風になりたい

自作の小説とエッセイをアップしています。テーマは「個人」としてどう生きるか。純文学風の作品が好みです。

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第5話

2011年12月31日 18時04分57秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』
 やさしさを交換しなければ、人は生きていかれない


 お月見の日からしばらくの間、遥は平穏に過ごしていたけど、十日ほどたったある日、またひどく落ちこんでしまった。
 真夜中にふと目覚めた。
 カーテンの隙間から射しこむさやかな月の光が遥の白い顔を照らしている。冴えた大理石のように光る遥の頰が僕の遠い記憶を呼び覚ます。生まれる前から結ばれていたような、たまらない懐かしさが僕をつつんだ。遥には月の光がよく似合う。
 遥の髪をなでようと手を伸ばした瞬間、
「ゆうちゃん」
 と、遥は寝言をつぶやきながらぐすんと泣いて体を震わせる。夢の中で僕にしがみつこうとした遥の手を取り、首に抱きつかせてあげた。
「どうしたの?」
 そう問いかけても、遥は目を閉じたままはらはらと涙を流すだけだ。
「遥」
 僕は肩を揺さぶった。それでも目を覚まさないから、軽く頰をはたいた。遥ははっと目を開ける。涙で濡れた瞳に、僕の顔が映っている。苦しげに息をあえがせ、胸を大きく上下させていた。
「悪い夢を見たの?」
 遥はなにも答えず、僕の体をせつなく抱きすくめる。
「どんな夢?」
「ゆうちゃんはきっと怒るわ」
「怒らないから」
 僕は遥の額にくちづけた。
「ゆうちゃんが、もう付き合っていられないから別れようって言ったの。僕は疲れたって」
 遥はかすれた声でささやく。
「ただの夢だよ。僕はそんなことを言わないよ。なにがあっても、遥を見捨てたりしないから。遥は僕のすべてだもの」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
 わかっているはずのことを確かめてしまう遥に、僕は危うさを感じた。
「思ってることを言ってごらんよ」
「ゆうちゃんを利用しちゃいけないって思うと、苦しくなってしまうの。それで、わたしはよけいにわがままなことを言ってしまうのよ。わがままを言った後で、そんな自分が嫌になってしまうわ」
「利用したっていいんだよ。たまには、わがままを言ったっていいんだよ」
 ――やっぱりあの日からずっと悩んでいたんだ。
 僕はそう思いながら言った。遥が抱えているはかなさは、僕の手の届かないところにあるのだろうか。
「きっと、ゆうちゃんは疲れてしまうわ」
「そんなことないよ。利用するって言うと悪いことをしているみたいだけど、それはやさしさのとりかえっこなんだよ。人は独りじゃ生きていかれないだろ。だから、僕たちはこうしていっしょに暮らしているんだよ」
「そうかもしれない」
「僕も遥も、壊れた家庭に育ったから、家庭的な情愛のぬくもりを知らないんだ。僕はまだ幼かった頃の楽しかった雰囲気を覚えているからいいけど、たぶん、遥はそんな記憶もないだろうし、僕よりもずっとつらいことをいろいろくぐり抜けたから、遥のほうがきついだろうね」
「わたしは家庭のぬくもりなんて知らないわ。ただ怖かった。いつも、両親とお姉ちゃんとおばあちゃんの顔色ばかりうかがっていたもの。今は時々、ゆうちゃんの顔色をじっと見てしまうわ」
「そんなことしなくていいんだよ。――遥はとまどっているんだと思う。きつい状態しか知らなかったから、落ち着いた気分になったら逆にどうしていいのかわからなくなって、怖くなってしまったんじゃないのかな」
「そうかな? わからない。――許されている以上にしあわせなんだっていうのはわかるけど」
「倖せになることが許されない人なんて誰もいないよ。――お茶でも淹《い》れようか」
 僕は起き上がった。
「ごめんなさい。ゆうちゃんは、明日ロシア語のテストなのに」
「いいんだよ。第二外国語より遥のほうがずっと大切なんだから」
 遥が電気ポットのお湯を再沸騰させ、玄米茶を淹れてくれた。遥は力なく肩をすぼめ、折り畳み式のちゃぶ台の向こう側に申し訳なさそうに坐る。
「こっちへおいでよ」
 僕は隣に坐るよう招きよせ、遥の手を握った。遥は幼い妹がお化け屋敷のなかで兄の手を握り締めるように、かたく僕の手を握る。ふたりで熱いお茶をすすった。遥は、すこしばかり気持ちが落ち着いたようだった。
「人は独りでは生きていかれないから、やさしさをとりかえっこする必要があるって、さっき言ったよね」僕は言った。
「うん」
「やさしさは誰でも持っている。僕も持っているし、遥も持っている。でも、やさしさは自分ひとりで持っているだけじゃ、ほんとうの意味でのやさしさにならないんだ」
「どういうことなの?」
「やさしさは、誰かと交換する必要があるんだよ。信頼できる誰かと。この人なら、絶対にひどいことを言ったり、自分を裏切ったり、自分の心を踏みにじったりしないっていう誰かとね。それが、僕の場合は遥なんだ。やさしさは誰かとわかちあって、はじめてぬくもりが生まれるんだ。そして、そのぬくもりのおかげで生きていかれるようになるんだよ。完璧な人間なんていないから、人の善意に頼ったり、誰かに自分の弱さをおぎなってもらわないと生きていかれない。やさしさをわけてもらって、お互いに温めあわないと生きていかれないんだよ。――それを裏返してみれば、遥が言うように人を利用するっていうことになるのかもしれないけど、僕は遥にやさしくしたいんだ。遥とやさしさを交換したいんだよ。それは、間違ったことじゃないと思う」
 僕は、諭すように言ってお茶を飲み干した。僕の湯呑みに注ぎ足した遥は、じっとちゃぶ台を見つめながら考えこんでいる。僕は、なにも言わず遥の答えを待った。やがて、遥は口を開いた。
「わたしも、これからずっとゆうちゃんとやさしさをとりかえっこしたいわ。わたしたちは、中学生の時からずっとそうしてきたのよね。そうやって、ふたりで温めあって、支えあって生きてきたのよね」
「わかってるんだったら、悩むことなんてないじゃない」
「でも、やっぱりどうしても考えてしまうの。わたしは家庭のあたたかさなんて知らずに育ったし、大人同士が勝手な言い分で奪い合う姿ばかり見すぎたから、悪く考えてしまうのかもしれない。でもね、どう言い訳したって、求めることは奪うことだわ。そんなことに慣れてしまう自分が嫌なの。求めることになれすぎてしまったら、そのうち大好きなゆうちゃんを損なってしまうわ。ゆうちゃんを苦しめても、それに気づかなくなるかもしれない。どうして、わたしのいうことを聞いてくれないのって、そんなふうにしか思わないようになるかも。まわりの女の子たちを見ていると、よくそう思うのよ。帰り道に送ってくれなかったとか、誕生日のプレゼントが自分の欲しい物じゃなかったとか、そんなつまらない欲求でみんな自分の愛を穢しているのよ。そんなことでたいせつな愛情を損なっていることに、気づいていないのよ。いつか、わたしもそうなるかもしれない。ゆうちゃんのことをたいせつにしたいのに、こんなふうだったら、ほんとうの愛情にたどりつけなくなってしまうわ」
 遥は、悲しそうに顔を伏せた。
 遥は、なにがあっても変わらないたいせつなものを見つめようとしている。だけど、たいせつなものを見つめるのと同じだけ、心の暗闇を見つめている。幼い頃から家族が憎みあう姿を見て育った遥には、その暗闇はなじみのものなのだろう。もしかしたら、遥は虚無の前に立ちすくんでいるのかもしれない。ふとそんな気がした。
「それじゃ、今の愛情は贋物《にせもの》なの?」僕は訊いた。
「そんなことないわ」
「責めてるわけじゃないよ」
「わかってるわ」
「遥が純粋なものを求めてるのはわかるんだけど、たぶん、それはずっと先にあるものなんだよ。今の愛情だって、本物だろ?」
「わたしの気持ちはほんとうよ」
「僕もそうだよ。今だって、十分すぎるくらい倖せだし、僕の人生のなかでいちばん倖せな時なんだよ。これがずっと続いてほしいと思う」
「わたしもそうなの。わたしだって、ずっとゆうちゃんとなかよくしていたいわ」
「ふたりがそう思ってるなら、僕たちの愛情は本物だよ。まだまだ未熟かもしれないけど、たいせつな気持ちをおたがいに持っているんだよ。それがいちばんだいじなことなんじゃないかな。今はそれだけで十分なんだよ。あせらなくてもいいんだよ。かならず、もっと倖せになれるから」
 僕は、励ますつもりで遥の肩を握った。だけど、遥は首を振り、よくわからないというふうに髪を揺らす。
「そうならいいんだけど、わたしはいつも後ろからなにかに追いかけられているような気がしてしょうがないの。――ゆうちゃん、『最善の堕落は最悪』っていう言葉を知ってる?」
「初めて聞いたよ」
「昔、教会の施設に預けられていたでしょ。その時に神父さんがよくいってたの。ラテン語の諺だそうよ。Corruptio optimi quae est pessima」
 遥は呪文のように唱えた。
「コッルプティオ・オプティミ・クアエ・エスト・ペッシマ?」
「そうよ。いちばん美しいものが堕落すると、いちばん醜いものになってしまうんですって。シェイクスピアのソネットにも似たような表現があるの。

