風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

そのiPhoneはホンモノですか? (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第12話)

2011年03月23日 20時38分35秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 日本人の友人がiPhone4を買ったのだけど、中国人は彼のiPhoneを見るたび、必ず好奇心に目を輝かせながら、
「あなたのiPhoneはホンモノ? それともニセモノ?」
 と異口同音に言う。べつに嫌らしい訊き方をしているわけでも、妙な勘繰りをしているわけでもない。道を尋ねるみたいにごく自然に訊いている。
 彼が「ホンモノだよ」と答えると、これまた十人が十人とも、
「わあー」
 と歓声をあげる。子供が新しい玩具を見て喜んでいるようだ。単純明快な人たちだと思う。
 それにしても、iPhoneを見てまっさきにホンモノかどうかを確かめるだなんて、日本ではあり得ないやりとりだろう。それほど中国ではニセモノが生活の隅々にまで浸透してしまっている。
 もちろん、iPhoneのニセモノもかなり出回っているようで、けっこう売れているらしい。ホンモノは高くて買えないので、せめてニセモノで満足しようということだろうか。中国人はニセモノに対する抵抗感が薄く、むしろ、ニセモノをありがたがっているようにさえ見受けられる。ニセモノのおかげで、安くて格好いい商品が手に入ると喜んでいるとしか思えないこともしばしばだ。品質や機能は日本人ほど重視しないから、使えればそれでOKというノリだ。
 そういえば、体育西路という広州の繁華街にある地下鉄駅の地下道でニセモノのMP4なんかがワゴンに入れて売られていた。「sony」と書いたMP3があったので買ってみたのだけど、やはりニセモノだった。初めからニセモノだとわかっていたし、音質はともかく使えるからいいんだけど。値段も安かった。
 もちろん、ホンモノだと思って買ったのに騙されることもある。先日、別の日本人の知人がノキアの携帯電話を買ったのだけど、どうもおかしい。そこで携帯をよく見てみたら、「NOKIA」の「O」の字に切れ目が入っていた。完全な偽ブランドだ。ぱっと見ただけではわからないから、騙されたのもしかたないだろう。
 なんでも、カローラのニセモノまであるそうだ。とある中国の自動車メーカーがトヨタ・カローラそっくりの車を生産しているのだけど、ディーラーに頼めば、もとのエンブレムを引き剥がしてカローラのエンブレムをとりつけてくれるらしい。とはいえ、いくら外観がそっくりといっても乗り心地はカローラにかなわないから、やっぱりホンモノが欲しいと言ってカローラに買い換える人もわりといるのだとか。ここまでくるとほんとうかどうか、わからない。笑い話だと思いたくなるけど、いかにもありそうな話だ。
 中国の生活はニセモノ抜きでは考えられない。表面上は近代化が進んでいるように見えて、その実、近代経済の仕組みとはまた違った仕組みで動いている国だ。
 中国人に知的所有権を理解してもらうのは、たぶん永遠にむりなんだろうなあ。



あとがき

 2010年8月26日発表作品。 http://ncode.syosetu.com/n8686m/12/

おいしいトマト卵炒めの作り方 (エッセイ)

