やさしさを交換しなければ、人は生きていかれない
お月見の日からしばらくの間、遥は平穏に過ごしていたけど、十日ほどたったある日、またひどく落ちこんでしまった。
真夜中にふと目覚めた。
カーテンの隙間から射しこむさやかな月の光が遥の白い顔を照らしている。冴えた大理石のように光る遥の頰が僕の遠い記憶を呼び覚ます。生まれる前から結ばれていたような、たまらない懐かしさが僕をつつんだ。遥には月の光がよく似合う。
遥の髪をなでようと手を伸ばした瞬間、
「ゆうちゃん」
と、遥は寝言をつぶやきながらぐすんと泣いて体を震わせる。夢の中で僕にしがみつこうとした遥の手を取り、首に抱きつかせてあげた。
「どうしたの?」
そう問いかけても、遥は目を閉じたままはらはらと涙を流すだけだ。
「遥」
僕は肩を揺さぶった。それでも目を覚まさないから、軽く頰をはたいた。遥ははっと目を開ける。涙で濡れた瞳に、僕の顔が映っている。苦しげに息をあえがせ、胸を大きく上下させていた。
「悪い夢を見たの?」
遥はなにも答えず、僕の体をせつなく抱きすくめる。
「どんな夢?」
「ゆうちゃんはきっと怒るわ」
「怒らないから」
僕は遥の額にくちづけた。
「ゆうちゃんが、もう付き合っていられないから別れようって言ったの。僕は疲れたって」
遥はかすれた声でささやく。
「ただの夢だよ。僕はそんなことを言わないよ。なにがあっても、遥を見捨てたりしないから。遥は僕のすべてだもの」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
わかっているはずのことを確かめてしまう遥に、僕は危うさを感じた。
「思ってることを言ってごらんよ」
「ゆうちゃんを利用しちゃいけないって思うと、苦しくなってしまうの。それで、わたしはよけいにわがままなことを言ってしまうのよ。わがままを言った後で、そんな自分が嫌になってしまうわ」
「利用したっていいんだよ。たまには、わがままを言ったっていいんだよ」
――やっぱりあの日からずっと悩んでいたんだ。
僕はそう思いながら言った。遥が抱えているはかなさは、僕の手の届かないところにあるのだろうか。
「きっと、ゆうちゃんは疲れてしまうわ」
「そんなことないよ。利用するって言うと悪いことをしているみたいだけど、それはやさしさのとりかえっこなんだよ。人は独りじゃ生きていかれないだろ。だから、僕たちはこうしていっしょに暮らしているんだよ」
「そうかもしれない」
「僕も遥も、壊れた家庭に育ったから、家庭的な情愛のぬくもりを知らないんだ。僕はまだ幼かった頃の楽しかった雰囲気を覚えているからいいけど、たぶん、遥はそんな記憶もないだろうし、僕よりもずっとつらいことをいろいろくぐり抜けたから、遥のほうがきついだろうね」
「わたしは家庭のぬくもりなんて知らないわ。ただ怖かった。いつも、両親とお姉ちゃんとおばあちゃんの顔色ばかりうかがっていたもの。今は時々、ゆうちゃんの顔色をじっと見てしまうわ」
「そんなことしなくていいんだよ。――遥はとまどっているんだと思う。きつい状態しか知らなかったから、落ち着いた気分になったら逆にどうしていいのかわからなくなって、怖くなってしまったんじゃないのかな」
「そうかな? わからない。――許されている以上にしあわせなんだっていうのはわかるけど」
「倖せになることが許されない人なんて誰もいないよ。――お茶でも淹《い》れようか」
僕は起き上がった。
「ごめんなさい。ゆうちゃんは、明日ロシア語のテストなのに」
「いいんだよ。第二外国語より遥のほうがずっと大切なんだから」
遥が電気ポットのお湯を再沸騰させ、玄米茶を淹れてくれた。遥は力なく肩をすぼめ、折り畳み式のちゃぶ台の向こう側に申し訳なさそうに坐る。
「こっちへおいでよ」
僕は隣に坐るよう招きよせ、遥の手を握った。遥は幼い妹がお化け屋敷のなかで兄の手を握り締めるように、かたく僕の手を握る。ふたりで熱いお茶をすすった。遥は、すこしばかり気持ちが落ち着いたようだった。