 いちばん甘美なものがその行ないによっていちばん饐《す》えたものになる。
 腐った百合の花の放つ悪臭は、雑草よりもひどい。

 こういう詩よ」
「わかるような気がする」
 僕は、ゴミ置場にうち捨てられた腐った百合を思い浮かべた。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、わたしが生まれた時、どんなにうれしかったかってよくいってたわ。嘘じゃないと思う。でもね、家族がばらばらになって、誰がわたしを引き取るかって話になった時、わたしのことなんて考えないでみんな勝手なことばかりいうのよ。お父さんもお母さんも、わたしがかわいいから自分が引き取るっていうんだけど、わたしを道具にして奪い合いをしていたんだわ。取られたら悔しいからって、自分の沽券にかかわるからってね。わたしは、わたしがいうことを聞けば丸くおさまるんだと思ってたから、いわれるままにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてたけど、たまらなかった。みんな、愛情がまったくないわけじゃないの。だから、よけいに性質が悪いのよ。愛情に嘘が混じっているから、愛情に自分の欲得が混ざっているから、わたしを苦しめても、誰もなんとも思わなかったのよ。わたしは、絶対、こんな人たちみたいにならないって誓ったわ。――愛情っていう最善のものが堕落して最悪のものになってしまったのよ。美しかったはずのものが、心のなかで腐ってしまったのよ。心を腐らせたのよ」
 遥は涙を一筋こぼした。
「つらかっただろうね」
 僕は、いたわるように遥の背中をさすった。
「でも、遥はそんなふうにならないよ。そんな女の子じゃないもん」
「わからないわ」
「わかるよ。僕たちは、中三の時からずっと一緒だったんだよ。もし遥の愛情が堕落するようなものだったら、もうとっくに別れてるよ」
「ゆうちゃん、中学校や高校の頃とは違うのよ」
「わかってるよ。僕たちも大人になってきたからね」
「普通に付き合うのと、一緒に生活することはべつだわ」
「僕もそう思う。好きって言っていればそれでいいわけじゃないからね」
「勉強にしたって、アルバイトにしたって、家事にしたって、いろんなことをこなさなくちゃいけないわ。中学生や高校生の頃に比べたらいろいろ自由になったぶん、いろんなことを満たさなくちゃいけないわ。やらなくちゃいけないことが増えただけ、欲望にさらされることも多くなるの。自分の責任でいろんなことができるようになったぶんだけ、つまらない欲望やわがままも増えてしまうの。そんな欲望と向かい合っていると、感化されちゃいそうで怖いのよ。求めることしか考えられなくなりそうで、怖いわ」
「怖がることなんてないよ。僕たちは与えあって生きているんだから、与えて欲しいって求める気持ちも、当然湧いてくるものなんだよ。現に、僕だっていろんなことを遥に求めてるよ。いっぱい与えてもらってもいるし」
「ほんとうにそうならいいんだけど」
「遥は、もうちょっと自分に自信を持っていいんだよ。そうするべきだと思う」
「時々思うの。わたしなんかといっしょに暮らさずに、ほかの誰かと付き合ったほうが、ゆうちゃんにとっていいことなんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、わたしの心はどこかゆがんでいるもの」
「ゆがんでいる女の子がさっきみたいなことを言ったりしないよ。遥は、考えすぎなだけだよ。――誰だって、欲望はあるし、醜いところだってあるものなんだよ。そんな自分と綱引きしながら、どうやって自分に負けないようにするのかが人生なんじゃないかな」
「そうかもしれないけど」
「遥、自転車の運転と同じだよ。初めて自転車の練習をした時、最初は怖かっただろ」
「うん」
「でも、慣れればなんてことないよね。すいすい自転車を漕げるようになって、怖がらずにどこへでも行けるようになるよね。欲望に慣れるのも同じことだと思う」
「わたしは慣れたくないのよ」
「わかっているよ。でも、慣れるしかないんだよ。残念だけど、この世はユートピアじゃないし、人間から欲望を消し去ることなんてできないから、自分の欲望と付き合っていくしかないんだよ。大切なことだけ忘れなかったら、それでいいんじゃないかな。怖がってばかりいたら、きりがないよ。ゆっくりでいいんだよ。僕たちは、やっと自分たちの手で人生を作れるようになったばかりなんだから」
「ゆうちゃんのいうとおりかもしれないわね。――ゆっくり考えてみる」
 遥は心細そうにうなずく。どうしても自信を持てないようだ。
「ふたりでいればなんとかなるものだよ。ふたりでいることが、いちばん大切なことなんだよ。だからさ、自分なんかいないほうがいいんじゃないかって、そんなことは考えないで。言って欲しくないよ、そんなこと。遥は、ひとりで生きているんじゃないんだよ。僕たちふたりで生きているんだよ。やさしさをとりかえっこしながらふたりで生きようよ」
 僕は遥を抱きしめた。
「ごめんなさい。こんな鬱陶しい話ばかりして」
 遥は、僕の腕にぽろぽろ涙をこぼした。
「謝らなくたっていいんだよ」
 僕が考えていた以上に、遥はつらい思いをして生きてきたのだろう。そう思うと、僕も泣きたくなった。倖せというものは、めったに得られるものでもないし、どこかに落ちているものでもない。だからこそ、倖せにしてあげたいと心から願った。

恋は魔法 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第70話)

2011年12月28日 15時15分15秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』
 
 人を好きになった時、胸が痛くなるのはなぜだろう?
 その人以外のことは、なにもかもがどうでもよくなって、心のすべてが溶けてしまう。
 青虫がさなぎになる時、目の細胞だけを残してほかはすべてどろどろに溶けてしまうのだそうだ。そうして、いったんすべてを溶かしてしまってから、成虫へ変身するのだとか。恋をした時も、そんなメタモルフォーゼ(変容)が心で起きている。胸が痛くなるのはきっと、心がすべて溶けてしまうからなんだろう。今までの自分の過去や傷口といったものが溶けてなくなってしまうからなのかもしれない。
 恋のさなぎがぶじに羽化して美しい翅《はね》を広げる時もあれば、羽化に失敗してしまうこともある。
 羽化に失敗した恋はせつない。ちょっと涙色。
 だけど、もちろん恋が成就するに越したことはないけど、胸が痛くなるくらいに好きになれる人に出会えただけで、感謝すべきなのだろう。その人のすべてに。巡り合わせに。ほんとうの出会いというものは有難いものだから。
 もし幸運がほほえんでくれて恋を成就できたら、青空を自由に翔べばいい。青空はどこまでも広がっている。
 ところで、人を好きになるのに理由はないという。
 たしかにそうかもしれない。今までの自分の恋愛を振り返ってみても、その人を好きになったからとしかいいようがない。好きなタイプはあるのだけど、タイプの女の子ばかり好きになるわけでもない。不思議だ。
 とはいえ、物書きのはしくれとしては不思議というだけではすませたくない。相手のなにかが恋する人の胸に刺激を与え、その人の心を溶かしてしまっていることには違いないのだから。
 恋は魔法。
 だからこそ、魔法の秘密を解き明かしてみたくなったりする。無謀かもしれないけどね。
 

(2011年1月3日発表)
 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第70話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