2011年03月13日 11時22分06秒 | エッセイ
 
 ラーメン、餃子、麻婆豆腐、回鍋肉などなど、中国にはおいしい料理がたくさんあるけど、僕のいちばん好きな中華料理はトマト卵炒めだ。略してトマタマ。
 日本の中華料理店ではほとんど見かけないから、ご存知ないかたも多いかもしれないけど、トマタマは中国ではごく一般的な家庭料理だ。トマトと卵を鍋で炒めるだけ。いたってシンプル。
 初めて中国を旅したバックパッカーはたいていトマタマを食べて感激する。こんなおいしい料理があるのかと驚いてしまうのだ。僕も初めて食べた時はびっくりした。ちょっぴり甘くておいしい。日本人の口によくあう。トマトを炒めてしまうところがまたおもしろい。生まれてこのかた、トマトは生のまま食べるものだと思っていた。トマトに熱を加えるという発想がなかった。
 僕はトマトが大好きだ。トマトを見るとむしょうにはちみつをかけて食べたくなる。愚弟もとろりとはちみつをかけたトマトが好物だ。ある日、彼といっしょにむさぼるように食べていたら母が笑った。
「離乳食やねえ」
「なんやそれ?」
 弟が訊いた。
 僕は黙って食べている。弟と囲む食卓は団欒《だんらん》の場ではない。食物を争う戦場だ。話をすれば、そのぶん、料理を取られてしまう。話しているひまなどないのだ。愚弟といっしょにテーブルにつくと、彼が人類を滅ぼそうとする怪獣か悪のショッカーに見えてくる。大人になってからもその癖が抜けない。
「離乳食のとき、いつもトマトにはちみつをかけて食べさせてたのよ。ふたりとも好きやったからねえ」
 母はなつかしそうだ。
 なるほど、これでトマトが好きな理由がわかった。僕と愚弟にとって、はちみつトマトは生まれてはじめておいしいと感じた食物なのだ。だから、トマトを見るとはちみつをかけて食べたくなってしまう。ゼロ歳児の体験はおそろしい。体の奥深くにしっかりすりこまれてしまっている。
 長旅から日本へ戻った僕は、実家の台所でさっそくトマトと卵を炒めてみた。だけど、まったくおいしくない。中国で食べたあの味とはまったく違うものができてしまう。何度かためしてみたけど、だめだった。調味料が違うからだろうと見当はついたのだけど、なにを使えばよいのかわからない。
 捨てるのももったいないから、しかたなくできそこないのトマタマを食べた。だけど、そんなまずいトマタマもどきを食べるとよけいに本場のトマタマが恋しくなる。
 そんなある日のこと、啓示が頭にひらめいた。
 そうだ。中華街があるじゃないか。
 中華街なら、ほぼ本物に近いトマタマを出してくれるレストランがあるはずだ。
 つぎの休みの日、僕はJR神戸線に乗って元町の中華街へ行った。
 漢方薬や饅頭《まんとう》の蒸籠《せいろ》が並んだ商店街の奥に中華レストランのショーウインドウがあった。僕はわくわくしながら覗きこんだ。
 見つけた!
 蝋で作ったトマタマの模型が置いてある。これでついにトマタマを食べられる。
 だけど、値段に視線を移した僕は思わずたじろいでしまった。なんと七百円もする。日本では当たり前の価格かもしれないけど、中国の田舎町では一皿六〇円くらいで注文できた。物価の差は頭では理解できるけど、体では納得できない。同じものを十倍以上の値段を払って食べるのかと思うと、深く考えこんでしまう。考えこみすぎて迷っているうちに食欲がなえてしまった。やっぱり、本場の田舎町で安くておいしいトマタマを食べたほうがよさそうだ。
 なんだかなあ。
 割り切れない思いを抱いて中華街を出た。
 その後、中国に留学した僕は思う存分トマタマを食べた。トマト卵炒めだけではなく、トマト卵スープもなかなかいけることを発見した。
 留学中のある日、語学クラスのおばあちゃん先生が留学生を自宅へ招いて手作りの料理を振舞ってくれた。彼女は初級クラスの「基礎漢語」を担当していた。
 初級クラスは、教え上手の教師が担当する。おばあちゃん先生も教えるのがうまかった。中国語をまったく話せない生徒を相手にして、すべて中国語で説明するのだからたいへんだ。話が通じないことなんてしょっちゅうだから、我慢強くなければ務まらない。おばあちゃん先生は上級クラスの中作文も受け持っていた。外国人が書いた作文を読んで、朱を入れなければならないので手間がかかる。経験豊富でベテランの彼女はむずかしい授業ばかり担当していた。
 おばあちゃん先生は品があってほがらかな人だった。毎年海外旅行へ行くのが楽しみで、そのためにがんばって英語を勉強しているそうなのだけど、
「Everyday study , everyday forget」
 と言って、からから笑う。
「もう歳だから暗記できないのよ。わたしたちの世代は社会主義の教育を受けてロシア語が第一外国語だったから、基礎的な英語力もないし。でも、ほんのすこしでも話せたら楽しいわ」
 テーブルには、鯉の姿揚げ、鴨の丸焼きのぶつ切り、冬瓜のスープといったご馳走のなかに僕の大好物のトマタマもならんでいた。
 とろとろの半熟の卵にこまかく刻んだ真っ赤なトマトがまじっている。トマトから染み出た赤い汁がいかにもいい感じだ。一口食べると、ふわっと味が広がる。卵の炒め具合もちょうどいいし、なによりトマトの完熟した甘さがいい。今まで食べたなかで最高のトマタマだ。
 僕は、こんなおいしいトマタマをどうやったら作れるのかと質問した。
「そうねえ。普通に作っただけなんだけど」
 先生は、なんでそんなことを訊くのかと不思議そうだ。
「トマトをよく選ぶことね。ちゃんと熟したのでないとおいしくないでしょ」
「素材を選ぶのはたいせつですよね。それで、調味料はなにを使っているんですか?」
 問題の核心へ切りこんだ。
「ラードで炒めるからラードの味はついているわよね」
「そうかあ。ラードだったんだ」
 僕は嬉しくなった。やっと答えを見つけた。
「自家製の普通のラードだけど。あとはちょっと塩を振るくらいかしら。特別なことはなにもしてないわ」
「先生、ありがとうございます。僕は中華料理のなかでトマト卵炒めがいちばん好きなんですよ」
 思わずカミングアウトすると、彼女は愉快そうに笑った。
「トマト卵炒めは今日のおかずのなかでいちばん安上がりの料理よ。作り方だっていちばん簡単だし」
「いや、もちろん、鯉も鴨も好きですよ。日本だと食べる機会がめったにないですし」
 まずいことを言ってしまったかなと思いつつ、僕は取り繕った。
「まあいいわ。好きなんだったら、たくさん食べていきなさい」
 おばあちゃん先生の作った料理はトマタマにかぎらず、どれもおいしかった。旦那さんが料理が上手で、彼から作り方を教えてもらったのだとか。先生は次の料理を出すために、厨房へ入った。次から次へといろんな料理を出してくれた。
 先生の様子が落ち着いたところで、
「ところで、先生の旦那さんは今日はいらっしゃらないんですか?」
 と、僕は訊いた。
「お寺へ行ってるわ」
「お参りですか?」
「寺に籠もっているのよ。うちの亭主は回族なの。今はムスリムの断食月《らまだん》でしょ。今頃、張り切ってお祈りをしているでしょうね」
