「はじめよっか」
ハルは庭の片隅に小さく積んだ薪の下へ使い終えた割り箸の束を挿し入れた。ヒロシは黙ってマッチを擦り、丸めて棒にした新聞紙に火を点けた。片隅に小さく上がった炎がめらめらと広がる。
「火傷するよ」
ハルがぽつりと言うと、
「わかってるよ」
と、ヒロシもぽつりと返事して新聞紙の松明を薪の下へ突っこむ。炎が割り箸へ移り、新聞紙の燃えかすが灰となって舞う。乾いた音を立てて割り箸が爆ぜた。
蒸し暑い真夏の夜だった。
木綿の浴衣を羽織っているだけなのに、じっと汗ばんでしまう。ふたりはそろいの浴衣を着ていた。模様は咲き乱れる夕顔だった。
ハルの部屋からこぼれる蛍光灯の灯りだけがぼんやり庭を照らしている。夜空は厚い雲に覆われ、月影も、星一つさえ見えない。台風が近づいていると、ラジオのニュースが言っていた。
ハルの家のささやかな庭には樅《もみ》の木がそびえ、焼き板の塀沿いにつつじの植えこみがあった。裏木戸のすぐそばに古い蔵が建っている。ヒロシがはじめてハルの制服のリボンを解いたのは、農具がならべてあるそのなかでだった。幼い頃に隠れんぼをして遊んだ蔵がふたりの愛の巣になった。
テラスには、雨樋から地面までネットが張ってある。蔦が縦横無尽にからまって緑の葉が茂り、葉っぱの陰から瓢箪の青い実が顔を覗かせていた。踏み切りの警告音とディーゼル機関車の汽笛が響いてくる。しんと静まった村の空気がかすかにひび割れる。貨物列車のレールの軋みが遠ざかり、やがておぼろになった。
「早く燃えてくれないかな。暗いから道に迷っちゃうよ」
枝を手にしたハルは地面にしゃがみこみ、薪の下を突っついた。炎色がハルの顔にゆらめく。
ハルはぱっちりとした目をしたかわいらしい女の子だった。彼女の顔を漫画に描き、キャンディやチョコレートのキャラクターにすれば似合いそうだ。茶髪を頭の後ろへかきあげ、蝶々をあしらった髪留めでとめている。髪留めからぴんと逆さに跳ねた髪が愛らしい。こんがり陽に焼けた頰にそばかすが浮かんでいた。
「あんまり突きすぎると火が消えるよ」
ヒロシは隣にしゃがみ、小さな肩を抱いた。ハルはおっとり首を傾げ、ヒロシの肩に頭をもたせかける。ハルの髪はリンスのいい香り。小学生の頃、ヒロシはそれがハルの匂いだとばかり思いこんでいた。
ヒロシの顔はまだあどけなさを残している。やさしげな目許をしているのでよけいにそう見えるのかもしれない。前髪を短く切り、額を広く出していた。永遠の少年という名の能面のような整った顔立ちだった。
しばらく、肩を寄せ合いながら炎を眺めた。ふたりの顔がしだいに火照る。ふっと炎が大きくなった。ハルの瞳がきらきら瞬く。薪の底が燃え始めた。
「ほら、帰ってきた」
ハルは誰もいない裏木戸を見やった。
「誰?」
「おばあちゃん。――お帰りなさい」
まるで通り過ぎる人を見送るように、ハルはゆっくり顔を動かす。ハルは子供の頃から不思議なことをよく言った。霊感が非常に強く、他人《ひと》には見えないものが見えた。
幼稚園の夏休みのことだった。
裏山で遊んでいたハルはヒロシやほかの幼馴染とはぐれ、迷子になった。夕暮れまでに見つけなければと村人が急いで捜し回ったが一向に見つからない。ハルは神隠しにあったのだという村人もいた。幼かったヒロシは、このままハルが帰ってこなかったらどうしようと思い、さみしかった。だが、夕闇が空をつつみ蛍が飛び交い始めた頃、ハルはヒロシの心配をよそに、けろっとした顔をして独りで歩いて帰ってきた。ハルが言うには、曽祖父やほかの先祖の霊魂が山の獣道を導いてくれたそうだ。だから、ちっとも怖くなんかなくて、むしろ楽しいくらいだったのだとか。
小学校へ上がってからはさすがに人前で言うことはなくなったが、ヒロシにはしょっちゅうそんなことを口にした。ヒロシは慣れっこだったものの、誰かにこっそり聞かれてしまわないかとそれだけが心配だった。告げ口されれば、ハルは叱られてしまうから。
毎年、お盆の初日になると、ヒロシとハルはふたりだけで薪を燃やし迎え火を作った。