「人は独りでは生きていかれないから、やさしさをとりかえっこする必要があるって、さっき言ったよね」僕は言った。
「うん」
「やさしさは誰でも持っている。僕も持っているし、遥も持っている。でも、やさしさは自分ひとりで持っているだけじゃ、ほんとうの意味でのやさしさにならないんだ」
「どういうことなの?」
「やさしさは、誰かと交換する必要があるんだよ。信頼できる誰かと。この人なら、絶対にひどいことを言ったり、自分を裏切ったり、自分の心を踏みにじったりしないっていう誰かとね。それが、僕の場合は遥なんだ。やさしさは誰かとわかちあって、はじめてぬくもりが生まれるんだ。そして、そのぬくもりのおかげで生きていかれるようになるんだよ。完璧な人間なんていないから、人の善意に頼ったり、誰かに自分の弱さをおぎなってもらわないと生きていかれない。やさしさをわけてもらって、お互いに温めあわないと生きていかれないんだよ。――それを裏返してみれば、遥が言うように人を利用するっていうことになるのかもしれないけど、僕は遥にやさしくしたいんだ。遥とやさしさを交換したいんだよ。それは、間違ったことじゃないと思う」
僕は、諭すように言ってお茶を飲み干した。僕の湯呑みに注ぎ足した遥は、じっとちゃぶ台を見つめながら考えこんでいる。僕は、なにも言わず遥の答えを待った。やがて、遥は口を開いた。
「わたしも、これからずっとゆうちゃんとやさしさをとりかえっこしたいわ。わたしたちは、中学生の時からずっとそうしてきたのよね。そうやって、ふたりで温めあって、支えあって生きてきたのよね」
「わかってるんだったら、悩むことなんてないじゃない」
「でも、やっぱりどうしても考えてしまうの。わたしは家庭のあたたかさなんて知らずに育ったし、大人同士が勝手な言い分で奪い合う姿ばかり見すぎたから、悪く考えてしまうのかもしれない。でもね、どう言い訳したって、求めることは奪うことだわ。そんなことに慣れてしまう自分が嫌なの。求めることになれすぎてしまったら、そのうち大好きなゆうちゃんを損なってしまうわ。ゆうちゃんを苦しめても、それに気づかなくなるかもしれない。どうして、わたしのいうことを聞いてくれないのって、そんなふうにしか思わないようになるかも。まわりの女の子たちを見ていると、よくそう思うのよ。帰り道に送ってくれなかったとか、誕生日のプレゼントが自分の欲しい物じゃなかったとか、そんなつまらない欲求でみんな自分の愛を穢しているのよ。そんなことでたいせつな愛情を損なっていることに、気づいていないのよ。いつか、わたしもそうなるかもしれない。ゆうちゃんのことをたいせつにしたいのに、こんなふうだったら、ほんとうの愛情にたどりつけなくなってしまうわ」
遥は、悲しそうに顔を伏せた。
遥は、なにがあっても変わらないたいせつなものを見つめようとしている。だけど、たいせつなものを見つめるのと同じだけ、心の暗闇を見つめている。幼い頃から家族が憎みあう姿を見て育った遥には、その暗闇はなじみのものなのだろう。もしかしたら、遥は虚無の前に立ちすくんでいるのかもしれない。ふとそんな気がした。
「それじゃ、今の愛情は贋物《にせもの》なの?」僕は訊いた。
「そんなことないわ」
「責めてるわけじゃないよ」
「わかってるわ」
「遥が純粋なものを求めてるのはわかるんだけど、たぶん、それはずっと先にあるものなんだよ。今の愛情だって、本物だろ?」
「わたしの気持ちはほんとうよ」
「僕もそうだよ。今だって、十分すぎるくらい倖せだし、僕の人生のなかでいちばん倖せな時なんだよ。これがずっと続いてほしいと思う」
「わたしもそうなの。わたしだって、ずっとゆうちゃんとなかよくしていたいわ」
「ふたりがそう思ってるなら、僕たちの愛情は本物だよ。まだまだ未熟かもしれないけど、たいせつな気持ちをおたがいに持っているんだよ。それがいちばんだいじなことなんじゃないかな。今はそれだけで十分なんだよ。あせらなくてもいいんだよ。かならず、もっと倖せになれるから」
僕は、励ますつもりで遥の肩を握った。だけど、遥は首を振り、よくわからないというふうに髪を揺らす。