 回族はイスラム教を信仰する民族で、外見は漢族とほぼ同じだ。僕が留学していた雲南省は中国のなかでも回族が比較的多い地域だった。中国では歴史上何度かイスラム教徒の弾圧や粛清があったので、その際にほかの地域から逃げこんできた回族が多いらしい。
「旦那さんは、ラマダンの間、ずっとお寺にいるんですか?」
「そうよ。彼がいないと羽を伸ばしてのんびりできるわ」
 彼女はほっとした顔をしている。昔、日本では「亭主元気で留守がいい」というCMのフレーズが流行ったことがあったけど、どこの国でも同じようだ。
「先生の旦那さんがイスラム教ということは、先生もイスラム教なんですか? イスラム教徒は同じ信者同士で結婚するか、片方が信者でない場合はイスラム教に改宗するっていう話を聞いたことがあるんですけど」
 僕は、彼女は漢族だったはずだと思いながら訊いた。
「イスラム教徒じゃないわよ。断食してお寺に籠もったりするのなんて、やりたくないもの。退屈でしょ。改宗するかどうかは人によるけど、わたしは宗教に興味がないから改宗なんてごめんだわ。彼が寺籠もりしたりするのは好きでやっていることだから、それでかまわないけど。彼は彼で好きなことをすればいいし、わたしはわたしでやりたいことをやるわ。ただ、ふだんは豚肉料理を作れないわね。べつに作ってもいいんだけど、彼は食べないし、わたし一人じゃ食べきれないもの。だから、どうしても鶏肉や牛肉ばかりになるわね」
「それだと、ラードはなんの脂で作ったんですか? 牛ですか?」
「豚よ」
「旦那さんがいらっしゃるときは料理にラードは使わないのでしょうか」
「使うわよ。厳密にいえば、だめなんだけどね。まあいいじゃない。彼も気にしていないから」
 夫婦の宗教が違うと生活のこまかいことまで厳格に戒律にしたがうのはむりがあるのだろう。杓子定規にやらずに、あいまいにしたほうがうまくいくのかもしれない。イスラム教といえば、つい厳格なものを想像してしまうけど、いろんな形があるようだ。仏教やキリスト教にもいろんな信仰の作法があるように、イスラム教もそうなのだろう。
 おばあちゃん先生は自分は無宗教だと言っていた。お墓参りもしない。父母のことは愛しているけど、自分の胸のなかにそんな想いがあればそれで十分。自分はお墓も要らないから死んだら散骨してくれればそれでいいと。熱心なイスラム教徒の亭主と無神論者の妻が夫婦生活を営むという中国は面白い国だ。いろんなものがよくも悪くもいっしょくたに同居して、想像のつかない取り合わせがいっぱいある。なんでもありのカオス的な面白さといえばいいだろうか。
 さて、自家製のラードを作りたいところだけど、それがわからない。市販品のラードも売っているけど、味がいまいちだ。化学調味料や添加剤が自然の味を損ねている。一言で言えば、味の素くさい味だ。おばあちゃん先生に頼めばラードをわけてもらえるだろうけど、やっぱり自分で作りたい。そこで、地元の友人にラード作りを手伝ってもらうことにした。
 近所の農業市場へ行って豚の脂身を買う。
 豚肉コーナーでは新鮮な豚の切り身を売っている。それぞれの店が豚一匹をまるごと解体して売るので、ロース、ヒレといった肉以外にも、レバー、腎臓、心臓、豚足、耳、尻尾などなどあらゆるものがならんでいる。もちろん、脂身も置いてあった。
 市場にはずらりと店がならんでいるけど、いつも買う店は決めておく。そうでないと高い値段をふっかけられるからだ。何軒かまわって良心的な値段の店で買い、信用できると思えばかならずそこで買うようにする。こっちはお得意さんだから、向こうはだますような真似はしない。僕は気の好さそうな亭主が開いている店で豚肉を買っていた。肉の選び方をよく知らない僕がまずい肉を選んだりすると「やめときな。こっちのほうがいいよ」などと助言してくれたりする。
 手頃な白い脂身を二キロほど買った。
 下宿の流し台できれいに洗って皮を剥ぎ、包丁でぶつ切りにする。どんぶりに山盛りになった脂身をあらかじめ温めておいた中華鍋にざっと放りこむ。
 じゅわっと脂の弾ける轟音といっしょにものすごい油煙があがる。
 中国人に部屋を貸すと部屋中が油だらけになるので嫌だというマンションの家主が多いという話を聞いたことがあるけど、どうして油だらけになるのかわかった。中華料理は油の使い方がはげしいこともあるけど、自分でラードを作ることも大きな原因だろう。
 もうもうと立ちこめた煙でむせる。僕は急いで台所の窓を全開にした。
 やがて煙は落ち着いて、脂身はとろりととろけだす。友人は豚肉をこまかく切って鍋へ入れた。肉がすこしあればラードに肉の旨味がついて香ばしくなるのだとか。ラードで中華スープを作ったりした時、肉のかけらがすこしあるとスープの味もぐっとおいしくなるという。肉が傷んでしまわないかと気がかりなところだけど、問題はない。ラードでからからに揚げてしまうので保存がきく。なるほど、生活の知恵だ。
 中華鍋の中身をアルミ製の小鍋へ移した。脂身はまだ溶けきってはいない。弱火にしてとろとろ煮込む。
 氷のかけらがちいさくなるように白い脂身のかたまりが溶けて、あめ色の油がだんだん増える。脂がすっかり溶けて完全な液体になったあとも、数時間かけてじっくり煮込んだ。夜、火を消してそのまま置いておいた。
 翌朝、アルミ鍋の蓋を取ると、脂はすっかり冷えて白いラードができあがった。いい感じだ。
 その夕方、さっそくトマタマ作りに挑戦した。
 熟れたトマトと地卵を市場で買ってきた。
 トマトを刻んで塩をふっておく。卵を溶いて準備完了。
 おたまでざくっとラードをすくいとる。けちけちせずにたっぷり使うのがコツ。
 ラードを炒めると香ばしい香りがたちのぼる。さきに溶き卵を入れてふわっとふくれさせ、トマトを放りこむ。さっと弱火に落とした。横着せずにせっせとおたまでかきまぜる。
 三分もたたないうちにトマタマができた。今度こそ、ちゃんと仕上がったようだ。
 アツアツのうちにいただこう。
 ほっこりと湯気の立ったトマタマを口へ運んだ。
 めちゃくちゃおいしい、と言いたいところだけど、まずまずだ。おばあちゃん先生がこしらえてくれたトマタマにはかなわない。だけど、ちゃんとトマタマの味がする。形になっている。初心者にしては上出来といったところだろうか。あんまり欲張ってはいけない。自分の手でトマタマができただけでも大進歩だ。僕は満足した。
 おいしいトマト卵炒めの作り方の秘訣は、ラードにあった。おいしいラードをたっぷり使えば、トマタマは上手に仕上がる。ほかのおかずにしても、肉野菜炒めでもなんでも中華料理の味になる。
 考えてみれば、ラードは中華料理の基本だ。日本の料理でいえば、みりんの使い方を覚えるようなものだろう。みりんを使わなければ、煮物にしろ炒め物にしろ日本料理の味がでないのと同じように、ラードを使わなければ、中華料理の味にならない。どうやってトマタマを作るかという目先のことばかり考えて、そもそも中華料理のベースになる調味料はなにかという初歩的なことを考えていなかった僕がうかつだった。
 スポーツは足腰の動作、文学は日々の読書と思索、中華料理はラードの使い方、なにごとも基本がたいせつ。
 三年がかりの謎解きがようやく終わった。

