければならないのだが、幼い頃にハルに付き添ってと言われてから、いつもハルとふたりで作った。この春、東京の大学に進学したヒロシはお盆にあわせて帰省した。ハルとふたりで迎え火をするために。
「そろそろ花火をしようか」
 ヒロシはハルの額に口づけた。ハルはこくりとうなずく。
 ふたりで手を添え、花火の先を焚き火に挿し入れた。しゅっと音がなり、ジェットのような火花が噴き出す。ふたりでいっしょに円をぐるぐる描くと、ハルはちいさな笑い声をあげた。迎え火の時に花火をするのも、幼い頃からのふたりの慣わしだった。こうすれば、遠い昔、子供の時に死んでしまった霊はとても喜んでくれるのだとハルは言った。
「しず子ちゃんのおじいちゃん。ここはハルのお家よ」
 ハルは裏木戸を見ながらくすくす笑った。しず子も村の幼馴染だった。ヒロシは去年他界した彼の人懐っこい笑顔を思い浮かべた。飄々としていて冗談好きだったしず子の祖父は村の子供たちに人気があった。端午の節句にボール紙で兜を作ってくれたのを、ヒロシは今でも覚えている。
「バイバイ」
 ハルは顔をくしゃっとさせ、親しげなまなざしで手を振った。
 ヒロシはビニール袋から噴水花火の四角い箱を取り出し、火をつけた。すこし離れた地面に置き、ハルのもとへさっと逃げ帰る。花火の噴水が勢いよく飛び出した。白い火花は藍色へと色を変え、それからまた赤色に変わった。庭の草木が明るく照り映える。瓢箪が紅《くれない》に染まる。草の陰から真っ黒な野良猫が顔を覗かせ、不思議そうな面持ちで花火を眺めた。威勢のよい音がしだいにしぼむ。火花の噴水もしぼんだ。
「あっ」
 ハルは声をあげ、さっきまで噴水花火があがっていたあたりを見つめた。
「どうしたの?」
 ヒロシはきょとんとしてハルの視線の先を目で追った。ヒロシにはなにも見えない。ただ薄暗い庭が見えるだけだ。
「あの子よ」
 ハルは息を飲みこんだ。
「あの子って、誰?」
「わたしたちの――」
「もしかして――」
「そうよ。はいはいしてる。大きくなったのね」
 ハルはうっすら涙を浮かべた。
 ヒロシが東京へ行く前日のことだった。
 ハルの様子がどうもおかしい。今までずっと一緒にだったのに離ればなれになってしまうからふさぎこんでいる、というわけだけでもなさそうだ。言い知れない不安に駆られたヒロシはハルを問いつめ、ようやくのことでふたりの赤ちゃんができたことを聞き出した。思い当たる節はあった。
 もうどうすることもできなかった。
 入学式を三日後に控えたヒロシには、ハルと話し合う時間も付き添ってあげる時間もなかった。生活道具をそろえなさいと祖母がくれたお金をすべてハルに渡し、後ろ髪をひかれる想いのまま東京へ旅立った。それからしばらくの間、ハルはヒロシの電話に出もしなければ、ショートメールの返事も返さなかった。大学のキャンパスはサークルの新人勧誘で華やいでいたが、ヒロシはそれを楽しむゆとりもなかった。ガイダンスが終わり授業登録がすべて済んだ頃、
 ――心配しないで。
 と、それだけを書いたショートメールがヒロシの携帯電話に届いた。
「わたしたちは間違ったことをしたんだね」
 ハルは唇を嚙む。
 ヒロシはハルの言葉にうつむいた。なんと言って慰めたらよいものか、わからない。
 ――間違ったんじゃなくって、しくじっただけだ。
 そう思いたかった。とはいえ、ただの言い訳だとヒロシにはわかっていた。ひどい誤魔化しに過ぎないのだと。
「ママよ」
 ハルは叫ぶように声をあげ、
「合わす顔がないわ。――ひどいお母さんだもん」
 と、消え入りそうな声でつぶやく。
 ヒロシは、はっとしてハルの横顔を見つめた。
 あの時、正直言って、ヒロシはハルが身籠ったことがどういうことなのか、よくわからなかった。自分が父親だという認識もなければ、育てようという気もなかった。ただ、とんでもないものができてしまったと思い煩っただけだった。だが、ハルの想いは違った。どんな母親でも抱くように、我が子を慈しむ気持ちをその心に身籠らせたのだ。ヒロシはそんなハルの気持ちに気づきもしなければ、気遣いもしなかった。この四か月あまり、ハルはどんな思いで過ごしていたのだろう。そう思うと、ヒロシは自分が情けなかった。ヒロシは、ハルになにをしたのかを今頃になってようやく理解した。それは無関心という名の裏切りだった。
「僕たちの子供はどんな格好をしているの?」
 ヒロシはささやいた。堕《おろ》した赤ん坊がはいはいしているというのは不思議だった。生きていたとしても、生まれるにはまだ早い。ハルのお腹のなかでぐっすり眠っているはずだ。
「よだれかけをつけて、はしゃいでるわ。――かわいい」
 目を細めたハルの顔を見て、ヒロシは疑問をそのままにしておこうと思った。この世とあの世のことでは、理屈のうまく合わないこともあるだろうから。
「楽しそう。でも、ぜんぜん気づいてくれない」
 ハルは眉をひっそりさせる。
「しょうがないか。わかるわけがないよね。だって、二か月しかお腹のなかにいなかったんだもん」
「――」
「ちゃんと産んであげればよかった。わたしのことを恨んでるだろうな」
「そんな――」
 ヒロシはうなだれた。
 ――ほかにしかたがなかった。
 そんなことを言ってもなんの慰めにもならない。悲しみが汚れるだけだ。
 遠いどこかに純粋な愛の泉があり、生きとし生けるものはすべてその泉から生まれる。命こそ愛にほかならない。いつかそんなことを読んだことがあった。もしそれがほんとうだとすれば、ふたりは愛を殺してしまったことになる。ヒロシは、ハルに愛を殺させたことになる。
「あの子ができた時、とっても嬉しかったの。体の具合がおかしくて吐きそうになったりして大変だったし、なんだか不安でしょうがなかったけど、それでも満たされた気分になれたのよ。あたたかい気持ちだった」
 瞠《みひら》いたハルの瞳から涙がこぼれた。熱い滴があごの先を伝い、ヒロシの腕へぽとりと落ちる。
「ごめんね。僕はハルがそんな気持ちでいただなんて、ちっとも知らなかった」
「謝るんだったら、あの子に謝って」
「そうだね」
 暗闇へ向かって合掌した。心が痺れる。
 ――謝ることしかできないだなんて、なんて苦しいんだろう。
 ヒロシはしんみりした。
「あら、気づいてくれた。わたしに向かっておててを叩いてる」
 にっこり笑ったハルは、小さく手を叩き返した。
「わたしがママよ」
 ハルのまなざしは母親のそれだった。愛おしそうに我が子を見つめている。目がやさしい弓なりになった。
「僕にも見えるといいのに」
 そうつぶやいたそばから、ぼんやりとした白い人影がヒロシの目に映った。
 可愛いベビー服を着た赤ん坊が地べたに坐り、ハルの言ったとおり楽しそうに手を叩いていた。つぶらな眼《まなこ》は、たしかにハルを見つめている。健やかな頰。ぽっちゃりとした愛らしい手。ハルがまた手を叩き返すと、赤ん坊は愉快そうに口を開け、けらけらと笑った。幸せいっぱいの笑顔だった。ヒロシは穏やかにほほえみかけた。
 さっと風が吹き、葉ずれの音が鳴り渡る。赤ん坊の姿がかき消える。ハルは叩きかけた手をとめた。
「行っちゃった」
 迎え火は燃え盛り、取り残されたふたりを照らす。ハルは身じろぎもしない。
「いつか、ここへ帰ってきてもらおうよ」
 ヒロシはハルの下腹に手を当てた。ハルの体はほっそりと息づいている。そのぬくもりがヒロシの掌に伝わった。母なるもののぬくもりだった。
「今度は大切にする」
 ハルは人差し指で涙を拭った。ハルの顔は悲しみに耐えるような、ほほえむような。
 なんとなく、ふたりは空を仰いだ。
 雲の一角にぽっかり穴が開き、蒼い星が夜空の窓にひときわ輝いていた。