今年最後の眠りに就く前に2010 (連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』第69話)

2011年12月27日 21時55分31秒 | 連載エッセイ『ゆっくりゆうやけ』

 今年はというか、今年もというべきか、いろんなことがあった。
 個人的にはかなりきつい一年のスタートを切ったのだけど、なんとか乗り越えることができてほっとしている。困難な時期にいろんな方に励ましの言葉をいただいて感謝にたえない。お陰さまで、なんとか今年も生き延びることができた。また、今年もやさしい人や誠実な人にたくさん出会うことができた。それがいちばん嬉しいことだった。
 僕が今住んでいる中国でも、故国の日本でもいろいろがあったけど、ひとつだけ書いておきたいことがある。
 暮らしの問題だ。
 いや、暮らしなどというこんな書き方は生ぬるいだろう。ここまで事態が悪化した今では、むしろ生存の問題と呼べきだ。
 数多くの人々が満足に生計を立てられなくなって久しい。
 以前、ほかのエッセイで書いたことだけど、この問題は一個人の力でどうにかなるものではない。世の中の仕組みを変えなくてはどうしようもない。このことはいくら力説してもしたりないくらいなので強調しておきたい。生計を満足に立てられないのは、決して個人の努力不足などではない。世の中が人々を生きさせない仕組みになっているからだ。人々の暮らしが成り立つようにするためには、早急に世の中の仕組みを変える必要がある。
 今の仕組みではいくら企業が儲かっても、働く人々に還元されるようにはなっていない。リストラや賃金カットをして利益を上げた企業の取締役が企業の利益を増大させたとして高額の報酬を得るようになっている。これではあべこべだ。正規労働者、非正規労働者を問わず労働条件は厳しくなるばかりで、人間がモノ扱いされている。こんなことが許されていいのだろうか?
 仕事にありつけない人も大勢いる。仕事に就けないということは、世間に参加できないということだ。多くの人々が世の中から疎外されている。世の中に「お前はいらない」と言われた人々の気持ちはどうだろう。つらいどころではない。命がかかっている。生きる糧がどうしても手に入らなければ、ホームレスにならざるを得ない。これも許されないことだ。
 この問題の根底にある大きな要因の一つは、グローバル企業が競争力強化を口実にして行なう下請け企業叩きだ。グローバル企業が彼らを支えている下請け企業に対して情け容赦ない値下げ要求を続ける限り、この問題は解決しない。とはいえ、グローバル企業は人の生き血をすするようなまねをやめないだろう。極端な話、グローバル企業の本社に爆弾でも送りつけて爆発させでもしない限り、彼らの考え方は変わりそうにもない。下請け叩きという暴力に対しては、別の形の暴力でしか対抗できないのがこの世の悲しい現実だから。
 危機はすぐそこに迫っている。
 今の世界経済の状態は非常に危ない。リーマンショックに端を発した金融システム崩壊の諸問題は根本的にはまったくなにも解決していない。とりあえず痛み止めを打って誤魔化しているだけの話だ。来年もヨーロッパの国が破綻するだろう。下手をすれば世界恐慌になるかもしれない。
 そんな事態に陥った場合、今の仕組みのままでは数多くの人々が不幸を抱えこむことになる。大勢の人々が追いつめられ、食いつめた人たちは命さえ落とすことになるだろう。
 時代の闇は濃くなるばかりだ。
 だけど、未来を変えられないわけではない。未来は自分たちの意志ひとつにかかっている。どんなに動かしがたい仕組みに思えても、変えられない仕組みなどなにひとつない。古い話になるけど、ベルリンの壁だって壊れた。ソビエト連邦が解体してバルト三国などは独立を勝ち得た。日本人だって同じことができる。人間は、仕組みや状況に適応することだけが能ではない。新しい仕組みや状況を創り出す力も持っている。ひどい体制を覆《くつがえ》すことができる。希望はいつでも、一人ひとりの人間のすぐそばにある。
 一個人としては、世の中がどうなろうと、日本がどうなろうと、世界がどうなろうと精一杯生きなくてはいけない。仕組みや状況がどうだからといって、自分をあきらめるわけにはいかない。
 ――畢竟《ひっきょう》、意志の問題だ。
 これは中原中也の詩『頑是ない歌』の一節だけど、この頃、この言葉がよく心に浮かぶ。



 

(2010年12月31日発表)
 一年前に書いた原稿です。
 予想が外れてヨーロッパで破綻する国はでませんでしたけど、全体的な状況は悪くなる一方ですね。
 今年も派遣切りにあって路上へ放り出されたりと、ひどい目に遭わされた人が大勢出ていることでしょう。悲しいことです。

 この原稿は「小説家なろう」サイトで連載中のエッセイ『ゆっくりゆうやけ』において第68話として投稿しました。 『ゆっくりゆうやけ』のアドレスは以下の通りです。もしよければ、ほかの話もご覧ください。
http://ncode.syosetu.com/n8686m/

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第4話

2011年12月19日 07時35分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 あの頃、君の背中が僕の支えだった