 

あとがき

 2010年3月6日執筆作品です。 
 「小説家になろう」のマイページでもごらんいただけます。URLは以下のとおり。
 http://ncode.syosetu.com/n1672k/
 

星新一さんの長編『人民は弱し 官吏は強し』について (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第11話)

2011年03月10日 06時49分10秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 星新一さんのショートショートにはまったのは中学二年生の時だった。
 国語の先生が星さんの作品をプリントして配ってくれたのを読んだのだけど、びっくりしてしまった。
 とても読みやすくて面白い。アイデアもひねりがきいていて素晴らしい。星さんのショートショート集をむさぼるようにして次から次へと読破した。そのうち自分も書いてみたくなってノートに鉛筆を走らせてみたのだけど、結局ろくなものはできなかった。なんど試してもどうにもうまくいかない。「読みやすくて、面白くて、グッドアイデアのある」作品を書くのは、とてもむずかしいことなのだと思い知った。一つだけならうんとがんばればなんとかなるかもしれないけど、三拍子揃った作品を書くのは生まれもってのエンターテイナーでないとむりだ。星さんは天才だ。
 星さんはアメリカの雑誌に載っている一コマ漫画を集めるのが趣味だそうで、自分でコレクションした一コマ漫画集の本も出していた。これも面白くて何度も読み返した覚えがある。一コマ漫画はひねりのきいたアイデアをどうやって一枚にまとめるかが勝負だから、日夜アイデアを生み出すために苦心していた星さんはそれを読んで自分の肥やしにしていたのだろう。
 星さんといえばショートショート、ショートショートといえば星さんというくらい、ショートショートの代名詞みたいな作家だけど、星さんは『人民は弱し 官吏は強し』という長編小説も書いている。
 日本を代表するショートショート作家の長編小説ってどんな作品なのだろう? 興味津々になった僕はさっそく読んでみた。
 その長編は、星新一さんのお父さんの星一さんのことを書いた伝記小説だった。アメリカへ渡って留学したり、事業を起こして星製薬という会社を作ったり、衆議院選挙に立候補して国会議員になったりと、ほかにもいろいろあるけどとにかくエネルギッシュで八面六臂の活躍をみせた人物だったらしい。
 明治、大正、昭和初期といった時代を駆け抜けた主人公星一も魅力的な人物だし、当時の世相や時代の流れを知るためのいい勉強にもある。ショートショートと同じようにとても読みやすくてわかりやすい。機会があればぜひ読んでみてほしい一冊だ。
 この小説では、政治家、官僚機構、財界人と戦う主人公の姿も描かれている。
 星さんのお父さんの活躍は目覚しかったけど、そのぶん、反発や嫉妬も買った。商売も大成功を収めたし、開明的な政治家だった後藤新平と組んでいたのでなおさらだった。開明的な政治家というものは、特権にしがみついて甘い汁を吸おうとする人たちからみれば邪魔者以外のなにものでもない。星一さんは、星製薬と星一さん自身をつぶそうと画策する内務省や検事局(現検察庁)にあの手この手で追いつめられてしまう。
 印象に残ったシーンがある。
 選挙前に検事局(現検察庁)が強制捜査した。
 法律に違反するようなことはなにもしていないのだけど、検察がやってきたというだけで世間に悪評がさっと広まってしまう。新聞が検察に同調して、星一さんがあたかも悪人であるかのように書き立てる。ほかにもいろいろと妨害工作に遭い、世間からすっかり敵視されて選挙に落選してしまった。
 実は、商売敵や反対勢力の政治家たちが仕組んだ芝居だった。彼らは目障りな人物を蹴落とすために事件をでっちあげ、それをマスコミにリークしてセンセーショナルに報道させたのだった。
 まだ中学生だった僕は検察は正義の味方だとばかり思いこんでいたから、検察がそんな悪いことをするのかと驚いた。政治家、官僚機構、財界人が結託すれば、ライバルを蹴落とすためにはなんでもするのだと背筋が寒くなった。時代は大正の終わり頃。世界恐慌、軍部の暴走といった非常事態が続いた暗い昭和初期へ突入する前触れの時期だったのかもしれない。
 今の日本にも検察に悪い奴だと何度も騒がれる政治家がいるけど、そのニュースを読むたびに『人民は弱し 官吏は強し』を思い出す。時代が変わっても、人間のすることはさほど変わらない。同じ手口を使っているのだろうな、と思ってしまう。
『人民は弱し 官吏は強し』は、当時の時代ばかりではなく、利権争いのためになら曲がったことでも平気でする人間のどうしようもない性《さが》をえぐり取っている。星新一さんの作品のなかでは異色作だけど、優れた小説だ。星さんが決してアイデア勝負だけの作家ではないとよくわかった。



あとがき

エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。中学生の頃、ショートショートなら書けそうな気がして何度か試してみたのですが、うまく書けませんでした。ショートショートを書くのはアイデアと技術が要るんですね。とてもむずかしいです。(2010年8月22日発表)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/11/

謎の半ケツ娘 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第10話)