 了



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流刑地に冷たい雨が降る

2011年11月05日 13時22分01秒 | 短編小説

「いったい、俺はなにがしたいのだ?」
 窓辺に立った隼人《はやと》は、軍用ナイフを力任せに放り投げた。向かいの家の瓦にあたったナイフは甲高い音を立てて跳ね返り、宙を切り裂き垂直落下する。薄汚い飲み屋と売春宿が狭苦しく軒を連ねた細い路地の真ん中にナイフが突き刺さった。驚いた野良犬がけたたましく吠える。荷台にビールケースを積んだ自転車がゆるやかな弧を描き、尾を怒らせた犬を避けて走り抜けた。窓の外は春の陽射しがあふれている。隼人は娼家の二階にいた。
「そんなこと、決まってるじゃない」
 珠緒《たまお》が背中から隼人を抱きすくめる。
 これが命の息吹だとでも言いた気に生温かい息が耳元に吹きかかる。白粉の匂いが鼻をくすぐる。苛立ちを鎮めようとしてくれたのだと、隼人はすぐにわかった。
「一度でいいから、素顔の君を抱いてみたいものだな」
 しばらく考えを巡らせていたかったのだが、珠緒を無視するわけにもいかず、まぜっかえした。
「憎い人」
 珠緒は甘えた仕草で隼人の二の腕をつねる。お兄さんのようで甘え甲斐があると珠緒はいつも言っていた。
「それじゃ、白粉を落としてこようか。おっかさんに怒られるかもしれないけど、隼人さんの頼みだっていったら、きっと許してもらえるよ。でもさ――」
「でも、なんだ?」
 隼人は素っ気なく訊いた。珠緒は恥ずかしそうにいやいやをして、上目遣いに隼人を見つめる。珠緒の潤んだ瞳を見つめ返した隼人はふと、胸の奥から突き上げる衝動を感じた。
 情欲。
 そう言ってしまえば身も蓋もない。が、それだけではすまされないなにかだった。川の流れに逆らって跳躍する鮭の姿に似ている。死ぬ日まで、あと幾許《いくばく》もない。せめて子を作り、己の命をつなぎたい。切ない希求が心を突き上げた。
「素顔のあたいなんか見たら、がっかりするかも」
 珠緒は、お菓子を貰い損ねた子供がさびしがるように唇を尖らせる。
 隼人は痺れるような激情に耐えた。堪《こら》えればこらえるほど、心が逸脱しそうになる。珠緒を泣かせてみたい。思い切り辱めたうえで、孕ませてみたい。
 ――鬼畜だな。俺も狂ったか。
 隼人は己の心をもてあました。
「なにか言ってよ」
 珠緒は隼人の腕を叩《はた》く。
「がっかりなんかしないさ」
「ほんと? 隼人さんだけに見せるんだからね」
「わかってるよ」
「わらったりしちゃだめよ」
「しないさ。約束する」
「隼人さんを信じるわ。――ちょっとお風呂に入ってくるわね。ちゃんと待っててよ。帰ったりしちゃ、いやよ」
「どこへも行かない」
「げんまん」
 珠緒は曲げた小指を差し出す。隼人は、言われるままに小指をかけた。
「嘘ついたら、針千本飲ます」
 珠緒はいそいそと着物の裾をひるがえし、華やいだ様子で障子を引く。障子が閉まる間際、珠緒は一瞬手をとめ、愛しそうに隼人を見つめた。隼人は、純な愛情を己に向ける珠緒の心と、行き場を失ってのたうつ己の心を較べ、口許に微苦笑をにじませた。
 隼人の風貌は貴公子のそれだった。明るい瞳は透き通り、高貴な公家の血が流れているような印象を人に与えた。すっと鼻筋の通った高い鼻。ふっくらと整った唇。今は丸刈りにしているが、元々は天然パーマの甘い長髪をしていた。正装をして舞踏会へ出れば、社交界の花形になることは請け合いだ。ただ時折、触れるものをすべて切ってしまいそうな、どこか危うさを秘めたまなざしをのぞかせた。
 窓の木枠にもたれ、横丁の向こうを眺めた。桜の花が三分咲きにほころんでいる。
「あの桜が散る頃には、俺も大海原で散華だな」
 隼人はひとりごち、顔を顰《しか》めた。指揮官は、己の吐く言葉がどれほど虚しいものかも知りもせずに米海軍のミッチャー機動部隊を叩き潰すのだと息巻いていた。神風攻撃が成功を収めているのであれば、ミッチャーなんぞ、とうの昔に尻尾を巻いてアメリカへ逃げ帰っているはずではないか。
「そんなことはどうでもいい」
 隼人は頭を振った。
 ――俺はなにがしたいのだ?
 さっきの言葉が、心のなかでからからと回る。冷たい風が心を吹き荒《すさ》ぶ。心に砂塵が舞い上がる。
 なにか一つでいいから、死ぬまでに確かなことを成し遂げたかった。生きた証を現世《うつせみ》に残しておきたかった。が、あと一週間か十日ばかりで、いったいなにができるというのだろう。なにもできないばかりではない。今まで学んできたことも、努力を重ねてきたことも、すべてふいになる。
 ドストエフスキーは人間の魂の深淵を見せてくれた。トルストイは理想を掲げて生きることの素晴らしさを説いてくれた。ツルゲーネフは、まだ見たこともないロシアの自然をスケッチしてくれた。レーニンは力強く生きることを教えてくれた。隼人は貪るようにして次からつぎへと彼らの著作を読破し、そうして己の器を広げ、確固たる信念を練り上げようと格闘した。が、今となっては、それがいったい何になるというのだ?
 心は空転する。そんな己が情けない。
 操縦桿を握り、発進訓練。
 標的を探し、急降下訓練。
 毎日、訓練に明け暮れた。着地の訓練は要らない。どうせ片道飛行なのだから。
 この数か月というもの、己が死ぬことの意味を考え続けた。そして、死ぬことに意味があるのだと、自分自身を説得しようと試みてきた。理屈をこねくりまわしては行き詰まり、また一からやり直し。そんな積み木崩しの繰り返しだった。