「そうならいいんだけど、わたしはいつも後ろからなにかに追いかけられているような気がしてしょうがないの。――ゆうちゃん、『最善の堕落は最悪』っていう言葉を知ってる?」
「初めて聞いたよ」
「昔、教会の施設に預けられていたでしょ。その時に神父さんがよくいってたの。ラテン語の諺だそうよ。Corruptio optimi quae est pessima」
遥は呪文のように唱えた。
「コッルプティオ・オプティミ・クアエ・エスト・ペッシマ?」
「そうよ。いちばん美しいものが堕落すると、いちばん醜いものになってしまうんですって。シェイクスピアのソネットにも似たような表現があるの。
いちばん甘美なものがその行ないによっていちばん饐《す》えたものになる。
腐った百合の花の放つ悪臭は、雑草よりもひどい。
こういう詩よ」
「わかるような気がする」
僕は、ゴミ置場にうち捨てられた腐った百合を思い浮かべた。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、わたしが生まれた時、どんなにうれしかったかってよくいってたわ。嘘じゃないと思う。でもね、家族がばらばらになって、誰がわたしを引き取るかって話になった時、わたしのことなんて考えないでみんな勝手なことばかりいうのよ。お父さんもお母さんも、わたしがかわいいから自分が引き取るっていうんだけど、わたしを道具にして奪い合いをしていたんだわ。取られたら悔しいからって、自分の沽券にかかわるからってね。わたしは、わたしがいうことを聞けば丸くおさまるんだと思ってたから、いわれるままにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてたけど、たまらなかった。みんな、愛情がまったくないわけじゃないの。だから、よけいに性質が悪いのよ。愛情に嘘が混じっているから、愛情に自分の欲得が混ざっているから、わたしを苦しめても、誰もなんとも思わなかったのよ。わたしは、絶対、こんな人たちみたいにならないって誓ったわ。――愛情っていう最善のものが堕落して最悪のものになってしまったのよ。美しかったはずのものが、心のなかで腐ってしまったのよ。心を腐らせたのよ」
遥は涙を一筋こぼした。
「つらかっただろうね」
僕は、いたわるように遥の背中をさすった。
「でも、遥はそんなふうにならないよ。そんな女の子じゃないもん」
「わからないわ」
「わかるよ。僕たちは、中三の時からずっと一緒だったんだよ。もし遥の愛情が堕落するようなものだったら、もうとっくに別れてるよ」
「ゆうちゃん、中学校や高校の頃とは違うのよ」
「わかってるよ。僕たちも大人になってきたからね」
「普通に付き合うのと、一緒に生活することはべつだわ」
「僕もそう思う。好きって言っていればそれでいいわけじゃないからね」
「勉強にしたって、アルバイトにしたって、家事にしたって、いろんなことをこなさなくちゃいけないわ。中学生や高校生の頃に比べたらいろいろ自由になったぶん、いろんなことを満たさなくちゃいけないわ。やらなくちゃいけないことが増えただけ、欲望にさらされることも多くなるの。自分の責任でいろんなことができるようになったぶんだけ、つまらない欲望やわがままも増えてしまうの。そんな欲望と向かい合っていると、感化されちゃいそうで怖いのよ。求めることしか考えられなくなりそうで、怖いわ」
「怖がることなんてないよ。僕たちは与えあって生きているんだから、与えて欲しいって求める気持ちも、当然湧いてくるものなんだよ。現に、僕だっていろんなことを遥に求めてるよ。いっぱい与えてもらってもいるし」
「ほんとうにそうならいいんだけど」
「遥は、もうちょっと自分に自信を持っていいんだよ。そうするべきだと思う」
「時々思うの。わたしなんかといっしょに暮らさずに、ほかの誰かと付き合ったほうが、ゆうちゃんにとっていいことなんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、わたしの心はどこかゆがんでいるもの」