 いつの間にか、コーヒーが運ばれていた。
 ミルクをすこし入れて一口飲むと、とりとめもなく中三の頃のことが脳裡に甦った。
 一学期の半ばに席替えがあって、ふたりの席は離ればなれになってしまった。授業中に一緒にプリントを見たり、消しゴムのやりとりをしたりすることも、遥の透明な香りにつつまれることもなくなってさびしかったけど、それでも通路をはさんで二つ斜め後ろの位置だったから、黒板を見れば自然と遥の後ろ姿が目に入った。
 白いブラウスにブラジャーの線がくっきり浮かびあがった遥の細い背中。脆いクリスタルのように輝いて、僕の目にはまぶしかった。ブラウスのしたに着こんだ体操服のゼッケンが見えたこともあれば、体操服姿に濃紺のスクール水着が透けていたこともあった。遥は板書をノートへ写し終えると軽く首を振って頰にかかった髪を払う癖があるのだけど、振り払った髪に光がこぼれるのを見てはなんともいえない想いが胸にこみあげ、僕は誰にもさとられないようこっそりため息をついた。
 あの頃、そんな遥の背中が僕の心の支えになってくれた。
 中学三年生になってから、僕の生れ落ちた家庭は壊れ続けた。
 二つ年下の弟が不登校になり、どうすればよいのかわからなくなった母親は一日中ヒステリーを起こし、会社で左遷された父親は父親で、酒びたりになって家にいる時はいつもアルコールの臭いをまき散らした。
 僕は食事以外は勉強部屋に閉じこもったまま、なるべく家族とかかわらないようにした。とりわけ、母親が僕へ向けるヒステリーがたまらなかった。母親はなんでもないことで理不尽な怒りを爆発させ、ひどく当たり散らした。心を金槌で叩かれるようでつらかったけど、いくらそれを訴えてみたところで、いくら反抗してみたところで、僕の話に耳を傾けようとはいっさいしてくれなかった。母親はみみず腫れにはれあがったエゴがずきずき痛むようで、僕の胸のうちなど歯牙にもかけず、むしろ自分の怒りをたぎらせるだけだった。弟よりも母親のほうが荒れていたのかもしれない。父親は家へは寝に帰ってくればいいという態度を変えず、自分の家庭をホテルくらいにしか思っていなかったようだ。そんな家族がよい方向へ向かうわけもない。僕にとって、家庭は出口の見えない地獄へと変わり果てていた。
 家が火事になる夢を見てよくうなされた。誰もいない家で煙にまかれる場面から目覚めると、僕はかならず金縛りにあっていた。息苦しさと身動きのとれない体に耐えながらまっくらな天井を見つめ、歴史の教科書に載っている平安朝や鎌倉時代の地獄絵図にはどうして一つ屋根の下に暮らす人間がたがいに苦しめあう「家族地獄」が描かれていないのだろうと、ぼんやり不思議に思った。幼い頃は、父も母もほがらかで楽しかったのだけど。
 でも、家でどんな嫌なことがあっても、心が割れそうになっても、翌朝登校して遥の背中を一目見れば、僕の心は洗われた。彼女と言葉を交わせば、「おはよう」の一言だけでも、たわいもない話題でも心がなごみ、心にのしかかった重圧をすべて忘れることができた。
「遥がいたから、ここまでやってこられたんだよな」
 僕はひとりごちた。
 自分のつらさから逃れるために、僕は遥を利用していたことになるのだろうか。自分が生き延びるために遥をいいようにしていたのだろうか。
 たしかに、僕には遥が必要だった。
 必要ということは、相手を利用して自分のために役立てたり、自分の欲望を満たしたいということなのだろう。だけど、誰かが支えになってくれなければ、吹きさらしの荒野でしかないこの世を生きていかれない。自分の家族さえも信頼できない酷薄な人間関係のなかで、すっかりすりきれてしまう。
 中三の夏休みも終わりかけの頃、模擬試験の会場でばったり遥と出会った。試験が終わってから、僕は遥を誘って河川敷の公園へ行った。
 堤防の芝生に自転車を横倒しに置き、遥と並んで坐った。学校の外で二人きりになって話をするのは初めてだったから、僕はどうしていいのかわからず、これもデートのうちに入るのかな、なんて考えながらやたらと芝をむしった。心があふれそうで、心が溶けてしまいそうだった。
 ポスターカラーで塗ったような青空に入道雲がどこまでもそびえる。誰かが練習しているサックスの音が流れ、野球用のグランドでは子供たちがフリスビーを追いかけていた。二両編成の電車ががたごとと音を立てて赤錆色の鉄橋をゆっくり渡る。
 横目で遥の姿を盗み見ると、遥は気持ちよさそうに目を細め、雲を眺めている。素敵な二重まぶた。すっと筆をおろして描いたような小さな鼻の稜線。真綿のように純白なやわらかい頰にうっすらとりんご色がさしている。遥のなにもかもが透き通っていた。胸がきゅんとした。
 ふと、彼女の肩に赤蜻蛉《あかとんぼ》が無邪気にとまる。
「天草、じっとしてて」
「なに?」
 遥は、手でかかえた膝をすくめる。
「赤とんぼ」
 僕はとんぼの目の前で指回しをした。じっとしたまま動かないとんぼの後ろからそっと左手をまわし、人差し指と中指で尾を挟んだ。とんぼは赤い体を折り曲げて逃げ出そうとしたけど、もう遅い。
「トンボ葉巻」
 僕はとんぼの尾を自分の唇に当て、煙を吐くまねをした。とんぼの体が葉巻のようで、広げた羽が煙のように見えるから、僕の田舎ではそう呼んでいた。
「瀬戸君、上手ね」
 遥は静かに微笑み、頰にかかった髪を人差し指で耳の後ろへくるりとたたんだ。
「翅《はね》を持ってごらんよ」
「怖いわ」
「怖くなんかないよ」
「だって、折ったらかわいそうじゃない」
「卵を摑むように上からそっと持てば、大丈夫だよ」
「上手にできそうもないわ」
「それじゃ、尾っぽを摑んでごらん。いちばん後ろを持ったら、翅に触らなくてすむから」
 遥は赤とんぼの顔を覗きこみ、
「ちょっとの間だけ、許してね」
 と、とんぼに断って尾をつまんだ。
 囚われの身になっていても、とんぼは翅を奮《ふる》わせる。
「生きているのね。だから、羽ばたこうとするのね」
 澄んだ声を響かせた遥は、やさしい瞳になった。
「自由にしてあげようか」僕は言った。
「そうしましょ。あんまり人間に捕まっているとトラウマになっちゃうわ」
「天草はやさしいんだね」
「誰かを傷つけたくないだけよ。――さあ、飛んで」
 遥は手を離した。
 赤とんぼは風に舞い上がる。僕たちはいっしょに空を見上げた。とんぼの姿が青い風へ溶けると、遥は飛び切りの笑顔になった。
 もっと遥と仲良くなりたい。
 遥が見つめている先になにがあるのかを知りたい。
 芝生の上を転げまわって叫びたくなった。
 それから、僕はその一心で一生懸命しゃべった。
 僕がほとんど話していたけど、遥はくすくす笑いながら楽しそうに僕の話を聞いてくれた。どれくらい時間が経っただろう。あっという間のようだったけど、ふと気がつくと、川辺に密生した葦が夕焼け色へ変わっていた。すこしばかり、人をさみしくさせる色だった。
「そろそろ帰ろうか」
 そう言った僕は、思わず暗いため息をついてしまった。
「瀬戸君、どうしたの?」
 遥が心配そうな顔をする。
「ちょっとね。――家へ帰るのかと思うと、気が重くてさ」
 家のドアを開ける時ほど、憂鬱なことはなかった。僕が家のことをかいつまんで話すと、
「そうなの。瀬戸君のお家も大変なのね。――じつは、わたしも家へ帰りたくないのよ」
 と、遥はやるせなさそうに暮れなずむ川面を見つめ、自分の家庭のことを話し出した。
 彼女の両親は、小学校三年生の時に離婚した。
 物心のついた頃から家のなかでは諍いが絶えず、遥は身のすくむ思いで、罵り合い、時には摑み合いまでする両親を見ていたそうだ。遥によれば、傲慢な性格の父親はいつも遥の母親を罵倒して虐《いじ》め抜いたのだとか。三つ年上の姉は父親の家へ行き、遥は母親に引き取られたのだが、ほどなくして遥の母が鬱病にかかってしまい、仕事も辞めて入院しなければいけなくなったので、遥はカトリック教会が運営する孤児院へ預けられた。それを知った父親が遥を迎えにきて彼の実家で住むことになったが、母方の祖母がすぐに遥を取り戻しにきた。落ち着く先のない境遇が遥を無口にした。大人同士の醜い争いばかり見させられた遥は、神さま以外はなにも信じないと誓うようになった。
「それで、今はどうしているの?」
 僕は訊いてしまった。遥は大きな瞳を翳《かげ》らせた。
「ごめん。話さなくていいんだよ」
「いいのよ。――一時期、お父さんの家とお母さんの家を行ったりきたりしていたんだけど、今はお母さんとおばあちゃんと三人で暮らしているの。お母さんはしょっちゅう入院しちゃうけど」
「鬱病が治らないの?」
「ぜんぜん」遥は首を振った。「家の事情をよく知らない人は本人のせいだって言うんだけど、病気が長引くのは、おばあちゃんも悪いのよ」
「どうして?」
「おばあちゃんがお母さんのことを責めるの。あなたが鬱病なんかになってしまって、わたしは立つ瀬がないとか言ってね。心の病なんだから、本人にストレスがかかるようなことを言ったりしたら、だめなのにね」
「厳しいんだ」
「違うわ。病気になった娘より、自分のことのほうがかわいいのよ」
「どういうこと?」
「おばあちゃんは、いつでも自分がいちばんでいたい人なのよ。プライドが高いっていうか、見栄っ張りなのね。自分が相手よりうえに立っているっていつでも思いたい人なの。そのためにだったら、平気で嘘をつくし。相手が百円もっているって言ったら、わたしは二百円もっているわっていうような、どうでもいい嘘よ。ほんとはもってなんかいないのに、嘘でもなんでもいいから、負けたくないのよ。自分を低く見られたくないのよ。お弁当の工場でパック詰めなんかして働いていたごく平凡なおばあさんのはずなのに、自分をかわいく思いすぎて、思い上がった嘘つきになっちゃったんだわ。――そんなおばあちゃんにとってみれば、病気になったわたしのお母さんは面汚しでしかないの。娘をそんな病気にした自分はだめな人間だって証明しているようなものだもの。天草さん家《ち》のお母さんは鬱病だって後ろ指を指されたら、いくら見栄を張りたくても、張りようがないわよね。だから、まるで他人みたいにお母さんにきつく当たるの。自分の役に立たないから」
 遥は、恨めしそうに眉をひそめる。
「天草は、おばあちゃんのことが好きじゃないんだ」
「うん。おばあちゃんも孤独な人なんだなって思うけど、やっぱり、自分のことしか考えない人を好きにはなれないわ。おばあちゃんがお母さんを怒鳴りつけたり、出て行けって言ったりするから、お母さんはせっかく退院しても、いつでも病院へ逆戻りよ。おばあちゃんの家を出て、わたしとお母さんと二人で暮らしたいんだけど、ほかに行けるところもないから、しょうがないわね」
「家族って、憎みあうために一緒にいるのかな」
 僕がつぶやくと、
「そうかもしれない」
 と、遥はうなだれた。
 僕たちは駅前のお好み焼き屋で晩御飯を食べ、それから図書館へ行って夜九時の閉館時間になるまで本を読んだ。帰り道、虫のすだく県道を自転車で走った。家が近くなればなるほど、僕たちは言葉少なになった。
 遥が僕と友達になってくれたのも、恋人になってくれたのも、きっと、さびしかったからだと思う。思い上がった言い分かもしれないけど、遥も僕を必要としてくれていたのだろう。お互いに必要だったから、僕たちは見えない糸に導かれるようにして出会い、いっしょに暮らしたのだと、そんな気さえする。もし、遥の信じている神さまがほんとうにいるのなら、その神さまがふたりを引き合わせてくれたようにすら思う。
 ほがらかな笑い声が窓の外から響いた。手をつないで歩くカップルが目の前を横切る。僕は、倖せそうに肩を寄せた後ろ姿をなんとなく目で追った。