 一粒の麦、
 地に落ちて死なずば、
 唯一つにて在らん、
 もし死なば、
 多くの果《み》を結ぶべし。

 新約聖書のヨハネ伝第十二章二十四節に書かれているこの言葉を巡り、思索を繰り返した。
 意味のある死であれば、結果として多くの果《み》を結ぶための死ならば、運命を甘受もしよう。が、特別攻撃の死に意味などあるのだろうか。いや、意味など見出せない。体当たりを喰らわす前に撃ち落されるのは目に見えている。米軍は、懲りもせずに阿呆鳥がまた飛んできたと嗤《わら》うことだろう。ただの犬死ではないか。生きてさえいれば、なにごとかを成し遂げられようものを、今まで蓄えてきた力と知識をみすみすどぶに捨てるようなものだ。
「なにが神風特別攻撃隊だ」
 隼人は吐き捨てた。憂いが瞳に走る。
 学徒動員の特攻隊員たちは、おたがいに死ぬという事実を口にしなかった。予定された死は祟り神だ。ひとたび触れようものなら、どんな騒ぎが持ち上がるか、しれたものではない。汗臭い兵舎のなかでは、それぞれ己の殻に閉じこもり、不条理な死を自分自身に納得させるという孤独で神経質な作業に従事した。見捨てられた淋しさを感じない者はいなかった。心を火焙りの拷問にかけるようなことをしているのだから、当然、誰もが誰にも邪魔されたくはなかった。まれに、お上の宣伝文句を鵜呑みにしてくだらない演説をぶつ輩がいることはいたものの、そのような単細胞は冷笑と憐憫を以て迎えられた。祖国のために自殺攻撃を行なうのではない。戦争の勝負なら、もうついている。敗戦を引き延ばし責任逃れをしたい提督たちのために無謀な自殺攻撃をさせられる――ただそれだけのことだ。とはいえ、無意味な自殺攻撃ほどむなしいものはない。己の死の意味を求めずにはいられなかった。それはすなわち、己の存在の意味を考究《こうきゅう》することでもあった。
 特攻機の整備員たちは無表情の仮面を被り、腫れ物にでも触るようにして特攻隊員に接した。ニュース映画は特攻隊員を軍神と持ち上げ、さも出陣を祝うように見送る場面を映しているが、嘘っぱちもいいところだった。整備員はみな黙々と自分の仕事をこなした。もし特攻が一度きりの、国家の命運を決するものであれば、感情もまた高揚したかもしれない。が、特攻は特別なものでもなんでもなく、もはや日常の作戦《オペレーション》だった。理不尽が日常と化してしまった。平時においては邪道と考えられていたことが、耐え難いと思われていたことが、当たり前のことになってしまったのだ。不条理に飼いならされた整備員たちは言葉を奪われた。理不尽に首根っこを摑まれたのでは、自分の気持ちを押し殺し、麻痺するよりほかにどうしようもない。それが唯一の処世術だ。
 そのような姿を見るにつけ、隼人は己だけは誤魔化されるまい、己の心を誤魔化すまいと誓った。たとえ、この命を使い捨てにされると識《し》っていても、いや、それを解《わか》っているからこそ、己の心を嘘で塗り固めたくはなかった。もしもこの世が虚空なら、冷ややかな虚ろさをしっかりと抱きしめたまま黄泉へ赴きたかった。たとえ、心に寂しい風が吹き抜けようとも。
 珠緒があがってきた。照れ笑いを目元に浮かべ、結った髪に手をやる。
「おっかさんがね、今日は特別だからって、香水をつけてくれたのよ」
 はにかんだ珠緒のうなじから甘い匂いがほのかに漂った。
 痩せた体。田舎娘の素朴な顔。丸い鼻に愛嬌と人の好さが宿っている。今頃になって、珠緒の頰には小さなほくろが星のように並んでいると気づいた。
「素顔のほうがいいな」
 隼人が湯上がりの火照った体をかき抱けば、
「はずかしい」
 と、珠緒は隼人の胸に顔を埋める。柔らかい女の香りが凍りついた隼人の心をかすかに溶かす。
 戯れというには真剣《シリアス》で、愛と呼ぶにはふざけた営みが終わった。隼人は息苦しさを彼女に預け、どれだけもがいても癒すことのできない無念を紛らわせた。これで最後だと思うとどうにも気持ちが昂《たかぶ》り、立て続けに三度抱いた。最後の交尾を行なう蟷螂《とうろう》の雄は、あるいはこんな風にどうしようもないほど興奮するものなのかもしれないと、果てた後、隼人は天井をぼんやり眺めながら思った。心を吹き荒ぶ風が束の間、凪《な》いだ。隼人は深く息を吸いこんだ。
 起き上がった珠緒は襦袢を羽織ろうとする。
「もう少しだけ、そのままでいてくれ」
 隼人が珠緒の手を握ると、
「隼人さんのためだよ」
 と、珠緒は手にした襦袢を脇へ置いた。
 隼人は首筋をそっと眺めた。浅黒い肌に紅い染みが一粒ついている。営みの最中、隼人が残した小さな記念だった。隼人がこの世に生き、珠緒と交わった証だ。珠緒は自分の裸体を見下ろし、
「ちょっとだけ、胸がふくらんだかな」
 と、嬉しそうに乳房をなでる。
「ここの食事は栄養がいいと見えるね」
「おっかさんがね、特別配給だっていっていろんなものをくれるのよ。けさはご飯に生卵をかけたし、おやつに羊羹を食べちゃった。あたいらは体が資本だからね」
「パイロットみたいだな」
 隼人は朗らかな笑い声を立てた。操縦士には、特別栄養食としてカロリーの高いものが配給された。それだけが、神風特攻隊の唯一の楽しみだった。娼家には軍から闇物資が流れている。やり手の女将ほど、高級将校に物をねだるのがうまい。珠緒が口にしたものは、おそらく女将が将校に頼んで入手した品だろう。
「なんであたいの素顔を見たかったの?」
 あどけない瞳になった珠緒は、子猫でもかわいがるように隼人の額をなでる。
「白粉をつけた君は商売女さ。だが、素顔の君は人間だ。それを見たかった」