「ゆがんでいる女の子がさっきみたいなことを言ったりしないよ。遥は、考えすぎなだけだよ。――誰だって、欲望はあるし、醜いところだってあるものなんだよ。そんな自分と綱引きしながら、どうやって自分に負けないようにするのかが人生なんじゃないかな」
「そうかもしれないけど」
「遥、自転車の運転と同じだよ。初めて自転車の練習をした時、最初は怖かっただろ」
「うん」
「でも、慣れればなんてことないよね。すいすい自転車を漕げるようになって、怖がらずにどこへでも行けるようになるよね。欲望に慣れるのも同じことだと思う」
「わたしは慣れたくないのよ」
「わかっているよ。でも、慣れるしかないんだよ。残念だけど、この世はユートピアじゃないし、人間から欲望を消し去ることなんてできないから、自分の欲望と付き合っていくしかないんだよ。大切なことだけ忘れなかったら、それでいいんじゃないかな。怖がってばかりいたら、きりがないよ。ゆっくりでいいんだよ。僕たちは、やっと自分たちの手で人生を作れるようになったばかりなんだから」
「ゆうちゃんのいうとおりかもしれないわね。――ゆっくり考えてみる」
遥は心細そうにうなずく。どうしても自信を持てないようだ。
「ふたりでいればなんとかなるものだよ。ふたりでいることが、いちばん大切なことなんだよ。だからさ、自分なんかいないほうがいいんじゃないかって、そんなことは考えないで。言って欲しくないよ、そんなこと。遥は、ひとりで生きているんじゃないんだよ。僕たちふたりで生きているんだよ。やさしさをとりかえっこしながらふたりで生きようよ」
僕は遥を抱きしめた。
「ごめんなさい。こんな鬱陶しい話ばかりして」
遥は、僕の腕にぽろぽろ涙をこぼした。
「謝らなくたっていいんだよ」
僕が考えていた以上に、遥はつらい思いをして生きてきたのだろう。そう思うと、僕も泣きたくなった。倖せというものは、めったに得られるものでもないし、どこかに落ちているものでもない。だからこそ、倖せにしてあげたいと心から願った。
お月見の日からしばらくの間、遥は平穏に過ごしていたけど、十日ほどたったある日、またひどく落ちこんでしまった。
真夜中にふと目覚めた。
カーテンの隙間から射しこむさやかな月の光が遥の白い顔を照らしている。冴えた大理石のように光る遥の頰が僕の遠い記憶を呼び覚ます。生まれる前から結ばれていたような、たまらない懐かしさが僕をつつんだ。遥には月の光がよく似合う。
遥の髪をなでようと手を伸ばした瞬間、
「ゆうちゃん」
と、遥は寝言をつぶやきながらぐすんと泣いて体を震わせる。夢の中で僕にしがみつこうとした遥の手を取り、首に抱きつかせてあげた。
「どうしたの?」
そう問いかけても、遥は目を閉じたままはらはらと涙を流すだけだ。
「遥」
僕は肩を揺さぶった。それでも目を覚まさないから、軽く頰をはたいた。遥ははっと目を開ける。涙で濡れた瞳に、僕の顔が映っている。苦しげに息をあえがせ、胸を大きく上下させていた。
「悪い夢を見たの?」
遥はなにも答えず、僕の体をせつなく抱きすくめる。
「どんな夢?」
「ゆうちゃんはきっと怒るわ」
「怒らないから」
僕は遥の額にくちづけた。
「ゆうちゃんが、もう付き合っていられないから別れようって言ったの。僕は疲れたって」
遥はかすれた声でささやく。
「ただの夢だよ。僕はそんなことを言わないよ。なにがあっても、遥を見捨てたりしないから。遥は僕のすべてだもの」
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
わかっているはずのことを確かめてしまう遥に、僕は危うさを感じた。
「思ってることを言ってごらんよ」
「ゆうちゃんを利用しちゃいけないって思うと、苦しくなってしまうの。それで、わたしはよけいにわがままなことを言ってしまうのよ。わがままを言った後で、そんな自分が嫌になってしまうわ」
「利用したっていいんだよ。たまには、わがままを言ったっていいんだよ」