空飛ぶクジラはやさしく唄う 第3話

2011年12月14日 06時40分15秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 今この瞬間の君を抱きしめてあげられたら


 遥のことを考えながら駅前にある小さなヘアサロンの前を通りかかった。遥がいつもカットしてもらっていた店だった。理容師のオカマさんが遥のことをとても気に入ってくれていて、毎回、彼が遥の髪をカットしてくれた。普通は、客が理容師を指名するものだけど、遥はオカマさんに逆指名されてしまった。小熊のような丸い顔をしたオカマさんは、遥の透明な魅力をうまく引き出してくれた。
「ねえ、女同士だからさ、今度、遥ちゃんとお茶を飲みに行ったり、お買い物に出かけたりしてもいいでしょ?」
 遥をヘアサロンまで送って行った時、オカマさんに許可を求められたことがあった。彼は丸顔をにこにこさせている。
「い、いいですよ。ぜ、全然、かまわないですけど」
 突然の申し出に、僕はとまどい気味に答えてしまった。
「きゃっ、やったあ」
 しなを作って嬉しそうに小躍りしたオカマさんは、ちゅっと軽く音を立てて遥の頰にキスする。遥はきょとんとして、見るみる間に顔を赤くした。かわいい遥だった。
 それから、遥はオカマさんと仲良しになった。
 彼は宝塚歌劇団の大ファンで、有楽町の東京宝塚劇場で公演があると必ず足を運び、衛星放送のタカラヅカ専門チャンネルに加入して毎日欠かさず観る。オカマさんは、トップスターやトップ娘役の地位について脚光を浴びているタカラジェンヌには興味がなく、あまり目立たないけど努力している新人を応援するのが好きなのだそうだ。新人の頃から応援しているタカラジェンヌががんばってはいあがり、いい役につくようになるとたまらなくうれしいのだとか。遥も彼に連れられて『ベルサイユのばら』や『エリザベート』を観劇しに行ったことがある。遥は、芝居やショーの内容よりも劇場をつつむファンの熱気に驚いていた。
 タカラヅカのほかにも、オカマさんはたびたび遥を遊びに誘った。そんな時、彼は必ず僕に電話して「遥ちゃんを借りるから」と断りを入れてくれたので、僕としても安心だった。なにより、遥は友達を作りにくい性格だから、遥をかわいがってくれる友人ができてよかった。たまに僕も誘われて、三人でいっしょに映画を観たり、飲みに行ったりもした。
 一度、オカマさんが遥の手相を観てくれたことがある。
「あなたは最愛の人と一緒に死ぬわ。これ以上ないくらいに愛されて最後を迎えるのよ。あら、変な意味じゃないわよ。愛につつまれるの。わかるかしら? それがあなたの運命よ」
 そう言って微笑んだ彼は、遥を愛せるあなたは倖せねと言いた気に僕へ目配せした。
 残念ながら、彼の予想ははずれてしまった。でも、遥が最愛の人に愛されるという予言だけは、当たってほしい。それが僕だったら最高だったのだけど、別れるのは運命だとあきらめるよりほかにしかたない。遥が素敵な人を見つけて倖せになってくれたら、それでいいことなのだから。彼女を倖せにするのがほかの男なのなら、僕はそれを受け容れるしかないのだから。
 僕は空を見上げた。
 クジラのような雲はまだ浮かんでいる。
 漂う雲は、僕を見守っていてくれているようだ。
 僕なら大丈夫。
 今は遥のことをずっと待ち続けていたい気持ちが強いけど、遥のいない暮らしにもそのうちすこしずつ慣れるのだろう。そうなれば、僕なりの倖せを探すから。
 今日も元気に働いているオカマさんの姿をガラス窓越しに見て、ヘアサロンの角を曲がった。
 駅前通りからはずれたビルの裏手を歩き、文房具屋や花屋や居酒屋がならんだ商店街へ入った。片隅にログハウス風の喫茶店がある。ドアを開けると、バッハの無伴奏チェロ組曲がかかっていた。僕は窓辺の席に腰かけた。
 たまにふたりで入った店だった。
 丸太造りの内装は素朴なあたたかみがある。高い天井が広々としていて気持ちいい。
 バイト代が入ると名物の焼きプリンを一つ頼み、ふたりでわけて食べた。この店の焼きプリンは、オーブンで焼きたてのあつあつが白い陶器のカップに入って出てきた。やわらかいプリンにタピオカが混ざっていて、ぷちぷちした食感を楽しめる。カップの底には僕の大好きな練りサトイモが入っていた。ひつこくない甘さでちょうどいいし、とろりとした舌触りもいい。月に一回の僕たちの贅沢だった。
 この店でふたりで向かい合った時、僕は遥を笑わせることばかり考えていた。遥の笑顔を見るのがたまらなく好きだった。遥の笑いのつぼは心得ていたから、どう話せばいいかのは、お茶の子さいさい。遥を笑顔にするのは、僕だけに与えられた特権のように思っていた。まるで、錬金術師《アルケミスト》が手に入れた秘法のように。
 メニューを見ながら焼きプリンを食べようかと迷ったけど、一人では味気ないから、やめにした。もうあっさりした上品な味わいの焼きプリンを注文することもないのだろう。こうして一人でぽつねんと坐ってみると、今まで僕の生活は遥を中心にまわっていたんだなとつくづく感じる。僕はブレンドコーヒーだけを頼んだ。
 ふと、壁の写真に目がとまる。
 むき出しの丸太の壁には、手の届く範囲一面に写真がピンでとめてあった。この店は、客が自由に写真を貼ってもいい。どれも楽しそうな写真ばかり。大勢の人たちの色とりどりの思い出のなかに、僕たちの思い出も混じっていた。
 今年の夏、ふたりで花火大会へ出かけた。
 中三の時も、高校生の三年間も、去年の夏も、いっしょに花火を観に行ったけど、今年は特別だった。遥が布地を買ってきておそろいの浴衣を縫ってくれたから、僕はうれしくてしょうがなかった。それだけの手間隙《てまひま》をかけてくれた遥に感謝の気持ちでいっぱいだった。写真のなかの僕たちは、紺地に琉球ガラス風鈴の柄をあしらった手製の浴衣を着て微笑んでいる。夏の夜空に、しだれ柳の花火が遠く咲いている。
 電車が会場の最寄り駅へ着くと、ホームは浴衣姿の人々であふれた。誰もが浮かれ気味で、祭りの華やかな雰囲気がもう漂っている。僕はほとんどの人が既製の浴衣を買って着ているんだろう、手作りの浴衣を着ている人なんてほとんどいないんだろうなと思うと、すこしばかり誇らしい気分になった。遥のことも、そんな遥を恋人にした僕自身のことも。「押さないでください」と繰り返す駅員の放送を聞きながらゆっくり階段をのぼり、ようやく改札口へたどり着いた。
 駅を出た僕たちは人ごみと屋台をすり抜けて川べりへ降り、遊歩道の手すりによりかかって花火を見物した。遥は黒捌《くろさば》きの赤い鼻緒の下駄を履いて、帯に団扇を差している。ピンク色したガラス玉の髪留めがよく似合っている。僕は、遥が両国で買ってきてくれた相撲取り用の桐下駄を履いていた。白い鼻緒が足元を引き締めて見せてくれるから、僕は気に入っていた。コンクリートの上を歩くと、乾いた音が心地良く鳴る。熱帯夜の蒸し暑い夜だったけど、僕はずっと遥の手を握っていた。浴衣の遥はほっそりとしたかげろうのようで、手を離せば迷子になってしまいそうだったから。
 次々と花火が打ち上がる。
 赤い牡丹。
 黄色い嵯峨菊。
 薄桃色した八重桜。
 紫のあじさい。
 白いダリア。
 橙色のひまわり。
 緑の椰子の木。
 青い蝶々。
 水色の麦藁帽子。
 さまざまな色をしたさまざまな光の模様が暗い空に描かれ、遥の澄んだ頰をぱっと明るく染める。細い首をかしげた遥は、僕の肩にもたれかかり穏やかに微笑む。花火が消えようとする頃、川べりの僕たちに爆音が届いた。
「花火の音は、何秒か前に生まれた音なんだね」
 僕はぽつりと言った。
「中三の時、理科の授業で先生が言ってたわね。人間はみんな過去の音を聞いているって。あの時、ゆうちゃんはものすごい発見を聞いたみたいに興奮してたわね」
「だって不思議だよ。今聞いている音が全部昔の音だなんて。音のスピードは秒速三百数十メートルだったよね。あの花火からどれくらい離れているか知らないけど、花火が爆発してからここへ届くまでに数秒かかっているわけだろ。僕たちの耳に聞こえるこの音は、過去からのメッセージなんだよ」
「それじゃ、わたしたちが見ている花火の光も同じね」
「そうだね。光も生まれてから自分の目に届くまでに時間がかかるからね。たしか、太陽の光が地球へ届くまで約八分だったっけ。花火と僕たちの距離だとまばたきもできないくらいのほんの一瞬だけど、あの花火は過去の模様なんだね」
「人はみんな過去を見て生きているのね」
 川風が遥の髪を揺らした。
「過ぎ去ったものしか、人は見ることができないんだね」
 僕は遥の顔を見つめ、今僕の目に映っている遥の姿も過去のものなのだろうか、とそんなことをぼんやり思った。間近に見ている遥はたしかに今この瞬間の彼女のような気がするし、今握り締めている掌のあたたかさも、今この瞬間のもののはずなのに。
 なにげない会話だったけど、今になって振り返ってみれば、僕たちの限界を言い当てた言葉だったのかもしれない。
 人は、今この瞬間を見ることができない。
 今この瞬間を聴くこともできない。
 僕は今見ている風景も人の姿もこの瞬間のものだと思っているけど、実は錯覚で、すべては一瞬前の過去にすぎず、今この瞬間をとらえることができない。刻々と移り変わってゆく過去を眺めるよりほかに、術がない。だからこそ、今この瞬間の遥の心を抱きしめてあげたかった。それができていれば、ほんとうの意味で、遥がなにを思っているのかを理解してあげられたのだろうし、支えにもなってあげられたのだろう。あんなに悲しませることもなかったはずだ。でも、それは目に見えない壁だった。乗り越えることのできない壁だった。
 僕は、時の過ぎ行くままに移り変わる遥の心がつけた轍の跡を後から追いかけることしかできなかった。つらい思いをさせてしまった。悔やんでも悔やみきれない。
 僕は写真の遥を見つめた。倖せそうだ。
 もし、遥の心にも楽しい思い出を残せたのだとしたら、それがせめてものなぐさめだと思うしかないのだろうか。