 人間を押し殺してしまう強大な魔性がこの世を覆っている。それは抗うことを許さない圧倒的な暴力だった。本音の自分を見せれば、生きていかれない。人々は人前では思ってもいないことを口にし、陰に隠れてこっそり他人を蹴落とした。すべては生き延びるためだ。それが獣性から離れえない人間の業《カルマ》とはいえ、罪作りには違いない。もしもこの世に純粋な愛や真心があるとすれば、それを裏切る日々だった。
「そんなことをいってくれた人、隼人さんがはじめてだよ」
 珠緒は両手で顔を覆う。
「君は人間さ」
 隼人は珠緒の乳房に掌を当てた。心臓は確かな鼓動を打っている。それは混じりけのない生成《きな》りのやさしさだった。生きることのせつなさとはかなさが隼人をつつんだ。この温もりを覚えておこう。己にそっと言い聞かせた。
「いやらしいことをいっぱいされて、はずかしい思いをいっぱいさせられて――」
 珠緒は肩を震わせる。悪趣味な軍人ややくざにむりやり小便を飲まさせられたと、いつか珠緒が話したことがあった。ほかにも人に言えない思いがたくさんあるのだろう。今がまともな世の中だったなら、珠緒はありふれた倖《しあわ》せを摑み、平凡な農婦として山奥の僻村で一生を送ったはずだった。が、時代がそうはさせてくれなかった。父親がアッツ島で玉砕したために珠緒の家は一家の大黒柱を失い、家計を支えるのは珠緒の役割となった。珠緒はこうして体をひさぎ、残された家族を養っていた。
「隼人さん、ほんとうに死んじゃうの?」
 珠緒は小さくつぶやき、隼人の膝に手を置いた。素朴な丸い目から、涙がこぼれ落ちる。
「おいおい、まだ殺してもらっちゃ困るな。俺は生きている」
 隼人は右の眉だけ吊り上げてみせた。
「でも、死んじゃうんでしょ」
「まあな」
「あたいの命をあげたいよ」
「俺のことはいい。珠緒はしっかり生きろ」
 隼人は彼女の肩を抱いた。想ってくれる人がいる。それがなによりもありがたかった。ふと、ほんとうの恋人のような気がした。一度だけ、休みの日に珠緒を連れ出して河原を散歩したことがあった。隼人は、あの日の夕焼け空を思い出し、あるはずもないふたりの未来を夢想した。
「ねえ、わがままを言っていい?」
 珠緒はうつむく。
「なんだ」
「預かってる御本をちょうだい」
「いいさ。やるよ」
 隼人は危険な本を珠緒に渡していた。従兄に譲ってもらったロシア語版のレーニン伝記だった。もちろん禁書だ。特高警察に見つかれば、逮捕されて拷問を受けるのは間違いない。刑事に追われていた従兄はこの本を隼人に託し、自ら命を絶った。死ぬ前にもう一度読み返したい本だったので、鞄の底に隠して持ってきたのだが、さすがに兵舎に置いたきりにするのは危ない。そこで珠緒に預かってもらったのだった。珠緒は、押入れの奥からくすんだ緑色の背表紙に金文字でタイトルを記した本を取り出した。手の脂のにじんだ牛皮の表紙が鈍く光っていた。
「一生大切にするわ」
 珠緒は、まるで隼人を抱くように愛しそうにレーニン伝記を抱く。
「大切になんかしなくていいさ。だいいち、読めないだろう」
「読めなくてもいいの。お守りにするから」
「この本は土にでも埋めて隠しておくんだ。もし見つかりでもしたら、君は殺される。時がくれば、売ればいい」
「そんな」
「もうすぐこの戦争は終わる」
「そんな噂を聞くけど、ほんとう?」
「この夏には終わる。長くても秋だな。――この国は負ける。そうなれば世の中が変わる。この本は日本ではなかなか手に入らない貴重なものだから、きっといい値段で売れるさ」
「隼人さんの形見をお金にかえるだなんて、できないわ」
 珠緒は悲し気に首を振った。
「いいか、よく聞くんだ。戦争が終わったら、日本は大混乱に陥って餓死者が大勢出るだろう。どうしてもお金がなくなったら、この本を売って生活の糧に変えるんだ」
「いやよ。お守りなんですもの」
「本はただの物だから売ってしまっていいのだよ。時々でいいから、俺のことを思い出してくれないか。そうすれば、俺は珠緒の思い出のなかで生き続けることになる」
「わかったわ。隼人さんのいうとおりにする。何度でも思い出すわ。せっぱつまったらこの本は売るわね。ごめんなさい」
「謝らなくていい。珠緒は、どんなことがあっても生き延びろ」
「約束する。あたいが死んだら、隼人さんも死んじゃうもの」
「いい子だ」
 隼人は珠緒の頭をなでた。
 連合軍の軍艦へ突っこむことで、彼女が生きながらえるための時間稼ぎをできるのなら、己の人生にもすこしは意味があったことになるのかもしれない。なにかの役に立ったことになるのかもしれない。珠緒の人生がなにかの果《み》を結んでくればいい。確信は持てないが、なんとなくそんな気がした。
「隼人さん、どうして特攻なんかに行っちゃうのよ」
 拳を握りしめた珠緒は、隼人の胸を叩く。遠い海鳴りを聴くように、隼人は己の胸の響きに耳を傾けた。
「罪を贖《あがな》うのさ」
 隼人はぽつりと言った。
「なにそれ? 隼人さんは悪い人じゃないよ」
「今も、こうして君を裏切っている」
「そんなこと、ないったら」
「むずかしいかな。だが、いつかわかるかもしれない」
「全然わからない」
 珠緒はどこへも行かせないとばかりに抱きすくめ、隼人の体にしがみつく。ふたりは震える唇を合わせた。
 そろそろ兵営へ戻らなければいけない時刻だった。隼人は帰り支度をして階段を降りた。
 玄関から路地を見やれば、いつのまにか冷たい雨が降っている。この世という名の流刑地に降る花冷えの雨だった。
「傘を持っていってよ」
 彼女は傘立てから店の傘を出そうとした。
「いいよ。もう返しにこられないから」
 隼人の言葉に珠緒は黙りこむ。
「元気で」
 隼人は手を振った。隼人の瞳にきらりと光ったのは、あるいは涙だったかもしれない。珠緒はこわばったまま目を瞠《みひら》く。迷子の幼な子のようだ。
「いい思い出をくれてありがとう。いつかきっと倖《しあわ》せになってくれ」
 隼人は降りしきる雨へ飛び出した。