2011年03月08日 21時12分21秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 タイのある町でゲストハウスに泊まった時のことだった。夜、テラスで日本人のパッカーたちとお喋りしていたら、
「半ケツっすよ。半ケツっ!」
 と、ドミトリー(相部屋)の同室の男の子が興奮して駆けこんできた。
「どうしたの?」
 僕はわけがわからず聞き返した。
「白人の女の子が半ケツを出して寝てるんすよ!」
 男の子は今にも鼻血を出しそうだ。
 そんなことってほんとうにあるのだろうかと思いながらドミトリーへ引き返したら、素っ裸にシーツだけまとった二十歳くらいの白人の女の子が、うつぶせになりながら半ケツを出していた。彼女はすやすや眠っている。どうやら、寝返りを打ってお尻が出てしまったらしい。
 そのドミトリールームには、住み込みで働いているタイ人の従業員の男の子が二人、毎晩床にマットレスを敷いて寝ていた。彼らはマットレスに腹ばいになり、かっと目を見開いて彼女の白いお尻を見つめている。「食い入るような目つき」という表現はこのような顔をいうのだろう。今にも噛みつきそうだ。そんなにお尻を見たいのかと思うと、歯を食いしばっている彼らが痛ましいような、ほほえましいようななんだか妙な気持ちになってしまった。やがて、女の子はまた寝返りを打ち、きれいなお尻はシーツに隠れた。それでも、タイ人の男の子たちはまだじいっと見つめ続けている。彼らは自分の気持ちに正直だった。
 ところで、中国の路上を歩いていると半ケツを出している娘をよく見かける。たいていは小さな食堂で働いているウェイトレスだ。店の前の路上にたらいを出してしゃがみこみながら野菜や皿を洗っているのだけど、ジーンズがずりさがりお尻が半分見えている。
 はじめて見た時はさすがにびっくりしてしまった。
 半ケツ娘は自分がお尻を出していることにも気づかず、せっせと食器を洗っている。ジーンズからお尻がはみ出ていることなどまるで気にしていない。ドミトリーで見かけた女の子とはわけが違う。白昼堂々、天下の公道でお尻をさらしているのだ。
 半ケツ娘は彼女一人だけではなかった。別の場所でも半ケツを出しながら洗い物にいそんでいる女の子をちょいちょい見かける。だけど、お尻を出しているからといって、べつにいやらしくは見えない。道行く人は、誰もじっと彼女たちを見たりしない。半ケツ娘の姿は路上の風景に溶けこんでいる。
 中国の山奥を旅していた時、ある女の子と仲良くなった。彼女もやはり半ケツを出してせっせと洗濯している。どうしようか迷ったけど、やっぱり言ってあげたほうがいいだろうと思った。こういうのは、注意するほうが気恥ずかしいものだけど。
 僕はなくべく彼女のお尻を見ないようにしながら自分のお尻を指して「出ているよ」と合図した。彼女は「あらっ」と恥ずかしそうな顔をしてジーンズをあげる。ようやくお尻が隠れてくれた。お尻を見られれば恥ずかしいという意識はやはり持っているようだ。
 ところが翌日、彼女はまた半ケツを出して洗い物をしていた。
 しょうがないのでもう一度さりげなく注意したら、彼女は「なに見てんのよ」と表情をくもらせる。別に見たくて見たわけじゃない。そんなものを見せられては目のやり場に困る。知らない人なら無視できるけど、知り合いだとそうもいかない。
 困ったなと思いつつも、それからは半ケツを見てもなにも言わないことにした。お尻を出しても誰もとがめないのがこちらの習慣なら、それにしたがうよりほかにない。彼女とはそれでけんかになったりしなかったからよかったものの、下手に注意して無用な摩擦を生むのはさけたいところだ。
 今では誰かが半ケツを出していてもそれほど気にならなくなった。でもやっぱり、自分のお尻くらいきちんとしまっておいてほしいと思ってしまう。
 おおらかといえばおおらかなんだけどなあ。
 ひょっとして、僕がこだわりすぎているのだろうか?



あとがき

エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。(2010年8月19日発表)
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ムーミンママの智慧 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第9話)

2011年03月07日 20時53分37秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 何十年かぶりで童話『楽しいムーミン一家』を読み返している。
 幼稚園の年少組だった頃、毎朝、アニメの『一休さん』か『ムーミン』を観てから送迎バスに乗っていた。あの頃は、毎日アニメを観ていたような気がする。ちなみに、アニメ版の新しいバージョンがあるそうだけど、僕が見ていたのは七十年代半ばに再放送していたものだ。
『楽しいムーミン一家』を読んでいると、ムーミン役を担当していた岸田今日子さんの声が自然と脳裡に響くから不思議だ。ムーミンパパの声も、ノンノン(原作ではスノークのお嬢さん)の声もしっかり覚えている。アニメ版で描かれていたムーミン谷の景色やムーミンの家が目の前に甦る。とても素敵な風景だった。今度生まれ変わる時は、あんなところに生まれ落ちたい。
 第二章でこんな話がある。
 魔法の帽子のなかへ入ったムーミンがとても醜い姿に変わってしまい、ノンノンもスナフキンも、誰も彼がムーミンだとわからない。ムーミンは「僕だよ。わかってよ」と言うのだけど、「嘘つき」と邪険にあしらわれてしまう。途方に暮れて怯えきったムーミンは母親に救いを求め、あなたなら自分の息子がわかるはずだと訴える。ムーミンママはもとのムーミンとは似ても似つかない姿になりはてたムーミンの目をじっと覗きこみ、
「そうね、おまえはたしかにムーミントロールだわ」
 と自分の息子を認めた瞬間、ムーミンにかかっていた魔法がとけて元の姿へ戻った。
 童話とはいえ、なんて智慧のあるお母さんだろうと感心してしまった。
 これはとても示唆に富んだ話だと思う。
 子供がほんとうに困った時、母性の助けなしでは、どうにも切り抜けられなくなってしまうことがある。自分の姿をきちんとわかってくれる存在が必要だ。母親に見つめてもらい、認めてもらうことで、子供はほんらいの自分を取り戻す。「おまえはわたしのこどもだ」と言ってもらえるだけでいい。
 逆に言えば、母性が試される場面なのだろう。
 ひと口に子供を認めるといっても、簡単なようでなかなかできないことかもしれない。「おまえはわたしのこどもだ」という言葉に、自分の子供を思い通りにしようとする打算や欲得があってはいけないから。それでは、子供を醜い姿に変えてしまう魔法と同じになってしまうから。
 たぶん、付け焼刃ではだめで、ふだんから子供の姿を見つめていなければ、いざという時に誰が自分の子供なのかを見分けることもできなければ、承認を与えることもできないだろう。もっともムーミンママはそのために特別な訓練を積んだわけではなく、ふだんの生活のなかで自然に母性を鍛え、母性の智慧を養ったのだと思う。それは、ムーミン谷の素朴な暮らしだからこそできることなのかもしれないけど。
 子供の頃はただ面白がって読んでいた『楽しいムーミン一家』だけど、ムーミンママは素敵なお母さんだとあらためて見直した。こんな素晴らしいキャラクターが登場するからこそ、ムーミンシリーズは世界中で愛されているのだろう。そして、子供が求めているのは、強くてあたたかい母性なのだとあらためて感じさせられた。それさえあれば、たとえどんなことがあっても子供は困難を乗り越えられるのだと思う。