――やっぱりあの日からずっと悩んでいたんだ。
僕はそう思いながら言った。遥が抱えているはかなさは、僕の手の届かないところにあるのだろうか。
「きっと、ゆうちゃんは疲れてしまうわ」
「そんなことないよ。利用するって言うと悪いことをしているみたいだけど、それはやさしさのとりかえっこなんだよ。人は独りじゃ生きていかれないだろ。だから、僕たちはこうしていっしょに暮らしているんだよ」
「そうかもしれない」
「僕も遥も、壊れた家庭に育ったから、家庭的な情愛のぬくもりを知らないんだ。僕はまだ幼かった頃の楽しかった雰囲気を覚えているからいいけど、たぶん、遥はそんな記憶もないだろうし、僕よりもずっとつらいことをいろいろくぐり抜けたから、遥のほうがきついだろうね」
「わたしは家庭のぬくもりなんて知らないわ。ただ怖かった。いつも、両親とお姉ちゃんとおばあちゃんの顔色ばかりうかがっていたもの。今は時々、ゆうちゃんの顔色をじっと見てしまうわ」
「そんなことしなくていいんだよ。――遥はとまどっているんだと思う。きつい状態しか知らなかったから、落ち着いた気分になったら逆にどうしていいのかわからなくなって、怖くなってしまったんじゃないのかな」
「そうかな? わからない。――許されている以上にしあわせなんだっていうのはわかるけど」
「倖せになることが許されない人なんて誰もいないよ。――お茶でも淹《い》れようか」
僕は起き上がった。
「ごめんなさい。ゆうちゃんは、明日ロシア語のテストなのに」
「いいんだよ。第二外国語より遥のほうがずっと大切なんだから」
遥が電気ポットのお湯を再沸騰させ、玄米茶を淹れてくれた。遥は力なく肩をすぼめ、折り畳み式のちゃぶ台の向こう側に申し訳なさそうに坐る。
「こっちへおいでよ」
僕は隣に坐るよう招きよせ、遥の手を握った。遥は幼い妹がお化け屋敷のなかで兄の手を握り締めるように、かたく僕の手を握る。ふたりで熱いお茶をすすった。遥は、すこしばかり気持ちが落ち着いたようだった。
「人は独りでは生きていかれないから、やさしさをとりかえっこする必要があるって、さっき言ったよね」僕は言った。
「うん」
「やさしさは誰でも持っている。僕も持っているし、遥も持っている。でも、やさしさは自分ひとりで持っているだけじゃ、ほんとうの意味でのやさしさにならないんだ」
「どういうことなの?」
「やさしさは、誰かと交換する必要があるんだよ。信頼できる誰かと。この人なら、絶対にひどいことを言ったり、自分を裏切ったり、自分の心を踏みにじったりしないっていう誰かとね。それが、僕の場合は遥なんだ。やさしさは誰かとわかちあって、はじめてぬくもりが生まれるんだ。そして、そのぬくもりのおかげで生きていかれるようになるんだよ。完璧な人間なんていないから、人の善意に頼ったり、誰かに自分の弱さをおぎなってもらわないと生きていかれない。やさしさをわけてもらって、お互いに温めあわないと生きていかれないんだよ。――それを裏返してみれば、遥が言うように人を利用するっていうことになるのかもしれないけど、僕は遥にやさしくしたいんだ。遥とやさしさを交換したいんだよ。それは、間違ったことじゃないと思う」
僕は、諭すように言ってお茶を飲み干した。僕の湯呑みに注ぎ足した遥は、じっとちゃぶ台を見つめながら考えこんでいる。僕は、なにも言わず遥の答えを待った。やがて、遥は口を開いた。
「わたしも、これからずっとゆうちゃんとやさしさをとりかえっこしたいわ。わたしたちは、中学生の時からずっとそうしてきたのよね。そうやって、ふたりで温めあって、支えあって生きてきたのよね」
「わかってるんだったら、悩むことなんてないじゃない」