 了


(2011年10月16日発表)
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俺が人間でいるうちにこの命を取り上げてください――受難者の記 (短編小説)

2011年02月23日 00時45分34秒 | 短編小説

 俺の生きてる意味がわかりません。
 今日までなんとか生きのびてきましたが、持っているお金がとうとう三十円になってしまいました。じゃがいもコロッケ一個すら買えません。
 今、小さなリュックを背負って、紙袋をさげて新宿駅の東口にいます。服は汚れきって、もう何日もシャワーを浴びていません。昨夜《ゆうべ》、生まれて初めて野宿しました。ダンボールを拾い集めて、公園の片隅に寝床を作りました。寝てる時に誰かが俺のダンボールに小便をひっかけていったけど、怒る気力すら湧きませんでした。小便の匂いが鼻について、悔しくて、自分が情けなくて、まんじりと一晩を過ごしました。ほとんど眠っていません。
 ケータイから派遣会社へ仕事の斡旋を依頼しましたが、なしのつぶてです。ダンボールのなかでうずくまってる気もせず、なんのあてもなくふらふらと出てきました。
 新宿はいつもと同じ賑わいです。
 俺とはなんの関係もない騒々しさです。
 東口広場の階段に腰かけても、ため息も出てきません。
 じっとこらした硬い息を口から吐いて、匂いもなにもしない硬い空気の塊を吸いこむだけ。心が石になってしまいました。道行く人々が人間ではなく、なにか動物のように思えます。牛の群れか馬の群れでも歩いているような、へんな感じです。どうしてこんなふうに感じるのか、自分でもよくわかりません。きっと、心がおかしくなっているのでしょう。
 なにか売れるものはないかとさっきリュックのなかをあさってみたけど、これといったものはありませんでした。唯一の財産だったノートパソコンはとうに売り払ってしまったし、着替えの服も売ってしまいました。ケータイは売れるのでしょうが、ケータイがなければ日雇いの仕事にすらありつけません。ケータイは俺にとって命綱なんです。もっとも、たとえ仕事があっても、現場へ行く交通費もありませんが。
 この五年間、派遣労働者になって日本中をさまよってきました。だいたいが工場勤めです。わずかばかりのお金を貯めて、仕事に慣れてきたかなと思った頃に工場の寮を追い出されて、減るばかりの貯金残高におびえながら別の仕事を探してまた働いて。そんなことを繰り返してきました。貯金がゼロになる前にすべりこみセーフで仕事にありついたことも何度かありましたが、今度ばかりは仕事が見つからず、とうとうお金も尽きてしまいました。げっそり廋せました。さっき、公衆トイレで自分の顔を見たら、ひどいものでした。目のまわりには太い隈がこびりついて、まるで麻薬に蝕まれた幽鬼のようです。
 好きでこんなことをしてるわけじゃありません。
 就職活動に失敗してしまったから、しょうがなくやってるだけです。ほんとうはきちんとした仕事を持って、人並みに暮らしたい。おんぼろのアパートでいいから、自分で部屋を借りたい。自分の蒲団でぐっすり眠りたい。だけど、派遣で短期の仕事をこなしているだけの俺にはこれといったスキルも経歴もありません。資格だって運転免許証くらいなもので、普通車と限定解除の自動二輪です。特別なものはなにもないから、派遣会社にピンはねされるとわかっていても安い賃金で単純作業をこなすしかないのです。
 こんな時に頼れる人は誰もいません。
 高校時代の友人が東京で働いているので、迷いに迷った挙句、さっき思い切って電話をかけてみましたが、この電話番号は使われておりませんと自動音声が流れるだけでした。いつの間にか電話番号が変わっていました。
 もっとも、会えたところでどんな顔をして彼と向かい合えばいいのか、わかりません。高校の時はそこそこの付き合いがあったけど、それほど仲がいいというわけでもありませんでした。もう何年も連絡を取っていない同級生がいきなり現れてお金を貸してほしいと言われたら、きっと彼は困ってしまうでしょう。彼は名の通った会社で正社員として働いてるそうですから、俺のことを馬鹿にするかもしれませんが、もし彼に馬鹿にされたとしても、それほど苦にはなりません。派遣会社の人にも、派遣先でも、今までさんざん馬鹿にされて生きてきました。もう慣れっこです。俺には価値などないのだから、馬鹿にされるのもしょうがないと思います。だけど、人を困らせるのは俺としても心苦しいです。人は自分が困った時、相手に弱味を見せまいとして人を馬鹿にする態度を取るものですから。
 もちろん、彼が人の悪い奴だと言っているのではありません。高校時代の彼はおおらかで気のいい男でした。テスト前にはよく彼のノートを借りたものでした。彼なら、こんな俺にでも親切にしてくれるかもしれません。――きっと、こんなふうにしか考えられないのは、俺が卑屈になりすぎて、そんな自分自身に慣れすぎてるからなのでしょう。人を信じられないのは、俺自身が悪いのです。
 彼のほかには東京に友だちも知り合いもいません。話す人など、誰もいません。もう何日も人とまともな言葉を交わしていません。まるで、言葉の通じない外国でぽつんと迷子になってしまったようです。
「今日はいい天気ですね」
 そんな挨拶だけでもいいから誰かと交わしたいと切実に思います。腹が減ってるだけではありません。会話に飢えています。人間が話す言葉に飢えています。誰でもいいから、言葉のキャッチボールをしたくてたまりません。もし、言葉を交わした人がたわいもない冗談でも言ってくれたら、どれだけ救われることでしょう。
 親元へ帰ったらと言われるかもしれませんが、たとえ野垂れ死にすることになっても、それだけはできません。
 家のことを考えると嫌なことばかり思い出します。俺がなにを訴えても知らん顔をする父、一から十までなんでも言うとおりにしないと気の済まない母。よくある話ですが、無関心な父と過干渉な母に育てられました。父と母は人前では仲のいいふりをするけど、家の中では喧嘩すらしない冷え切った仮面夫婦でした。もう二度と戻りたくありません。戻ったらきっと、俺が自殺するか、俺が両親を殺すかの二つの道しかないでしょう。もう親に失望したくありません。現実がまったくわからないあの二人に、親のわがままを押し付けられるのも御免です。
 こんなことを言うと甘えてるからではと思われるかもしれませんが、壊れた家庭に生まれた人間にしか、そのつらさはわからないものです。ごくふつうに育った人にはまったくわからないことなのです。壊れた家庭の子供は、両親の世間体をつくろうための道具でしかありません。毎日、両親のゆがんだエゴのために、いろんなことに傷つきながら大きくなってしまいます。そんな日々は断ち切ってしまいたいものなのです。俺にとって、家庭は帰る場所ではありません。拘置所の檻です。思い出すだけで、胸が悪くなってきました。
 昔はともかく、これからどうすればいいのでしょう。それが問題なのですが、途方に暮れるばかりです。
 現実的に考えれば、本格的にホームレス生活を始めて、ゴミ拾いでもするしかありません。十円玉三枚ではネットカフェに入れてもらえませんから。でも、ホームレスにはなりたくありません。わかっています。そうするしかないんだと。でも、どうしても嫌なんです。ネットカフェならまだ我慢できます。路上で寝るのだけは勘弁してほしい。せめて、屋根のあるところで寝たいんです。それは許されない贅沢なのでしょうか。
 自殺するか、それとも、悪いことをして人からお金を奪うか。
 その二つしか、頭に浮かびません。
 俺の望みはささやかなものです。
 もう一度、今この夕焼けのなかを歩いている人たちの群れに入れてほしい。建ち並ぶビルのどこかに俺を受け入れてくれる場所が欲しい。ただ、それだけ。ほんとうにそれだけです。人の温かさに触れることができたら、今感じている人が人でないような、自分とは関係のない動物の群れとしか思えないような、そんな妙な感覚も消えるのでしょう。俺も世間へ入れてほしい。世の中の一員として認めてほしい。ただそれだけです。
 でも、むりなのでしょう。
 誰もどこも、俺を受け入れてなんかくれません。
 失業は罪ですか? 仕事を失ったというだけで、どうしてこんな思いをしなくちゃいけないのでしょう? これはなにかの罰なのでしょうか? 俺は、もうわかりません。
 どうせ死ぬのなら、誰でもいいから通りすがりの人を道連れにしたい。そんな思いがふつふつと心の底にたぎります。いけないことだとはわかっていますが、どうしようもないんです。やけになったというだけではないようです。無性に復讐をしたい。誰でもいいから、俺をこんな目に遭わせた奴らに仕返しをしたい。どうしてもそう思ってしまうんです。もちろん、十分過ぎるほどわかってます。道を歩いてる人々に罪などありません。誰が悪いわけでもありません。悪いのはふがいない俺です。でも、そんな考えは小さくしぼんでいきます。だんだん理性を失う自分がわかります。こんなことを考える自分が恐ろしい。
 秋葉原で連続殺傷事件があった時、犯人はなんて馬鹿で愚かな奴なんだろうと腹が立ちました。ネット上で犯行予告をしておいてから、レンタカーで歩行者天国へ突っこんで人を跳ねて、それから次から次へと通行人をサバイバルナイフで刺したあの事件です。十名くらいの方が亡くなったのでしたっけ。
 正直言って、あの犯人は変わり者なんだと思いました。俺も非正規労働者で人とも思われない存在だけどまがりなりにもちゃんとやってるし、まわりを見ても、いくら苦しくても道を踏み外さずにまっとうに生きてる人がほとんどです。それなのに、あんなことをやらかすのはとんでもない奴だと思いました。でも、今は彼のことが他人事だとは思えません。まわりから無視されて、否定され続ければ、誰でもああなってしまうのだと思います。とくに、俺みたいにお金もなくなって、生きる手段も失ってしまえば、まわりを怨むし、誰でもいいから傷つけたくなってしまいます。まわりがみんな敵に思えてしかたないんです。やさしい人だって、親切な人だって、自分と気の合う人だって、きっといるはずなのに。ほとんどの人は、真面目に働いて、真面目に暮らしてるはずなのに。
 人も、ビルも、看板も、風景も、みんな赤一色に染まっています。夕焼けに赤く染まった人たちが、みな、血しぶきをあげているようです。これから俺が殺してしまう姿がデジャブのようにして見えます。
 こんなことなんて考えたくもないのに、どうしてとめどもなく心に浮かんでしまのでしょうか。自分が嫌でたまりません。
 いったい、俺はなんのために生まれてきたのでしょうか?
 誰のために生まれてきたのでしょうか?
 こんな俺に生きる意味なんてあるのでしょうか?
 誰かとめてください。
 神さまがいるなら、俺を罰してください。
 俺が人間でいるうちに、この命を今すぐ取り上げてください。
 このままだったら、俺、もうなにをしでかすかわかりません。