先祖の霊魂はその灯りを目印にして家へ帰ってくる。このあたりの村では、どの家も迎え火を焚いて先祖の魂を迎えた。特別なものでもなんでもなく、ただ庭でささやかな焚き火をするだけだ。もちろん、ヒロシは自分の家の迎え火をやらなければならないのだが、幼い頃にハルに付き添ってと言われてから、いつもハルとふたりで作った。この春、東京の大学に進学したヒロシはお盆にあわせて帰省した。ハルとふたりで迎え火をするために。
「そろそろ花火をしようか」
ヒロシはハルの額に口づけた。ハルはこくりとうなずく。
ふたりで手を添え、花火の先を焚き火に挿し入れた。しゅっと音がなり、ジェットのような火花が噴き出す。ふたりでいっしょに円をぐるぐる描くと、ハルはちいさな笑い声をあげた。迎え火の時に花火をするのも、幼い頃からのふたりの慣わしだった。こうすれば、遠い昔、子供の時に死んでしまった霊はとても喜んでくれるのだとハルは言った。
「しず子ちゃんのおじいちゃん。ここはハルのお家よ」
ハルは裏木戸を見ながらくすくす笑った。しず子も村の幼馴染だった。ヒロシは去年他界した彼の人懐っこい笑顔を思い浮かべた。飄々としていて冗談好きだったしず子の祖父は村の子供たちに人気があった。端午の節句にボール紙で兜を作ってくれたのを、ヒロシは今でも覚えている。
「バイバイ」
ハルは顔をくしゃっとさせ、親しげなまなざしで手を振った。
ヒロシはビニール袋から噴水花火の四角い箱を取り出し、火をつけた。すこし離れた地面に置き、ハルのもとへさっと逃げ帰る。花火の噴水が勢いよく飛び出した。白い火花は藍色へと色を変え、それからまた赤色に変わった。庭の草木が明るく照り映える。瓢箪が紅《くれない》に染まる。草の陰から真っ黒な野良猫が顔を覗かせ、不思議そうな面持ちで花火を眺めた。威勢のよい音がしだいにしぼむ。火花の噴水もしぼんだ。
「あっ」
ハルは声をあげ、さっきまで噴水花火があがっていたあたりを見つめた。
「どうしたの?」
ヒロシはきょとんとしてハルの視線の先を目で追った。ヒロシにはなにも見えない。ただ薄暗い庭が見えるだけだ。
「あの子よ」
ハルは息を飲みこんだ。
「あの子って、誰?」
「わたしたちの――」
「もしかして――」
「そうよ。はいはいしてる。大きくなったのね」
ハルはうっすら涙を浮かべた。
ヒロシが東京へ行く前日のことだった。
ハルの様子がどうもおかしい。今までずっと一緒にだったのに離ればなれになってしまうからふさぎこんでいる、というわけだけでもなさそうだ。言い知れない不安に駆られたヒロシはハルを問いつめ、ようやくのことでふたりの赤ちゃんができたことを聞き出した。思い当たる節はあった。
もうどうすることもできなかった。
入学式を三日後に控えたヒロシには、ハルと話し合う時間も付き添ってあげる時間もなかった。生活道具をそろえなさいと祖母がくれたお金をすべてハルに渡し、後ろ髪をひかれる想いのまま東京へ旅立った。それからしばらくの間、ハルはヒロシの電話に出もしなければ、ショートメールの返事も返さなかった。大学のキャンパスはサークルの新人勧誘で華やいでいたが、ヒロシはそれを楽しむゆとりもなかった。ガイダンスが終わり授業登録がすべて済んだ頃、
――心配しないで。
と、それだけを書いたショートメールがヒロシの携帯電話に届いた。
「わたしたちは間違ったことをしたんだね」
ハルは唇を嚙む。
ヒロシはハルの言葉にうつむいた。なんと言って慰めたらよいものか、わからない。
――間違ったんじゃなくって、しくじっただけだ。
そう思いたかった。とはいえ、ただの言い訳だとヒロシにはわかっていた。ひどい誤魔化しに過ぎないのだと。
「ママよ」
ハルは叫ぶように声をあげ、
「合わす顔がないわ。――ひどいお母さんだもん」
と、消え入りそうな声でつぶやく。
ヒロシは、はっとしてハルの横顔を見つめた。