あとがき

エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。ムーミンを観るとなんだかほっとするんですよねえ。(2010年8月15日発表)

http://ncode.syosetu.com/n8686m/9/

スタートレック大好き1 ―― 二つのスタートレック

2011年03月06日 23時03分12秒 | スタートレック大好き
 
 子供の頃、サンテレビ(神戸)で再放送していたスタートレックのオリジナルシリーズをよく観ていた。
 もちろん、吹き替え版だ。
 子供の頃の刷りこみのせいか、今でもスタートレックの登場人物は日本語を喋るものだと心のどこかで思いこんでいる。カーク船長も、ミスター・スポックも、ドクター・マッコイも、日本語で話してくれないとどうもすっきりしない。映画版・スタートレックを初めて観た時、やけに恰幅のよくなったカーク船長が英語を話すものだから、びっくりして腰を抜かしそうになってしまった。それまで、カーク船長が英語を話すものだとは思いもよらなかった。もちろん、論理的に考えれば、スタートレックはアメリカのドラマなのだからカーク船長が英語を話すのはごく当たり前の話だし、英語を話すカーク船長もそれはそれで格好いいのだけど。
 そういうわけで、スタートレック・シリーズのDVDを観る時は、必ず吹き替え版と原音声版を両方観ることにしている。音声が違えば印象もいささか異なったものになるから、両方のバージョンで楽しめる。スタートレック・シリーズの吹き替え版の声優さんたちは役作りに力を入れているようなので、彼らの声の演技も聞きごたえがある。
 なんだか、一粒で二度おいしい。


自由 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第8話)

2011年03月06日 10時19分06秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。本編はアネクドートです。ご賞味ください。(2010年8月14日投稿)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/8/


本文


中国人:「お金さえあれば、今の世の中、なんでも自由にできるよ。どこにだって旅行へ行けるし、家も二軒買って愛人を囲うことだってできるんだからね」
日本人:「お金で買える自由って、ほんとうの自由なのかな? 自由だって言うんだったら、民主化を求める小論文でも書いて新聞に投稿してみなよ」
中国人:「できるわけがないだろ。そんな小論文が掲載されるわけがないし、第一、警察に捕まるのが落ちだよ。今ままで築いてきたものが全部パーだ。そんなことをしようとも思わないけどね」
日本人:「政府の腐敗がひどくて困るって怒っていたよね。君は事情通なんだし、中国社会の暗黒面を風刺小説風にでもまとめて発表してみたらどうだろう。文章だってうまいんだから、きっと売れると思うよ」
中国人:「書いてもむださ。もしベストセラーになったとしても発禁処分になるだけだよ。おまけに、公安の監視もつくだろうね」
日本人:「案外、不自由なものなんだね。君の言う自由っていったいなんなのだろう?」

日本人:「日本はなんでも自由だよ。なにをするのも自由だし、なんでも話していいんだよ」
宇宙人:「その場の空気を乱すようなことでも言えるかい? よくないことはよくないって」
日本人:「そんなこと、言えるわけないじゃないか」
宇宙人:「どうして?」
日本人:「どうしてって、だめなものはだめなんだよ」
宇宙人:「仏滅の日に結婚式を挙げたり、友引の日に葬式をしてもいいのかな?」
日本人:「気にするかどうかは本人の自由だけど、あんまりそんなことをしないほうが無難だよね」
宇宙人:「どうして?」
日本人:「君はうるさいな。なんだか気持ち悪いだろ。結婚式はともかく、友引の日に葬式なんかしたら、怒られちゃうよ」
宇宙人:「迷信にとらわれているんだね」
日本人:「迷信といえばそうだけどね。僕が気にしなくても、周りで気にする人がいると厄介なことになるんだよ。世間の目ってものがあるだろう?」
宇宙人:「なるほど、世間の目ね」
日本人:「あっちへもこっちへも、いろいろと気を配らなくっちゃいけないってことだよ」
宇宙人:「案外、不自由なものなんだね。君の言う自由はいったいなんなのだろう?」

 さて、みなさん。
 自由とはなんでしょうか?