 了



本作は2010年2月21日「小説家になろう」サイトに投稿しました。
http://ncode.syosetu.com/n9595j/

今日は絶対に負けられねえんだ(短編小説)

2011年02月21日 12時00分00秒 | 短編小説

 いてっ。
 なにしやがるんだ、この野郎。
 てめえ、いま嗤《わら》っただろ。俺にはよく見えるんだぜ。
 お前さんよ、人を殴っておいて嗤《わら》うなんざ、よくねえぜ。
 まずは軽くジャブってところからいこうぜ。
 挨拶がわりにさ。
 そんな怖い顔して、俺を睨むなよ。

 ジャブ、ジャブ、左フック、おっと危ねえ。
 知ってるかい?
 じつは俺、珠算七段なんだよ。
 笑っちまうだろ。プロボクサーが珠算七段だってよ。デヘヘ。ほんとだよ。俺は中学校の時、県の珠算大会で三位に入ったんだ。今でも賞状を持ってるぜ。ほんとうは、ボクシングよりも算盤のほうが得意なんだ。
 それからついでに言っとくけどよ、俺は簿記一級に税理士の資格も持ってるんだ。どうだ、すげえだろ。
 みみっちい? なんでだよ。
 ああわかった。俺がファイトマネーの管理を自分でやってるって思ってるんだろ。アハハ。ばかだな。お前はほんとにばかだよ。ボクシング業界ってやつは世界チャンピオンにでもならねえかぎり、ボクシングだけで喰っていけるもんじゃねえんだよ。お前さんだって知ってるだろうに。俺は、コンビニと宅配便の配達とビル掃除のアルバイトで喰ってるんだよ。管理しなくちゃいけねえような資産なんてねえよ。お前さんだって、なんかバイトをやってるんだろ。おたがいさまさ。
 なに?
 税理士のバイトでぼろ儲けしてるんだろうってか?
 時給はそこそこいいけどさ、そんなもんは確定申告と決算の手伝いくらいしかねえんだよ。なにしろ俺はボクサーだ。面接に行っても「こいつほんとうに計算できんのかよ」って目で見られちまう。頭を殴られておかしくなってるんじゃないかって思われちまうんだよ。おまけに試合が入ったら準備をしなくちゃいけねえから、一年通して働くなんてむりだ。減量すりゃ、腹が減る。腹を空かせてたんじゃ、計算を間違えちまう。いくら珠算七段でも、腹ペコじゃ計算できねえしな。あんまり儲からないよ。

 フェイント、左フック、右ストレート。
 ちぇっ。うまくよけやがったな。
 お前さん、なかなかのもんだよ。デヘヘ。
 さっさと経理の仕事でも見つけて引退しろってか?
 お前さんの言うとおりかもしれねえ。ボクシングは儲からねえからな。算盤勘定はたしかに合わねえよ。けどよ、ボクシングでしかできねえことがあるんだ。お前さんにも、おいおい話してやるよ。
 正直言うと、殴り合いは性に合わねえ。
 第一ランドのゴングが鳴った時の一瞬はたしかに気持ちいいな。みんなが俺を見てるって思うのは最高だね。快感さ。でも、俺は人に殴られるのが大嫌いなんだ。人を殴るのも、どうも気が進まねえ。
 俺がボクシングを始めたのは、ほかでもねえ、いじめられたからさ。俺は珠算が得意だった。なんでか知らねえけど、それが気に喰わないってやつがいて、俺は殴られ通しだったんだ。なんで珠算がうまかったら殴られなきゃいけねえんだ。わけがわからねえよ。でも、殴られたのは事実さ。
 殴られねえようにするには、強くなるしかないよな。そこで俺はボクシングジムの門を叩いた。ご破算で願いましてはなんて言って算盤をぱちぱち弾いてた手にグローブをはめったってわけよ。
 おやっさんとの出会いが俺を変えた。
 そこでセコンドをやってくれてる禿頭のおやじよ。
 殴られ通しで、根性の曲がりかけてた俺にやさしくしてくれたんだ。あのままだったら、俺はほんとうにグレてた。いや、グレるくらいだったらまだましだっただろうよ。自分で自分の首をくくっていたかも知れねえし、下手すりゃやけになって人を殺していたかも知れねえ。
 俺は物心がつく前にほんとうの親父が死んだから、親父の匂いってやつに飢えてたんだな。俺はおやっさんに心酔した。おやっさんも俺を実の子供みてえにかわいがってくれた。上手になって、おやっさんに認めてもらいたかった。算盤大会の賞状をもらうより、おやっさんに声をかけてもらうほうがよっぽどうれしかったね。おやっさんが、俺に人生のすべてを教えてくれたんだ。
 やれやれ、やっとゴングが鳴ってくれたよ。
 体も温まってきたし、一息入れようや。
 じゃあな。