「でも、やっぱりどうしても考えてしまうの。わたしは家庭のあたたかさなんて知らずに育ったし、大人同士が勝手な言い分で奪い合う姿ばかり見すぎたから、悪く考えてしまうのかもしれない。でもね、どう言い訳したって、求めることは奪うことだわ。そんなことに慣れてしまう自分が嫌なの。求めることになれすぎてしまったら、そのうち大好きなゆうちゃんを損なってしまうわ。ゆうちゃんを苦しめても、それに気づかなくなるかもしれない。どうして、わたしのいうことを聞いてくれないのって、そんなふうにしか思わないようになるかも。まわりの女の子たちを見ていると、よくそう思うのよ。帰り道に送ってくれなかったとか、誕生日のプレゼントが自分の欲しい物じゃなかったとか、そんなつまらない欲求でみんな自分の愛を穢しているのよ。そんなことでたいせつな愛情を損なっていることに、気づいていないのよ。いつか、わたしもそうなるかもしれない。ゆうちゃんのことをたいせつにしたいのに、こんなふうだったら、ほんとうの愛情にたどりつけなくなってしまうわ」
遥は、悲しそうに顔を伏せた。
遥は、なにがあっても変わらないたいせつなものを見つめようとしている。だけど、たいせつなものを見つめるのと同じだけ、心の暗闇を見つめている。幼い頃から家族が憎みあう姿を見て育った遥には、その暗闇はなじみのものなのだろう。もしかしたら、遥は虚無の前に立ちすくんでいるのかもしれない。ふとそんな気がした。
「それじゃ、今の愛情は贋物《にせもの》なの?」僕は訊いた。
「そんなことないわ」
「責めてるわけじゃないよ」
「わかってるわ」
「遥が純粋なものを求めてるのはわかるんだけど、たぶん、それはずっと先にあるものなんだよ。今の愛情だって、本物だろ?」
「わたしの気持ちはほんとうよ」
「僕もそうだよ。今だって、十分すぎるくらい倖せだし、僕の人生のなかでいちばん倖せな時なんだよ。これがずっと続いてほしいと思う」
「わたしもそうなの。わたしだって、ずっとゆうちゃんとなかよくしていたいわ」
「ふたりがそう思ってるなら、僕たちの愛情は本物だよ。まだまだ未熟かもしれないけど、たいせつな気持ちをおたがいに持っているんだよ。それがいちばんだいじなことなんじゃないかな。今はそれだけで十分なんだよ。あせらなくてもいいんだよ。かならず、もっと倖せになれるから」
僕は、励ますつもりで遥の肩を握った。だけど、遥は首を振り、よくわからないというふうに髪を揺らす。
「そうならいいんだけど、わたしはいつも後ろからなにかに追いかけられているような気がしてしょうがないの。――ゆうちゃん、『最善の堕落は最悪』っていう言葉を知ってる?」
「初めて聞いたよ」
「昔、教会の施設に預けられていたでしょ。その時に神父さんがよくいってたの。ラテン語の諺だそうよ。Corruptio optimi quae est pessima」
遥は呪文のように唱えた。
「コッルプティオ・オプティミ・クアエ・エスト・ペッシマ?」
「そうよ。いちばん美しいものが堕落すると、いちばん醜いものになってしまうんですって。シェイクスピアのソネットにも似たような表現があるの。
いちばん甘美なものがその行ないによっていちばん饐《す》えたものになる。
腐った百合の花の放つ悪臭は、雑草よりもひどい。
こういう詩よ」
「わかるような気がする」
僕は、ゴミ置場にうち捨てられた腐った百合を思い浮かべた。
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、わたしが生まれた時、どんなにうれしかったかってよくいってたわ。嘘じゃないと思う。でもね、家族がばらばらになって、誰がわたしを引き取るかって話になった時、わたしのことなんて考えないでみんな勝手なことばかりいうのよ。お父さんもお母さんも、わたしがかわいいから自分が引き取るっていうんだけど、わたしを道具にして奪い合いをしていたんだわ。取られたら悔しいからって、自分の沽券にかかわるからってね。わたしは、わたしがいうことを聞けば丸くおさまるんだと思ってたから、いわれるままにあっちへ行ったりこっちへ行ったりしてたけど、たまらなかった。みんな、愛情がまったくないわけじゃないの。だから、よけいに性質が悪いのよ。愛情に嘘が混じっているから、愛情に自分の欲得が混ざっているから、わたしを苦しめても、誰もなんとも思わなかったのよ。わたしは、絶対、こんな人たちみたいにならないって誓ったわ。――愛情っていう最善のものが堕落して最悪のものになってしまったのよ。美しかったはずのものが、心のなかで腐ってしまったのよ。心を腐らせたのよ」