あの時、正直言って、ヒロシはハルが身籠ったことがどういうことなのか、よくわからなかった。自分が父親だという認識もなければ、育てようという気もなかった。ただ、とんでもないものができてしまったと思い煩っただけだった。だが、ハルの想いは違った。どんな母親でも抱くように、我が子を慈しむ気持ちをその心に身籠らせたのだ。ヒロシはそんなハルの気持ちに気づきもしなければ、気遣いもしなかった。この四か月あまり、ハルはどんな思いで過ごしていたのだろう。そう思うと、ヒロシは自分が情けなかった。ヒロシは、ハルになにをしたのかを今頃になってようやく理解した。それは無関心という名の裏切りだった。
「僕たちの子供はどんな格好をしているの?」
ヒロシはささやいた。堕《おろ》した赤ん坊がはいはいしているというのは不思議だった。生きていたとしても、生まれるにはまだ早い。ハルのお腹のなかでぐっすり眠っているはずだ。
「よだれかけをつけて、はしゃいでるわ。――かわいい」
目を細めたハルの顔を見て、ヒロシは疑問をそのままにしておこうと思った。この世とあの世のことでは、理屈のうまく合わないこともあるだろうから。
「楽しそう。でも、ぜんぜん気づいてくれない」
ハルは眉をひっそりさせる。
「しょうがないか。わかるわけがないよね。だって、二か月しかお腹のなかにいなかったんだもん」
「――」
「ちゃんと産んであげればよかった。わたしのことを恨んでるだろうな」
「そんな――」
ヒロシはうなだれた。
――ほかにしかたがなかった。
そんなことを言ってもなんの慰めにもならない。悲しみが汚れるだけだ。
遠いどこかに純粋な愛の泉があり、生きとし生けるものはすべてその泉から生まれる。命こそ愛にほかならない。いつかそんなことを読んだことがあった。もしそれがほんとうだとすれば、ふたりは愛を殺してしまったことになる。ヒロシは、ハルに愛を殺させたことになる。
「あの子ができた時、とっても嬉しかったの。体の具合がおかしくて吐きそうになったりして大変だったし、なんだか不安でしょうがなかったけど、それでも満たされた気分になれたのよ。あたたかい気持ちだった」
瞠《みひら》いたハルの瞳から涙がこぼれた。熱い滴があごの先を伝い、ヒロシの腕へぽとりと落ちる。
「ごめんね。僕はハルがそんな気持ちでいただなんて、ちっとも知らなかった」
「謝るんだったら、あの子に謝って」
「そうだね」
暗闇へ向かって合掌した。心が痺れる。
――謝ることしかできないだなんて、なんて苦しいんだろう。
ヒロシはしんみりした。
「あら、気づいてくれた。わたしに向かっておててを叩いてる」
にっこり笑ったハルは、小さく手を叩き返した。
「わたしがママよ」
ハルのまなざしは母親のそれだった。愛おしそうに我が子を見つめている。目がやさしい弓なりになった。
「僕にも見えるといいのに」
そうつぶやいたそばから、ぼんやりとした白い人影がヒロシの目に映った。
可愛いベビー服を着た赤ん坊が地べたに坐り、ハルの言ったとおり楽しそうに手を叩いていた。つぶらな眼《まなこ》は、たしかにハルを見つめている。健やかな頰。ぽっちゃりとした愛らしい手。ハルがまた手を叩き返すと、赤ん坊は愉快そうに口を開け、けらけらと笑った。幸せいっぱいの笑顔だった。ヒロシは穏やかにほほえみかけた。
さっと風が吹き、葉ずれの音が鳴り渡る。赤ん坊の姿がかき消える。ハルは叩きかけた手をとめた。
「行っちゃった」
迎え火は燃え盛り、取り残されたふたりを照らす。ハルは身じろぎもしない。
「いつか、ここへ帰ってきてもらおうよ」
ヒロシはハルの下腹に手を当てた。ハルの体はほっそりと息づいている。そのぬくもりがヒロシの掌に伝わった。母なるもののぬくもりだった。
「今度は大切にする」
ハルは人差し指で涙を拭った。ハルの顔は悲しみに耐えるような、ほほえむような。
なんとなく、ふたりは空を仰いだ。
雲の一角にぽっかり穴が開き、蒼い星が夜空の窓にひときわ輝いていた。
了
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