 おいおい、お前さん、動きすぎだよ。
 まだ第二ラウンドが始まったばっかだぜ。そんなことをしてたら、ばてちまう。ぼちぼちやろうや。先は長いんだ。
 なに? 俺を見てるといらつくってか?
 そうよ。その通りよ。
 だから教えといただろ。俺は珠算七段で税理士だって。計算高いのよ。いらいらさせて、あんたの体力を消耗させるのが狙いなのさ。デヘヘ。それにしても、お前さんは単純だな。ここまでいらつく奴は見たことがねえよ。まあ、勝手にしな。

 ジャブ、ジャブ、ジャブ、左フック、右アッパー。
 くそっ、またはずれやがった。
 おやっさんにはリング以外で人を殴っちゃいけねえって何度も諭された。だけどよ、ここだけの話、おやっさんの許可を取って、一度だけ人を殴ったことがあるんだ。
 カツアゲされたことがあるかい?
 ああそうかよ。
 あんたは、カツアゲするほうだったんだな。お前さんもその口か。そんな顔つきだよな。俺は一度もやったことがねえ。やりたいとすら思ったことがないね。そんなのは卑怯だからよ。

 俺はボクシングジムへ通うようになってからも、いじめられ続けてた。でもよ、俺はおやっさんの言いつけを守って一度も反撃しなかった。おやっさんが、素人をどつくなんてそんなのはボクサーじゃねえって口を酸っぱくして言うもんだからさ。
 一年くらいたった頃かな、俺はとうとう耐え切れなくなって、親父さんに訴えた。
 今までのことを全部おやっさんにぶちまけたんだ。
 おやっさんは親身になって俺の話を聞いてくれたよ。そんな大人に出会ったことがなかったから、それだけでも大感激さ。子供だって精一杯生きてるんだ。そんな簡単なことに気づかない大人があまりに多すぎるんだよ。
 おやっさんは、俺を許してくれた。
 素人を殴ることは、リングの神様に背くことだ。でも、おやっさんは、そんな俺を受け容れてくれたんだ。
 俺は、カツアゲする奴らを思う存分ぶちのめしてやったぜ。
 連中の顔ったら、ありゃしなかった。いつもみてえにカツアゲしてくるからよ、挨拶代わりに一人のしてやったら、びびってやがんの。アハハハハハ。
 その時、俺は悟ったね。
 カツアゲする奴らなんて、ほんとは弱虫なんだ。人間じゃねえ、虫なんだよ。ゴキブリみてえにごそごそしてやがるだけなんだよ。カツアゲしてんのを見てみぬふりをする先公《センコー》も弱虫だ。おまけに、中学校のセンコーときたら、ちんぴらみてえな口を利きやがるしよ。どこもかしこも、弱虫だらけだ。子供だって、大人だって、ちゃちな弱虫が一人前の顔をして幅をきかせてるんだ。しょうもないよな。
 コロンブスの卵みてえな話よ。わかっちまえば、簡単なことかもしれねえけど、俺はわからなかった。アホだったんだ。
 もちろん、人のことばかり言えねえ。
 虫けらにいじめられていじけてた俺も虫だった。ろくでもないゴミ虫よ。でもよ、俺はあの時脱皮したんだ。虫のままじゃいけねえ、ちゃんとした人間にならなくちゃいけねえって心底思ったんだよ。リングの神様にかけてな。
 それもこれも、おやっさんがチャンスを与えてくれたからさ。おやっさんが俺をカツアゲする連中を殴っていいって言ってくれなかったら、たぶん、俺は今の今までそんなことに気づかなかっただろうな。真人間になろうとも思わなかっただろうよ。誰かを恨んで、ゆがんだ恨みを晴らすことしか考えなかったかもしれねえ。いじけたまま一生を送るところだった。おやっさんにはいくら感謝しても、したりねえ。
 おっと、そこまで。とまりなよ。
 ゴングが鳴ったぜ。

 ジャブ、ジャブ、ジャブ。
 さっき聞いたか?
 そうよ、休憩の間、ちびっ子たちが観客席から俺へ声援を贈ってくれただろ。ヒロ兄ちゃんってな。みんな声をそろえてよ。かわいい声でよ。
 聞いてねえ?
 しょうがねえ奴だな。お前さんは自分のことで手一杯だもんな。
 今日は二十人のちびっ子どもを招待したんだ。
 ちぇっ、ばかにすんな。スポンサーにやってもらったんじゃねえ。俺が身銭を切ってチケットをプレゼントしたんだよ。俺はバイト代を豚さんの貯金箱へ入れてこつこつ金を貯めたんだ。そうじゃなけりゃ、意味ねえじゃないか。
 あいつら、みんなかわいそうな子供たちなんだ。
 親父にいじめられた、お袋にいじめられた、友達にいじめられた、先公にいじめられた、知らない人にいじめられた。みんな心に傷を負ってる子供たちさ。
 あいつらは、うつむくことしか知らねえ。
 いじめられて、すっかり萎縮させられてしまっているのさ。
 ほんとは人間なのに、つまらねえ虫だって思いこまされてるんだ。
 だけどよ、それじゃいけねえ。
 俺の闘ってる姿をあの子たちに見てもらいてえんだ。
 虫けらだった俺でも、ちゃんと人間になれる。そこんとこをちっちゃな眼《まなこ》でしっかり見てほしいんだよ。なに、心配しなくても大丈夫だ。子供はなんでもわかるんだよ。
 ジャブ、フェイント、左フック。
 お前さん、今、顔をしかめただろ。
 ちょっと当たったかな。やったぜ。デヘヘ。

 俺は、勝ち負けなんてどうでもいいんだ。
 格好つけて言ってるんじゃねえぜ。
 勝ち負けなんてただの結果さ。結果が出る時もあれば、そりゃ、出ねえ時もあるわな。肝心なのは、試合へ向けてどれだけ努力したかってことよ。結果なんて、糞みたいなもんだ。出るときゃ出る。出ないときゃ出ねえ。
 だけどよ、今日ばかりは勝ちたいんだ。絶対、負けられねえ。
 子供たちが観《み》てる。
 あいつらが俺を観てるんだ。
 下手なことはできねえ。
 俺は、奴らの期待を背負っているんだよ。あいつらの声援をしょっているんだよ。自分だけのために戦ってるお前とは大違いさ。
 なに?
 お前の気持ちなんてどうでもいい?
 そりゃ、そうだ。
 あんたの言うとおりだよ。アハハ。
 人のことなんてどうでもいいことだよな。俺だって、ほんとうのことを言えば、自分のために闘っているのさ。
 でもよ、俺はお前みたいな考え方が大嫌いなんだ。自分のことで手一杯の奴なんてクソだ。お前さんの足りない頭じゃわからねえかもしれないけどよ、人は誰でも、誰かのためになにかができるんだ。
 ジャブ、ジャブ、左フック、右ストレート。
 かわすなよ。
 頼むからさ、当たったふりくらいしてくれよ。
 子供たちが観てるんだぜ。エヘヘ。