(続く)

日本人は無宗教という誤解

2011年12月05日 06時40分00秒 | エッセイ

 もうすぐお正月だ。
 友人からくるメールを読むと日本は慌しそうだが、中国にいると師走の感じを肌で感じられない。中国も一応元旦を休日にしているが、漢民族は元旦を祝わずに春節(中国の旧正月、来年は二月十四日)を祝うので、町はクリスマスの飾りがちらほら残っているだけでいつものままだ。物足りないような気もするし、忙しさを免れてほっとしたような気もする。
 こんな風に外国で暮らして、外から日本を眺めていると、日本にいた時には当たり前だと思っていたことが、じつはおかしなことだと気づいたりする。
 日本人は無宗教という通説がそうだ。
 特定の宗教を篤く信仰している人は別として、大多数の日本人の日常に宗教的な要素はほとんどないようにみえる。たとえば、イスラム教とくらべてみると、その差は対照的だ。中国には新疆に住むウイグル族のほかに、全国的に散らばっている回族(※注)というイスラム教を信仰する民族がいるので、私が住んでいる広東省・広州にもイスラムの寺院がある。ラマダン(断食月)になるとイスラム寺院からお経らしき音楽が流れて、門からなかをうかがうと男女別々の部屋にわかれた信者が熱心に礼拝している。日常においても、頭からすっぽりスカーフをかぶって髪を隠した女性を寺院の近くではよく見かけるし、イスラム教徒は豚肉を食べてはいけないというタブーを守っている。結婚式の披露宴に行くと、会場の片隅に回族料理をならべたイスラム教徒専用テーブルが用意されていて、そこに回族の客人がかたまって坐っていることもある。宗教の掟にしたがい、比較的団結して暮らす彼らとくらべてみると、そのような掟のない日本人は無宗教のような印象をうける。が、日本人はまったく礼拝や参拝といった宗教活動をしないわけではない。そこに大きな誤解がひそんでいるように思える。
 日本人の代表的な宗教活動の一つは、やはり「初詣」だろう。
 正月になれば、大晦日から大勢の人が神社や寺院へ出かける。
 子供の頃、京阪沿線に住んでいたので、『紅白歌合戦』が終わると家を出て、京阪電車が終夜運行する急行に乗って岩清水八幡宮や八坂神社などへ初詣に行ったものだった。夜中の満員電車に乗るとわくわくしたし、境内の賑わいが好きだった。おみくじはかならず引いて、待ち人来るなどと書いてあるとうれしくなった。日本人は初詣をとくに宗教行事としてとらえることもなく、あるいはうすうすそう思っていてもその意識が希薄なまま、習慣として参拝している人が大多数ではないだろうか。ここで断っておきたいが、私はべつに初詣がいけないといっているのではない。初詣をして気持ちがさっぱりしたり、心が落ち着いたり、晴れやかな気分になるのなら、とてもいいことだと思う。人間にはそんな行事が必要だから。
 ただ、日本人のことをなにも知らない外国人が、この初詣を見たらどう感じるだろうか。いささか大袈裟だが、日本という国を人類学的に調査しにきた宇宙人の目で見てみるとどうなるだろう?
 元旦の三が日の間に、日本人のほとんどといっていいほどの大勢の人が参拝する。賽銭を投げてお祈りするだけではなく、わざわざ社へ入ってお祓いをうける人もいる。ニュースでは初詣の映像が繰り返し流れ、参拝者数の多い神社や寺院のランキングが発表されたりする。あの人波を見れば、やはり、初詣は日本人の宗教行事だと完全に思ってしまうのではないだろうか。
「日本人の宗教はなに?」という質問を中国人やほかの外国人から何回か受けて、こんなことを考えるようになった。家の仏壇が頭に浮かんだので仏教と答えようとしたのだが、仏壇には位牌が置いてあるし、別の部屋には神棚も祀ってある。どう答えてよいのか迷ってしまった。宗教のことばかりでなく、外国へきて外国人に日本のことを尋ねられると、いかに自分の国のことを知らないのかということを何度も痛感させられる。
 御釈迦さんの伝記や手塚治虫の『ブッダ』を読むと釈迦は親を敬えと言ったり、先祖を拝みなさいと言ったことは一度もない。むしろ、釈迦が悟りを開いてから里帰りした時に王族の兄弟や親戚をかたっぱしから引き抜いて修行させようとしたので、釈迦の父親が「これでは国を継ぐものがいなくなってしまう。これ以上は勘弁してくれ」と泣きを入れたりしているくらいだ。こんなのは、いいか悪いかは別にして親不孝に違いない。
 本来、仏教には先祖信仰の要素はなかったのだが、大雑把に言えば、仏教が伝播する際に親孝行をなによりも大切にする中国で先祖信仰の要素が仏教へ混入してそれが日本へやってきたのと、日本自体がもともと先祖信仰の国だったので神仏混淆となり、仏壇に位牌を置いて仏と先祖を一緒に拝む宗教が定着してしまった。
 いろいろ考えた挙句、「日本人の宗教はなに?」と外国人に尋ねられた時は、「主に仏教と神道、それからキリスト教の人もすこしいる」と答えるようにした。あいまいな答えなので、もうすこしすっきり言えないものかと自分でも思うが、あいまな島国のあいまいな人間だからしかたがない。仏教か神道のどちらかだけだと言ったのでは不正確な答えになってしまう。
 おそらく、日本人は無宗教なのではない。無宗教なのでなく、宗教にたいして無自覚なだけだ。初詣することがきわめて自然なように、仏教式で葬式をすることがきわめて自然なように、それがごく当たり前の習慣として身についているために、自身の宗教について深く考える機会がないだけのことだろう。鏡の前に立って自分をつぶさに観察したことがないだけのことだ。
 無自覚からくる誤解を紐解くこと。日本の世間、日本人、日本人である自分を突き放してじっくり観察すること。当たり前だと思っていることをそのままにしないで、なるべく客観的に論理立ててとらえるようにすること。そうすることによってはじめて、日本人の行動原理を読み解くことができるようになり、自分も含めた日本人がどのような人たちであるのかを理解することができるようになり、日本人や自分自身が抱えている課題を正面から分析することができるようになるのではないだろうか。ひいては、それが物を書くことにつながる。
 日本人が無宗教というのは、無自覚からくる誤解だ。
 初詣の習慣がすたれずに残っているということは、日本人に精霊信仰=先祖信仰という宗教が根付いていることの証左だろう。それも、そうとは自覚しないほどの深さで。空気のように当たり前に。そこに日本の世間や日本人の奥深くを読み解く鍵があるはずだ。