遥は涙を一筋こぼした。
「つらかっただろうね」
僕は、いたわるように遥の背中をさすった。
「でも、遥はそんなふうにならないよ。そんな女の子じゃないもん」
「わからないわ」
「わかるよ。僕たちは、中三の時からずっと一緒だったんだよ。もし遥の愛情が堕落するようなものだったら、もうとっくに別れてるよ」
「ゆうちゃん、中学校や高校の頃とは違うのよ」
「わかってるよ。僕たちも大人になってきたからね」
「普通に付き合うのと、一緒に生活することはべつだわ」
「僕もそう思う。好きって言っていればそれでいいわけじゃないからね」
「勉強にしたって、アルバイトにしたって、家事にしたって、いろんなことをこなさなくちゃいけないわ。中学生や高校生の頃に比べたらいろいろ自由になったぶん、いろんなことを満たさなくちゃいけないわ。やらなくちゃいけないことが増えただけ、欲望にさらされることも多くなるの。自分の責任でいろんなことができるようになったぶんだけ、つまらない欲望やわがままも増えてしまうの。そんな欲望と向かい合っていると、感化されちゃいそうで怖いのよ。求めることしか考えられなくなりそうで、怖いわ」
「怖がることなんてないよ。僕たちは与えあって生きているんだから、与えて欲しいって求める気持ちも、当然湧いてくるものなんだよ。現に、僕だっていろんなことを遥に求めてるよ。いっぱい与えてもらってもいるし」
「ほんとうにそうならいいんだけど」
「遥は、もうちょっと自分に自信を持っていいんだよ。そうするべきだと思う」
「時々思うの。わたしなんかといっしょに暮らさずに、ほかの誰かと付き合ったほうが、ゆうちゃんにとっていいことなんじゃないかって」
「どうして?」
「だって、わたしの心はどこかゆがんでいるもの」
「ゆがんでいる女の子がさっきみたいなことを言ったりしないよ。遥は、考えすぎなだけだよ。――誰だって、欲望はあるし、醜いところだってあるものなんだよ。そんな自分と綱引きしながら、どうやって自分に負けないようにするのかが人生なんじゃないかな」
「そうかもしれないけど」
「遥、自転車の運転と同じだよ。初めて自転車の練習をした時、最初は怖かっただろ」
「うん」
「でも、慣れればなんてことないよね。すいすい自転車を漕げるようになって、怖がらずにどこへでも行けるようになるよね。欲望に慣れるのも同じことだと思う」
「わたしは慣れたくないのよ」
「わかっているよ。でも、慣れるしかないんだよ。残念だけど、この世はユートピアじゃないし、人間から欲望を消し去ることなんてできないから、自分の欲望と付き合っていくしかないんだよ。大切なことだけ忘れなかったら、それでいいんじゃないかな。怖がってばかりいたら、きりがないよ。ゆっくりでいいんだよ。僕たちは、やっと自分たちの手で人生を作れるようになったばかりなんだから」
「ゆうちゃんのいうとおりかもしれないわね。――ゆっくり考えてみる」
遥は心細そうにうなずく。どうしても自信を持てないようだ。
「ふたりでいればなんとかなるものだよ。ふたりでいることが、いちばん大切なことなんだよ。だからさ、自分なんかいないほうがいいんじゃないかって、そんなことは考えないで。言って欲しくないよ、そんなこと。遥は、ひとりで生きているんじゃないんだよ。僕たちふたりで生きているんだよ。やさしさをとりかえっこしながらふたりで生きようよ」
僕は遥を抱きしめた。
「ごめんなさい。こんな鬱陶しい話ばかりして」
遥は、僕の腕にぽろぽろ涙をこぼした。
「謝らなくたっていいんだよ」
僕が考えていた以上に、遥はつらい思いをして生きてきたのだろう。そう思うと、僕も泣きたくなった。倖せというものは、めったに得られるものでもないし、どこかに落ちているものでもない。だからこそ、倖せにしてあげたいと心から願った。