 第四ラウンドだな。
 そろそろ、こっちも調子をあげていくぜ。
 うるさいな。
 わかってるよ。
 俺の調子はおしゃべりばっかりだってか。
 その通りよ。
 俺は、ボクシングよりも客商売のほうが向いてるんだ。だから言っただろ。ボクシングは性に合わねえって。黙ってるのは嫌いなんだ。自分のバーでも持ったら、きっと繁盛するだろうよ。俺は客あしらいがうまいから、客がわんさかやってくるだろうな。俺は客相手におしゃべりして、がっぽり儲けさせてもらうよ。それになんと言っても、俺は算盤七段で簿記一級だ。税理士資格だって持っているんだぜ。帳簿だってきっちりつけられるし、節税のテクニックだってちょこっとは知ってる。小金くらいすぐにためられるさ。
 そんなことはどうでもいいけどよ、ところで、お前さんはなんのためにボクシングをやってるんだ? そこんとこを訊きたいね。
 なんだって?
 チャンピオンベルトが欲しい?
 ビッグになりたい?
 勝手にしな。
 くそっ。いてえな。
 お前さんのストレートがすこし入っちまったよ。
 あんたの人生だから、勝手にしなって言っただけだろ。そんなにむきになるなよな。
 俺はよ、さっきも言ったとおり、子供たちのために闘っているんだ。
 俺が勝てば、ちびっこどもは希望が持てる。自分の手がなにかができるって思えるんだ。これは大事なことだぜ。
 命は宝石みたいなもんよ。磨けば磨くほど輝くんだ。
 でもよ、ふがいない大人たちのせいで、子供たちは自分はもうなにもできないと思いこまされてる。大人の都合にふりまわされて、縛りつけられているんだ。悲しみのパンチドランカーさ。自分じゃどうにもできねえ悲しみでちっちゃな心がどうにかなっちまったんだ。
 そんなの黙って見てられるか?
 俺は見ちゃいられねえ。
 だから、その呪縛を解いてやるんだ。

 いくぜ。
 あんたをコーナーへ追いこんでやる。
 右ストレート、右ストレート、左フック、右ストレート。
 左フック、ジャブ、ジャブ、右アッパー。
 フェイント、右ストレート。
 デヘヘ。おもしれえな。デヘヘヘヘヘ。
 ひっくり返っちまいやがった。のしてやったぜ。
 どんなもんだい。
 ほら、立てよ。
 ビッグになりてえんだろ。
 お前さんの夢は否定しねえぜ。
 俺だって、世界チャンピオンになったら、舞い上がっちまうことだろうよ。ちやほやされりゃ、そりゃ嬉しいよな。
 ファイトマネーをがっぼりもらって、テレビCMに出演してニカッと笑うだけで大金が転がりこんでくるんだろうな。そうなりゃ、ちゃちなアルバイトで食いつながなくてもいい。俺だって楽な生活をしてえよ。だけどよ、そんなことが目標じゃ、力が湧かねえんだ。
 ジャブ、ジャブ、左フック。
 お前さんよ、脇が甘くなってきたぜ。こんどこそ、ノックダウンさせてやる。
 右ストレート。左フェイント。右アッパー。
 こらっ。
 俺に抱きつくな。
 気持ち悪いじゃねえか。
 あんたの体はやたらとねちねちするぜ。すげえ脂性だな。
 長年ボクシングをやってても、これだけはどうしても慣れねえんだ。男同士で抱きつくなんて、気色悪いだろ。
 あっち行けよ。
 そんなにべたべたされたんじゃ、殴りたくても、殴れねえじゃないか。
 ほら、あっちへ行けってば。
 くそっ。
 最高の気分になってきたっていうのに、ゴングが鳴りやがった。
 次のラウンドこそ、ぶちのめしてやる。

 水が気持ちいい。
 天井のライトがにじんでやがる。
 俺はこの瞬間が好きなんだ。
 生きてるって感じがするよな。
 最高だね。
 おやっさん、もっと水をかけてくれよ。
 なにかのために闘うってのは、気持ちいいもんだな。
 ちびっ子どもが俺を呼んでるよ。
 天使みてえにかわいい声だよな。
 こんな俺でも、誰かのために闘えるんだ。

 魔の第七ラウンドになっちまった。
 俺はいつもここでやられちまうんだ。
 なんでか知らねえけど、第七ラウンドとは相性が悪いんだ。
 ラッキー・セブンなんて人は言うけどよ、俺にかぎっちゃ、逆なんだ。
 えっ?
 俺がへそ曲がりだからってか。
 ほっといてくれよ。
 自分の欠点を人に指摘されることほど、むかつくことはねえからな。
 お前さん、まぶたが腫れてるぜ。デヘヘ。俺もそうだ。ふらふらになってきやがった。足がうまく動かねえ。そうなんだよ。足のスタミナが足りねえのが、俺の欠点なんだ。
 ジャブ、ジャブ、ジャブ。

 嫌な感じになってきやがったな。
 おい、やめてくれよ。
 そんなに殴らなくてもいいだろうよ。
 危ねえな。そんなに殴られたら、頭がどうかしちまうぜ。算盤が弾けなくなるだろ。せっかく暗記した税務知識がどっかへいっちまうじゃねえか。資格試験はけっこう面倒なんだぜ。
 うっ。
 倒れちまった。
 倒されちまった。
 おいおい。
 おやっさん。なにするんだよ。やめてくれよ。
 だから、やめろってば。
 タオルなんか入れてどうするんだよ。
 子供たちが観てる。
 今日ばかりは負けられねえんだ。
 わかったよ。
 立ちゃいいんだろ。立つからさ。
 いてえなあ。なんだか体中の骨が砕かれたみたいだぜ。
 ふう。よっこいしょ。
 ほら、なんとか立ち上がったぜ。ほんとに、タオルなんてやめてくれよな。洒落にならねえよ。

 お前さんの姿が二重に見えるぜ。あんたもつらそうだな。おたがいさまさ。デヘヘ。
 世の中なんて、くそったれよ。
 なんで世の中がくそったれなんだっていったら、そもそも人間がふがいねえからなのさ。やさしさを出し惜しみするくせに、人から平気でいろんなものを奪いやがる。人間なんて、ろくなものじゃねえんだよ。
 どこもかしこも罪だらけだ。
 罪ってなんだ?
 罪は愛を裏切ることだよ。
 俺は愛を裏切りたくねえ。
 愛を守るためだったら、地獄へ落ちてもかまわねえ。
 だから、最後まで闘うんだ。
 俺が勝つところを子供たちに観てもらうんだ。
 リングの神様よ。頼む。今日ばかりは俺を勝たしてくれ。俺に力を与えてくれよな。
 右アッパー、左フェイント、ジャブ、ジャブ、右ストレート……。


  了


 珠算七段の風変わりなボクサーの奮闘記。2010年9月23日に投稿した作品です。ソ連の反体制派の俳優・歌手のウラジミール・ヴイソーツキイの『Боксер』に着想を得ました。
http://ncode.syosetu.com/n9348n/
 

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