※イスラム教を信仰する人々。信仰の篤い人が大多数だが、戸籍上回族になっているものの、世俗化して漢民族と同じような暮らしをしている人たちもいる。


本エッセイは2009年12月30日に「小説家になろう」サイトで発表したものです。
http://ncode.syosetu.com/n1999j/

空飛ぶクジラはやさしく唄う 第2話

2011年12月01日 06時35分00秒 | 恋愛小説『空飛ぶクジラはやさしく唄う』

 君の涙はふたりのもののはず


 遥の異変に気づいたのは、仲秋の名月の日だった。
 ふたりで夕飯の買い物へ出かけ、和菓子屋の店先にパック詰めの月見団子が並んでいるのを見かけた。
「そういえば、今日はお月見だったね。――買おうか」
 僕が一つ手に取ると、
「わたしが自分で作るわ。実はね、もう準備してあるの」
 と、遥ははしゃぐ。
「それで小豆を水につけてたのか」
 下宿の流し台の脇に水を張ったボールが置いてあって、なかには小豆が入っていた。
「あれさ、けっこう量があったよね。赤飯も炊くの?」
 仲秋の名月だから赤飯にするのかな、とそんな疑問が頭に浮かんだ。
「お団子だけよ。たくさん作りたいの」
「そんなに食べられないよ」
「だって、お月さまにお供えするんでしょ。たくさんあったほうが、お月さまもきっと悦《よろこ》んでくれるわよ。残ったら、明日の晩、十六夜《いざよい》のお月さまにもう一度お供えして、それから食べればいいんだから」
「遥がそういうのなら――」
「そうしましょ」
 遥はちいさくスキップした。
 僕たちは和菓子屋を通り過ぎ、スーパーで夕飯の材料と団子の粉を買った。遥は月見団子を作ることがそんなに嬉しいのか、帰り道の間中、僕の腕にしがみついたままだった。遥は朝から妙に機嫌がよかった。
 ふたりの「家」へ帰り、遥はさっそく小豆を煮始めた。僕も手伝おうとしたのだけど、わたしの領分だからと言って僕には触らせない。遥はままごとをして遊ぶ女の子のように目をきらきら輝かせ、鼻歌を唄いながら団子を丸める。できあがった餡を板状にしてから、へらで雲の形に整え、団子に巻きつけた。叢雲《むらくも》月見団子ができあがった。
 窓辺に折り畳み式のテーブルを置いて大皿に並べた月見団子を供え、その脇に花屋で買った薄を飾った。
 夜空に低く満月が浮かんでいる。
 薄い雲が夜をかすめ、月をぼんやりさせる。
「お月さま、眠そうね。うたたねしているみたい」
 遥はふっと微笑んだ。
 僕が借りたワンルームマンションで同棲を始めてから、半年ほど経っていた。遥との暮らしは夢の中にいるようで、生まれて初めて、さびしくないと心から感じることができた。冷え切った家庭に育ち、こんなところにいては自分が駄目になってしまうといつも焦っていた僕は、ようやく自分の落ち着く先を見つけることができたのだ。遥だけが、僕の居場所だった。
 ――このままでいられますように。
 胸のうちでそう願いながら、お月さまに手を合わせた。ずっと、この暮らしが変わらないでほしい。ふと薄目を開けると、僕の隣で跪いた遥は月に向かって十字を切っている。
「お月さまにお祈りしてるの?」僕は訊いた。
「そうよ」
「いくらなんでも、それはおかしいんじゃない?」
「そうね」
 遥はぷっと吹き出す。
「でも、いいじゃない。わたしはなんにだって祈りたい気分なのよ。すべてに感謝したい気持ちでいっぱいなのよ」
 遥はちょっぴり真顔になった。僕と一緒に暮らして、彼女も倖せな気分でいてくれているんだ。そう思うと、心あたたかくなれた。
「天にまします神さまに見つからないように、こっそりお祈りしなよ」
「やっぱり怒られるかなあ」
「そうなったら、僕がかばってあげる。なんなら、神さまと戦ってもいいよ」
「ゆうちゃんと神さまだったら、ゆうちゃんに勝ち目はないわよ。ゆうちゃんこそ、どうかしてるわよ」
 僕たちは笑い転げた。
 お月さまを拝んでから、夕飯を食べた。
 遥は、僕のリクエストに応えてチーズハンバーグを作ってくれた。チーズがいい感じにとろけておいしい。この頃、遥の料理の腕はめきめき上達していた。遥自身も炊事が楽しみになってきたようだ。遥がテストで忙しい時やバイトで遅くなる時は僕も料理したけど、それ以外は僕には作らせてくれない。遥は食事の支度だけではなく、自分が家事を取り仕切ることに生きがいに似たものを見い出したようだった。僕が家事をするとどうしても雑になるから、自分の手できっちり仕上げたいのだろうか。それとも、母性がそうさせるのだろうか。ともあれ、ここがふたりの家だと思ってくれていることだけは確かだった。
 デザートにおさがりの月見団子を食べた。
「もうちょっとお砂糖を入れたほうがよかったかしら」
 遥は、舌先であんこを転がして吟味する。
「そうだね。甘味が足りないかな。でも、初めて作ったにしてはいいできだし、まずまずの味だと思うよ」
「お砂糖を入れる時に、ちょっと迷ってしまったの。あんまり甘すぎて太ったらどうしよって。だから、すくなめに入れちゃったのよ」
「遥は華奢だから、そんなに気にしなくても平気だよ。むしろ、すこしくらい太ったほうがいいんじゃない」
「でも、やっぱり太りたくないわ。太りすぎちゃって、遥なんかいりませんって、ゆうちゃんに言われたらどうしようって考えてしまうもの」
「今より十キロ太っても、そんなことは言わないよ」
「ほんと?」
「そうなったら、いっしょにジョギングしてダイエットしようよ」
「うれしいわ。約束よ。――わたしは、まだまだ修行が足りないのね。太りたくないって自分の欲を出したから、餡を上手に仕上げられなかった。食べ物を作る時は、どうやったらおいしくなるのかって、それだけを考えなくちゃいけないのよね。つまらない我を張ったらいけないのよ」
「次はうまくいくよ」
「今度、おはぎを作るわね」
 お茶を飲んで一服した。
 満月は空高くのぼっている。
 東京で見る月は地元の月ほど美しくないけれど、それでも僕をのんびりとした気分にさせてくれた。遥は僕の肩にもたれかかり、
「ねえ、ゆうちゃん、さきにシャワーを浴びてよ」
 と言って、愛おしくてたまらなさそうに僕の首を抱いた。
 今日の遥は、いつになく積極的だった。遥が年上の女になったようだ。
 遥が何度も僕の名前を呼ぶ。
 その声は、たいせつなものが欲しいと求めている。遠い潮騒を聞くように、僕はずっと昔からそれを知っていた気がする。その声に導かれて、今まで生きてきたようにさえ感じる。遥は、僕の心からたいせつなものをたぐりよせようとしていた。もちろん、僕は遥の望むものなら、すべて贈りたかった。すべてを与えたかった。
 遥の心が僕の心に触れ、心の表面がとろける。水銀のようになった心の粒がたがいに交わる。ふたつの心が溶けてひとつになる。なにも考えることはない。なにも想うことはない。ただ、ひとつになればいい。それだけでいい。
 ふと、心の奥で星が弾けた。
 まぶしい光が心をおおい、百メートル走を全力で駆け抜けたようなさわやかさと喜びが心を駆け抜けた。ひとつになった心は、またもとのふたつへ戻った。たがいの心の粒子をすこしずつ持ち帰って。