富国貧民の時代に (エッセイ)

2011年03月05日 17時02分51秒 | エッセイ
 
 万葉歌人の山上憶良の代表作に『貧窮問答歌』という作品がある。国語の教科書に載っているので習った人も多いだろう。
 貧困にあえぐ農民が、

 天地《あまつち》は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる
 日月《ひつき》は 明《あか》しといへど 我がためは 照りやたまはぬ

 と嘆く。食べ物がなく、鍋にくもの巣が張っているありさまだというのに、村長が税金を取り立てにやってきては怒鳴りたてる。

 かくばかり すべなきものか 世間の道

 と、主人公は途方に暮れてしまう。
 民から奪い取れるだけ奪い取るというこのようなむごい政治が行われていたのははるか昔のことだと思っていたのだが、二十一世紀の日本に似たような状況が出現した。

 二〇〇一年に小泉・竹中政権が発足して以来、日本国政府は「新自由主義」という名の「棄民政策」を取り続けている。自国民を貧窮のどん底へ突き落とす過酷な政策だ。
 当時、日本中が小泉純一郎の口にする「改革」という言葉に期待したが、実はとんでもない欺瞞だった。
 ご存知の通り、小泉・竹中コンビが「改革」を実行して以来、日本人の大多数は貧しくなる一方で、フルタイムで働いても食うや食わずのワーキングプアが大量に増加した。もちろん、ネットカフェ難民、ホームレスも大幅に増えている。フルタイムで働いているにもかかわらず、月給が生活保護の満額にも達しない労働者が大勢いるというのは、どう考えてもおかしい。日本は衰えているとはいえ、まだGDP世界第三位(二〇〇九年の一人当たりGDPでは世界十七位)の経済力を誇っている。ごく真面目に働いて真面目に暮している人がこれほどおおぜい食うや食わずの状況に置かれるはずがない。まったくおかしなことだ。日本人が貧しくなったのはこの小泉・竹中コンビの「改革」が元凶にほかならない。彼らはペテン師だった。
 経済的困難から家庭が崩壊したり、自殺者や精神を病んでしまう人々が続出する一方、企業は法人税減税などの恩恵を受け、二〇〇七年のミニバブルの頃には史上最高益をたたき出す企業が続出した。しかし、その時も日本人の暮らしは楽にならなかった。
 自由で公平《フェア》な競争というのが、新自由主義の建前だが、本当の目的は、政治屋・高級官僚といった特権階級や企業が国民を生活できないほどの低賃金でこき使ってしぼれるだけしぼりとること――つまり、搾取することにある。
 たとえば、今年、日産のカルロス・ゴーンは八億円もの報酬を手に入れて話題になったが、日産の社員の平均年収は約百万円も下がったという。つまり、カルロス・ゴーンは日産の社員の給与を奪い、自分の懐に入れたのである。とんでもない話だが、これが新自由主義の実態だ。
 新自由主義とは、国や一部の企業を富ませ、国民を貧しくする富国貧民政策にほかならない。このような政策のおかげで自殺者まで出るのだから、公権力を濫用した合法的な殺人といっても差し支えないだろう。小泉・竹中コンビは人殺しだ。昔の映画に「一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄だ」というセリフがあった。それになぞらえれば、彼らは英雄ということになるのだろうが。
「最大多数の最大幸福」が政治の目的だとすれば、それとはまったく逆の政策が実行され続けていたのである。このために日本は疲弊してしまった。民主党の鳩山政権では軌道修正が試みられたものの、大手マスコミや霞ヶ関をはじめとする既得権益擁護勢力の抵抗に遭い、短命に終わった。鳩山首相の後を継いだ管直人は再び新自由主義へ舵を切り、その後、野田、安倍も新自由主義による富国貧民の方針に従って政府を運営している。ついでにいえば、菅直人も、野田佳彦も、安倍晋三も、みな人殺しだ。命の大切さを一顧だにしない。
 新自由主義による害悪は、なによりも社会が破壊されてしまったことだ。
 人は一人では生きていかれない。かならず、誰かと助け合って生きなければならない。だから人間は社会を作る。アリストテレスが「人間は社会的動物である」と言ったゆえんは、ともに生き、そして助け合うことにある。本来、社会には助け合いの機能が備わっており、それが社会の中核をなす機能ともいえるのだが、それがすっかり壊されてしまった。
 無意味な競争が過度に助長され、人の絆が壊された。家庭内の親殺し、子殺しが激増した。コミュニケーション能力がもてはやされ、以前にもまして口先ばかりの人間がのさばるようになった。ごくありきたりな、だがかけがえのない日常生活が壊され、人間の良質な部分が破壊され続けている。新自由主義は「弱肉強食」そのものだ。理性とやさしさを持った人間をただの肉食動物へ変えてしまう。
 現代の国家は福祉国家の形態を取っている。つまり、助け合いという社会の機能を肩代わりするようにできているのだが、それも機能麻痺に陥っている。代表的な例が年金や生活保護といった福祉政策だ。
 たとえば、生活保護を申請した場合、窓口でなんだかんだと文句をつけられて申請さえできない場合が多い。だが、生活保護を受け付けてもらえなかった人や申請を却下された人が行政訴訟を行なった場合、その勝訴率は約九割にものぼるという。一般的にいって行政訴訟で勝訴することはかなりむずかしいので、いかにでたらめなことがまかりとおっているかがわかるだろう。
 今の日本政府は、自分で背負いきれるはずのない責任を「自己責任」という名のもとに個人へ押し付け、たんなる「搾取装置」へと変貌してしまった。ちょうど、山上憶良の時代の政府のように。
 もし拙文を読んでいる人のなかで、ワーキングプアやネットカフェ難民になったり、仕事がないためにニートやひきこもりになっている人がいたら、よく聞いてほしい。
 あなたたちが今のような状況になったのは、決してあなたたちの責任ではない。本来は社会全体で負うべき責任が、あなたたちに押し付けられているだけだ。あなたたちに罪はない。自分の責任でもない。だからどうか、自分を責めることだけはやめてほしい。
 困った状況にあるのなら、派遣村で有名になったNPO法人「もやい」をはじめ、多くの労働・福祉関連の団体が活動を行なっている。そのような団体へ相談してみるのも一つの手だろう。専門的な知識と援助を得ることができる。
 とはいえ、自分の置かれた状況を打破するのは自分自身でしかないのもまた事実だ。誰も自分のかわりに生きてくれるわけではないのだから。
 個人が抱えている問題は、じつは社会と密接に結びついている。
 その日の糧を得るだけで精一杯な時は、得てして目の前のことをこなすだけで周りを見渡す余裕もないものだ。ひきこもりになっていれば閉ざされた空間でひとりぼっちで生きているように感じてしまうだろう。だが、山奥で暮らす世捨て人でもない限り、世間のなかで生きていることには変わりない。どんな境遇にあったとしても、あなたも社会の一員だ。
 一人ひとりがすこしずつなにかをなすことで世の中を変えることができる。本エッセイのようにつたないながら声をあげてみるのも一つの方法だ。ツイッターでもいい。生きていくためのサバイバル情報を交換することも一つの手段だろう。投票へ行くことで政治へ働きかけてみるのもいい方法だ。
 幸いなことに、日本はまがりなりにも民主主義の国家だ。これが今の中国のような一党独裁国なら、声を上げることも行動を起こすこともむずかしい。だが、日本にはとりあえず独裁国家のような縛りはない。比較的楽に声を上げられる。それを実行することもできる。
 希望は自分自身のすぐそばにある。
 だいじなことは、自分にできることを負担にならない範囲で手がけてみることだ。
 あなたが動かなければ、社会は変わらない。
 社会が変わらなければ、あなたも変われない。
 ほんのすこしのことでもいいから声を上げてみる。誰かへ働きかけてみる。ささかなことでもそれを積み重ね続ければ、いつの日かこのむごい状況から抜け出せると信じている。