 僕は満ち足りて、とても幸せだった。愛し合っている間中、白い遥の裸体を照らしていた満月のように、どこも欠けたところはない。足りないものはなにもない。だけど、遥はぐすんと鼻を鳴らしたかと思うと、哀しそうに体を打ち震わせ、かすかにむせぶ。
「どうしたの?」
 遥も幸せな気分になってくれたものだとばかり思っていた僕は、とまどった。遥の泣く理由が思い当たらない。とはいえ、考えてみれば今日の遥はどこか変だった。朝から妙にご機嫌だったのもそうだし、自分から僕の体を求めるだなんて、今まで一度もなかった。遥が主導権を握って交わったのも初めてだった。
 遥はすすり泣く。まださめやらない薄桃色の頰に滴が伝う。
「僕が遥を悲しませてしまった?」
 せつなかった。細い鎖骨をそっとなで、火照った体を抱きしめた。遥は、僕の胸に顔をうずめる。
「そんなことないわ。ごめんね。わたしばっかり気持ちよくなって」
 遥は、言いたいことのはしっこを言っている。
「僕も気持ちよかったよ。ねえ、わけを教えてよ。なにが悲しいの?」
「ごめんなさい」
「謝ってほしいって言ってるわけじゃないんだ。心配なんだよ」
 ティッシュを取って遥の涙を拭いた。
「さっき、わたしはゆうちゃんをいいように利用してしまったわ」
「どういうこと?」
「だから、わたしばっかり気持ちよくなったでしょ。ゆうちゃんを思い通りにしてしまったわ」
 遥は、申し訳なさそうに眉をひっそりさせる。
「遥はそんなことしてないよ。気持ちよくしてくれたし、いかせてくれたんだよ。遥は僕にやさしくしてくれたんだよ」
「それは、わたしが気持ちよくなるためなのよ。わたし自身を満足させるために、ゆうちゃんの心と体をいいようにしたのよ」
「そんなこと言ったら、僕だって、自分が快感になるために遥を利用したことになるよ」
「ゆうちゃんはそれでいいのよ。だって、こんなわたしを受け容れてくれるんだもの。ゆうちゃんのためだったら、なんでもするわ。でも、わたしがゆうちゃんを利用するのは、わたし自身が許せないの」
「そんなに思いつめて考えなくても、ただふたりで倖せな気持ちになれたら、それでいいんじゃないかな」
「最近、自分が怖くなるの――。大好きよ。世界中でいちばん好きよ。でも、大好きなゆうちゃんを利用してしまうわたしがいるの。もっともっとって、求めてしまうの」
「もっとって、なにを」
「ゆうちゃんの心よ。ゆうちゃんのすべてよ。このあいだ、居酒屋で飲み会をやったでしょ」
「うん」
 近所の弁当屋のおじさんが飲み会を開いて、店の常連が十数人集まった。僕たちは、惣菜コーナーの隅においてある焼き鳥が好きで夜になるとよくその店へ買いに行き、焼き鳥が仕上がるまでの間、店の主人やほかの常連客と世間話をした。人見知りの激しい遥はおじさんともほかの人たちともほとんど話したことがなかったけど、気さくな弁当屋のおじさんは遥のことも誘ってくれたのだった。
「あの時、ゆうちゃんはほかの女の子と楽しそうに話していたでしょ」
「ああ、あの子のことか。話したけど、べつに好きとかそんなんじゃないよ。にぎやかな子だったから、話が弾んだだけだよ。お酒も入っていたし」
「わかってるわ。でもね、わたしはすごく妬いてしまったの。楽しそうなゆうちゃんの笑い声が心に突き刺さるようだったわ。わたしの彼氏になんで話しかけるのよって、あの子にいらいらしちゃった。愉快になってるゆうちゃんもゆうちゃんだって。わたし、もうすこしのところで、ゆうちゃんの手をひいて帰るところだった。早く家へ連れて帰って、誰もいないところでゆうちゃんを独り占めにしたかったの」
「誰にでもあることだと思うよ。僕だって、遥と初めて出会った頃は、遥が誰かと話していると気が気じゃなかったもの。遥が僕の目の届くところにいないと落ち着かなかったし。今でも、時々そうなるよ」
「誰にでもあることだから、気をつけなくちゃいけないのよ。わたしはそんな自分が許せないの。嫉妬心、独占欲、そんなものが心でうごめいているのに、それで愛してるなんて言えるのかしら」
 遥は顔をあげ、まっすぐ僕を見つめる。ひたむきな瞳だった。
「そんな完璧にしなくてもいいんだよ」
「みんなそう思って、自分をだめにしちゃうのよ。いろんな人が欲望の誘惑に負けてだめになってしまったのを見てきたわ。そんな人はまわりも巻き添えにしてしまうの。自分の欲望のために人を利用するから。自分のルールを人に押しつけようとするから。人を自分の思うようにしたいから。人を自分の世界に住まわせようとするから。わたしのおかあさんも、おとうさんも、おばあちゃんもそうだった。自分の欲望を振り回して、人を損なってしまうのよ。でも、わたしはそんなふうになりたくない。これ以上、もっともっとって求めたら、ゆうちゃんは息苦しくなってしまうわ。ゆうちゃんの命も心も粗末にしてしまうわ。このままだと、ゆうちゃんを求めるばかりに、大切なゆうちゃんをだめにしてしまうわ」
「愛しているから、いろんな感情がわくんだよ。いい感情も、悪い感情もね。それを乗り越えるのも愛だし、勇気なんじゃないかな」
 遥がどうしてそんなに思いつめるのか、僕にはいまひとつうまくのみこめなかった。だけど、遥が大切なものを追い求めていることだけは十分すぎるくらい理解できた。僕は、そんな遥が好きだ。
「僕が恋の達人だったらいろんなことを言ってあげられるのかもしれないけど、初めての恋だから手探りなんだ」
「わたしもそうよ。なにもかもが初めてだもの」
「だからさ、いろんなことがゆっくりわかるようになればいいんじゃないのかな。僕たちは、知らないことがまだまだ多すぎるんだよ」
「でも――」
「だって、わからないことだらけだろ」
「そうね」
 遥は自分の心をしずめるようにゆっくりまぶたを閉じ、
「ゆうちゃんの言うとおりかもしれない」
 とうなずいた。
「悲しませてごめんね」
 僕は白い額に口づけた。
「遥を悲しませてしまうのが、いちばんつらい。とりかえしのつかないことをしてしまったみたいで、どうしていいのかわからなくなってしまうんだ」
「ゆうちゃんはなにも悪くないわ。わたしがいけないのよ。わたしの問題なのよ」
「遥の問題は、僕の問題なんだよ。遥の涙はふたりのものだよ。忘れないで」
「ごめんなさい。こんなにやさしくしてくれるのに、いいようにしようとしてごめんなさい」
 話はまた初めのほうへ戻ろうとしていた。いけない兆候だった。遥はかたくななところがあって、一度思いつめてしまうとずっと堂々巡りを繰り返すことがある。
「じゃあさ、こうしようよ。さっきは遥の思い通りにしたから、今度は僕が思い通りにするね。これでおあいこ。それでいいだろ」
 僕は遥の肩を吸った。小さな花が白い肌に咲く。これで遥の抱えている問題が解決するとは思わなかったけど、すこしでも遥の気が軽くなればと願った。
「ゆうちゃんの体が冷えてしまったわ」
 遥は、僕の背中を抱きながら言う。
「ふたりであたたまろう」
 僕は、遥のやわらかなショートヘアーをなでた。遥の匂いがする。清らで芳《かぐわ》しい香りだ。僕は、そっと遥を誘《いざな》った。



(続く)

ツイッター