あとがき

 2010年10月4日に執筆したエッセイです。
 http://ncode.syosetu.com/n1255o/

ニューミュージック演歌の流れるマクドナルドin広東省広州 (連載エッセイ第5話)

2011年03月02日 07時10分00秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
まえがき

 エッセイ『ゆっくりゆうやけ』は「小説家になろう」サイトで投稿している連載エッセイです。広東省の暮らしで感じたことや小説の話などを綴っています。本ブログではそのなかから自分のお気に入りをアップしようと思います。本編はふと立ち寄った中国広東省・広州のマクドナルドについて書いています。いろんなマクドナルドがあるものです。(2010年8月2日発表)
http://ncode.syosetu.com/n8686m/5/


本文


 会社からの帰り、広東省広州の街中にあるマクドナルドでフィレオフィッシュセットを食べていたら、聞き覚えのあるイントロが流れてきた。
 なんと昔の人気ドラマ『はぐれ刑事純情派』の主題歌だった『ガキの頃のように』(堀内孝雄さん)ではないか。ニューミュージック演歌といった感じのしっとりした曲調で、男の切なさを歌いあげた名曲だ。じっくり聴いていると泣けてくる。
 いい歌だとは思うけど、しかし、マクドナルドで流す歌なんだろうか? ふつう、マクドで演歌は流さないと思うんだけどなあ。ちなみに、ニューミュージック演歌が流れるからといって店の内装は日本のそれとほぼ同じだ。居酒屋のようなつくりではないので、念のため。居酒屋のようなマクドナルドがあったらこわいけど。
『ガキの頃のように』の次になにが流れるのだろうと思って待っていたら、『ドラえもん』の主題歌の中国語版だった。
 ニューミュージック演歌の次はアニメの主題歌。
 この落差に僕はまたびっくりしてしまった。
 ドラえもんの主題歌は、「アンアンアン♪」という部分以外は全部中国語だ。ちなみに、タケコプターの中国語は「竹直昇機」。そのまんまですね。雲南省昆明で留学していた頃、昆明弁バージョンの『ドラえもん(機械猫)』のDVDを借りて観たことがあるけど、さっぱり聞き取れなかった。ドラえもんの名前は、「小叮当(シャオ・ディン・ダン)」に変更されていたような気がする。叮当(ディン・ダン)とは鈴がちりんちりんと鳴ることを表現する擬音語だ。つまり、「ちりんちりんちゃん」というわけ。小学校へ上がる前の子供は北京標準語を話せないので各地でその土地の方言に吹き替えをした『ドラえもん』のDVDを売っている。
 そのマクドでは「ドラえもん企画」みたいなことをやっていて、店の中にドラえもんのポスターが張ってあった。セットに何元か足すとドラえもんの小さな人形が手に入る。時々、パッチ物のドラえもんで、微妙におかしいものや、なんだか怖い表情をしたドラえもんもどきを見かけるけど、そのドラえもんはちゃんとしていた。
 一度、なにを思ったのか、店員の若い女の子がそのドラえもん人形を僕に売りつけようとしたことがあった。
「要らないよ。そういうのは、子供とか子供連れに勧めなよ(不要了。那样的东西,你对小朋友或者带小孩子的父母推荐吧)」
 と、僕が店員に言ったら、
「プレゼント用でもいいかなって思って(我想送人也可以)」
 と、エヘヘと笑ってごまかす。誰にあげるねん。子供のいる勤め人がマクドで夕飯を食べたりしないだろう?
 ドラえもんの主題歌の後はなんだろうと思ったら、また『ガキの頃のように』が流れた。どうやらこの二曲が繰り返し流れているようだ。かえすがえすも、すごい取り合わせだ。どうせ日本の歌を流すのなら、浜崎あゆみさんとか中島美嘉さんとか、若い中国人の間でも人気のある歌手の歌を流せばいいと思うんだけどなあ。個人的には『ガキの頃のように』を歌っている堀内孝雄さんのボーカルが好きだからいいんだけど。アリスの歌が好きでよく聴いていた。今でも時々、こっそりギターの弾き語りをする。
 中国には足かけ六年近くいるけど、マクドナルドでニューミュージック演歌を流したりする中国人のセンスがいまだに理解できない。だから面白いんだけどね。やっぱり中国はワンダーランドだ。
 
 

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